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 ジェラルディン・ブルックスの長編小説『古書の来歴』を読了しました。

 著者のジェラルディン・ブルックスは、1955年オーストラリアの出身で、シドニー大学卒業後、記者として活動後、アメリカのコロンビア大学に留学、ウォールストリート・ジャーナルで特派員として活躍し、ノンフィクションを執筆していました。そして2001年に小説家に転身し、『マーチン家の父』でピューリッツァー賞を受賞。2008年に発表した本作品『古書の来歴』は、20カ国語以上に翻訳されるベストセラーになりました。日本でも、第2回翻訳ミステリー大賞を受賞しています。

 ボスニア内戦終結直後のサラエボで、幻の古書である「サラエボ・ハガダー」が発見されます。偶像崇拝が禁じられたユダヤ教の教典ハガダーに、極彩色の細密な挿絵が付されている謎の本です。この古書の鑑定を依頼されたオーストラリア人の女性鑑定家が主人公です。ページの各所から出てきた虫の羽、赤い染み、白い結晶、羽毛などから、鑑定家はこの奇書が描かれ、西欧各地を巡ってきた経歴を類推していきます。そこには、焚書や戦火を経て、誰に読まれ、守られてきたかのはるかな旅路がありました。科学的調査に基づく謎解きと、各時代の人間ドラマが合わさった、哀惜に満ちた物語が展開されていきます。

 本作品は、主人公の女性鑑定家が知らない(たどり着けない)真実が、読者にだけ伝わるようになっている構成です。現在時制の主人公の鑑定などを記したセクションと、各時代のこのハガダーを巡る物語を綴ったセクションが交互に出てきます。

 

 それでは本作品の内容を紹介します。

 

[ハンナ 1996年春 サラエボ]

 主人公のハンナ・ヒースは、オーストラリアの古書鑑定家で、その名は国際的に知られています。ハンナは、紛争終結まもないボスニアのサラエボに呼ばれます。幻の稀覯本であるサラエボ・ハガダーが見つかったというのです。サラエボ・ハガダーとは、中世のスペインで作られた有名な希少本です。ユダヤ教があらゆる宗教画(偶像)を禁じていた時代に、ヘブライ語で書かれた本に挿絵がふんだんに使われていたのです。全ページに細密画が描かれたその本がセルビアで発見されると、それまでの通説がくつがえり、美術史の教科書が書き換えられたのです。1992年にサラエボが包囲され、博物館や図書館が戦闘の標的にされると同時に、その古書の行方はわからなくなりました。ハンナの仲間の古書鑑定家アミタイが言うには、サラエボ・ハガダーを守ったのは、博物館の学芸員でイスラム教徒のオズレンでした。オズレンはハガダーを銀行の貸金庫に預けました。国連は本の状態を誰かに調べさせて、必要な修復作業を行い、早急に博物館に展示したいと考えていました。その調査と修復をハンナが依頼されたのです。オーストラリア人ならば余計なしがらみがないと思われたのです。サラエボへ急行したハンナは、見つかったハガダーの真贋、状態を調べることになりました。貸金庫から出されたハガダーをハンナは検分します。綴り糸がほつれていたので、全ページをばらして綴じ合わせる必要がありました。羊皮紙の傷みも心配されましたが、挿絵は、顔料の変質も剥落もなく、描かれたその日のままに澄んでいました。ハンナは、修復は最小限に留めるべきだと考えました。羊皮紙の専門家でもあるハンナは、ハガダーに使われている羊皮紙が、かつてスペインの山に生息し、絶滅した毛の濃い羊の皮から作られていることを見抜きました。中世のスペインでハガダーが作られたと思われましたが、このような(禁止されていた)挿絵をふんだんに盛り込んだユダヤ教の戒律本がなぜ作られたのかは不明でした。ハガダーの最後のページには、1609年にベネチアの異端審問官ジョバンニによる署名がありました。なぜこの本が救われたのかは謎でした。1894年に、コーヘンという人物がサラエボの博物館にハガダーを売った領収書も見つかりました。ナチスの侵攻により多くのユダヤ人が虐殺され、このハガダーを救ったのはイスラム教徒の学芸員であることが判明していました。ハンナはハガダーの全てのページを写真に撮りました。検分を進めると、ページの間から、昆虫の翅脈(羽)が出てきました。さらに、長さ1センチほどの細く白い毛も見つかりました。さらに、羊皮紙に付着した赤っぽい液体の痕跡、小さな白い粒も見つかりました。ハンナはこれらの標本を慎重に保管しました。その晩、学芸員のオズレンと食事したハンナは、ボスニア内戦時に、オズレンがどうやってサラエボ・ハガダーを守り通したかを聞かされました。互いに惹かれ合ったハンナとオズレンは、オズレンの下宿で寝ました。かつてオズレンには妻子がいましたが、妻はセルビアの狙撃兵に撃たれて死に、銃弾の破片を頭に受けた小さな息子は植物状態で病院に収容されていました。ハンナは、サラエボ・ハガダーから採取した小さなサンプルの意味を教えてくれそうな旧友を求めて旅に出ました。ハンナはウイーンに向かいます。そこにいる昆虫学者の旧友と、自分の古書鑑定の師匠であるヴェルナー・ハインリヒに会うためです。ハガダーから出てきた昆虫の翅脈は、昆虫学者によると、ヨーロッパ全土に生息する蝶のものですが、その蝶は高地にしかいないとのことでした。ハガダーが高山地帯に持ち込まれていた時期があることが推測されました。

 

[蝶の羽 1940年 サラエボ]

 ユダヤ人の15歳の少女ローラは、ダンスが好きで、若いユダヤ教徒の集まりに参加していましたが、ヘブライ語も読めず、ダンス以外のことに興味はありませんでした。集会のリーダーであるモルデハイは、たくましい青年で、熱心なシオニストであり、その後、パレスチナに渡り、ユダヤ人の国を造る仕事に従事していました。オーストリア併合により、ナチスドイツは国境地帯に迫っており、それを期にパレスチナへ移住するユダヤ人も増えていました。洗濯の仕事でステラというイスラム教徒の女性の家に行ったローラは、ステラの夫のセリフ・カマルが国立博物館の文献管理責任者であり、古書の研究者であることを知ります。サラエボの街に入ってきたドイツ軍は、蹂躙の限りを尽くし、セルビア人とユダヤ人を迫害しました。ステラは、セリフが、ユダヤ人の文化や生活を守る活動をしていることを知ります。ナチスドイツによるユダヤ人の連行がはじまり、ローラの父は強制収容所送りになりました。女子供はシナゴーグ(ユダヤ人の寺院)に連行されました。中は荒れ果てていました。ローラは母に説得されて山に逃げることになりました。かつてユダヤ人青年の集会に来ていたイサクの妹イナがローラに山へ連れていってほしいと頼みました。イサクはパルチザン(ナチスドイツに対する反乱ゲリラ)になっているといいます。ローラとイナは必死の逃避行で、パルチザンの野営地にたどり着きます。イサクの親友マックスが二人を迎えました。洗濯ぐらいしか特技のないローラでしたが、シラミの駆除のための煮沸消毒の技術を買われてパルチザンのメンバーになりました。ローラが所属すパルチザン部隊のリーダーはブランコという狂信的ともいえる過激な活動家でした。ローラは荷物運搬に欠かせないラバの世話をすることも覚えました。部隊は移動を続けました。疲れ果てて眠りたいメンバーに対して、ブランコが偉そうな演説をぶつのがイサクたちには大不評でした。そのうちに、パルチザンの再編制が行われ、ローラの所属する部隊は解散することになりました。ローラはイサクとイナの後を追っていきました。衰弱したイナを抱えたイサクも凍傷になり、二人は、凍った川に飛び込んで自殺しました。サラエボの街に戻ったローラは、父の同僚だったサヴァという老人に助けられました。国立博物館にコネのあるサヴァは、かつてローラが洗濯の仕事を請け負っていたステラの家にローラを連れていきました。ステラの夫のセリフは、ローラを住み込みのベビーシッターということで家に匿う計画を立てました。なぜイスラム教徒のセリフたちがユダヤ人のローラを親切に庇護してくれるのか、ローラが尋ねると、セリフは、イスラム教徒とユダヤ教徒は同じ教典の民であり、いとこのようなものだといいます。そして、ヘブライ語の美しさをたたえました。ある日、セリフは、ナチスドイツによる略奪から守るために、美しい革表紙のハガダーを博物館から持ち出してきました。そのハガダーは500年もの間、様々な苦難を乗り越えてきたものでした。ハガダーの美しい挿絵にローラは息を呑みました。セリフは、ハガダーをローラに持たせて、安全な場所へ避難させる計画を立てました。ローラはハガダーを持って、山岳地帯に連れていかれました。そこに住むイスラム教徒の一家にローラは世話になることになりました。その一家の息子は、昆虫の研究に夢中でした。ローラがハガダーを開いて見せると、そこに、蝶の羽の破片が落ちてきました。村の大人たちは、ハガダーを、村のモスクの図書室に隠すことに決めました。

 

[ハンナ 1996年春 ウイーン]

 ハンナは、自分の恩師であるヴェルナーに会います。サラエボ・ハガダーから採取したサンプルや、装丁に刻まれた奇妙な溝について話しました。ヴェルナーによると、その溝は、留め金をつけるために作られたものだといいます。ハンナはオズレンと電話で話し、ナチスに侵攻された当時のユーゴスラビアで、サラエボ・ハガダーを守った博物館の学芸員の過酷な生涯を聞かされました。ハンナはウイーン市立歴史博物館で、ハガダーを売りつけたコーヘンなる人物に関する記録を調べます。コーヘンというユダヤ人は、サラエボ・ハガダーを、自宅での祈祷に用いていましたが、家計が苦しくなり、ハガダーを売ることにしたようです。コーヘンの先祖は、イタリアのヴェネチアでハガダーを入手したのではないかと見られていました。博物館でハガダーを調べた学者の退屈な記録を読みましたが、その中に、1894年当時、このハガダーには、銀製の見事な花の彫刻を施した留め金が付いていたことが書かれていました。

 

[翼と薔薇 1894年 ウイーン]

 ユダヤ人医師のヒルシュフェルトは36歳で、二人の子供の父親で、愛する妻がいて、秘書の情婦にも事欠かず、仕事は順調で金もあり、ウイーンでの生活を満喫していました。ヒルシュフェルトは、人には言えない病つまり梅毒に冒された人を秘密に治療する診療所を設けていました。ウイーンの街では、ドイツ人の愛国主義者たちが、ユダヤ人の金儲けや出世を非難するようになりつつありました。ある日、ミトルという製本職人が、梅毒の治療を受けに、ヒルシュフェルトのもとにやって来ました。ミトルの病状はかなり進行しており、治療は困難に思えました。砒素を用いた新しい治療法がありましたが、それは非常に高額な治療費がかかりました。ヒルシュフェルトは、妻の浮気にも疑念を持っていました。妻は、ヒルシュフェルトが愛人を囲っていることに反発していました。ミトルは、珍しいユダヤの祈祷書の再装丁を博物館から依頼されました。極彩色の挿絵がある珍品でした。何百年も経った代物で、装丁はひどく傷んでいました。美しい銀製の留め金がついていました。その銀の留め金をミトルは外して、自分の梅毒の治療代にしようと、ヒルシュフェルトのもとに持ち込みました。ヒルシュフェルトはその留め金を、銀細工職人に渡して、別れる情婦への贈り物になるイヤリングに作り変えさせようと考えました。しかし、妻のことを思い出し、情欲が甦ったヒルシュフェルトは、留め金の薔薇の部分を情婦への贈り物に、鳥の翼をかたどった部分を妻への贈り物に作り変えさせることを思いつきました。

 

[ハンナ 1996年春 ウイーン]

 ハガダーについていた銀の留め金は、この本が市立博物館を出て行った時には無くなっていたと考えられました。装丁師のミトルという男が、留め金を外して盗んだと推測されました。博物館は、ボスニアを刺激しないために、ハガダーが博物館からボスニアに返却されるのを先延ばしにしていたようです。ハンナの母親のサラ・ヒースは、世界的に名の知れた優秀な外科医でした。プライドが高く、ハンナが古書鑑定の道に進んだことを快く思っていませんでした。ハンナは、テート美術館での講義のついでにボストンを訪れ、母の講演会を聞きにいきました。そして、サラに、オズレンの息子の脳の写真を見せて診断を仰ぎました。サラはこの息子はもう助からないと冷淡に言い放ちました。ハンナは、フォッグ美術館の主任学芸員のラズマスに会います。ハンナは、サラエボ・ハガダーから採取した羊皮紙の小さな染みを鑑定してもらいます。ラズマスはサンプルをスペクトル分析にかけました。そして、染みがコーシェル・ワインであることを突き止め、さらに、ワインの染みに血液の染みが混じっていることも発見しました。

 

[ワインの染み 1609年 ヴェネチア]

 ローマ教会の異端審問官であるジョヴァンニ・ドメニコ・ヴィストリニは、ヴェネチア共和国では、貧相な生活を強いられ、好きなワインもふんだんに飲めるわけではありませんでした。ヴィストリニは、神学の知識が豊富で、並外れた語学力の持ち主でした。語学力は、世界中から人や物が集まるヴェネチアの街で幼少期から鍛えられたものでした。ローマ教会の異端断罪が厳しくなり、ユダヤやイスラム教の書物が禁じられ、ヴィストリニは異端審問官として、焚書にも携わりましたが、優美を極めた本を燃やすのは、審美家としての良心が咎めました。ユダヤ人の秘密製本所の摘発の件で、ヴィストリニは、親友のユダヤ人ラビのユダ・アリエに会いました。ユダ・アリエの聖書解釈は見事で、彼の説教には、キリスト教徒も集まるほどでした。ユダ・アリエは、焚書の件で、ユダヤ人自らがカトリック教会の奴隷になって禁書となった本を燃やすよりも、異端審問官のヴィストリニに燃やされたほうがましだと言いました。ユダ・アリエは、銀行経営の金満家の娘でユダヤ人ゲットーへの支援者であるレイナから、定期的な寄付金とともに、珍しい本を託されます。それはユダヤ人のハガダーであり、まるでキリスト教の祈祷書のように細密な挿絵が付されていました。ポルトガルから逃げてきたレイナの下男が死ぬときにレイナの父に渡した本だといいます。形式上はカトリック教徒のレイナはオスマン・トルコへの移住を決めてヴェネチアを離れる予定で、そのユダヤのハガダーに検閲を受けさせてほしいと、ユダ・アリエに頼みました。ユダ・アリエは、カーニバルの夜に、賭博場で、レイナから預かった寄付金を増やそうとして、逆に借金を背負うほど負けてしまいました。ユダ・アリエは、レイナから預かったユダヤのハガダーを子細に検分した後、異端審問官ヴィストリニのもとへ持っていきました。ワインの飲み過ぎで酔っ払っていたヴィストリニは、日頃のユダ・アリエに対する知的劣等感から、ハガダーを異端扱いして燃やすといいます。細密画のなかに異端の思想が描かれていたと難癖をつけました。キリスト教の天動説に反する地動説の思想が描かれているというのです。時代は、コペルニクスやガリレオの地動説が台頭し、カトリック教会と鋭く対立している頃でした。ヴィストリニはユダ・アリエに賭けをもちかけて、ハガダーを取り上げ、ハガダーを助けてくれるように懇願し、すがりつくユダ・アリエを足蹴にして追い返しました。しかし、ヴィストリニはワインの飲み過ぎで、ユダヤ教徒たちの恨みにさらされている幻覚を見て、動揺し、ハガダーの上にワインをこぼしてしまい、おまけに怒りのあまり押しつぶしたグラスのガラス片で手を負傷し、その血がハガターの上に落ちました。結局、ヴィストリニは、ハガダーに、許可の署名と日付を書き入れたのでした。

 

[ハンナ 1996年春 ボストン]

 ハンナは、ラズマスに、ハガダーから見つかった白い結晶についても、スペクトル分析にかけることを依頼します。ホテルに戻ったハンナに、電話がかかってきて、母で外科医のサラが、交通事故で重傷を負ったという知らせを受け、ハンナは病院に急行しました。サラは、ハンナに、デライラ・シャランスキーというユダヤ人の葬儀に参列してほしいと頼みました。デライラはハンナの祖母だというのです。母のサラは、一人でハンナを育てたと言っていましたが、サラのパートナーでハンナの父は、高名な画家のアーロン・シャランスキーでした。アーロンはオーストラリア画壇の寵児でしたが、28歳の時に脳腫瘍を患い、視力が減退し、手術の後に合併症で亡くなりました。アーロンが手術を受けた頃、サラは妊娠中で、アーロンの死後にハンナを出産したのでした。サラは、手術を先輩医師に任せたことを気に病んでいました。サラは、女性外科医として成功を収めることに躍起で、子供を持つことなど考えたことなどなく、医学以外に何も知らないサラに、アーロンは政治、自然、芸術を教えてくれました。アーロンの母でハンナの祖母にあたるデライラの葬儀に出席したハンナは、シャランスキー家の人びとに温かく迎えられました。サラの交通事故の車を運転していたのはデライラで、その事故でデライラは亡くなったのでした。ハンナとデライラは長い間音信不通でしたが、アーロンの遺産を活かすシャランスキー基金の話で、二人は会ったといいます。講義のためにロンドン行きの飛行機に乗ったハンナのもとにラズマスから連絡が届いていました。サラエボ・ハガダーに付着していた白い結晶は、塩化ナトリウムであり、テーブルで使われていた塩ではなく、海水が乾いてできた塩だといいます。

 

[海水 1492年 スペイン、タラゴナ]

 ユダヤ人の能書家であるダヴィド・ベン・ショーシャンは、市場で若者から、ミトラシュ(古代ユダヤの聖書注解書)に精通した者しか描けないような、小ぶりの細密画の束を見つけ、全部買い取りました。ダヴィドは、甥っ子の結婚式に送るハガダーを製作するために、細密画を買ったのです。ハガダーの文面は自分で書くことにしました。文面を書いていたダヴィドは、夜中に、神の名が羊皮紙から浮かび上がる幻覚を見ました。ダヴィドの息子ルーベンは、カトリックに改宗していましたが、異端審問の嵐が吹き荒れる当時のスペインでは、異端の疑いをかけられて拘束され、拷問を受けていました。高額な免罪金を払えば釈放されて、その金が王の利益の源でしたが、ダヴィドに支払う能力はありませんでした。当時、イスラム教徒からスペインを取り戻した王家は、カトリック信仰を確実にするために、領内のユダヤ教徒を一掃する計画を実行していました。ダヴィドは兄に免罪金の援助を依頼しましたが、断られました。ダヴィドの目立たない地味な娘のルティは、他人に内緒で、ユダヤの神秘思想カバラの研究家になっていました。ルティは、父が文字を記した羊皮紙を製本所に運び、本が出来上がるまでの間、そこで本を借りて読んで勉強していました。製本師のミハは、本を読ませる見返りに、ルティの処女を奪いました。ミハとルティは、暗号を使って逢瀬を重ねました。ある日、ルティは、父ダヴィドから文字の書かれた羊皮紙と細密画の描かれた羊皮紙、そして父母の結婚契約書を入れた箱を渡され、製本所へ持っていくように言われました。箱には銀細工があり、それを本の装丁の留め金に使うようにということでした。銀細工師は、箱を溶かして銀を抽出し、素晴らしいデザインの留め金を造りました。ミハも、製本師の名にかけて、見事な装丁に仕上げました。異端審問官は、ルーベンがユダヤの聖具箱を持っていたことを責めて拷問しました。その箱を妹のルティが持ってきたことをルーベンは白状させられました。ルティと、ルーベンの妻ロサが、異端審問官に追われる身となりました。ロサは、かつてルーベンと逢瀬を重ねた海岸沿いの洞窟に逃げ込みました。ミハの製本所も異端審問官の捜索に遭いました。ミハは、ダヴィドから依頼されたハガダーを隠しました。ダヴィドは、異端審問官の暴力で殺されました。ルティはミハから細密画の描かれたハガダーを受け取って、南へ逃げました。そこは、ロサが隠れている洞窟でした。妊娠していたロサは男の子を産み落としました。キリスト教徒からユダヤ教徒に戻った異端のかどで捕まった夫ルーベンの子供をロサは望んでいませんでした。ルティは、ロサに死産だったと伝えて、赤ん坊を抱いて洞窟から出ました。ルティはユダヤ教徒の正装になり、赤ん坊を海に浸けました。そうやって、ユダヤ教徒の洗礼を施したのです。麻袋に入れていた、ミハから預かったハガダーは少しばかり海水に濡れていました。ルティは、亡き父の墓に行き、ユダヤ教徒の孫を紹介することにしました。その孫は祖父の名前を受け継いで海を渡り、母親代わりの叔母とともに神が授ける未来へ歩み出すのだと、ルティは考えました。

 

[ハンナ 1996年春 ロンドン]

 テート美術館で、父アーロンの作品を観て涙を流したハンナですが、翌日の講演は成功させました。そして、サラエボ・ハガダーの鑑定報告書の執筆に取りかかります。ハンナは、報告書は無味乾燥なものでなく、ハガダーを作り、使い、守った多くの人の手のぬくもりが伝わってくるような、過酷な冒険物語を盛り込んだものにしようと考えていました。知人のコネで、ロンドン警視庁の鑑識課に、ハガダーから得た白い毛を持ち込んで鑑定してもらいました。なくなっていた留め金の行方についても有力な情報を得ました。古い写真に写っていた女性のイヤリングが、ハガダーから外された銀製の留め金を加工して作られたとおぼしいことが判明しました。ハガダーの装丁をしなおしたミトルという職人は梅毒に冒されており、その主治医がイヤリングをつけた写真の女性の夫だったのです。サラエボへ電話すると、オズレンの息子が死亡したという知らせを受けました。ハンナはサラエボ行きの飛行機に乗りました。警察の鑑識から連絡があり、白い毛は猫の毛であることが判明しました。

 

[白い毛 1480年 セビリア]

 イスラム教徒で黒人奴隷のザーラは、ユダヤ人医師のネタネル・ハーレヴィの家で働くことになります。ザーラには絵の心得がありました。細密画家のホーマンの工房で働いていた頃、米粒に絵を描くことを命じられて、うまくできませんでした。そのため、羊皮紙をなめす作業に従事させられ、指の皮膚がボロボロになりました。ザーラの父は医師であり、ザーラは奴隷になる前は、父の手伝いで薬草の絵を描いており、植物の絵が得意でした。父はベルベル人に殺され、捕まったザーラは奴隷として売り飛ばされたのでした。ある日、ホーマンに呼ばれたザーラは、細密画を描く絵筆に、猫の毛を用いていることを明かされました。ホーマンは新しい筆一揃いを渡して、ザーラに肖像画を描くように命じました。ホーマンは、貴重品箱から取りだした細筆使いの達人の作品をザーラに見せました。綴じられた小さな羊皮紙のなかに、生命力と躍動感に満ちた世界がありました。しかし、細密な肖像画の多くは過激な偶像破壊主義者たちによって、首に赤線が塗られていました。偶像崇拝がタブーとされる最中に、ザーラは、生き写しの絵を描く仕事をホーマンに与えられました。総督がイスラムの絵師をハーレムによこすように命じたのです。ザーラは男に扮装していたことがホーマンにばれましたが、女であれば、ハーレムに派遣する際に去勢しなくても済むので手間がはぶけるといいます。ザーラはホーマンに犯されました。ザーラは高貴な女性が着る服をまとわされて、ハーレムに派遣されました。戦争でたびたび町を離れる総督が、戦地で眺めるために妃ヌラの肖像画がほしいという依頼でした。ハーレムに着いたザーラは、総督が出発する明日の朝までにヌラの肖像画を完成させるように無理な命令を受けます。ザーラは夜を徹して、肖像画を完成させました。そこには、意志の強い凜とした妃ヌラの姿が描かれていました。世話役の老婆から、ザーラは、ヌラがイスラム教に帰依していながら、キリスト教の祈りを捧げているのを目にしたことがあると聞かされます。戦闘で顔に負傷した総督が帰ってくると、今度は、ヌラの裸体を描くようにザーラは命じられました。反発を感じたザーラは、妃の顔がはっきりと見えない構図で、豊満な女性の裸体像を描き、総督はいたく気に入りました。妃ヌラも、ザーラと同じく、親を殺されて連れてこられたと話しました。総督を愛しているふりをしているだけだとヌラはいいます。宮廷では、総督の息子が勢力を広げており、総督の立場は危うくなっており、ヌラも長くは生きていられないだろうと諦めを漏らしていました。ヌラはザーラに、キリスト教の時禱書をこっそり見せてくれました。そこには細密な美しい挿絵が何枚も描かれていました。ヌラはこの本を、信頼している医師のネタネル・ハーレヴィからもらったと言います。ネタネル・ハーレヴィはユダヤ教徒ですが、あらゆる宗教の患者を分け隔て無く治療していました。ヌラは妊娠していました。総督の息子が反乱のきざしを見せる中、おなかの子供を守るためにも、生き延びる必要があるとヌラはいいます。そして、ザーラにカトリックの修道院に逃げ込むように促します。ある日、ヌラを診察した医師のネタネル・ハーレヴィは、ザーラの絵をいたく褒めました。そして、ザーラが医師だった父の手伝いで植物の絵を描いていたというと、ネタネルは、ザーラの父のことを知っているといいました。そこで、ザーラは妃ヌラの許しを得たネタネル・ハーレヴィに貰われることになりました。こうして、ザーラはネタネル・ハーレヴィの家の奴隷として暮らすことになりました。総督の負った傷が致命傷になると、息子が反乱を起こしました。妃ヌラは修道院へ逃げ込み、女の子を出産しました。医師ネタネル・ハーレヴィの一家は親切で、ユダヤ教徒なのに、イスラム教徒のザーラの生活習慣を尊重してくれました。ザーラは、医師の仕事の助けに、植物などの絵を描く仕事に精を出しました。ネタネル・ハーレヴィの息子のベンヤミンは聾唖でした。そのベンヤミンのために、ザーラは、ユダヤの儀式を絵に描いて教えることを思いつきます。ザーラはユダヤの教義や儀式を研究して、それを細密画に描いていきました。そして、幸せそうに団欒を楽しむ医師一家の姿も絵にして、そこに、こっそり自分の肖像も描き込みました。その自分の肖像の部分に、ホーマンからもらって使い込んだ猫の毛の筆で、この絵はザーラが描いたという署名を入れました。その時、猫の毛が抜けて、絵の具と一緒に絵に貼り付きました。

 

[ハンナ 1996年春 サラエボ]

 サラエボに到着したハンナは、博物館の厳重なガラスケースに収められたサラエボ・ハガダーを見ました。そこにあったハガダーの羊皮紙が不自然であることに気づき、ハンナは、偽物のハガダーだと断定しました。事務所には、オズレンとともに、ハンナの師匠のヴェルナーもいました。ハンナは、ユダヤ人の鑑定家アミタイが偽物とすり替えた犯人ではないかと疑いました。しかし、オズレンは、このハガダーは複雑な国際情勢に曝されていることをふまえて、事を荒立てるようなことはできない、つまり、真贋を見極めることはできない、と言い放ちました。

 

[ローラ 2002年 エルサレム]

 故郷のボスニアのサラエボを後にして、ローラはイスラエルのエルサレムに住み、掃除婦の仕事をしていました。ホロコースト記念館の掃除が仕事です。サラエボでは、国立博物館の文書管理責任者だったセリフ・カマルに連れられて、ローラは看護助手の仕事を得て、パルチザン時代のリーダーだったブランコと結婚しました。セリフ・カマルがナチスの協力者という疑いで裁判にかけられ、ローラはそれを否定する証言をしようと裁判に出廷しようとしますが、ブランコに禁じられました。セリフ・カマルは収容所送りになりました。ブランコが死に、チトー政権がユダヤ人のイスラエル移住を許可したので、ローラは移住を決意しました。キブツ(集団農場)で働き、ユーゴスラビア内戦で逃れてきたボスニアのイスラム教徒やユダヤ教徒の面倒をみました。ローラは、セリフ・カマルがユダヤ人を救った英雄としてホロコースト記念館に顕彰されるように働きかけました。ある日、掃除の最中に、10万冊以上の書物を保管する資料室に足を踏み入れたローラは、偶然に、古い本の集まりの中から、セリフ・カマルが大事に博物館から持ち出した小さな書物を発見しました。それは、あのサラエボ・ハガダーでした。

 

[ハンナ 2002年 グヌメレン オーストラリア、アーネムランド]

 サラエボでの一件から6年が経ち、ハンナは、父の遺したシャランスキー基金の活動である、オーストラリア大陸北部のアボリジニーが岩肌に描いた絵の保存の仕事に従事していました。古書鑑定家としての自信を失っていました。母との仲は修復できず、自分の姓をシャランスキーに変えると言って、別れたまま、会うこともありませんでした。そんなある日、ハンナは外務貿易省から呼び出されてシドニーに向かいます。そこではアミタイが待っていました。そして、6年前に、偽物と本物のハガダーをすり替えたのは、ヴェルナーとオズレンだったと言うのです。ナチスの親衛隊でユダヤ文書の焚書に従事した経験を持つヴェルナーは、これ以上、ユダヤ人の文化遺産を失わせてはならないと考えるようになりました。そして、サラエボ・ハガダーの本物を、イスラエルのホロコースト記念館の書庫に収めたのです。それが発見されて、オーストラリアの、ハンナの目の前に置かれていました。ヴェルナーは、アミタイを騙して、ハンナが撮った本物のハガダーの写真を入手し、本物そっくりの贋作を作り上げました。ヴェルナーは余命幾ばくも無くホスピスにおり、オズレンはサラエボの国立博物館の館長になっていました。ハンナは、オズレンとの恋仲もスパイによって知られており、本物のハガダーをサラエボの博物館に戻すようにオズレンを説得するように依頼されます。ハンナは、アミタイがくれたX線を遮蔽するスーツケースに本物のハガダーを収めて、サラエボ空港に降り立ちました。オズレンは、ヴェルナーに騙されていたと話し、ハンナに謝罪しました。ハンナは、イスラム教徒であるオズレンがユダヤ教のハガダーを救ったのに、なぜヴェルナーの言いなりになってイスラエルに送ろうとしたのかと、詰問します。オズレンは、目が覚めたと言い、自分たちは何かの宗教の信者である前に、一人の人間であることを優先すべきだと言います。ハンナとオズレンは、警備員を騙して帰し、夜中の博物館に潜入し、警報装置を解除して、本物のハガダーを展示台に戻しました。防犯カメラのビデオテープを外して持ち出し、処分しました。ハガダーと別れ際に、もう一度、子細に観察したハンナは、細密画に描かれている黒人女性の上に、極細の筆で名前が書かれており、自分がこの絵を描いたと記されているのを見つけました。アフリカ人のイスラム教徒の女性が、サラエボ・ハガダーの細密画家だったのです。しかも、それは500年もの間、自画像として多くの人の目に触れていたのでした。ハンナは、500年前のスペインで細密画を描いた女性絵師と、ハガダーの文書を記した人物について調べに、スペインに行く計画を立てました。オズレンの下宿部屋で、ハガダーの偽物を暖炉の火にくべようとしましたが、オズレンはどうしても燃やせませんでした。今までに無数の貴重な文書が焼かれてきた戦乱の時代を思うと、オズレンは、たとえ偽物とはいえ、これ以上、本を燃やすことができなかったのです。ハンナはオズレンの愛を取り戻しました。

 

 ストーリーはざっとこのようなものです。

 

 本作品には、サラエボ・ハガダーという、異端とされた細密画入りのユダヤの祈祷書を、500年の長きにわたり、様々な人々が、造り、使い、守ってきた軌跡が描かれています。そこには、現状では各地で対立紛争を抱える、キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒がおり、互いに、反目する社会にあっても、協力しあって、ハガダーを守ってきた姿があります。美しい細密画が繊細な羊皮紙に描かれたハガダーは、宗教を超えて、多くの人々を魅了したのです。文化とか芸術の前では、宗教の違いも対立も乗り越えられるというメッセージが込められているように思えます。様々な宗教の融和を訴えるメッセージが込められているようにも思えます。

 本書は、メタ・フィクションの構成を持っています。各時代のハガダーにまつわる逸話(真実の物語?)が原テクストであり、ハンナの言動を描写した章がメタ・テクストとして機能しています。しかし、本書の特殊なところは、ハンナは優秀な技術や観察眼で、ハガダーにまつわる謎をいくつも解き明かしていきますが、各時代の顛末を描いた章ほどには真実(?)を知ることができません。全ての真実を知るのは、本作品の読者であるという設定になっています。ハンナの鑑定や推理は、真実の上を滑っていくだけになっています。フランスの文芸評論家ロラン・バルトのいう「デノテーション」と「コノテーション」の関係が見てとれます。各時代の真実を描いた各章は、ハンナの推理や鑑定の意味をさらに拡張していくコノテーションの役割を果たし、サラエボ・ハガダーの現状から意味を見出すハンナの推理は、拡張される前の意味であるデノテーションの役割を果たしていると読めます。デノテーションとコノテーションの対応と相互作用がテクストの豊かさを生み出すという、バルトの指摘を、本作品は形として実現させているように思われます。

 そもそも、偶像崇拝を禁じるユダヤ教の教典に、細密な美しい挿絵を描いたのは、イスラム教徒で黒人奴隷であった女性でした。この設定一つとっても、複雑な背景が類推され、それが作品中で明らかにされていきます。複数の(時には反目している)宗教の間を漂ったり、行ったり来たりするような人々が、数多く、サラエボ・ハガダーに関わってきます。自分の宗教や主義信条はとりあえず置いて、美しい書物を守り、後生に遺そうという意志で、数多くの人々が関わっていきます。中には、金のため、名誉のためなど私欲丸出しで行動する、自分の宗教に対する信心もいい加減な人物も、少なからず絡んできますが、そういう人々の行動もまた、ハガダーを守る方向に働いていきます。「いい加減さ」は「寛容性」にもつながります。「敬虔」が「狂信」と背中合わせであるようにです。寛容な人間、寛容な社会でなければ、文化遺産を守ることは困難です。世界各地で、様々な宗教が台頭したり衰退したりして、宗教地図としては、モザイク状になっています。そういう中で、後生に遺すべき文化遺産を守るには、宗教のしがらみをいったん解き放って、審美的ともいえる態度で文化遺産に接する必要があるように思えます。