坂本龍一君が大森荘蔵先生に教わる | ほうしの部屋

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 大森荘蔵と坂本龍一の対談『音を視る、時を聴く(哲学講義)』を読了しました。

 本書は1982年に単行本として出版され、大森荘蔵の死後(1997年)、2007年に文庫化されました。

 大森荘蔵は、哲学者、科学哲学者として著名です。大学時代、物理学から哲学に転向しました。現象学などを学んでいましたが、満足せず、アメリカに留学して、ウィトゲンシュタインに代表される、英米哲学つまり分析哲学から大きな影響を受けました。科学にありがちな物心二元論を否定し、独特の一元論による哲学を確立しました。しかし、その一元論は、思想的ゆらぎというか不安定性が大きく、大森は晩年まで、その確立に苦心しました。本書でも、様々な場合分けをして具体例とともに説明を試みますが、すっきり説明できる場合と、そうでない迷いが含む説明があります。特に科学の世界で確立されている二元論を否定しつつ、一元論で科学も成立するように説くのは、非常に難しかったと思われます。帰国後、東大で長い間教え、野家啓一、藤本隆志、野矢茂樹、中島義道など、現在第一線で活躍する数多くの哲学者を育てました。ちなみに野矢茂樹は、分析哲学の泰斗であり、ウィトゲンシュタイン研究の第一人者であり、私も非常に好きな哲学者です。

 大森荘蔵の哲学は、独自の「立ち現われ」から説く一元論です。デカルト流の心身二元論で把握された世界のうち、「物質」についての記述ばかりしてきた科学に対し、科学の言葉では「心」を描写することはできないといいます。そして日常世界と科学の世界は共存しうると主張します。「私」と自然との間には何の境界もなく、「私」の肉体とそれ以外のものに境界があるだけです。それは共に「立ち現われ」である点で、私は自然と一心同体であり、主観と客観の区別もありません。ただし、仏教の禅宗などが教える「主客合一の無化」とは異なり、少なくとも、日常には主観と客観の区別が無いということです。本書でも、この主客未分について、様々な身近な日常生活の事例を用いて、わかりやすく説明しようと試みています。科学の可能性と限界を見極め、科学的世界観とは異なる世界の眺め方を提案します。大森の態度は、ウィトゲンシュタインの態度に似ています。旧来の哲学あるいは科学の思考法や認識の限界を定めて、日常生活の素朴な一元論的認識にまで科学の二元論を持ち込んで説明しようとすることの危険性を説いています。日常生活は素朴な認識で充分に成立しているという大森の見方は、言語は(哲学的専門用語を用いるような研究ではなく)日常生活で用いられる言語によって充分に満たされていると主張した後期のウィトゲンシュタイン(『哲学探究』)とよく似ていると言えます。哲学や科学が、専門性の袋小路に迷い込んで身動きがとれなくなっている時代に、そのリハビリを担っているとも考えられます。あえて日常生活における認識のあり方から問いなおす一元論的把握で充分に説明できる部分はそれで良いのだという考え方です。

 本書は、1982年に、61歳の大森荘蔵が、30歳の坂本龍一と対談する形にはなっていますが、ほとんどが、坂本が短い言葉で質問のようなことを投げかけるのに対して、大森が自説を長々と話すという、大森先生の坂本弟子に対する講義のような状態になっています。しかし、これには秘密があります。実際の対談では、坂本が自分の音楽観や最先端の音楽や音楽制作の実態を、大森に教える部分も多くあったのです。大森は、あとがきで、坂本に教わった音楽に関する知識や見方は、非常に勉強になり、自分の研究にも生かせそうだと感謝を述べています。しかし、この「坂本先生が大森弟子に教える」部分は、本書ではほとんどカットされています。あくまでも、坂本の質問をきっかけとして、大森が自分の哲学研究の最前線と、自分の哲学による認識論について、講義のように滔々と述べるように編集されています。大森が話している部分が異様に多いという、ほとんど対談形式になっていない本なのです。坂本はやや稚拙なインタビュアーのような扱いになっています。

 この対談の編集の反省をふまえたのか、後に出版される、批評家の吉本隆明と坂本龍一の対談では、吉本と坂本が(発言の分量的にも)対等に話し合っており、坂本が吉本に音楽を教える状況が大きくなっています。ここでも、吉本は(大森と同様に)坂本から最先端の音楽について教わったことを感謝しています。

 大森荘蔵といえば、哲学界の巨人ですが、その研究や著作、発言などは、一般の人々にはあまり知られていませんでした。その大森の理論や考え方を、当時(YMOなどで)人気絶頂の音楽家であった坂本龍一を絡ませることで、一般の人々に知らしめようという狙いがあったのかもしれません。

 

 それでは、本書の対談の中で、印象に残った発言を拾って、それに関して私が解説を加える形で、内容紹介をします。私は、追悼と回顧の意味も込めて、ここのところ坂本龍一が絡んでいた書物や音楽活動などについて紹介をしてきましたが、本書は、ほとんどが大森荘蔵の発言で占められているため、坂本龍一の発言で重要なものは、あまり見つかりませんでした。そのため、当初の目的に反して、大森哲学の紹介のようになってしまっています。それでも、大森荘蔵という哲学者の独特の視点や物事の捉え方や認識のあり方は、興味をそそられるものであると思います。

 

 

(大森)「<永遠の今>ですから。私のラフなイメージはこうなんです。現在、私は生きていますね。流れ去った過去、流れてくる未来という単純なアナロジーで言いますと、私は60年、<今・現在>を生きてきたわけですが、流れた過去はいわば<今・現在>の流動体が固化するような感じなんですよ。未来も同じように固化した未来。で、私の生活がそこにさしかかった時に、それが溶解する。その幅は10分の1秒ぐらいじゃないかと思うんです。そこで<今・現在>を生きているのです。」

 大森の哲学で中心になる「今(現在)しかない」という捉え方の典型的な表現です。過去は過ぎ去った現在であり、未来はまだ来ない現在だというのです。そういう過去と未来は固化したもので、現在だけが溶解した流動的で範囲が限定されないものなのです。

 

(大森)「音で的確に表現されたものは言葉ではまず表現できないということは、定理みたいなものじゃないかと思います。」

 音(あるいは音楽)を言葉で語ることの難しさ、虚しさ、ひいて言えば、音楽批評の不可能性を、大森も認めていると言えます。

 

(坂本)「ぼくがこういうことをトライしてみたりする時に、ほとんどシンセサイザー、電気的に音響を合成する機械でやる場合が多いわけですね。そうするとよく使うのは、純粋なサイン・ウェーヴです。純粋と言われてますけどね。で、サイン・ウェーヴ的な音というのは自然界には非常にまれで、むしろホワイト・ノイズをフィルターでカットしたり、どっかを持ち上げたりしたものが、耳のほうが現実の音を再現します。機械を使って、非常に抽象的な音を作ってもそもそも人間にとっての音と違うのかなって、そういうふうには聞こえないようになってるんじゃないか。」

 発振器すなわちオシレーターを用いるアナログ・シンセサイザーの場合、オシレーターから出力した単純なサイン・ウェーヴを幾つかずらして合成して倍音を発生させたりして音を創るというのが一般的です。あらゆる音はサイン・ウェーヴに分解できるから、その逆をたどって合成できるという発想です。逆に、ホワイト・ノイズは、あらゆる周波数の音が混じった状態で、「ザー」というノイズです。テレビの放送終了後に流れる砂の嵐のバックに聞こえる音です。色彩で言えば、あらゆる色を混ぜた結果生じた黒色のようなものです。光学で言えば、あらゆる波長の光を混ぜた結果生じた白色光のようなものです。そのホワイト・ノイズに対して、電気的なフィルターで特定の周波数をカットしたり、どこかの周波数を持ち上げたりしても、音を作り出すことはできます。現実の耳は、ホワイト・ノイズまではいきませんが、様々な音が混じったノイズに対して、特定の周波数の音を聞き分けています。心理学で言う「カクテル・パーティー効果」と似たようなものです。狙った音(周波数)のみを聞き分けているわけです。

 

(坂本)「音色の違いとして感じるということで言えば、音楽家に限らず人間の耳はほんとにものすごく精密ですね。違いを、ずれているかどうかは別として、ともかく違う音があるということを聴きとる。」

 この違い(特に音色の違い)を聞き分ける繊細な能力が人間にあるおかげで、作曲家はシンフォニーのような様々な音色が混じり合った曲をアレンジでき、聴衆は、その作品の演奏を聴くことができるわけです。

 

(大森)「いま私に対して、私の仲間の連中がいちばん攻撃するのは、この全部本当という真理論なんです。実感じゃないと言うんです。嘘と本当があるじゃないか。ですから私の任務は、ぜんぜん嘘のない世界の中でたまたま人間が本当と嘘とを使い分けている、このことを実感として感じてくれるような言い方、表現、それをさがすということなんです。」

 これも、大森の一元論の吐露です。現実の世界には真偽はなく、真のみがあるという捉え方です。真偽が生じるのは、人間が勝手に線引きして真偽を分けようとしているからだというわけです。

 

(大森)「私たちの生(なま)の体験での<今現在>は線状ではないと言わねばなりません。線状の過去と未来の真ん中の<今現在>ではいわば時間が熔解して線形を失っているように思えるのです。」

「現在」は、リニアな(線形な)イメージでは表せないという考え方です。たしかに、私たちは、<今現在>を感じるとき、それを線形に、線状の時間の一時点としては把握していません。瞬間でもあり永遠でもあるような感覚が「現在」には当てはまります。これは、特に子供の頃の時間感覚を想起するとわかりやすいかもしれません。夢中になって遊んでいると、そこでは線状の時間は消失もしくは溶解しています。遊びが途切れて、ふと気づいた時に、「もうこんな時間だ」という感覚に襲われるのです。

 

(坂本)「いまの物理的な表し方ですね。直線的な時間、いわば点という表し方、つまり観測の仕方ですか。そういう見方ですね。それの限界にきているというんでしょうか。」

(大森)「ええ、頭の中に幾何学的な一次元連続としての時間がしみ込んでしまっているんです。物理学の。物理学といえば自然科学全体が、その像の上に載ってるんですね。それとわれわれの現実の日常生活とはそのままぴったり重なるように思えないんですよ。どこかにトリックがある。そのトリックを見てみたいのです。」

 これも大森の時間の捉え方です。一次元連続の直線的な時間という捉え方に対して疑問を呈しています。自然科学(機械論)がもたらした時間の感覚は、日常生活における時間の感覚には当てはまらないというわけです。日常生活では、時間は瞬時に過ぎ去るように思える反面、時間が止まっているかのように思える場合もあります。そのような素朴な時間の感覚を重視すべきだと、大森は考えています。

 

(大森)「同一性ということの使い分けをわれわれは自由に、日常生活の中でやってます。ですからその日常生活の中での使い分けがおたがいに諒解されていれば危険はないんです。ところが哲学屋がそこへ入ってきて理屈を言い出す。同一性とは一体どういう条件を充した場合を言うのか、と言い出したら混乱が起きてくるわけです。たとえばヒュームは、人間は刻々違うんだから人格の同一性は妄だと言う。これは私はヒュームの大間違いだと思います。というのは、ヒュームには同一性の意味はたった一つしかないものという先入観がある。だから間違えるわけです。そうすると、では同一性という概念は、どれだけフレキシブルなのかということですね。それは一つの文化の中で大体おのずと合意されていくと言う以外ないと思いますね。」

 これは、自己意識における安直な同一性把握の否定です。ヒュームのように、人間の同一性を一つの意味で捉えていると、同一性という捉え方は妄想だということになってしまいます。しかし、私たちは、日常生活において、自分が心身ともに変化するのを感じつつも、それもひっくるめて、自分は自分だという同一性の認識をしています。他人を見る場合もそうです。「彼は以前の彼じゃない」と言う時は、自分が所属する文化の中で、人間(個人)を特定する要素が決まっていて、その条件を満たさないから、「彼は変わった」と言うのです。同一性の条件は、文化によって異なり、いずれにせよ、厳密な一つのものを表わすのではなく、広がり、多様性を含むものであると言えます。

 

(大森)「一つの音をテープに録りのちほどこれを再生した場合も、同じものがもう一度出てきたのか、あるいはただ似た音にすぎないのかという初めの問題です。それはやはりその時その時の同一性の、フレキシブルな範囲中に入るんじゃないでしょうか。実際的にはまったく同じ音だと言って特に問題はないんじゃないでしょうか。」

 ベンヤミンは、音(音楽)などの芸術は、録音技術など複製技術の進歩によって、一回性のアウラ(オーラ)を失ったと言いました。たしかに、生演奏(ライブ)を体験することの一回性の感動はあります。しかし、録音された音(音楽)が再生された場合も、日常生活での私たちは、同じ音(音楽)が再生されていると素朴に認識しています。このため、お気に入りの曲を何度もかけて楽しむ、ヘビーローテーションも起きるのです。

 

(大森)「結局、過去に聴いた音、過去に生きた生活、これらの過去を憶い出す様式には独特なものがあります。遙かに続く広大な山なみを一挙一望に見てとるような仕方なんですね。」

(坂本)「おっしゃる意味ではそうかもしれませんね。要するにそこから一つの曲の時間経過を見わたせるような形にしておいてそれから作っていくということに疑問を持っています。時間というのは順序を反転したりできないはずですから……。」

(大森)「いちばん近い比喩は、比較的広い風景を比較的遠くからひと目で眺めるような感じなんです。(中略)たとえば一時間かかるシンフォニーを、慣れた人はその意味で、ひと目で聴く、へんな言い方になりますが、ひと目で聴くんじゃないでしょうか。だからいまおっしゃったようにクラシックの作曲家が一時間なら一時間、二時間なら二時間全部を、いわば眺めながら作曲している、ということはありうるんじゃないかと私は思いますね。」

(坂本)「まったくありうる。しかしそれは現実に音楽が聴かれる時間とは違うのではないかと思われますが、日常生活でもそうである、と……。」

 作曲家は、たしかに作曲中の一瞬間でも、その曲の全体像を想起できます。全景を眺めているわけです。聴き手もまた、過去に聴いた音楽を、全景として反芻しています。現実に音楽を聴いている時は、時間は一定の速度で流れ、それに従って曲も進行します。しかし、過去に聴いた曲を想起する際には、たとえばサビの部分だけがリフレインしたりする場合もありますが、一瞬のうちに、曲の全体像を把握している場合も少なくありません。それがその曲の印象を形成していると言えるでしょう。

 

(大森)「まだないものがあるのはおかしいと、お困りになるかもしれませんが、じつは創るんじゃないですか、未来を、いまもうすでに。創られた未来が実現するかしないか、これはまだ未定です。しかし未来の曲はいま創られて、未来の音としていま現在立ち現われているのです。」

 曲(音楽)を例にしていますが、大森の「立ち現われ」理論の開陳です。過去も未来も、現在において立ち現われているという考え方です。未来の曲(音)はまだ聞こえてきませんが、実際には現在において創られており、それが現在に立ち現われているというのです。未来というものは、現在の創造の範疇に存在するという、大森の考え方が示されています。

 

(大森)「オーケストラの作曲家が事実考えてる音は、観客席のある場所から聴いたオーケストラの音だと思うんです。つまり音がするのは目の後ろじゃない。前です。同じように坂本さんはレコードの場合だから距離が小さいので、そこは、はっきり出ませんけれども、やはり顔の表面の後ろ側じゃない。前でしょう。頭の中と言いたい理由、私よくわかりますが、しかしどっか誤解がある。(中略)ですから二メートル先で鳴ってる。少なくとも自分の頭の中じゃない。体の前で鳴っている。音源は体の外にある。ただその鳴り方が知覚的ではなく想像的にです。」

 大森の、二元論を否定する考え方です。音源があって、それを聴覚器官が脳に伝達して、脳内に音の表象(イメージ)が発生する、逆に作曲家は、脳内で音の表象(イメージ)を作り上げて、それを譜面に記す、といった常識的なプロセスを大森は否定します。脳内の音などは存在しないというのです。オーケストラの場合はステージから、レコードの場合はステレオのスピーカーから、聞こえてくる音を、作曲家は想像しているというのです。その音は、想像上のものであっても、決して脳内で鳴っているのではなく、何メートルか手前の、演奏者またはスピーカーから鳴っているというのです。表象(イメージ)という捉え方を否定するのが、大森の哲学の特徴です。

 

(大森)「いま考えているのはイメージだと言う時に、そのイメージというのはじつは余計なことである。実物そのものを考えているのである。そこまでは言えるんじゃないでしょうか。」

(坂本)「未来に存在する実物?存在の拡ですね。」

(大森)「少なくとも物質である。まだないかもしれない。そうするとその物質のありどころはどこか。この空間の中である。そして時間的にはどこだと言ったら未来です。だから未来にあるという言い方は乱暴ではないと思うんです。」

 これも、イメージ(表象)を否定する大森に特徴的な見方です。イメージではなく、考えられている実物そのものが、未来にも存在するというのです。私たちは、未来に存在するもののイメージを描いているのではなく、未来に存在する実物そのものを考えているというわけです。

 

(大森)「(頭の中にイメージがあるという)誘惑は非常に強い。私自身、その誘惑にかかりますよ。その一つの原因は、われわれの人間の暮らしの根本として、要するに現にいま見える、現にいま聞こえる、現にいまさわれるもの、これこそ存在であって、それ以外のものは存在じゃないというものすごい現在信仰があるからです。あるいは知覚信仰がありますね。知覚されていないもの、いま現に見えてないもの、聞こえてないもの、さわれないもの、いま現に食ってないもの、いま現に着てないもの、これは存在しない、ということになる。ところがいまそれ考えているんだから、二次的存在が必要になって、イメージやその他が登場するんじゃないかと私は思うんです。」

 現実に今、存在しているもの、知覚できるもの以外は、存在していないという捉え方を大森はしません。そういう現在信仰、知覚信仰ゆえに、イメージが要請されるというのです。現在において知覚できなくとも、過去にも未来にも、現実にものは存在していると大森は考えます。

 

(大森)「イメージという口あたりのいい言葉、しかしこの事実誤認に導く口あたりのいい言葉はそこで消してしまえる。イメージという言葉に、どうしてそんなにヤキモキするのかと言われれば、イメージという言葉が非常にクリティカルな言葉で、世界の写しといい、コピーといい、これを全部背負っているんですね。そうすると結局、少し大げさに言うならば、物理学が扱う物理的事物、それから私の意識の中の表象つまりイメージという、古くからの人間の住みついた二本立ての世界へ舞い戻ることになるわけですね。たしかにものすごい誘惑があります。舞い戻りたいわけです。」

 大森は、物理的事物とイメージ(表象)という二元論を否定します。現実にあるものを子細に認識する努力を怠ることで、イメージばかりが膨張して、それが暴走することを戒めていると考えられます。イメージは妄想の源でもあり、正しい現実認識を誤らせる危険性があるといえます。カントが『純粋理性批判』において、理性が暴走して、形而上学的な無意味な妄想を生み出すと指摘したことと似ています。

 

(大森)「人間が生きてる、生きてないにかかわらず意味を持つ言葉といったら幾何学以外にないわけです。と私は思います。他の言葉はたいてい、誰かがいて、見たり聞いたりさわったりしなければならない。色がそうです。音がそうです。そういう禁欲的な描写の仕方、それが自然科学の客観性と言われている。それが、歴史的な理由だと思うんです。そういうことを考えた上で、元の問題にもどりますと、袖にされた、感動的だとか醜悪だとかいう形容詞を一枚の絵につけることも許される。(中略)悲しさは、その人の顔に張り付いていて、それを私のほうへ宇宙遊泳させて来させようという気はありません。音楽の場合も同じことです。あるオシログラフの波形を持った空気の疎密波、という言い方をやりますと、それが<嵐の夜>だとか何だとかいう文学的形容詞を受けつけない。しかし本当はそうじゃないと思うんですね。音そのものがもの悲しく、音そのものが荒々しく……。」

 幾何学やオシログラフの波形計測などを例に、自然科学の表現(言葉)が世間に流布するために、感情的な本来は豊かな表現(言葉)が排除されるように力を失っていると批判しています。客観性を重視するあまり、主観的表現の感性が鈍ってしまうことを大森は危惧しています。ただしこれは、あくまでも日常生活でのことです。日常生活で音楽を聴く場合、音色の波形とか音量の粗密といった科学的な認知は、行われていません。ある音そのものが悲しく聞こえ、ある音そのものが荒々しく聞こえ、作品全体でも、一種の感情を惹起させるのです。

 

(坂本)「音楽の場合には、ぼくが強調したいのは、要するに言葉に置き換えにくい、ほとんど不可能に近い。音楽を聴いて感じるということはありますが、それは言葉では表せない。表わしたら、その表わした言葉の意味なんて、置き換えたわけじゃなくて創作だ。その音楽自身で感じたものというのは結局言葉にならない、コミュニケーションできない、感じることというか、そういうことだけがあるんだろうと思うんですね。」

(大森)「言葉の音は、非常に強度の条件反射的な訓練を受けた音なんですね。音楽家の音はそうではない。したがってそこに大きな違いがある。それは私は音楽家の非常に大きな自由であると思います。(中略)悪罵雑言「バカヤロー!」。これはおそらくアメリカ人が、私が日本語でそう言うのを聞いても、語調で、悪口言ってると、感じると思います。強いて言えば、そういうのが比較的また音楽にも近いかもしれない。」

(坂本)「そうですね。「バカヤロー!」と聞いて、その「バカヤロー!」を分節化して、要するにその意味を考えて反応が起こるわけじゃありませんしね。」

(大森)「坂本さんのレコードでも言葉の持ってるあの効果を、ワクチンでいえば非常に弱毒化して、それから少しデフォルメして十分使われてるんじゃないですか。」

(坂本)「そうですね、わりと意図的にそうです。」

 言葉の音は、強度な条件反射的な訓練を受けた音であり、状況に応じて表現形態が決まっており厳しく制限されています。しかし、音楽の音は自由度が大きいと言えます。そのため、音楽を言葉に置き換えるのは不可能なのです。音楽批評は、音楽をダシに使った文学的創作と言えます。ただし、大森が言うように、心の底から湧き上がってくる止めることのできない感情の吐露も言葉にはあり、「バカヤロー!」が典型的です。そういう言葉は、やや変更を加えられて音楽にも用いられている面があります。

 

(坂本)「言語を知ったために見えてること以下に見ちゃうわけですね。要するに見えなくなっちゃう。思考しちゃうというか、そういう弊害というか問題はあるんじゃないかと思うんですが。」

 純粋な観察(鑑賞)が、言葉による知識で妨げられることがあります。じっくり見る(聴く)ことを怠って、言葉による説明、考察で済ませてしまう傾向があります。それは私自身も反省するところです。純粋に楽しむべきところを、すぐに理屈(言葉)をつけたがる。その理屈によって、解ったような気分に浸るわけです。それは特に美術や音楽などの芸術に対して、自分の心をぶつけて対決して、感情を揺さぶられるといった経験を鈍磨させてしまうと言えるでしょう。

 

(大森)「ちょうどわれわれの生活が適当に流れていくように、これはあいまいじゃなくて、融通のつけ方次第でわれわれの言語は適切じゃないでしょうか。」

 日常生活で用いられる言葉は、曖昧だと言われがちですが、適当に流れていく生活に対して融通をつけて表現しているのだと言えます。つまり、日常的な言語はそれ自体で十分に機能しており完結していると言えます。これは、ウィトゲンシュタインが後期の探究で気づいたことでもあります。論理学的な制限や規制を受けた言葉のみが使用を許されるのでなく、日常的にいわゆる「言語ゲーム」で習得される言葉で、日常生活は十分に表現され、それにより生活は何の不便もなく回っていくのです。

 

(大森)「私たちのこの見たり聞いたり触れたりすることすべて、脳がどうこうしたからこうなった、という言い方ははなはだ危険だと思います。理由は非常に簡単なんで、私の脳がどうかして、たとえば私の腕のここが非常な痛みを感じた。その、「脳がどうかして」から出発する因果的経路は、追うことができないんです。」

 知覚や感覚の情報は全て脳に集められて脳が認識するという考え方への疑問です。腕が痛いというとき、痛みの情報が脳に届けられ、脳が「私の腕が痛がっている」と解釈するまで待つというのは現実離れしていると大森は考えます。脳の認識など無視しても、ただ「私の腕が痛い」という腕の痛みの感覚で完結していると言うのです。

 

(大森)「生理学者の考え方の、どこが不満かというと、ごく単純素朴な点です。実生活上の問題です。さまざまな人間の暮らしの中で、この世界が見え、聞こえ、そしてその中で私はいろんな欲望を持ち、苦しみ、快楽を求める、これが頭蓋骨の中にある脳みそがどうかしたからそうなったと言うんじゃ困るわけなんです。そんなはずはないと思うわけですね。生理学者もそこまでは言いません。」

 大脳生理学者にありがちな、脳が全ての知覚、感覚、思考などの情報をストックして管理しているという考え方に大森は疑問を呈します。たとえば感覚にしても、脳がそのように判断したから、脳がそのように感覚することを認めたから、感覚が成立するというわけではないのです。日常生活では、感覚は特定の感覚器官が感じたということで完結しているのです。大森は、あくまでも日常生活上の知覚や感覚において、脳が情報を集めて分析して判断するというモデルの無意味さを言っているのです。

 

(大森)「私が申し上げてるのは、ただ、見えてるこの部屋の風景ですね。この部屋の風景がそういうふうな透かし視られているという構造を持っている。それだけなんです。(中略)ですから大脳が原因で、外の風景が結果として変わるという説明は不要であって、単に透かし見るんだから、その前景になにか異常があれば、それから向こうの風景に異常を生ずる。これは論理的関係である。」

 脳の好不調が原因で、知覚が変化するということは、日常生活では虚偽だと大森は考えます。知覚は「透かし視る」ことで成り立っており、風景が異常に見えるというのは、あくまでも何段にも重なった風景の前景に異常が生じたために、透かし視ている人間には、向こうの景色が異常に見えるということです。いちいち脳が判断して知覚にフィルターをかけているわけではないのです。

 

(大森)「正常な状態では脳と聴覚神経、鼓膜は音響的には透明なんです。視覚での網膜や視神経が透明であったように。なにも音はしない。そして向こうの音を聴かすわけですね。鐘がゴォーンと鳴りますが、脳、聴覚神経、鼓膜、空気、それを通して鐘の振動が聞こえてくる。ですからその途中のどっかに障害があるならば、たとえば鼓膜が破れる、となると、鼓膜より遠いところの音響的風景が変化するわけです。たとえば鐘の音が変わる、云々ですね。この空気の途中に先ほどから話題に出ているいろんな異常が起きれば、透聴的……透視に対して透聴です……にそれより向こうが変わってくる。」

 音に関しても、聞こえることの異常は、脳が認識・判断するのでなく、脳の手前の感覚器官やあるいは発音体そのものの異常によって生じると大森は言います。音を伝える空気の振動を、透かし聴くことで、音の認識が成り立っているというわけです。

 

(大森)「一キロ先から発音体を一列に百個並べてですね。ちょうど同時に耳に達するように遠いほうから先に鳴らしていくとします。すると一連の過去を一挙に見透かして、聴き透かして、百個の鐘の音が同時にいま聞こえる、百個の場所にです。」

(坂本)「そうなんです。つまり時間の前と後という順序を、そのリニアさを承認して、その連続した時間の厚みを聴いているんですね。」

 音波は光に比べて、極めて速度が遅いため、過去と現在の重合が起こります。光だって、遠くの星の光と近くの星の光には、時間差が含まれています。人間の知覚は、過去を見透かして、聴き透かして同時に感受する能力を持っています。これが過去の音で、これが現在の音だといった、脳内の分析というか分別は無意味です。時間差を超えて、同時に鳴っているように聞こえるという現象そのものを感受することが重要なのです。

 

(大森)「非常に悪い比喩ですが、物理的自然のほうが連続的で人間の知覚のほうがある意味で量子化されている。これは非常に悪い比喩で、すぐ悪い連想が働きますが。」

(坂本)「そうですね……。人間にとっての物理的世界というものの立ち現れ方も、ある条件、つまり人間を乗せちゃった物理的世界という……。人間の、いわば感覚、たとえばある感覚能力が、人間という動物は一種、条件づけられていますね。」

 物理学を始めとする自然科学の啓蒙によって、人間の感覚能力は、物事を断片的に把握して、その断片を脳内で統合するように条件づけられています。ところが、物理的自然で起きることは連続的です。この連続的な出来事を、人間の知覚は、脳の影響によって、上手く捉えることができなくなっているとも考えられます。連続的に立ち現われたものを、断片的な立ち現われとして認識してしまうのです。

 

(大森)「五百年先の人間が非常に進んだ物理学で五百年前の時代、つまりわれわれの時代を描写できるはずです。その描写と現代の物理学者が描写している現代のわれわれの世界とは、ヴォキャブラリーは違う。彼等は現代のわれわれの見当つかないヴォキャブラリーでそれをやるでしょう。しかし五百年先の物理学者はわれわれの世界像に彼等の世界像を重ね描きできるだろうと思うんです。その意味では現代物理学も五百年たっても本当の意味で誤りだとはかならずしも言えないと思うんです。(中略)ただいちばん問題なのは、そういういまから見て古い描写は、精度が悪いんですね。ですから重ね描きも、一面では楽なんです、どうにでもできるということがありますね。それで、どうにでもできるようなことをしても始まらないだろうという意見もありましょうね。」

 自然科学を始めとした科学一般は、過去の知識を最先端の現在の知識で上書きしてきた歴史を持ちます。占星術は天文学に、錬金術が化学に、その知識を上書きされてきました。未来の科学も、現在の(未来から見れば)拙い科学を上書きするでしょう。しかし、大切なのは、これが過去の否定ではないということです。過去はみな間違っていたから切り捨てるということではないのです。過去の知見の生かせるところは生かしたり、誤っているところを修正して、新しい知識の体系に組み込んでいくのです。過去と現在を分断するようなアプローチは正しくないと言えるでしょう。

 

(大森)「言葉は直接に何かを立ち現わせる、つまり、言い現わすのです。それと同様、たとえばごうごうという嵐の音は人の心にみみっちい情緒を呼びさますのではなく、あらあらしく揺れ騒ぐ野や林や街路を立ち現わすのではないでしょうか。心の情緒と言われるものはじつはこの荒れ狂う外部世界の相貌だと思うのです。(中略)結局音は、言葉の声音であれ、風の唸りであれ、楽器の響きであれ、世界の中に鳴り、世界の中に籠もって、世界の相貌を変え、そしてその相貌の世界が立ち現われる、私はそう言いたい気がします。」

(大森)「やはり音楽もその意味では、言葉とあるつながりがあって、そして世界の変貌をそのままそこへ作り上げるんじゃないでしょうかね。」

(坂本)「つまりそういうふうに何らかにいつも変貌していまして、いまでも、たとえば何らかでない空間というのは本当はないんじゃないかというふうな気がします。」

(大森)「そのとおりだと思いますね。ですから作曲家というのは、その意味では建築家とまた似てくるんじゃないですか、ある空間を作り上げるわけですね。一時的であるとしても。」

 言葉と同様に、音もまた、世界の相貌を立ち現わすと、大森は言います。嵐のような楽音は、聴き手に矮小な情緒を生み出すのではなく、実際に嵐にさいなまれる風景つまり世界の相貌を立ち現わせるのです。音楽は、特定の世界の相貌を立ち現わし、作り上げるのです。特定の世界という空間を作り上げる建築家のような性質が、作曲家にはあるのではないかと言います。

 

(大森)「結局、いまの音楽でも声の場合でも私は、この心の中じゃなしに、この世界そのものが変わってくるように思うんです。(中略)恥ずかしさの感じ、照れる、恥ずかしい、というのはやはり私の心の中にあると言うよりか、この世界が私をはずかしめる世界として立ち現われていることです。」

(坂本)「そうなる肉体というのは、世界のほうにあると……。」

(大森)「内心の恐怖心はない。外部の恐ろしい状況と、そして冷や汗やその他の私の肉体的反応、これのトータルが恐怖の状況と言うべきじゃないか。(中略)恥ずかしくて穴に入りたい、逃げ出したい、というのは結局やっぱり私の内心のこととして描写するのは適切ではない。やはり外部世界がある相貌をとってきて、そして私の肉体がある反応をし、その全体の状況がそれではあるまいかということですね。」

 感情というものは、心(脳)の中にあるのではなく、この世界が特定の感情を持たせる世界として立ち現われてくるのだといいます。ある相貌をとる外部世界が、私の肉体に反応を起こさせるというのが、感情のメカニズムであり、感情が心(脳)から生まれるわけではないというわけです。これは現代の実験心理学の知見とも重なります。刺激に対する反応が全てだというわけです。もっとも、心理学では、心(脳)の反応を切り捨てることはせず、ブラックボックスとして捉え、その中味はわからないのだから、考えても無駄だということになっています。

 

(大森)「恋うとは恋しい人が立ち現われることであり、山を思う、微分方程式を考える、とは山や微分方程式が立ち現われることです。それらを通じて、恋う、思う、考える、といった「心の働き」はない。ただ、恋われた人、思われた山、考えられた方程式の立ち現われがあるのです。これは意志についてもそうです。いま電話でダイヤルしようとする。その電話機はたとえば「1111」とダイヤルを回すべき電話機として立ち現われ、私の体の構えもダイヤルを回す構えで立ち現われる。この電話機と自分の体の能動的未来的な立ち現われ、それが「意志」です。」

 何らかの対象に関する感情は心(脳)の働きではないといいます。特定の感情を引き起こす対象そのものが立ち現われるのです。これは意志についても同様だと大森は言います。何らかの行動を促す意志は、心(脳)に生まれるのではなく、行動の対象が立ち現われる、行動に移る動作が立ち現われるといった形で、対象と人間の身体の未来に及ぶ能動的な立ち現われが意志だと言います。

 

(大森)「一挙手一投足そのものが意志的動作なのです。隅から隅まで意志的な動作なのです。つまり、動作の他にその動作を意志する意志があるのではなく、その動作そのものが機械的自働的ではなく意志的なのです。(中略)意志は何も心の中の心の働きではなく、私の身体動作の中にいわばこもっているのです。またその身体を包む世界にこもっているのです。(中略)ここで大切なのは、その立ち現われが強固な腰の座ったものであるか、および腰のものか、それを私の「意志」が定めるのではないことです。強固に立ち現われること、それがすなわち私の決意が固いことであり、ふらつく立ち現われであること、それがとりも直さず私の決意が弱いことなのです。意志が立ち現われのスタイルを決めるのではなく、立ち現われのスタイルそのものが意志のスタイルなのです。また私はその計画を自由に変更できます。取り止めることもできます。しかし、それは現在の私の「意志」が未来の私の動作を自由に操るのではありません。私の未来動作は現在の私にとって何かよそものや他人事ではありません。私の未来動作は「私」そのものであり、現在の「私」と同一の「私」なのです。ですから、その同じ私が同じ私を操れるはずがありません。ですから、未来の私の動作を変更するとは、未来の私でもあり現在の私でもある私が未来において別の動作をする、ということなのです。そしてそれがとりも直さず未来の身体動作の立ち現われが変化することなのです。それは立ち現われのいわば能動的で自主的で自由な変化なのです。」

 動作を促す心(脳)の働きがあるのではなく、動作そのものが意志なのだと大森は言います。意志は心(脳)の働きではなく、身体的動作に籠もっているのです。意志の強弱も、対象物の立ち現われ方の強弱に左右されると言います。立ち現われのスタイルそのものが意志のスタイルなのです。未来に関していえば、未来の動作を変更するとは、私が未来において別の動作をする、ということで、未来の動作の立ち現われが変化するということで、立ち現われの能動的で自主的で自由な変化だと言います。あくまでも、心(脳)が未来の動作の計画を立てるのではなく、未来において動作の変化そのものが立ち現われる、それを現在の私が未来において実行することだと大森は言います。

 

(大森)「結局私の言いたいのは、未来に立ち現われてるのはガッシリした重さもあり手ざわりもある、そういう実物だということなんですね。しかしそういうドッシリした実物がこの未来世界で生まれたり消えたりするのは、私の常識が納得しないわけです。しかしいまや、へんな言い方ですが私の第二の常識を練習してるわけです。それでいまはどちらかというと、正直に言いますと私は第二の常識、さっき言った奇妙な常識のほうに慣れかけています。」

 未来に立ち現われているのは実物だと言います。その立ち現われを現在の私が知覚しているのです。実物が未来世界で生成したり消滅するのは、常識的には受けいれがたいことですが、大森のいう、未来と現在を結ぶ考え方、つまり、現在は、固化した未来をも取り込んだドロドロの溶解物だという見方に従えば、未来に実物が発生したり消滅したりするという見方も受けいれやすくなります。

 

(大森)「われわれの生活の根元は<現在只今>という、この知覚様式だと思います。ですからへんな言い方ですけどね。いつもわれわれ生きているのはなんかの真っ最中のわけでしょう。食事の真っ最中か、演奏の真っ最中、喧嘩の真っ最中……。」

(坂本)「なんにもしないけども真っ最中……。」

(大森)「そうです。それでわれわれの生き死にが決まっていくわけですね。苦痛と快楽が決まってくるわけですね。」

(大森)「(中略)ここで思い浮かべていただきたいのは、過ぎたことが思い出し様式で立ち現われているのも現在なんです。未来が立ち現われているのもいつでも現在なんですね。要するにわれわれの体験は、現在という場所をはずすことはできないわけですね。ですから結局、へんな言葉ですが、過去と未来を含んだ四次元の世界の立ち現われが常時現われている。<現在只今>の中で知覚様式は中央にデンと座っているんですね。そして裾野のように想起的な立ち現われと、つもりの立ち現われ、見込みの立ち現われに連なっているわけですね。」

 日常生活は、<現在只今>という知覚様式で捉えられると言います。生きるとは何らかの真っ最中であり、いつでも真っ最中なのです。この<現在只今>の中に、過去も未来も立ち現われてくると言います。これほどまでに、私たちの日常生活では「現在」は外しがたいものです。その中央に知覚様式が座り、想像とか意志とか見込みといった立ち現われは裾野のようなものです。現在の認識とその中心にある知覚様式がほとんどであり、心(脳)の想像といったものは半端な付属物にすぎないという捉え方を大森はしています。

 

(大森)「問題は、遠目に見たならばほぼ直線で表象できる時間の経過ですね。これが近くへ寄ってみるとガラリと姿を変える。それがどう変わるのかということは否定的にしか言えないです。狭い、常識的な意味で狭い、おそらく十分の一秒もない、その中では後先は意味がなくなる。ところがわれわれ、小学校から教育受けていますから、どうしても時間を直線で表象してしまう。その中でどうしても後先考えてしまうんですね。違う見方ができないんです。違う言葉が出ないんですね。」

 時間の直線的認識については、ドゥルーズも似たような批判を述べています。現在とは過去も未来も含んだ織物あるいは溶解物であり、そこにおいて時間の(過去から現在そして未来への)直線的な認識は不可能だというのです。いわゆる一瞬、一瞬を切り取ってみれば、そこには「後先がない」つまり、現在と過去と未来が混然一体化した姿があります。現在がすべてであり、そこに過去も未来も含まれているのです。それが、ミクロな視点で見た場合の時間の実態であり、それはとても「過去→現在→未来」といった直線などで表現することはできないのです。

 

(大森)「現在われわれが現実世界と呼んでいるものにもかならず思い違いがある。思い違いを含んでますよ。しかし思い違わないものとまったく材質が同じだから同じ立場で立ち現われてくる。違いは、いま言いましたように、もし思い違いであるならば、それはいわば永久に現実化できないですね、知覚の要求を満たせない、そこだけが違うと思うんです。」

 現実世界が思い違いを含むのは、そこにイメージの概念がつきまとうからです。思い違わないものは現実化し、知覚されます。思い違いもまた現実として立ち現われてきますが、イメージに留まるため、知覚されません。ここに、イメージというものを措定することの危険性があります。イメージを設けるからこそ、現実には知覚できない思い違いも生じるのです。イメージを除去した上で、立ち現われてくるものを知覚する。それしか現実世界の把握はできないでしょう。

 

(大森)「つまりあることが念頭に浮かんだのはどこだという問い方ですね。それを私は意図的に変更していただく。考えた当のものはどこにあるか。そして、それに加えて、考えた当のものを考えたことは一体どこで起こってるかと問うことは意味をなしましょうかね。」

 イメージの不可能性を言っていると思われます。念頭に浮かんだ、考えた当のものがどこにあるのか、それを考えることは一体どこで起こっているのか。それを問うと、答えは「脳の内部」になるのでしょうが、そのような脳内の認識を中心にすることを大森は否定的に扱います。考えた当のもの、つまりイメージが脳内に発生するということに、大森は否定的です。イメージなどなく、現実に知覚できるものに対する認識とそれに関する思考しか存在しないと考えるのです。

 

(大森)「自分の中にきちんと錠がかかるところがあって、自分だけはのぞける。ひとさまに見えないという感じになるわけですね。心の秘めごとですね。私はこれに前に言いました非常に軽薄な答えしかできません。心に秘めるというのはそのことをただしゃべらないだけです。秘密にしてるということだけでしょ。」

 これは欧米人にはよく理解できる考え方だと思います。誰もが、人には明かせない秘密のようなものがあり、それを打ち明けるのは危険です。ですから、秘め事はただしゃべらない(公表しない)ことであり、そのしゃべらない(公表しない)ということそのものが重要なのです。日本人は、秘め事をことさら重視して、それを間接的に他人に察してほしいと思ったり、秘め事を明かし合えるような親友の不在を嘆いたりたりします。しかし、ただ秘密を明かさない(しゃべらない)ということそのものが、人格にとって重要な意味を持ってくるのです。

 

(坂本)「そうしますと、別に心の中というものがあるんじゃないらしいということはだんだんわかってまいりましたけれども、しかしあることをたくらむ、あることを考える、あることに思いを馳せる。それは誰がしてるんでしょうか。」

(大森)「(中略)このセンテンスから<私>にという、<私>という名詞形を引っこ抜くのは私は間違いだと思う。それが私が時々、項目的な<私>はいないと言っていることの意味です。一つの名詞ではなくて生きてる状況そのものなんです。私という名称を、私にコップが見えていることから引き離すことが間違いだと思うんです。(中略)もっと事は簡単なんで、さまざまなものがあちこちに見えている。この状況全体が見えてることであって、その中でわざわざ見るものと見られるもの、この口あたりのいい対句に分極するのは危険じゃないかと思うんです。包括的な全体、それでピリオド。(中略)この状況全体にとどめておいて、見るものと見られるものという分極をしないということです。それで十分、私は私なんですね。へんな言葉だけど。けっして私は消えたわけじゃありません。」

 心の中のイメージのようなものを否定する考え方です。見るものと見られるものを分けることで、見るものの優越性が生じるのがイメージです。それは心の中にあると思われがちですが、実際には、見えているという事実があるだけです。私に見えているものと私との関係だけが、日常生活で世界を形作っているのです。あるものをイメージするような個別の私がいるのでなく、見えるものの中で生きている状況そのものが私なのです。見えているという状況の中で、イメージなどというものが存在する場所はありません。

 

(大森)「西洋哲学は完全に主客対立を剥き出しにする。主観と客観を非常にギスギスした対立に持ってゆく。私の感じではどこがいちばん悪いかというと、さっき言った一歩踏み込むステップが悪い。つまり包括的な状況を、おだやかな形にしないで、いわば図式的に一歩踏み込んで明確化しようとする。その時に誤りが起きたんじゃないかと思います。事実誤認が起きてきた。」

(坂本)「その踏み込ませる力あるいは、近代を超えようという力というのはなんでしょうか。なにか原因のようなものはあるんですか。」

(大森)「それは非常に難しいご質問で、的確な答えができないんですが、やはりそれは自然科学の進展と切り離せない。非常に抽象的な言い方ですが、じゃ、自然科学の進展てなんだ。これはフッサールが言ったことに賛成ですが、フッサールは数学化、数量化だと言います。(中略)これは解剖学に進む。そして現代の分子生物学になります。そうなるとはみ出された心的なもの、それはどこにいくかというと主観のほうへ、そして死物化されたものは客観になっていく。極端な場合には自分の肉体も完全な客観になる。死物です、死体です。(中略)少なくとも入った毒を中和させる。解毒させるということは日本だけじゃなしに、もともとの西洋思想にだって私は必要だと思います。そしてその過程は先頃から始まっているんじゃないでしょうか。ヨーロッパ、アメリカの思想でも、主観と客観の対立ということが大きな悪の根元であるということはとっくに気がつかれてますね。」

 自然科学の進歩に伴って、デカルト流の主客対立が生じました。見るものと見られるものとの分離、対立です。見られるものが客観であり、見るものが主観になります。見るものは心(脳)の中にあり、それが主観をなします。客観は、観察対象物であり、生きていようがいまいが、死んだモノです。この主観と客観の対立が、認識論でも存在論でも、悪の根元になっています。主観つまり見るものと客観つまり見られるものとの明確な分離ではなく、両者がおだやかに包括的に共存しているような、溶け合っているような状況が望ましいと、大森は考えています。事実は、主客未分のうちに、立ち現われてくるものです。その立ち現われは、見るもの(主観)と見られるもの(客観)という区別、対立を無効化します。

 

(大森)「「私が何か見ている」、では「誰が見てるんだ」、もちろん<私>に決まってます。しかしさっき言いましたように、見ている<私>という名詞形でこれを抜き出すことは誤りの根本だと思うんです。じゃどうすればいいか。「私に何か見えている」それでおしまいです。(中略)生き生きとした私の動き、それがあれば、もうそれ以上分ける必要ないんじゃないか。さらに生き生きとした現在の動きというものはかならず未来、これからしばらくしゃべり続けるか、あるいは後ろを見るか、そういったさまざまな未来の<つもり>の動作につながります。その動作は再びこの世界の中で見えてる風景の中で行う、その<つもり>の動作があるわけです。そこで打ち止めにして、それから後、命令者と被命令者というような分け方をするのは事に沿わない、適切じゃない、そう思います。意志の自由の問題も、いまのように見ないと、永遠のパラドックスになってしまうというふうに私は感じます。」

 見ている<私>という名詞形は、主観の存在です。それは必然的に、見られるものとしての客観との分離を生じます。そうではなく「私に見えている」という状況で打ち止めにして、それ以上の分節化をしないことが重要です。「私に見えている」という状況は生き生きとした現在の動きです。それは、未来の<つもり>の動作を呼び込みます。そこに、人間の自由の本質があります。何らかの命令的決定に従って未来が来るのでなく、現在見えている風景の中での<つもり>の動作そのものが未来を呼び込みます。それこそが、人間の意志の自由をもたらすのです。

 

(大森)「人間同士の間の他人の痛みの想像も説明不可能であるべきだ。つまりアニミズムと一蓮托生だという点を言いたいわけです。そして私はそれは理性的には説明不可能だろうと思います。ところが、じゃ神秘的にこれをとるべきかどうか。私はそれを拒否します。残る唯一の答えは、これは説明すべき問題ではないんだということです。(中略)非常に拙い表現を使うと、結局私は坂本さんを私の分身として、もう一人の大森として私は眺めてるんですね。しかも私は坂本さんとは他人なんです。その分身のやりとりをしているようなものです。」

 人間同士の間の他人の痛みの想像は、説明不可能であり、説明すべき問題ではないと言います。自己は他者を自己の分身として見ることしかできず、そこに他者の痛みの想像が生じる原因があります。それは、想像力の問題として説明されるようなものではなく、自己を投影した他者がもたらす当然の帰結と言えます。