「開かれ」を見るのが人間か? | ほうしの部屋

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 ジョルジョ・アガンベンの『開かれ 人間と動物』を読了しました。

 ジョルジョ・アガンベンは、1942年生まれのイタリアの哲学者・美学者です。近年は政治哲学に傾倒しており、ホモ・サケル、ゾーエ、ビオスなどの概念で知られています。ハンナ・アーレントの理論によれば、ゾーエとは剥き出しの生、生物学的な生であり、ビオスとは社会的な生、政治的な生、生活様式における諸活動を指します。ミシェル・フーコーが「近代が生政治を生み出した」としたのに対し、アガンベンは政治は始めから生政治であったと考えます。アガンベンは、ローマ時代の特異な囚人「ホモ・サケル」とは、ビオスを奪われ、ゾーエしか持たない存在であるとし、そのような生を、ベンヤミンを受けて剥き出しの生と呼び、生政治はこの「剥き出しの生」を標的にしていると説いています。アガンベンは、ベンヤミン、ハイデガー、フーコー、イタリアのネオマルクス主義の影響を受けて、言葉を話す動物としての人間について思索を行っています。

 ハイデガーは「言語は存在の窓である」と言いました。言語こそが、人間を人間たらしめているという考え方です。しかし、病気などで言語を失った人間(例えば脳卒中で言語中枢を破壊された人間)は、人間ではないのでしょうか。もはや人間以外の動物と同じなのでしょうか。このように、人間と動物を区別する基準は、聖書の時代から頻繁に議論されてきましたが、明確な線引きがなかなかできないままです。「人間は動物と違って理性を持つ。動物は本能のみに従う」といったデカルト的な素朴な区別はもはや成り立ちません。そこで、ハイデガーの提唱した「開かれ」という概念を手引きとして、人間と動物の間にどのような衝立があるのか、あるいは、その区別はもはや自明なものではないのか、といったことを考察したのが、アガンベンの本書『開かれ』です。人類学機械と呼ぶ文明の装置が、人間と動物を区別しつつ、人間の動物化を一面では押し進めて、文明に隷属化させているという危機感から、本書は書かれました。ナチスドイツによるユダヤ人に対するホロコーストのように、人間の定義が単純化・硬直化すれば、人間を動物化して、奴隷化、抹殺を図ることが容易になってしまいます。ホロコーストのようなジェノサイド(民族浄化)は現在の世界でも行われています。ルワンダの内戦、旧ユーゴ紛争、パレスチナの迫害、米軍によるイラク兵捕虜に対する非人道的な扱い、ロシア軍によるウクライナ人の虐殺などなど、枚挙にいとまがありません。このような、人間と動物を巡る、近代文明の(人類学機械の)暴走に危機感を抱いているアガンベンは、「人間と動物」について歴史をひもとき、ハイデガーやユクスキュルに依拠しつつ、批判的に再検証を試みています。

 

 それでは、アガンベンの『開かれ』において印象的な彼の指摘を見ていきます。

 

 人間が否定的活動をつうじて自己自身の動物性を支配し、必要とあれば、それを破壊することによってのみ、人間は人間的たりうるのです。

 おそらく人間化した動物の身体(奴隷の身体)とは、観念論の遺産として思考に遺された解消しえない残余なのであり、今日における哲学のさまざまなアポリア(解決不能な問題)は、動物性と人間性とのあいだで還元されぬままに引き裂かれ張りつめているこの身体をめぐるアポリアと符合するのです。

 

 もしつねに人間が絶え間のない分割と分断の場である(と同時に結果でもある)とするならば、人間とはいったい何なのか、この分割に取り組むこと、すなわち、どのようにして人間が非人間から、動物的なものが人間的なものから(人間のうちで)分割されてきたのかを自問してみることのほうが、いわゆる人間の価値や権利といったお題目について立場表明することよりもはるかに急務なのです。

 

 おそらく強制収容所や絶滅収容所もまた、この種の経験=実験、すなわち、人間か非人間かを決定しようとする極端かつ途轍もない企てといえるでしょう。そして、この企ては、最後には、人間と非人間とを弁別する可能性そのものを破局へと巻き込んでいくのです。

 

 ホモ・サピエンスは、明確に定義された実質でも種でもありません。むしろそれは、ひとつの機械、あるいは人間認識を生み出すためのひとつの装置なのです。この人間発生機械(もしくは人類学機械)は、人間が見つめると自分の姿がつねにすでに歪んで猿の容貌として見えるような一連の鏡からなる、ひとつの光学器械なのです。

 リンネは人類(ホモ)を定義して「みずからを存在しないものとして認識したときにのみ存在する動物」と規定しました。

 

 人文主義という人類学機械は、一箇のアイロニカルな装置です。なぜならこの機械は、人類(ホモ)を、天界の自然と地上の自然とのあいだ、動物と人間のあいだ(したがって、それ自体以下であると共にそれ以上でもある存在)に宙づりにしたままであるため、人類(ホモ)には固有の本性が欠如していることを証しているからです。

 人文主義による人間の発見とは、人間そのものの不在の発見なのであり、人間の尊厳=序列の取り返しようのない欠如の発見なのです。

 人間についての諸科学がその相貌の輪郭を描き始めたときに、ヨーロッパの辺境の村々に頻繁に現われるようになる野生児は、人間のもつ非人間性の使者であり、人間のアイデンティティが脆弱であること、人間に固有の顔が欠如していることを告げる証人なのです。

 

 人間と動物を区別するのは言語です。しかし、言語は人間の心的構造のなかに先天的に具わる自然的な所与ではありません。それどころか、言語は歴史の産物なのです。したがって、そういうものとしては本来、言語は動物にも人間にもあてがうことはできません。もしこの要素を捨象するならば、話さない人間(まさに言葉をもたない人)を想定しないかぎり、人間と動物の差異は無効になってしまいます。

 人類学機械は、すでに人間であるものを(いまだ)人間ならざるものとして自己から排除することによって作動しています。つまり、人間を動物化し、人間のうちから非人間的なもの、すなわちホモ・アラルス、あるいは猿人を分離することによって作動しているのです。

 獲得されるべきものは、動物的な生でも人間的な生でもなく、ただ自己自身から分断され排除された生(剥き出しの生)だけなのです。

 剥き出しの生という、人間と人間ならざるもののこの極端な形象を前にすると、双方の機械のうちのどちらのほうが良くていっそう有効なのか(あるいはむしろ、どちらのほうがより血腥くなく穏当なのか)を問うことなど、どうでもいいことです。むしろ重要なのは、それらの機械がどのように機能しているかを把握し、いざとなったら、それらの機械を停止できるようにしておくことなのです。

 

 エコロジー(環境学)の始祖に数え上げられている生物学者ユクスキュルの調査もまた、生命科学における人間中心主義的な視点の仮借なき破棄と、自然のイメージの根本的な脱人間化を謳っていました。

 ユクスキュルが指摘しているのは、あらゆる生物にとって等質な時間も空間も存在しない、ということです。

 環境は、われわれ人間に固有の環世界(ウムヴェルト)なのですが、ユクスキュルはそれになんら際だった特権を認めているわけではありません。むしろ環世界とは、これを観察する視点の取り方しだいで変化しうるようなものなのです。

 ユクスキュルによれば、いかなる動物も物自体と関わり合うことはできないのです。関わり合うことができるのはただ、その動物固有の意味の担い手とでしかないのです。

 

 ハイデガーによると、動物と人間のあいだに開示される深淵において、あらゆる親密さを喪失し、「いっそう思惟しがたいもの」として立ち現れてくるのは、動物性であるだけではなく、人間性もまた、とらえがたい不在のものとして現われているからです。あたかもそれは、「残ることができないもの」と「場を後にすることができないもの」とのはざまにあって、宙づりにされているかのようです。

 ハイデガーにとっての動物は「他のものと関わり合うことがあるとしても、可能存在を奮い立たせるものにしか、したがって、動物を駆り立ててくれるものにしか、出逢うことができないのです。それ以外の残りのものすべては、アプリオリに、動物の環のなかに入り込むことができないのです」。

 本質上、放心して、完全にみずからの抑止を解除するものにとらわれているがゆえに、動物は、この抑止解除するものに対して、真の意味で、行為したり、行動したりすることはできず、ただ振る舞うことができるだけです。

 

 ハイデガーによると、存在の忘却が、19世紀の生物学主義や精神分析の根底にあります。それが最終的に行き着くのは、途方もない動物の擬人化であり、それに対応する人間の動物化なのです。ヴェールを剥ぎ取られた存在を名指す開かれを見ることができるのは、人間だけ、いやむしろ、真の思惟の本質的なまなざしだけです。逆に、動物は、この開かれをけっして見ることがありません。

 ハイデガーによると、動物は開かれているととにも開かれていない。あるいはむしろ、開かれているのでもなく、開かれていないのでもない。つまり、ある非暴露性へと開かれているのです。そしてこの非暴露性への開かれは、ある点では、抑止解除のなかで動物を放心状態にし、途方もないほどに激しく脱臼させるにもかかわらず、またある点では、動物をかくも魅了し拘束している当のものをひとつの存在者として暴露することはけっしてありません。

 ハイデガーによると、動物の放心と世界の開かれの関係は、ちょうど否定神学と肯定神学のあいだの関係に似ているのであり、両者の関係は、神秘家の隠秘の暗闇と合理的認識の光耀とがともに対立しながらも秘かな共犯関係を取り結んでいるのと同じくらいに、両義的な関係なのです。

 ハイデガーによると、動物の本質としての放心こそが、いわば人間本質を際立たせるような恰好の背景となる、というひとつの見込みのもとで、世界の窮乏(ある意味では動物はそこに、自分自身の開かれざる存在を感じているのですが)は、動物環境と開かれとのあいだにひとつの突破口を保証する戦略的な機能を担うことになるのです。

 人間世界の開かれは、それがとりもなおさず露顕と隠蔽の本質的な衝突への開かれであるかぎりにおいて、開かれざる動物世界に対して行使されるひとつの操作を介してのみ成就されうるということです。そして、この、世界に対する人間の開かれと抑止解除するものに対する動物の開かれとがほんの束の間だけ踵を接し合う操作の場こそ、倦怠にほかならないのです。

 

 ハイデガーによると、倦怠は、現存在(ダーザイン=死を意識して引き受けて生きる覚悟をもった人)と動物との思いがけない近似性を明るみに出します。現存在は、退屈することによって、現存在から拒まれている何かへと引き渡されるのであり、まさしく放心における動物のように、露顕されざるもののうちに曝されるのです。

 人間の倦怠も動物の放心もともに、もっとも本来的な身振りにおいては、閉ざされに開かれているのであり、執拗に拒まれているものに完全に譲り渡されているのです。

 特定の抑止解除圏との関係を宙づりにし不活性なものにすることが、動物にはできないのです。動物の環境は、純粋な可能性のようなものがそこではけっして立ち現れてこれないように構成されています。

 人間の現存在化は、動物の環境の境界を超えたところで、それとは無関係に獲得されます。いっそう広大で光耀に充ちたさらなる空間に向けて開かれているわけではありません。逆にこの移行は、抑止解除するものとの動物的な関係を宙づりにし不活性にすることをつうじてのみ開かれます。それによってはじめて、動物の放心と露顕せざるものに曝されていることそれ自体を把握することができます。開かれ、つまり存在の自由は、開かれても閉じられてもいない動物の環境と根源的に異なるようなものを名指すことはありません。

 動物の放心とは、人間界とその開かれの中心に象嵌された宝石にほかなりません。「存在者が存在する」という驚異とは、露顕せざるもののうちに曝されることによって生物のうちに生起する「本質的な震撼」をつかまえることにほかなりません。実際、開かれ(リヒトウンク)は、この意味で、不合理な説明なのです。つまり、開かれにおいて賭けられている開示は、本質的に閉ざされへの開示であり、開かれをじっと見据える者は、閉ざされていること、見ないことしか見ていないのです。

 存在は、その根源以来、無に横切られており、開かれ(リヒトウンク)は元をただせば無化(ニヒトウンク)なのです。というのも、世界が人間に対して開かれるのは、生物とその抑止解除するものとの関係を遮断し無化するかぎりにおいてだからです。なるほどたしかに、生物は、存在を知らないように、無を知ることもまたありません。とはいえ、存在は、「無の闇夜」のさなかに立ち現れるのです。それはひとえに、人間は、深き倦怠を体験することによって、生物と環境との関係をあえて宙づりにしようとするかもしれないからです。

 現存在は、退屈することを習得した動物、自己の放心から自己の放心へと覚醒した動物にすぎません。生物がまさに自分が放心した状態へと覚醒すること、自己を開かれざるものへと開くということこそが、人間にほかならないのです。

 

 人間と動物、世界と環境のあいだの関係は、世界と大地の内部抗争を呼び覚ますように思えます。

 隠匿性と非隠匿性との葛藤としての真理という存在論的パラダイムは、ハイデガーにおいては直接的かつ根源的に、政治的なパラダイムです。ポリスや政治学のようなものが可能であるのは、まさに本質的に人間が閉塞への開示において生起するからなのです。

 

 20世紀の全体主義体制、人間はその歴史的な目標=結末に到達してしまい、ふたたび動物と化した人類には、家政=管理を無条件に拡張することによって、あるいは、生物学的な生そのものを最高の政治的な課題に格上げすることによって、人間社会を脱政治化する以外に、何ひとつ残されていないということです。

 自然のままの等身大の生活やそこでの幸福感が、あたかも人類史の最後の使命であるかのように吹聴されているのです。

 なにがしかの真剣さをなおもとどめている唯一の使命とは、生物学的な生、すなわち人間の動物性そのものを管理し統轄することなのです。ゲノム、グローバル経済、人道主義という名のイデオロギーは、歴史以後の人類が、自分たち自身の生理学を最後の非政治的な委託として受け入れてゆくこのプロセスの、三つのたがいに連動する局面なのです。

 自己の動物性の統轄をみずからに引き受ける人類が、人間と動物とをそのつどそのつど決定づける=分断することによって人間性を産出する人類学機械という意味において、なおも人間的であるとしても、人間的であるのか動物的であるのかもはや判然としない生の幸福が、満ち足りたものと感じられるのかどうかは、簡単には断言することはできないし、明確でもありません。

 人類は、開示に自閉することで、みずからの人間性を忘却し、存在をもって、人類特有の抑止解除するものへと変貌させています。動物の完全な人間化は、人間の完全な動物化に符合しているのです。

 

 アガンベンは本書の第17章「人類創生」において、それまでの考察をまとめています。人間(人類)という概念がいかに生まれ、動物との関係でどう扱われたのかを総括しているのです。そこを引用します。

 

 第17章 人類創生

 西洋哲学の人類学機械に関するわれわれのこれまでの読解の暫定的な帰結を、テーゼのかたちで表わしてみよう。

 (1)人類創生は、人間と動物のあいだの中間休止や分節化の結果として生じたものである。この中間休止は、なによりもまず人間の内部で起こっている。

 (2)存在論、あるいは第一哲学は、人畜無害の大学の学科科目などではなく、むしろ、人類創生、生物の人間化を実現させるような、あらゆる意味において根本的な操作である。形而上学は、当初からこの戦略に絡めとられている。すなわち、形而上学(メタフィジック)は、まさしく動物の自然(ピュシス)を人間の歴史へと止揚し温存させるようなメタに関わっている。この止揚は、一挙に成し遂げられた事象ではなく、むしろ、つねに進行中の出来事なのであり、それこそが、たえず個々人それぞれにおいて、人間と動物、自然と歴史、生と死とを決定づけているのである。

 (3)とはいえ、存在、世界、開かれは、環境や動物的な生とくらべてみても、それと異なるものではない。つまり、それらは、生物とそれを抑止解除するものとの関係の中断や膠着にほかならないのである。開かれとは、開かれざる動物の捕捉にほかならない。人間はおのれの動物性を宙づりにし、そうすることで、生が例外領域へと勾留され置き去りにされる=追放されるような、「自由で空虚な」領域を開くのである。

 (4)まさに、動物的な生を宙づりにし生け捕りにすることによってのみ世界が人間に対して開かれるために、存在はつねにすでに無によって横断されている。開かれ(リヒトウンク)は、すでにしてつねに無化(ニヒトウンク)なのである。

 (5)現代の文化にあって、あらゆる他の闘争を左右するような決定的な政治闘争こそ、人間の動物性と人間性のあいだの闘争である。すなわち、西洋の政治学は、その起源からして同時に、生政治学なのである。

 (6)人類学機械が人間の歴史化の原動力であったとすれば、哲学の終焉と時代に左右される存在目的の完遂は、この機械が空回りしていることを意味している。

 ハイデガーの観点からすれば、ここでつぎの二つのシナリオが考えられる。(a)歴史以後の人間は、開かれざるものとしての自己の動物性をもはや温存させてはいず、むしろ技術によってそれを統御し管理しようとする。(b)存在の牧者たる人間は、自己自身の隠匿性、自己自身の動物性をわがものとすることで、動物性を覆い隠されたままにするわけでも支配対象にするわけでもなく、むしろ、それ自体として、純粋に置き去りにされたものとして思考する。

 

 第18章以降の要点は次のようなものです。

 

 人類学機械は、もはや自然と人間を分節化することはなく、人間ならざるものの宙づりと捕捉をつうじて人間を産出します。人類学機械はいわば停止しているのであり、「静止状態」にあるのです。そして、両項がたがいに宙づりにされるなかで、おそらくわれわれがまだ呼ぶべき名をもっていない動物でも人間でもないようなものが、自然と人類のあいだに横たわり、救われた夜という支配された関係のうちに身を置くことになります。

 

 性の充足において到達されるのは、自然ではありません。むしろ到達されるのは、自然と智慧、隠蔽と露顕の彼岸にある、ひとつの至高の段階です。

 恋人たちは、性の充足のうちに、みずからの神秘を失うことで、完全に無活動となった人間本性ーー救われざる生の至上の形象としての、人間と動物の無活動や無為ーーに思いを凝らすようになるのです。

 

 動物的な生を支配しようとする一切の理性的な要素を完全に忘却すると、それはもはや人間的な生ではありません。さりとて、それを動物的な生ということもできません。というのも、動物性は、世界に窮乏し、啓示と救済を漠然と待望しているという点でまさしく規定されてきたのですから。たしかに、支配構造や認識構造としてわがものにしないという意味では、動物的な生は「開かれを見ることはありません」。しかし、だからといって動物の生は、自己の放心のうちにひたすら閉ざされたままというわけでもありません。動物の生の上に垂れ込めた非ーー知は、自己の隠蔽との関係一切の喪失を意味するものではありません。むしろ、この生は、非ーー知の領域との関係におけるのと同様、自己の自然=本性との関係のうちに静かにとどまっているのです。

 動物は、存在するものも存在しないものも、開かれたものも閉ざされたものも知らない以上、存在の外に存在しています。つまり、あらゆる開かれよりもはるかに外的な外在性における外部、あらゆる閉ざされよりはるかに内的な内密性における内部に存在しているのです。とすれば、動物を存在せしめるということは、動物を存在外に存在せしめるということを意味することになるでしょう。

 われわれの文化において、人間とは、たえず動物と人間の分離と分節化の帰結であり、そこでもまた、この操作の二項のうちの一方のほうが賭けられています。われわれの人間概念を左右する機械を機能させないようにするということは、それゆえ、もはや新たな(いっそう有効で偽りのない)分節化を模索することを意味しないでしょう。むしろそれは、中心に空虚を見せてやること、すなわち、人間と動物を(人間のうちで)分割する断絶を見せてやることなのであり、この空虚に身を曝すこと、つまり、宙づりの宙づり、人間と動物の無為に身を曝すことにほかなりません。

 人間を産出してきた接合の秘儀をもういちど解くには、分割をめぐる実践的かつ政治的な神秘の未曾有の深化を経なければならないのです。

 

 以上が、本書の概略です。

 人間と動物の区別というものは、私たちが素朴に思っているほど簡単なものではなく、自明のものでもないと言えるでしょう。「開かれ」すなわち「存在の窓」のようなものを見られるかどうかを、アガンベンは人間と動物の違いだと考えているようです。開かれが見えなくなると、人間は動物化します。これは理性の喪失といった近代哲学的な安易なものではなく、一種の「空虚」を覗き込む態度の有無のようにも思えます。ハイデガーによれば、人間は死に向かって生きて、その死を認識し、覚悟して引き受けることで「ダス・マン(ただの人)」から「ダーザイン(現存在)」へと変貌すると言います。この死の認識、死の淵を覗きこむことは、一種の空虚の認識です。宗教的な(スピリチュアルな)一種の「あの世」でも信じていない限り、死は虚無(空虚)の訪れです。人間を人間たらしめるもの、動物と区別するものとは、まさに、この「死(空虚)」を覗き込む態度であり、それこそが「開かれ」を見ることなのではないかと私は思います。人間は、死に対して開かれており、このことが、多様な可能性への開かれをも可能にしているのではないかと思うのです。これは、動物にはないことです。

 とはいえ、人間と動物の区別は、危うい細い分水嶺のようなものです。動物の人間化はなかなか困難ですが、人間の動物化は容易に思えます。動物化した人間が不幸だとは言い切れませんが、開かれを見ることができなくなり、現存在であることが不可能になるという意味で、人間としての可能性が閉ざされるのは、通常生活においては不幸と言えるでしょう。しかし、このような人間の動物化が、世界のあらゆるところで起きています。それも、当人以外の外圧によって動物化を余儀なくされている人間がいかに大勢いることか。人間は容易に動物化し、容易に動物化させられるのです。これが、人間と動物の区別を難しくしていると同時に、開かれを見えなくするヴェールや目潰しが世界にはたくさん存在していることの証だと言えるでしょう。

 開かれを見ることが、現存在としての人間らしさだとするなら、一方で、人間が容易に転化しうる動物もまた、人間がいつ依拠することになるやもしれぬ可能態として、大切に扱われるべきだという、ディープエコロジー的な発想も、尊重できるのではないかと思われます。