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 ポール・オースターの長編小説『最後の物たちの国で』を読了しました。

 著者のオースターは、1947年生まれで、現代アメリカを代表する作家の一人です。メタ・フィクション(メタ・テクスト)の手法を用いた複雑な構成を得意としていますが、本作品『最後の物たちの国で』は、書簡体(手紙文)のシンプルな作りになっています。通常のオースターなら、作中作つまり原テクストとして使いそうな物語ですが、それを独立に一つの作品として仕上げているのです。

 舞台は、架空の国です。政治の混乱と庶民への搾取が続き、人々はつぎつぎに死んでいき、赤ん坊は全く生まれず、物もどんどん無くなり、言葉も消えていく世界です。支配者たちでさえ状況を明確に把握していない、社会全体が自壊していく状況です。そこに、兄を探して入国した主人公が、生き延びることに必死になり、その極限的な様態を、手紙(手記)に書き付けるという内容です。本作品は一種の寓話であり、架空の国の突飛な設定ではありますが、なぜか現実感が感じられるように書かれています。ここまで酷くはなくとも、似たような状況に追い込まれている社会が、地球のどこかにいくつも存在するようにも思えてきます。

 

 それでは本作品の内容を紹介します。

 本作品は、私(主人公=アンナ・ブルーム)の手記(手紙)という体裁をとっています。

 

 これらは最後の物たちです。一つまた一つとそれらは消えていき、二度と戻ってきません。何もかもがあまりに速く起こっていて、とてもついて行けないのです。この国に入国するとき、私は行方不明になった兄のウイリアムを探すという目的を持っていました。食べるという行為はここでは実に厄介な仕事です。食糧不足などしょっちゅうだし、ある日に美味しく食べた物も翌日にはなくなっていると思ったほうが身のためです。生き残るには、何も必要としなくなるしか手がありません。一瞬のうちに変われるようにならねばなりません。習慣は命取りになりかねません。何度目であっても一度目でなければならないのです。物はばらばらになって消えてなくなり、新しいものは何一つ作られません。人々は死んでいき、赤ん坊は生まれようとしません。望みが消えてしまうとき、望みというものの可能性さえ望まなくなってしまったことに気づくとき、人は何とかして進み続けようと、夢や子供っぽい思いや物語で空っぽの空間を満たそうとするものなのです。過去に戻れば戻るほど、世界は美しく、魅力的になっていきます。想像力を働かせることの報いを、私は嫌というほど見てきました。走者団は、全速で街を駆け巡る人々の一派で、できるだけ早く死ぬこと、心臓がもう耐えられなくなる地点まで自分を追い詰めることです。自分を死へ至らしめるには、まず、すぐれた走者となるためにわが身を鍛えねばなりません。もっと多いのは、独りぼっちの死です。でも一人が死ぬにしても、ここではそれが一種の公的儀式に仕立て上げられています。死こそこの街の芸術、この街に唯一残された自己表現の手段なのです。安楽死クリニックは繁盛しています。暗殺クラブというものもあります。死にたいけれど自分で手を下すだけの度胸がない人が、自分の住む行政ゾーンの暗殺クラブに加入するのです。街を漁る連中が一日中うろついていて、死んだ人間が身ぐるみはがれるまでにさして時間はかかりません。毎朝、政府の送り出すトラックが死骸を集め、変身センターと呼ばれる火葬場に運んでいきます。この街でとるべき最善の方法は、自分の目で見たものだけを信じることですが、物事が見かけどおりということは元々ほとんどないのだし、ここではなおさらそうです。一方では、生き延びたい、適応したい、現状を精一杯活かしたいと思う。でもその一方で、それをなしとげるとすれば、かつて自分を人間として考えるのを可能にしていたもろもろの要素を、すべて抹殺することになってしまうように思えるのです。何もかもがばらばらに崩れたあと、そこに何が残るかを見極めること。もしかすると、それが一番興味深い問いなのかもしれません。私が選んだのは、物拾い業でした。許可証とカートを手に入れ、街を徘徊し、使えそうなゴミを集めて回るのです。兄のウイリアムは結局見つかりませんでした。兄を探すよりも何よりも、自分が生き延びることで精一杯でした。新聞記者のウイリアムは、この国に潜入取材を試み、行方不明になったのです。私は、ウイリアムの消息を知るとおぼしき、サミュエル・ファーという若い記者の写真を大切に持っていました。この人物に会えば、ウイリアムの消息もわかるかもしれないと期待したのです。私は、物拾いの仕事をする老婆のイザベルと知り合いました。私は、イザベルの仕事を手伝う見返りに、イザベルの狭い家に住むことを許され、宿無しから解放されました。イザベルの夫ファーディナンドは、仕事もせず、ずっと壜に入ったミニチュアの船を作ることに没頭していました。その細工は見事なものでしたが、金にはなりませんんでした。イザベルと私は仕事を分担して行い、イザベルの体力もいくぶんか回復してきました。それでもイザベルは徐々に衰弱してきて、いつしか、私が外に出て物拾いの仕事を一人でするようになりました。ある晩、ファーディナンドが、私の寝床にやってきて強姦しようとしました。私はファーディナンドの首を絞めて半殺しの目に遭わせてやりました。翌朝、ファーディナンドは死んでいました。最後のとどめを刺したのはイザベルではないかと思われました。私たちは、ファーディナンドにスーツを着せて、苦労して屋上まで運び上げ、いわゆる「飛び人」と呼ばれる飛び降り自殺志願者に見せかけて、屋上から下に突き落としました。翌朝、私が仕事に外出すると、ファーディナンドの死体は消えていました。イザベルもまた硬化症を患い、日に日に衰えて死へ向かっていました。私は筆談するために、再生業者から青いノートと鉛筆数本を買いました。しかし、イザベルは数ページしか使えませんでした。残りのページに、私はこうして手紙(手記)を書き付けているのです。そして、イザベルは、水を飲むこともできなくなり、死にました。私は、イザベルの家の品物を全て再生業者に売りました。そうとうな金額を手にしました。私は綺麗なドレスを買い、物拾いの仕事をやめました。しかし、闖入者に脅されて、イザベルの家から追い出され、住むところを失いました。この国にいると、物が消えると、その記憶も一緒に消えてしまうのです。やがては言葉も、それがかつて喚起したイメージとともに色あせていきます。会話が困難になり、他人と意志を交わすことが難しくなります。私は、図書館に行き、数々の集会の中で、ユダヤ人の集まりを見つけ、新聞記者サミュエル・ファーの写真を見せて、心当たりはないかと尋ねました。すると、ファーは、この図書館の上階の部屋に住んでいるというのです。ファーは、何人もの証言を集めて、長大な本を書いていました。資金は底をつきかけ、食事もままならない状態でした。私は、自分の手持ちの金を提供する代わりに、ファーの部屋に住まわせてほしいと頼み、契約は結ばれました。おかげで私は厳しい冬を乗り切ることができました。ファーと私はいつの間にか同じベッドで寝るようになり、夫婦のようになりました。冬の間、暖をとるために、図書館の蔵書が次々と燃やされていました。私は妊娠していることが判明しました。ファーは子供ができることを喜びました。私は、古くてボロボロになった靴を新しく買い換えようとして、闇売人に騙されて、売人のオフィスで人肉加工業を目撃してしまいます。私は逃げ出そうとして、窓を破り、下に落ちて意識不明になりました。私は自分が死んだと思いましたが、誰かが救ってくれて、街で唯一のクリニックに運ばれ、入院しました。いくつかの骨折や打撲はありましたが、死なずに済みました。しかし、お腹の子供は流産してしまいました。そこは、ヴィクトリア・ウォーバーンという女性が父から受け継いだ、療養所「ウォーバーン・ハウス」でした。傷が癒えるには時間がかかりました。その間に、図書館が大火事になって、ファーは行方不明になったという情報が入ってきました。帰る家と家族を失った私を、ヴィクトリアは療養所で住み込みで働かないかと誘ってくれました。ウォーバーン・ハウスは、心身に不自由を抱える人々を、一時的に収容して栄養のある食事を与え、清潔な衣類や寝床を提供してしました。しかし、収容人数には限りがあるため、押し寄せる入所希望者を整理して順序づける必要がありました。その順序づけの面接をするのが私の仕事になりました。収容者たちは、一時の極楽気分を味わった後、再び路頭に迷うことになるのです。自殺者も出ました。これが本当に慈善活動なのか、私にはやや疑問もありました。多数の人を少しずつ助けるべきか、少数の人を大いに助けるべきか、この問いに正解があるとは思えませんでした。ボリスという男が、ウォーバーン・ハウスに食糧など必需品を届け、代わりにウォーバーン家の所蔵品を少しずつ持っていきました。ボリスは陽気な人物で、嘘つきの名人で、それによって商売を成り立たせていました。ボリスの様々な仮面の奥から立派な人格が見えてきて、私はボリスと親友になりました。ヴィクトリアと私の絆も強固で、私たちはレスビアンの関係になりました。そんな頃、療養所の面接に、なんと、ファーがやってきました。図書館の火事でファーの書いていた原稿も燃えてしまいました。ファーは数ヶ月間、私を探し周りましたが、見つかりませんでした。そして浮浪生活を送り、この療養所にやって来たのでした。ファーの健康状態は最悪でしたが、私は懸命に看病しました。健康が回復したファーを、ヴィクトリアは偽医者に仕立てました。嘘でも医者がいることで、収容者たちの心が収まるというのです。ファーの偽医者は成功を収めました。彼はにわかに他人の心の奥を見られるようになり、他人の思いが、いまや彼という人間の一部になっていきました。彼の内的世界はより大きく、より堅固になり、さまざまなものを吸収する力もついてきました。しかし、療養所ウォーバーン・ハウスの経営は行き詰まりました。ヴィクトリアの家財は底をつき、ボリスが自宅に集めておいた家財も少なくなり、療養所の経営に必要な物資を調達することが困難になってきました。家政婦が居なくなり、自動車運転手兼よろず修繕係の老人が、知的障害のある息子をおいて亡くなってしまいました。遺体は、法律で、燃料などにするために処理施設に持っていくことが義務づけられていましたが、ヴィクトリアは無視して庭に墓を作って埋葬しました。それを密告されて、官憲が来て、遺体を掘り起こして持っていきました。ボリスが官憲に賄賂を渡したおかげで、誰も逮捕されずに済みました。亡くなった老人の息子は性格が変わってしまい、療養所を飛び出して何日も帰らないことが続き、ついに、錯乱して、機関銃を療養所内で乱射し、多くの収容者を殺しました。ファーのショットガンで息子は射殺されました。この事件で、ついに、ウォーバーン・ハウスは閉鎖されました。私は荷物の中から、老いたイザベルとの筆談につかっていた青いノートを見つけ出しました。そして、この手紙(手記)を書き始めたのです。ボリスの手配で、ヴィクトリア、私、ファーの4人で、自動車に乗って、国境を越える計画が立てられました。ボリスが、偽造した旅行許可証を用意しました。外の世界に出て、私たちの身に何が起きるのか、まったく見当がつきません。ひょっとすると、兄のウイリアムが見つかるかもしれません。いまこの時点で私が望むのは、とにかくもう一日生き延びるチャンス、それだけです。

 

 ストーリー(手紙の内容)はざっとこのようなものです。

 

 寓話とはいえ、オースターは、実際に世界のどこかで起きている(起きた)事を丹念に収集して、それを下敷きとして、本作品のディストピアを創り上げたようです。それが、単なる架空の物語というわけではなく、何か現実感を持って、読者を惹きつける原因になっているのでしょう。本作品に出てくる、ディストピアの状況は、具体的かつ克明に説明されています。その中で、困難に見舞われながらも、偶然の助けも借りて、主人公は生き延びていきます。何度も死にかけますが、そのたびに、偶然の助けも借りて、生き延びます。しかし、兄を探すという目的は次第に薄れ、日一日を生き延びることで精一杯になっていきます。老婆を助けて、その能力と恩恵にあずかって住処を確保したり、兄の同僚に出会って夫婦同然の関係になったり、療養所で安楽に生き延びる仕事を得たり、日々の生活に手一杯になり、兄を探すことも、この国で生きることの意味もあまり考えられなくなります。人間が極限状態に追い込まれたら、どのように振る舞うのか、何に重点を置くのかが、現実感をもって迫ってきます。

 本作品が刊行されたのは1987年ですが、そこに描かれた状況に似通ったものを、私たちは近年になっても体験しています。新型コロナウイルス(COVID19)によるパンデミック(完全爆発)に伴う、社会の変容です。世界各地でロックダウン(都市閉鎖)が行われ、多くの人々がバタバタと病に倒れ、多くの死者が出ました。死者はまともな葬儀も行えぬまま、火葬場に直行させられました。日本での管理状況はやや甘いものでしたが、中国などでは、ゼロ・コロナを標榜して、厳しいロックダウンが行われ、警察や軍隊が動員され、人々は家に監禁されて、社会は機能不全に陥りました。人々は、今日一日を生き延びることに躍起になり、生きるためには手段を選ばないようになります。「死」が珍しいものではなくなり、人々の眼前に晒されるようになりました。このように、本作品『最後の物たちの国で』によって寓話的に描かれた社会状況は、似たものが、実際に起きうるということを、私たちに身をもって認識させることになりました。他にも、戦争や貧困、自然災害などで、今日一日を生き延びることさえ危うい人々が、現在でも世界各地に存在しています。

 問題は、本作品のような寓話を読むことで、極限状況に置かれた人々がどのような振る舞いをするかを知り、考えたとしても、それを抑止する方法がなかなか思いつかないということです。肝心なのは、大元の極限状況そのものを生み出さないように努力することです。しかし、それは偶然の産物がもたらす場合もあり(新型コロナウイルス、自然災害のように)、抑止は容易なことではありません。戦争や貧困もなくなりません。本作品中では、パニック状態の社会において、理性を保ち、人々の救いになろうとする療養所の存在もまた、冷厳な現実に巻き込まれて、立ちゆかなくなります。生き延びようという個々人の生命力のみに希望を託するという切羽詰まった状況のみが残されます。しかし、自殺者や共食いのような犯罪行為も激増し、生き延びるための知恵や工夫も挫折を余儀なくされる場合が増えます。どうにもならないディストピアの現実です。このようなディストピアが、規模の大小や性質の差異こそあれ、現実に(今も)地球のどこかに存在しているという、厳しい認識を、本作品はつきつけていると言えるでしょう。