「征服者」【33】 | 日日是祝日

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「征服者」【33】

 

20人ほどの人物が、大きな楕円形の円卓を囲んでいた。
みな1800年代に流行した簡素な服装で、鬘をつけたり、レースの飾りで装うのも、とうに時代遅れになっていた。
若々しく大胆な活動家らしき者もいれば、年配の思慮深い学者風の者もいて、みな、各地方、各事務所、研究所などから一つの同じ目的で集まっていた。
いってみれば、この10年、革命の時代を生き抜いてきた人々から選りすぐりの者たちが、それを終わらせるべく集ったといってよい。
円卓についている何人かは、昔ここで鬘をかぶり、レースの胸飾りを着け、舞踏靴をはいて、国王が接見してくれるのを心から待ち焦がれていた。
また別の何人かは、リュクサンブール宮で同じようなテーブルの前に座らされたこともあった。
この種の会合に確たる精神が宿らないのは勿論で、法律は朝令暮改、緊急命令や臨時法令が矢継ぎ早に、過去の法律を押し流していった。
短期間に憲法が三つも制定され、花火のように華々しく打ち上げられたが、すぐ雲散霧消し、跡形もなく消え失せた。
自由平等の新思想を市民に定着させようと努めてきたこの10年の歳月は、パリにおいては、まるではかない夏の一夜のように、たちまち過ぎ去ってしまった。
都は無秩序な戦場に似て、様々な政治団体が理論武装し、右往左往しながら混乱を助長し続けた。
古い秩序と新たな希望の間に巻き起こる騒々しい議論は、耳を聾するばかりで、市民は冒険的な諸思想の放つ強烈な光芒に心を眩まされ、蜂の巣をつついたような混迷のさなかにあった。
だが、いまようやく円卓の中心にいる小男の手によって待望の平穏が訪れつつあった。
着古しの緑色の軍服を着た背の低い将軍は、いまや国会を掌握しているだけでなく、国家をも統率していた。
政党はその間、満足したり恨んだりしたが、結局は各々の巣窟へ引っ込んで沈黙するよりなかった。
一度は派閥と腐敗、恐怖政治と扇動政治家らによって弱められたフランスだが、ようやく再び一人の英雄の手により、活力を取り戻りつつあった。
もはや地位に囚われないナポレオンは、いまこそフランスに対し命令する人間になるべきだった。
いかなる党派にも属さず、民衆の媚にも甘んじてはならない。
兵士でありつつ征服者でもある自覚を持ち、いまだかつて誰の手にも握られたことのない権力の担い手とならねばならなかった。
モローを筆頭に、他の有力とおぼしき将軍たちは、みな死んだり引退したりで、数多の文官らの中にも競争相手となりそうな人物は一人も見当たらなかった。
ナポレオンにとって、イタリアやエジプトを股にかけた壮大な軍事的成功に比べれば、国家の最高権力を獲得することは、さほど困難な仕事ではなかったのだろう。
それどころか、あれほど正統な法的手続きに固執しなければ、武力の行使すら不要なはずだった。
とはいえ、法に忠実たらんとすることで一見滑稽な失敗をもたらし、将来にわたって人的な障壁を作ることになったのも確かだが、そのことはまたナポレオンの政治的手腕を保証することにもなった。
彼はもともと剣をしっかりと握る男であり、また、その威力をよく知る者でもある。
「世界には精神と剣の二つしか存在しないが、しょせん剣は最後には精神にまさることはない」
ナポレオンは誰が評しても偉大な軍司令官でありながら、偉ぶって部下を脅しつけるような素振りはいまだかつて一度も見せたことがなかった。
むろん、今後もないだろう。
パリにいる時も、休戦や講和や同盟を結ぶ時も、まずは武力で相手を屈服させようなどとは決して考えなかった。
その意味において、彼は軍略以上に、政治の天才だった。
だが剣を軽んじていたのではなく、二つの力の一つとして、その範囲内で重要視するにとどめていたにすぎない。
だから、いかなる剣戟のうちにあっても耳を聾した経験はないし、いかなる時も世論の動向に注意を怠らず、常に人民の声に耳を傾けることを忘れなかった。
時には、民意というその不気味な声を計算しようとして、数学者ナポレオンは無駄な努力を重ねたりもした。
挙げ句失敗して、また例の空想世界へ逃げ込む羽目になってしまう。
剣の力より精神の力を信じるナポレオンは、当面戦争や侵略より、秩序と平和の構築に全力を傾けたいと考えていた。
ただし彼のいう秩序とは、平等を意味するもので、自由を意味するものではない。
だから、これら革命の二つの理想のうち、自身の独裁権の中に平等のみを採用した。
多少逡巡することがあっても、ナポレオンはおおむねこれを大切にした。
否定する者があれば、その者を憎む彼を想像するのは易しい。
だが、そもそも自由とはいったい何なのか?
「野蛮人にも文明人にも、君主は必要だ。その権力は人民の空想を抑制し、厳しい懲罰を課し、人間を鎖で縛りつける。だが、時を支配することだけはできない。やがて人民は必ず彼を討ち、追放するだろう」
ナポレオンはその治世を通じ、たえず有能な人材を求め、多くの権力を彼らに与えた。
また、独力で権力への道を切り開いたという意味においても、まさに革命の落し子といえよう。
その支配圏が拡大するにつれ、人々はかつて接したことのない現実に目を見張ることとなった。
領内の有為な人材に対しては、誰彼かまわずその希望を満たすべく措置が講じられ、地位や権力、富をも約束するような組織がつくられはじめた。
これは、その支配者自身が大衆の中から身を起こしたという事実――それこそがナポレオンの本質であり、彼が統治の第一歩から、すでに大衆の理想を具現化しようと努めていたことの証左といえる。
憲法の起草はシェイエスの役目だったが、この僧侶出身の政治家による草案では、大統領、つまり一人で国家を束ね、名を調印し得る元首の存在が必要だった。
それを、ナポレオンは軍人らしい率直さで、次々と各条項に修正を加えて行った。
大統領に与えられる権限は非常に中途半端だったため、その代わりにナポレオンは完全な権力と数多くの仕事を担う第一執政の任命を提唱した。
第一執政とは、大元帥であり、外交の責任者であり、すべての大臣や全権使節、国会議員、知事、官吏、裁判官らの任命権を持つ。
法制上は元老院にも同様の権限があったはずだが、実際には元老院にも立法議会にも、いえば法制局たる護憲院にも、立法の発議権はなかった。
これらの機関は、ただ政治家のために名目上の演壇を与え、高給と輝かしい生涯を送る機会を用意するだけの、有名無実な組織にすぎなかった。
帰するところ、すべてはたった一人の人物の意志によって決まることになる。
当然、その人物は単なる人気者ではなく、人間としても優れていなければならないとナポレオンは言う。
政党人たるもの、名門出身だろうが、やる気満々であろうが、有名人であろうが、軍隊でも市民生活においても、それだけで戦線を率いることは決してできない。
精力と能力以外に昇進を保証してくれるものなどあり得ないし、また、あってはならない。
ナポレオンは彼のその原則に基づき、顧問官会議のメンバーを選抜しようと情報を集めていた。
その結果召集されたのが、この円卓会議であり、構成員はみな専門家たちの中から執政自身によって選りすぐられた人々だった。
フランス学界の栄誉を担う数学者ラプラスは、内務大臣に任命されていた。
この会議室においては、すべての者が一市民であり、いかなる階級も特権も存在しない。
出席者たちは肩書きに関係なく互いに話し合った。
王党派とジャコバン派が隣り合って座っているのがその証左だ。
平等な制度の下では、王座につけるのは、ただ秀でた理性のみのはずだった。
開会の時刻になり、執政が姿を現わした。
彼は席に着くなりピシャリと言った。
「法律の権威者たちが調べた正確な世論の報告を重視するように。彼らの発言こそ最も意味あるものだ。逆に、我ら軍人や財界人の考えには、さほど重きをおかぬよう。しばしば述べているように、現在、事態は刻一刻と悪化している。私はあまり買いかぶられることを好まない」
ナポレオンの言葉に、委員たちはひたすら肯いている。
すると、ナポレオンはちょっと手を挙げて言い添えた。
「諸君、諸君は私に同意するためここへ来ているのではない。諸君ら自身の見解を述べるべく来ているのだ。もし諸君が率直に意見を述べられるなら、私の考えと対比しながら何らかの決定に達し得るだろう」
会議が夜の9時以前に始まることはまずなかった。
というのも、執政は常にその日の緊急事務にかかりきりで、その時刻まで手が離せなかったからだ。
出席者たちは、明け方までつき合わされることもしばしばだった。
議員たちが疲れ果て、ほんの数時間でうとうとしだすと、ナポレオンは彼らをゆり起こして叱咤激励した。
「諸君、起きてくれたまえ。まだ2時だ。我々は俸給分働ねばならない」
議長を務めるナポレオンは、出席者の中では最年少の30歳。

若輩者ではあったが、再三の遠征で、すでに何十万という人間の生命と暮らしを守る術を学んでいた。
アルプスを皮切りに、海を渡り、遠く砂漠まで進軍した軍隊の司令官は、もはや国政を勉強するに最上の学校を卒業したといえた。
そしていまや、金とパンと権利と法律、賞与と刑罰、休息と服従とを民衆に与えねばならないのだった。