自由を求める言表たち | ほうしの部屋

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 アラスター・グレイの長編小説『哀れなるものたち』を読了しました。

 副題は「スコットランドの一公衆衛生官医学博士アーチボルド・マッキャンドルスの若き日を彩るいくつかの挿話」であり、著者グレイは自らを編者として名乗っています。

 著者のグレイは、1934年にスコットランドのグラスゴーで生まれました。スコットランドを代表する小説家であり、画家、劇作家、脚本家としても活躍しました。美術学校在学中に執筆を始め、30年近くかけて完成させた初長編が大絶賛されました。リアリズム、ファンタジー、SFなどが混じった作風で、自筆のイラストを装丁や挿絵に用いることでも知られています。1992年発表の本作品『哀れなるものたち』は長編6作目であり、ウィットブレッド賞、ガーディアン賞を受賞しました。著者グレイの代表作であり、映画化もされました。映画では、エマ・ストーンが主人公を演じ、ゴールデングローブ賞の作品賞と主演女優賞を受賞しています。グレイは2019年に亡くなりました。

 19世紀末のスコットランドのグラスゴーで、異端の医師が、身投げした女性に胎児の脳を移植して蘇生させます。成熟した肉体と無垢な精神を持つ女性は、男たちを魅了し、惹きつけます。女性は、旅する中で急速な成長を遂げます。様々な言表の数々から、自由を求める人間の叫びが浮かび上がってきます。

 

 それでは本作品の内容を紹介します。

(本作品は、いくつもの言表(書かれたものやイラスト、資料などの断片)が組み合わされており、それを著者のグレイが編集したことになっています。各々の言表では一人称の告白もありますが、全体の流れを掴むために、全て三人称で内容紹介します)

 

[序文 アラスター・グレイ著]

 序文で、編者グレイは、本書の成立過程を説明します。1911年に死亡した、自らの若き経験を綴ったドクターの回顧録です。1881年に、スコットランドのグラスゴーで、天才外科医が、人間の遺体を用いて25歳になる女性を創造しました。その女性を巡る顛末を叙述したのが、本書です。1970年代の都市再開発に際して、大量に発生したゴミの山から、郷土史博物館員のドネリーが、グラスゴー大学を卒業した最初の女性ドクターの記録を見つけます。それを持ち出すのは窃盗にあたると言われて、ドネリーは、封印された小さな包みだけをポケットに入れました。その包みには、アーチボルド・マッキャンドルスの書いた私家版の回顧録が入っていました。それをドネリーから入手した編者グレイは、関連のありそうな情報を図書館の新聞資料などで探します。1879年、マッキャンドルスが医学生としてグラスゴー大学に入学し、そこの解剖学科で助手を務めていたのがバクスターでした。1881年、妊娠した女性の死体が川から引き揚げられます。警察医だったバクスターは女性が溺死であることを確認。死体の引き取り手は現われませんでした。1884年1月、王立診療所の顧問医師だったマッキャンドルスが、ベラ・バクスターと結婚しました。1884年4月、ベラの保護者であったバクスターが死去します。故人は全財産を、マッキャンドルス夫妻に遺しました。1886年、マッキャンドルスと結婚したベラ・バクスターがヴィクトリア・マッキャンドルスという名前で医学校に入学しました。そういう客観的事実が、マッキャンドルスの書いた回顧録の内容と符合します。

 

[スコットランドの一公衆衛生官の若き日を彩るいくつかの挿話 医学博士アーチボルド・マッキャンドルス著]

 グラスゴー大学に医学生として入学したマッキャンドルスは、貧農の出で、金に不自由し、孤独な生活を送っていました。同じく社交性を持たない、解剖学科助手のゴドウィン・バクスターとだけは親しくなります。バクスターは、その父も表彰されるほど有名な医師でした。バクスターは、異様な姿をしており、その声とともに、患者を困らせ、スタッフの感情を害しました。バクスターは、知り合いの医学者が開発した、肉体の生命を終わらせずに停止させる技法を洗練させようとしていました。バクスターは黒いウサギと白いウサギを真っ二つに切って縫合し、白黒のウサギを作り出しました。バクスターは生体移植の技術を研究しており、それは世界を救うことになるとマッキャンドルスは思いました。ある日、バクスターは、自宅で保護しているという、若い美しい女性をマッキャンドルスに紹介しました。その女性は、脳に損傷を受けており、乳幼児程度の知力しかもっていなかったものを、ここ数ヶ月で急速に成長させているとバクスターはいいます。女性は、健康な小さい脳から急速に脳機能を成長させたとバクスターはいいます。その女性は、川に飛び込んだ自殺者でした。妊娠していました。女性は溺死体で見つかりましたが、正確には脳死状態でした。胎児は生きていました。バクスターは、胎児の小さな脳を摘出して、女性の死んだ脳と交換するという大手術をやってのけました。そのため、女性は、胎児の脳機能の状態から、急速に成長しはじめていました。バクスターは、その女性をベラと呼んでいました。ベラは細胞レベルでは生きた肉体を保ち、胎児の脳を移植され、生命を取り戻したのでした。ベラの脳は、かなり短期間で大人の脳になるとバクスターは予測していました。マッキャンドルスは人体実験を非難しましたが、バクスターは全く気に病むところも見せません。バクスターは、自分を必要とし、賛美してくれる女性を賛美することが自分には必要だった、といいます。バクスターは、ベラに色々学ばせて体験させて脳を発達させるために、世界周遊旅行に出ました。15ヶ月後、マッキャンドルスはベラと再会します。マッキャンドルスは王立診療所の住み込み医師になっていました。化け物のようなバクスターの傍らで、ベラは光り輝く美しい女性でした。ベラはバクスターの連れてきた子供たちと遊んでいました。精神年齢は12歳ぐらいになったと思われました。ベラはマッキャンドルスを誘惑して、茂みの中で、マッキャンドルスの口を塞ぎ、首を絞めて、呼吸困難にして恍惚感を味わわせました。ベラは、精神年齢よりも、性欲のほうは女盛りの大人のように大きくなっていたようでした。マッキャンドルスはベラに求婚しました。バクスターは、マッキャンドルスとベラの婚約をしぶしぶ認めましたが、2週間だけ、ベラと二人きりにしてほしいといいます。2週間もたたないうちに、バクスターに呼びつけられたマッキャンドルスは、ベラがダンカン・ウェダバーンという弁護士と駆け落ちしようとしていると聞かされます。バクスターは、マッキャンドルスにベラの駆け落ちを止めるように依頼されます。しかし、荷造りを終えて出発の準備をしていたベラは、今は自分の性欲を満たしてくれるウェダバーンに首ったけだといいます。そして、マッキャンドルスの鼻と口を覆い、意識を失わせます。ベラはウェダバーンと出ていきました。バクスターは自分を殺人者だとなじりました。ベラを助けるためとはいえ、8ヶ月の胎児を殺して脳を取りだしたのです。ベラを助けたのも、自分の性的欲望を満たすためでした。性的欲望のために自分の医学技術を利用して、ベラの道を誤らせ、ウェダバーンの餌食にしてしまったと嘆きました。マッキャンドルスは、ベラの最大の欠点は、時空の隔たりに関する認識が幼児並みなところだといいます。自分との婚約とウェダバーンとの駆け落ちが同時に成立すると思っているといいます。マッキャンドルスはバクスターと共同生活することになりました。バクスターの仕事部屋で彼のカルテを見ると、とても常人の生活が営めないような異常な数値ばかりが記録されていました。しばらくして、ウェダバーンからの手紙が届きました。ベラとヨーロッパ周遊の旅に出たものの、1週間前に、ベラをパリに残し、自分だけグラスゴーに戻ったといいます。ウェダバーンはベラに捨てられたといいます。ウェダバーンは自分の浮気性と、性欲の節度のなさを認めていました。ウェダバーンはベラとすぐに夫婦になれると思い込んでいました。しかし、ベラは、自分が婚約しているのはマッキャンドルスで、ウェダバーンとは結婚できないといいました。しかし、ベラの性欲は凄まじく、一晩に何度もウェダバーンを求めてくるという状態でした。ウェダバーンは精力減退になり、夜にベラの相手をして、昼間はぼーっとして過ごしました。ベラと繰り返される性交で、ウェダバーンは恍惚感と絶望に満ちたうめき声を上げながら、自覚的に愛の舞踏を踊りました。ウェダバーンは、ベラが何らかの大きな衝撃を受けた以前の記憶が全く無いこと、そして頭部に頭蓋を丸く囲んでいる縫合の痕が見つかり、バクスターが何をしたかを悟りました。グラスゴーに戻ったウェダバーンを待っていたのは貧しい生活でした。ほぼ全財産をベラのために使ってしまったといいます。パリで別れる際、ベラは自分の所持していた、バクスターから貰った金をウェダバーンに与えました。ベラは、パリの売春宿で、客をとって生活するようになりました。ウェダバーンは、何者かの脳を移植するという悪魔的な医療を行ったバクスターを非難しました。ウェダバーンは修道僧にでもなって禁欲生活を送ろうかと考えているといいます。次に、ベラからの手紙がやって来ました。客船の中で、ベラと8時間も性交したウェダバーンは、昼間は休んでいるしかなく、そのため、ベラが一人で観光旅行しました。ベラは、ウェダバーンと交わる前に、自分が処女でなかったこと、そして自分に娘がいたという噂は本当かどうか、考えていました。ウェダバーンは、船内外のカジノに出入りして、賭博にのめりこみました。最初のうちは勝っていましたが、次第に負けがこみ、自分の全財産を失ってしまいました。ベラは、ウェダバーンが勝っているうちに、その儲けから、いくらかの金(金貨500枚)をくすねて保管していました。オデッサからアレキサンドリアへ向かう船の中で、ベラは、二人の男性の友人を得ました。フッカーとアストレーという名前で、二人は、ベラの前で、時にはベラも交えて、社会情勢、社会システム、政治学、道徳、神学などについて議論を交わしました。フッカーは敬虔なキリスト教徒で平等主義者で、アストレーは特定の信仰を持たない冷笑家で、アングロ・サクソン民族の優秀性を主張していました。ここで、ベラはバクスターに宛てて、なぜ政治のことを教えてくれなかったのかとなじり、文面は幼児のような書き殴りになりました。その書体は、手紙が進んでしばらくすると、まともなものに戻りました。アレキサンドリアからジブラルタルへ向かう船で、フッカーはモロッコで下船しました。ベラに新約聖書を渡しましたが、フッカーはそれほど敬虔なイエス信者ではないと、ベラは見抜きました。アストレーはベラに求愛して、指を噛まれました。ウェダバーンは相変わらず、ベラの夜の相手を必死の思いで続けていました。アストレーは、有閑夫人、教育、人間の種類、歴史、戦争の恩恵、失業、自由、自由貿易、帝国、自治、世界の改良を目指す者たち、などについて、自説をベラに教えました。アストレーは、ベラが平等主義者(平和的アナキスト)であることを指摘し、ベラもそれを認めました。ベラは、自分は社会主義者になる必要があると思いました。ベラはアストレーにキスしました。そして、バクスターに、世界をよくする方法を教えてほしい、それを自分とマッキャンドルスが結婚して実行しようといいました。グラスゴーへ帰るウェダバーンを見送って、ベラはパリで一人になりました。エジプトで、高級レストランのバルコニーに鎮座した紳士淑女が、外にあふれる貧民たちに残飯を撒き散らして与えているのを見て、ベラはショックを受けていました。多くの利己的な権力者たちは、宗教と政治を利用して、火と剣で悲惨を広めているとベラは考えました。パリで、ベラは売春宿で客を取って働き始めました。しかし、ベラは性病のことを知り、この商売を続けるのを諦め、グラスゴーに帰ることにしました。心理学者で催眠療法の権威であるシャルコーの助手を数日間務めたのち、ベラは帰途につきました。もう自分は淫乱な夢遊病者ではない、社会のために善を行い、他人に寄生しないでいるにはどうしたらいいのか、バクスターに教えてほしいと、手紙を結びました。マッキャンドルスは感激して、ベラは、優しい女性であり、人間性を完璧に判断できる人だといいました。バクスターは、マッキャンドルスとベラに、世界の改良法を教えようといいました。ベラが、バクスターとマッキャンドルスのもとに帰ってきました。ベラは自分の子どもはどこにいるのかと尋ねました。バクスターは、ベラの子どもの脳をベラに移植したことを認めました。ベラは納得して、3人で腕を抱え合って眠りにつきました。バクスターは、ベラに、仕事を持つように勧めました。ベラは医者になることを決断しました。バクスターは、まず看護師として働き、知識と技能を身につけ、その頃、女性を受け入れ始めた大学の医学部に入って、医師になる勉強をすると良いだろうと、ベラにいいました。ベラは、自分と同じ生殖器を持つ、女性を相手にする医師になりたいといいます。また、マッキャンドルスには、その細菌と衛生の知識を生かすべく、公衆衛生官になるべきだとバクスターは進言しました。マッキャンドルスとベラは、スコットランドの田舎で頻繁に行われている、着衣同衾という予備結婚の儀式を行い、一緒に寝るようになりました。ところが、マッキャンドルスとベラが教会で結婚式を挙げる時、それを妨害する者が現われました。ブレシントン将軍という人物で、ベラが元々はブレシントンの妻であることを主張しました。ブレシントンは弁護士や医師やベラの養父を連れていました。バクスターは、自分の家で、話し合いをもつことを提案し、ブレシントンたちも同意しました。ブレシントン将軍は、数々の武勲で知られるイギリスの英雄でした。ブレシントンの弁護士や医師は、ベラが橋から飛び降りて、川から引き揚げられた時、それを行った男が、ベラの写真を見せられて、この女性に間違いないと認めたと言います。ベラの養父は、ベラを貧民窟から救い出して育て上げたといいます。ベラがブレシントンを崇拝していたといいます。しかし、ブレシントンはベラの性欲に辟易させられ、陰核(クリトリス)を除去する手術を受けさせようと考えていました。ベラは性欲旺盛であるとともに、感情の起伏が激しく、ノイローゼ気味でした。バクスターは、婚姻の契約の文言を持ち出し、溺死した時点で、ベラはブレシントンの妻ではなくなったと主張します。ブレシントンたちは、バクスターが自分の情欲を満たすために、ベラを蘇生させたとなじりますが、マッキャンドルスが真っ向から否定し、バクスターは深い情愛をもってベラを立派な大人の女性に育てる(戻す)努力をしたと弁護します。バクスターは、ベラを連れた周遊旅行で、各地で、著名な精神科医に面会し、ベラを診断してもらっていました。それによると、ベラは、バクスターのもとに来るまでの記憶を失っているとはいえ、精神に異常はなく、自信のある快活な女性であり、強烈な独立心に富み、人並み外れた精神の安定、感覚的識別力、記憶力、直観力、論理的思考力の持ち主だということです。こんな女性が、ヒステリー持ちのブレシントン夫人であるはずがないと、バクスターは主張します。そして、ブレシントンは、情愛を求めるベラを放置して、若い娘と浮気していたとバクスターはいいます。ベラは若い娘を哀れんで、自分の宝飾品を投げ与えていました。ブレシントンは、ベラを監禁して入院させる精神病院を探しました。バクスターは、ベラ自身にどうするかを決断させることを提案します。ベラは、バクスターのもとで暮らし、マッキャンドルスと結婚することを希望しました。ブレシントンはベラを眠らせて連れ帰るつもりで、バクスターに拳銃を向けました。すると、ベラが、バクスターとブレシントンの間に立ちはだかって、ブレシントンの拳銃を掴んで狙いを外させました。拳銃が暴発して、弾がベラの足に当たりました。ブレシントンはこれ以上の屈辱に耐えられないと、ベラに拳銃で撃つように命じました。しかし、ベラは拳銃の弾をすべて暖炉に撃ち込み、気絶しました。ブレシントン将軍と取り巻き連中は、退散しました。後に、ブレシントン将軍が別荘で拳銃で頭を撃って自殺した遺体が発見されました。マッキャンドルスとベラは結婚しました。マッキャンドルスは公衆衛生官として協会の代表を務め、ベラは、産婦人科医をしながら、慈善活動や婦人参政権運動のための講演活動に勤しみました。バクスターの健康状態が悪化し、死の床につきました。ベラに、組織の仕組みを理解するまでは組織と事を構えてはいけない、それまでは自分の自由な知性を使って、医療をよりよく行うための方法を考えるようにと諭しました。その後、バクスターは、マッキャンドルスと二人きりになり、別れの酒を酌み交わし、遺産を全てマッキャンドルスとベラに遺すと宣言しました。子どもに対して暴力をふるったり説教をしてはならないといいました。そして、バクスターは亡くなりました。

 

[マッキャンドルスの著作についての孫、または曾孫宛書簡 医学博士ヴィクトリア・マッキャンドルス著]

 ベラは、マッキャンドルスの回顧録に誤りが含まれていると指摘し、それを正すための書簡を子孫に遺しました。ベラがマッキャンドルスと結婚したのは、彼が便利な男だったからであり、マッキャンドルスはベラ以外には役立たずでした。二人のもうけた子どもたちは、ぶらぶらして夢想ばかりしているマッキャンドルスに愛想をつかして、真剣に仕事に勤しむベラを手本に育ちました。晩年のマッキャンドルスは、バクスターの遺産を良いことに、働かず書斎に閉じこもり、下手な文章を書き散らして自費出版していました。そこにあの回顧録も含まれていたのです。それを読んだベラは、偽りに満ちた内容に悲しくなりました。そこで、真実を明かすことにしました。ベラは、マンチェスター鋳造所の工場長の娘として生まれました。父は、妻子に暴力を振るい、5歳のベラを殴り倒して頭に大怪我を負わせました。その時の傷跡が頭部に残ったのです。ローザンヌの女子修道院の学校で学んだベラは、ブレシントン将軍と結婚します。ベラは淫乱で、3度も想像妊娠をして、陰核除去の手術を自ら希望しました。そこに現われた医師がバクスターでした。バクスターはベラを諫めました。ブレシントンの浮気を知ったベラは、自分に優しくしてくれたバクスターのもとへ行き、同居するようになりました。バクスターは、南米の列車事故で亡くなった従弟の娘を預かっていることにしました。バクスターは、ベラに他人の言いなりになるのでなく自由に生きることの意義を教えました。ベラは、科学や文学の素養も身につけました。バクスターは、遺伝性の梅毒に罹っており、そのため、ベラがバクスターを愛することを許しませんでした。そしてベラはマッキャンドルスに出会います。ベラは、バクスターの病気を治すために医師になる決意をします。そして、バクスターはベラの見聞を広めるために、世界周遊旅行に連れ出します。二度目にマッキャンドルスに会った時、バクスターは、マッキャンドルスとベラを二人きりにしました。マッキャンドルスとベラは婚約しました。しかし、ベラは、マッキャンドルス以上に性的な満足を与えてくれる男がいるのではないかと思い、ウェダバーンを誘惑しました。ウェダバーンはベラのことや他の問題もあり、精神を病み、入院してしまい、今でも精神病院にいます。バクスターは死の床で、マッキャンドルスにカンフル剤を注射してもらい、意識を保って、今後のことについて、ベラとマッキャンドルスに依頼しました。これがベラが語った真実です。マッキャンドルスは自分の回顧録を、ビクトリア朝時代のゴシック・ホラーなど奇妙な小説の要素を混ぜ合わせて作り上げました。マッキャンドルスは、ベラとベラが本当に愛していたバクスターへの嫉妬から、事実をねじ曲げた回顧録をでっち上げたのです。

 

[批評的歴史的な註 アラスター・グレイ著]

 この註も、かなり長いものですが、虚実取り混ぜて、読むのを愉しくさせる魅力に富んでいます。

 

 本作品の内容は、ざっとこのようなものです。

 

 本作品は、もちろん著者グレイの全くの創作ですが、数々の言表(手記、手紙、イラスト、遺書、資料などなど)を集積してグレイが編集したという体裁をとっています。言表相互の関連性や、言表同士の内容のズレなどが、物語に多様な創造性を与え、読み手の想像力を掻き立てます。歴史上に実在した人物も数多く登場することから、どこまでが本当でどこがウソなのか、判別するのが難しくなっています。当然、脳の移植手術などは、現在でも不可能ですが、それ以外の、人物の性格や情操、人間関係などは、誰が本当のことを言っているのか、わからなくさせるように書かれています。フィクションで多彩な言表を作り出し、それを組み合わせて、巨大な物語空間を生み出している、メタ・フィクション(メタ・テクスト)の傑作と言えるでしょう。

 主人公のベラは、他人に操られているようでいて、本来は、自立心に富み、英国で初期の女性医師として活躍し、女性の権利拡張の運動にも熱心に取り組んだ人物として描かれています。まだまだ男尊女卑の風潮が著しく、女性の権利がないがしろにされている時代にあって、ベラの言動は、自由を求める女性たちの叫びを代弁していると言えるでしょう。メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』へのオマージュに満ちた作品ですが、『フランケンシュタイン』が、科学技術の光と影を浮かび上がらせたのに対して、本作品『哀れなるものたち』は、人間の本性や自由についての考察に満ちています。一見、男女のとめどない性欲を描き出すような身も蓋もない性愛小説のようにも思えますが、その背景には、性愛も含めた、人間の自由についての深い考察が横たわっています。自由であるとはどういうことか、人間が自由であるためには何が必要か、といったことを考えさせる内容になっています。脳移植による女性の蘇生といった、グロテスクなゴシック調の道具立てがありますが、自由を求めて成長していく一人の女性の姿を描くための舞台設定であると考えられます。

 本作品は、読書の自由というものも掻き立てます。読み手の解釈によっていかようにも読める作品です。自由への希求、ゴシック調のホラー、エログロ小説、ブラックユーモア小説などなど、読者によって、捉え方は様々でしょう。この読み取り方の多様性を生み出す作品はなかなか作れるものではありません。本というものは、書き手と読み手の共同作業によって初めて完成を見る(永遠の未完成も含めて)という、イタリアの小説家で記号論学者のウンベルト・エーコが盛んに言っていたことが、本作品では実現されています。最終的な作品の完成(未完成)は、読者の読む行為と解釈に委ねられているのです。自由を求める言表たちが、読者によって自由な空へ羽ばたくのを待っているのです。