YMOの埋葬 | ほうしの部屋

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 ミュージックマガジン増刊『イエロー・マジック・オーケストラ(YMO) 音楽の未来を奏でる革命』を読了しました。

 昨年は、高橋幸宏、坂本龍一と、YMOのメンバー2人が亡くなってしまいました。残るは最年長でヘビースモーカーの細野晴臣だけです。昨年は、音楽雑誌や思想誌などを中心に、高橋幸宏、坂本龍一各々の追悼企画は数多く出版されました。しかし、彼らの原点とも言える、YMOそのものについての出版企画はあまりありませんでした。そこで、今回、ミュージックマガジンが、YMOの特集を出したわけです。

 YMOとその関連ミュージシャンのディスコグラフィーは充実していました。しかし、1970~80年代のYMO(第1期YMO)の頃の、インタビュー記事、取材記事、評論などが少なく、当時掲載された雑誌記事をスキャンして掲載しているだけでした。2000年代の再結成YMO(第3期YMO)の活動やコンサートに関するレビューや評論が多くて、老成した落ち着いたYMO各メンバーの活動に関するコメントばかりで、少々飽きます。第1期YMOの頃の、メンバー全員がピリピリした緊張感を発しながら、機材もまだ十分とは言えない時代に、誰も作ったことのないテクノポップを作るという、ある種限界に挑戦するような雰囲気が伝わってくる記事が欲しかったと思います。

 YMOとそのメンバーに関しては、私の持っている知識や情報はかなり多いので、この雑誌の企画記事にも、あまり真新しい発見はありませんでした。それでも、落ち穂拾いのように、メンバーや関係者の発言の中から、あまり知られていない、あるいは印象的なものを集めることは少しはできました。そのような発言や説明を抽出し、それに関する私のコメントを加えて、内容紹介に代えたいと思います。

 坂本、高橋を失ったYMOに関する思い出は、そろそろ本格的に埋葬すべき時期に来ているかもしれません。その音楽は時代を超えて色あせないものですが。

 

(初期YMOのレコーディング・エンジニアを務めた吉沢典夫の回想)

ーーでは有名な〈ライディーン〉逆相事件についてお聞かせください。

「事件(笑)。いや、別に事件というわけじゃないけれど、ミュージシャンが作ってくるものに対して僕らも自分たちの立場から参加したいと。それで〈ライディーン〉の蹄の音、これを直線的でなく円を描くようにポジションを動かしたらより効果的に響くんじゃないか?と考えたんです。それでソニーからもらったQSエンコーダー、昔あった4チャンネル用の機械を使って立体的効果を付けてみようと。そうすると逆相成分を多少入れることになるからカッティングでレヴェルオーバーして(アナログレコードの)針飛びを起こしてしまう。その調整をしてもらった。限界まで逆相を出して派手にしたかったけど、工場でカッティングしようとすると飛んじゃうから。『これ、正相にしていいですか?』と連絡がありました、『意図としてやっているのでよろしく』と言って、結局、その部分の位相カッティングにも支障のないように調整したようです」「あの頃はいつも目立つ部分を作って商品価値をつける、『あの箇所がいい』と言われるような光る場所でインパクトをつけることを心掛けていたんです」

 確かに、YMOの代表曲「ライディーン」の間奏部分には、馬の蹄の音が、遠くから近づいてきて目の前を通り過ぎ、再び遠くへ去って行くように聞こえる箇所があります。1978~79年当時、位相をいじるエフェクターはあまり存在しなかったようです。位相が派手に動くと、アナログレコードのカッティングの針が飛んでしまうからです。現在の、デジタル録音では、位相をいじるエフェクターは当たり前のように使われていますし、正相の音と逆相の音を左右に置いてステレオ感を増すような操作も、日常茶飯事のように行われています。

 

 

(1993年に再結成したYMOが出した『TECHNODONN』のレコーディング・エンジニアを務めた寺田康彦の回想)

ーー長い時間、同じ場所に籠もるレコーディングだったと思うのですが、お三方の様子は80年代とは違いましたか。

「細野さんと幸宏さんが二人であれこれやっていて、後ろで教授が本を読んでその輪から抜けているように見えるんだけど、時々気になる部分があるとアドヴァイスしに来て、だからちゃんと二人のやっているところは見て、音も聴いてるんですね。この構造というか風景を僕もデジャヴュのように見ていて『変わらないなあ』と(笑)」

 坂本は、ポップミュージックのミュージシャンが忘れがちな、和音のトップノートとメロディの基音がぶつかると耳障りになるといった、クラシック音楽の教育を受けた者なら誰でも知っている常識を、ポップミュージックのレコーディングにも持ち込んだようです。「そこ、当たってるよ」などとキーボードを弾いて示したこともあるようです。このように、YMOは細野晴臣がプロデューサーでしたが、アレンジなどでは坂本龍一がプロデューサー的に目を光らせていたと言えます。こういうこともあって、特に第1期YMOでは、次第に、細野と坂本の仲が険悪になり、高橋幸宏が一生懸命に仲介していたようです。しかし、細野の天才的な直観と、坂本のアカデミックな理論的裏づけが両方あったからこそ、YMOは希有な作品を世に送り出すことができたとも言えるでしょう。

 

 

(立川芳雄の「確たる戦略に裏打ちされた実験性とテクノロジーのたゆまぬ追求」という記事より)

「坂本龍一は、クラシック音楽では正確に速く弾くことが求められるが、その要求に応えようとすると自然に自動演奏にたどり着くという趣旨の発言をしている。また、スタックス・ソウルのドラマー、アル・ジャクソンに私淑していた高橋幸宏も、クリックに合わせて叩くのは楽しいという趣旨の発言をしている。つまりYMOの音楽は、演奏技術を追求していった結果、必然的に生まれたものなのだ。同じテクノポップでも、たとえばクラフトワークのように楽器演奏が苦手だからこそコンピュータに活路を見出したグループとは、ヴェクトルの方向が逆なのである」

 クラフトワークはどこまでも無機質ですが、YMOは、自動演奏の無機質さを超えて、生演奏のグルーヴ感も形成しています。高橋幸宏のドラム・プレイや、坂本龍一のピアノやシンセサイザーの手弾きで見せるゴージャスでクラシカルなカデンツァや、細野晴臣がたまに弾くグルーヴ感たっぷりのエレキ・ベースなど、生演奏の魅力も多分に含んでいて、それが無機質な自動演奏と、見事な調和を見せているのです。

 

 

 

(篠原章の「トーキョーの新しいポップと真のオリジナリティを求めて」という記事より)

「技術的にいえば、YMOのメンバーは日本のプレイヤーのなかで最高峰に位置していた。その意味では、日本のフュージョン/セッション時代を象徴するような人力ハイテク3人組である。だが、YMOによる『コンピュータの使用』は、演奏技術の巧拙という評価を無効にしてしまう可能性がある。自己否定の音楽なのである。彼らはプレイヤーとしての評価を捨てて、本来の意味でのミュージシャンとしての評価あるいはアーティスト、クリエイターとしての評価を求めるほかなくなる。創造性や独創性のみが評価のポイントとなる。逆に言えば、プレイヤーとしての部分を葬りさらないことには、YMOのアイデンティティは確立されないのだ。あわせて、デビュー後もなおつきまとった『細野晴臣のプロジェクト』という中途半端な状況にメンバーが甘んじている限り、YMOのバンドとしての将来は保障されないのである」

 YMOの3人とも、機械の前に、自分たちの演奏技術を捨て去ることはしていないと思います。前述したように、機械の自動演奏と、生演奏のグルーヴ感や意外性が、見事に調和しているのがYMOの独自性です。そこには超絶技巧も含まれています。そこが、YMOが近年に至るまで、ライブ・バンドとしても成功している証だと思います。機械の自動演奏と、人間のグルーヴ感が調和しているのが、YMOを希有なバンドにしていると言えるでしょう。

 

 

(今村健一の「エキゾティシズムとダンス・グルーヴの融合で海外進出を果たした前期」という記事より)

「YMOが放つ無国籍のムードはサイバーパンクに加えて『西洋を通過した東洋』の香りがする。マルグリット・デュラスの小説の中の仏領インドシナやジャン=リュック・ゴダール映画の中のマオイズム、またはブライアン・フェリーの歌う『東京ジョー』と同質の匂いがするのだ。重要な点は、YMOの世界観に安易なジャポニズムは介在していないところにある」

 YMOのコンセプトは、西洋人の中にある東洋(日本)のイメージという誤解や偏見を含んだものを、そのまま演出して見せるパロディ精神にあります。日本などは文化的には中国の一部だと思われがちな面を、あえて表に出して、中国的な旋律を多用したりもしました。デビュー曲の「ファイヤー・クラッカー」(マーチン・デニーの曲のカヴァー)も典型的です。細野晴臣は「エレクトロニック・チャンキー・ミュージック」と称していました。中国的な曲をあえて選んでいるのは、多くの西洋人にとって、中国人と日本人の区別がつかないことに由来すると思われます。中国の人民服的な衣装でライブを行ったのもその表れです(実際には、高橋幸宏がデザインした、日本の大正時代のスキーウエアだそうです)。日本文化(東洋文化)の発信者になるといった一面的な姿勢は薄く、西洋人が見たがっている東洋人(日本人)の姿を、半ば自虐的に見せているのです。これが逆輸入されて、日本国内でも大ヒットしたのは、YMOのメンバーにとっては意外な驚きだったのです。

 

 

「『ナイス・エイジ』という曲には元サディスティック・ミカ・バンドの福井ミカによるナレーションが間奏部分に付け加えられているが、そこで言及される『もうすぐ花のように姿を現わす』『22番』というのは、当時拘留中だったポール・マッカートニーのことを指している。YMOのことを随分お気に入りだったポールがもし日本に入国できていれば、YMOとアルファAスタジオで共作するという話もあったというから、『マッカートニーⅡ』のテクノ風サウンドを聴くにつけ残念に思ってしまう」

 ビートルズもまた、ジョージ・マーティンの援助で、1960年代当時は最先端の機材や録音技術を用いて楽曲を創作していました。そのメンバーだった、ポール・マッカートニーが、最先端のコンピュータやシンセサイザーを駆使したYMOの音楽に惹かれるのは納得できます。もう、遠い過去の話ですが、ポールは、来日時に、大麻の不法所持で逮捕され、日本で活動できないまま強制退去されたことがあります。それが、YMOの「ナイス・エイジ」の間奏部分のナレーションにも表われているのです。

 

 

(「機械がうたう明日?の歌」という北中正和によるYMOインタビュー記事より)

細野「イエロー・マジック・オーケストラでは、下半身モヤモヤ、みぞおちワクワク、頭クラクラというのをやりたい。言いかえれば、低音、中音、高音、あるいはリズム、メロディ・和音、コンセプトですね。自分に気持ちのいい音楽を、自分の中から出てきたのを聞くんじゃなくて、バンドのみんなが集まって、しかもコンピュータとかシンセサイザーみたいな、それ自体が人間の顔を持たないようなものが音楽を作っていって、それを聞いて、自分がどれくらい気持ちよくなれるかと」

 YMOの音楽は(特に1978年~1979年頃の作品は)、ディスコでも頻繁にかかりました(小中学校の運動会のダンスに「ライディーン」が使われる場合もあったほどです)。機械が作り出す音楽のグルーヴ感があるとすれば、それはソウルは黒人にしか演奏できないといった制約を超えて、万国共通のダンス・ミュージックとして世界中に広がっていくだろうと、細野晴臣は夢想していました。いわゆるバスドラム4つ打ちのユーロビートなどがダンスミュージックとして世界中に普及していく以前に、YMOは万国共通のダンスミュージックを画策していたと言えます。

 

坂本「たとえばブラック・ミュージックを聞いて、それをまねようというのと、機械のリズムをまねようというのは、日本人にとっては同じなんじゃないかな。最近のスタジオ・ワークにしても、できるだけ機械的なリズムに近づくことがいいというやり方が多いんだけど、それだったら機械でやったほうが完璧なんですよね。自分の肉体を使って、どういうリズムでも叩ければいいわけだけど、コンピュータはレゲエのリズムでもサンバのリズムでも作ってくれるわけ。自分でレゲエをまねるんじゃなくて、そこで機械を通して抽象化してやるわけです。そうなるとジャマイカ人でも、日本人でも、ドイツ人でも、誰にでもできるようになる。ある意味ではインターナショナルというか(笑)それが果たして、今後の音楽のために、いいことなのか悪いことなのか、ぼくにはわからないんだけど」

 これも、YMOのコンセプトを端的に示しています。世界中のどんな音楽も機械によって再現でき、そのリズムに合わせて演奏すれば、その音楽を苦労してコピーすることなく、再現できます。それが良いことか悪いことかは確かにわかりませんが、現在のDTM(デスクトップミュージック)の時代では、世界中の音楽、そのリズムがコンピュータで再現され、それが高度に混合されて、新しいグルーヴを生み出すに至っています。

 

坂本「日本や朝鮮の民謡のあるものは、抗い難いほど強力なんですよね。パワーがあるというかね。芸術的に審美的にどうこうというんじゃなくて、たとえば民族という文字を見た時に、遙かな感覚を受けるのと同じように、ピープルというか人民の強さを感じるのね。それは地球の宝だと思う。何百年も、無数の人たちの力によって削られてできてきた旋律でしょう。ぼくが20年あまりで何かを作っても勝てるようなものではない。でも、それは、絶対に宝なんで、吸収できるものは吸収したいと思うんです」

ーーそれが侵略的になると心配する人もいますね。

坂本「そういう面も持っていると思う。現代音楽でも、アフリカの、民族音楽をヨーロッパ風の文脈になおして提出しているのがあったりするしね。辺境のものをかっさらってきて、中央で仕立て上げてお金をとるのは、図式的には侵略だと思う。耳の喜びとしては、ぼくは好きなんだけど」

 坂本龍一は、若い頃から民族音楽に関心と造詣が深く、その旋律や和声、リズムなどを、自分の楽曲にも取り入れていました。例えば、ソロ・デビュー作の「千のナイフ」は、レゲエ調のリズムに、東洋的なペンタトニックの旋律を乗せています。「ジ・エンド・オブ・エイジア」という曲では、ファンク系のリズムに、やはりペンタトニックの日本民謡のような旋律を乗せています。これを細野晴臣が聞いて「自分のメロディをパクられた」と文句をつけたのは有名です。YMOは、民族音楽の加工貿易工場のような役割も果たしていました。それが民族音楽に対する侵略か否かは、判断に迷うところです。しかし、YMOを聴いて、民族音楽にも興味を持つようになり、原典を聴くようになるといった、教育的な流れもあると思います。

 

 

 

(「ミュージシャン気質の崩壊がいまは楽しいんだ」という後藤美孝による坂本龍一へのインタビューより)

坂本「テクノポップっていうのは突然変異のものじゃなく、ロックとかフュージョンとかが今の技術でもってすると当然行き着く先だったと思う。要するにレコーディングを対象にした音楽なわけだし、たとえばそのスタイルのいかんに関わらず、レコードを作るという目的だけでもって作られるロックは、当然テクノポップ的な面を持っていた。それをやや純化してシンセサイザーでやればテクノポップになる、というくらいのことでしかない。だから、テクノポップ云々ということよりも、今の音楽を支えている技術のあり方とか、仕立て上げるダイレクションのほうが問題なんじゃないかな」

 これは現在の音楽制作の現場では、常識的というか無意識的に普通のこととして行われています。まず、ガイドにクリックを録音するところから始まったり、そのクリックに合わせてバンドが演奏したり、生演奏に自動演奏の細かなシークエンスを混ぜたりすることは常識的です。現在のDTMによって作られる音楽の多くは、テクノポップとかロックといったジャンルを飛び越えて、複雑な混合物として存在していると言えます。

 

 

 

(「新しい波紋をひろげ始めた細野晴臣」という、小倉エージによるYENレーベルとLDKスタジオ訪問記より)

細野「YMOはね、『テクノデリック』を出した時点で、ひとつのサイクルが終わったと思ってるわけ。バカウケして、こんどは次に、あきられるというパターンがあるでしょう。そういうのに巻き込まれたくなくて、それにすごい圧力を感じていたのも事実だし。だから『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』が売れた後で、それとはまったく逆のレコードを作りたくなったの。チャートにはともかくあがるだろう。でもそれをきっかけにして、次からは落ち目の評価を受けるだろうって、あらかじめ予想をつけて、意識的に強引にね。それと、ソロの活動が活発になってきて、みんなポップな方向に向かい始めたというか」

 YMOは、初期のいかにもテクノポップというポップな路線から一転して、ニューウエーヴ的な作品を挟んで(アルバム『増殖』)、『BGM』『テクノデリック』という実験音楽的な路線に変化します。それにより、コアなファン以外の、いわばミーハー的なファンをふるい落としたとも言えます。『BGM』『テクノデリック』は、後に、海外でも高く評価されて、数々の後発ミュージシャンに影響を与える名作と言われました。しかし、出た当初は、それまでのYMOファンを戸惑わせる、ダークで明快性のない作品と見なされました。『テクノデリック』発表後の、「ウインターライブ」というライブツアーも、イタリア未来派やロシア構成主義を思わせる舞台セットで、アルバムよりもさらに実験性、前衛性に富んだ演奏をしました。これが細野晴臣の計算していた、YMOの「終わりの始まり」だったと言えます。実際、この頃から、メンバーもソロ活動にも忙しくなり、YMOとしての活動では、ギスギスした関係が目立ってきました。特に、細野・高橋の2人組と、坂本との関係が険悪とまではいかずとも、微妙なピリピリしたものになっていきました。このまま3人で活動を続けることに、細野は限界を感じ、意味を見出せなくなったのでしょう。

 

 

細野「ポップな曲を作ろうとすると、ベースとドラムスのパターンから入っていくわけ。ポップなものにしないためには、それを一気になくすとか。なにしろ、ベースとドラムスは、いちばん面白いところだからね。壊すには、そういうところ、いちばん面白いところから壊していかないと。それにカタチがリアルでしょう。たとえばスネアだと、スネアのカタチが見えてきちゃう」

 後に、ハウスミュージックで「ドラムンベース(ドラム&ベース)」というジャンルができるように、ポップミュージックの屋台骨は、ベースとドラムスが生み出すグルーヴ感にあります。ドラムスでビートを刻んで、とりあえずベースを持ち上げておけば、音楽として成立するようなところがありました。そのベースとドラムスのパターンを壊すというのは、前衛的な試みをする上で、確かに的を射ていると言えます。

 

(宗像明将による、YMOのシンセ・オペレーターだった松武秀樹へのインタビューより)

松武「もともとYMOってテクノ・バンドじゃなくて、フュージョン・パンク・バンドなんですよね。ものすごく頭が良くて、コードも『ドミソ』じゃない和音を押さえているようなバンドで、コードの考え方が違ってる。YMOって全然古くならないじゃないですか。むしろ今の最新鋭の機器を持ってきても真似できない創意工夫を30年以上前からやってたように感じるんです」

 YMOは3人がみな卓越したミュージシャンであり、そこに、坂本や細野が生み出す複雑なコード感が加わり、モダンな音楽を生み出したと言えます。テクニックや音楽センスが卓越した面々が、それを一端脇に置いて、機械との同期という手法を選んだところに、YMOの特殊性があります。いくら機械に合わせても、漏れ出てくる音楽センスは消しようがなく、それが良い意味で、良い方向に発酵して、独特の、時代を経ても色あせない作品を生み出したと言えます。

 

松武「サンプリングっていう技術を手に入れちゃった瞬間に、シンセサイザーがこれではダメだなと思ったんですよ。そんなもの突き詰めたって、生楽器なんかに勝てるわけないんです。シンセサイザーはやっぱり人には真似できない音を作る装置で、自分なりの楽器を作る装置だと思ってるんですよ。別にサンプリングの技術を否定してるわけじゃないんですけど、シンセサイザーでサンプリングはメインになるべき技術じゃないなって思っていたんです」

 アナログシンセからFM方式(ヤマハDX7)を経て、デジタルシンセの多くは、源波形としてサンプリング音を用いるものが多くなっていきました。一聴すると煌びやかな音色が増えましたが、アナログシンセの持っていた太さや音の深みが失われました。サンプリング音とサンプリング音源のデジタルシンセを多用した、1980年代中盤以降のポップミュージックは、まさに日本のバブル景気の真っ只中にふさわしいかのように、泡のように膨らんでは消える、はかない印象を与えます。現在、パソコン用ソフト化されたシンセでも、従来のアナログの名器を再現したものが、人気を集めています。やはり、VCO(発振器)、VCF(フィルター)、EG(エンヴェロープ・ジェネレーター)といったセクションで構成されるアナログシンセを用いた音作りは、作り手の個性がそのまま反映される音を生み出すという点で、現在でも人気なのはうなずけます。

松武氏所有のシンセサイザー「モーグIII-C」

(北中正和による、YMOのプロデューサーだった川添象郎へのインタビューより)

川添「(YMOのデビュー当時)村井君(アルファ・レコード社長)と細野君とぼくの3人でキャンティの2階で話をしたとき、細野君がイエロー・マジック・オーケストラという構想があると言うんだよ。何だかわかんないけど任せるよと丸投げした。そしたらある日、村井君から元気のない声で、細野君に任せたアルバムを聞いてくれと電話があった。オーケストラというから大編成で、ニューミュージックのいろんな人を集めて作ったのかと思っていたら、最初は妙なゲームのような変な音が出てくるんです(笑)。すぐにディスコみたいに調子がよくなるんだけど、インストで、誰も聞いたことがないような音楽だから、なかなか売れない。数ヶ月経って、村井君が企画したフュージョン・フェスティヴァルにむりやり突っ込んだ」

ーーむりやりという意識があったんですか。

川添「もちろん、何とか露出しないと売れないから、苦し紛れに。そのときA&Mのプロデューサーのトミー・リピューマがニール・ラーセンと一緒に来たので、紀伊國屋ホールに連れて行く前にシャンパンをしこたま飲んで酔わせたら、かっこいい、とえらいのってるわけ。村井君に話したら、それをすぐA&Mの副会長、ジェリー・モスに報告して、A&MからYMOのアルバムが出ることになったの。トミーはロサンゼルスに戻って聞き直して、どうしようと頭を抱えたらしいんだ(笑)。あれはみんな頭を抱える(笑)。トミーから電話がきて、どうしたらいいって。そんなこと言わないで約束したんだからちゃんとやってくれよって。で、トミーがオフィスで聞いていたら、人気ロックバンドのチューブスのマネージャーが興味を持って、彼らの夏のコンサートでオープニング・アクトに起用してくれた」

 私の青少年時代の記憶でも、坂本龍一のデビューアルバム『千のナイフ』は、フュージョンのコーナーに置かれていました。アルバムに参加しているギターの渡辺香津美が、ジャズ、フュージョン界で人気者だったせいもあるのでしょう。テクノポップというジャンルが無かった時代です。しかし、よく考えてみれば、すでにあらゆる試みがポップミュージックの世界で出尽くしているようだった1970年代後半に、どのジャンルにも当てはめられない独自の音楽を開拓したYMOは、凄いとしか言いようがありません。新しいものに敏感だった当時の欧米で最初に人気が出たのもうなずけます。売る立場の人間にとっては、迷惑というか困惑させられる代物だったのは否定できない事実と言えるでしょうが。