「読んだ」と言えるのか?(その3・完結) | ほうしの部屋

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 ジェイムズ・ジョイスの意味不明な長編小説『フィネガンズ・ウェイク』の第Ⅲ・Ⅳ巻(合本)を読了しました。相変わらず、意味不明、支離滅裂な表現が充満していますが、いい加減、この辺に辿り着くと、支離滅裂ぶりにも慣れてきます。自分なりの意味づけができるようにもなりますが、それを困難にするかのように、ジョイスの魔手は無意味化の手を緩めません。

 

 第Ⅲ巻第1章は、これまでのジョイスの文章よりも、少しばかり分かりやすくなっています。もちろん、意味不明な造語、言葉遊び、隠喩、換喩のオンパレードで、哲学者ドゥルーズが言うとおり、名詞でも形容詞でもなく、動詞こそが意味を生じさせるという面では、動詞がむちゃくちゃなので、相変わらず、内容のほとんどは意味不明です。しかし、主語(話者など)は明記されているのがこれまでの文章との違いです。

 この章の語り部は、おそらくフィネガン本人だと思われます。これまでも、蘇生したフィネガンの想念が物語を形作ってきたとはいえ、語り部としてフィネガンの存在がかなり明確に分かるのは、初めてだと思います。この章の主役は、仮主人公HCEの息子のショーンです。ショーンのいでたち、食事内容、行動などが描写され、HCEとの対話も繰り広げられます。途中、ショーンが消えて、グレースホーバーとオンドトなる人物2人の、とりとめのない会話ややりとりが描写されますが、後に、ショーンが戻ってきて中心人物になります。ショーンは周囲からは、かなり学識や文才があると思われているようですが、ショーンの発言のほとんどは、他人の噂話や悪口です。悪言の限りをつくした後、ショーンは居なくなります。それを語り部(フィネガン?)が惜しむ言葉を並べて、この章は終わります。

 

 第Ⅲ巻第2章では、ジョーンティー・ジョーンという青年が主役です。仮主人公のHCEとの関係はよく分かりませんが、ジョーンはHCEの身代わり、あるいは若き日のHCEの姿とも思われます。「HCEともども人と呼ばれる最も純然たる人間になりつつあって」といった記述があるからです。

 このジョーンが妹のイジーに向かって、人生遍歴や人生訓、処世訓の類いや、女としての振る舞い方などを語るのですが、相変わらず、何を言っているのかほとんど分かりません。そしてイジーも兄ジョーンに向かって語りかけますが、かなりのおてんば女らしいことはわかりますが、言葉が支離滅裂で、兄に何を伝えたいのか分かりません。ただ、兄妹ともに、自由に生きることを望んでいるのは、おぼろげながら分かります。

 そして、ジョーンはこの人生訓めいたことを、牧師に向かって語ったり、街頭演説でも語ります。街頭演説を終えると消えます。そして、全体の語り部(フィネガンか?)がジョーンについての評価を述べて、この章は終わります。

 

 第Ⅲ巻第3章では、ヨーンという人物が横たわって昼寝しているところへ、HCEの裁判(?)に陪席する4人の老賢者グレゴリー、ライオンズ、ターピー、マックシャニーことマックドウガルが現れます。そして、ヨーンを叩き起こして、老賢者たちとヨーンとの対話が続きます。対話の内容は、老賢者たちがヨーンを尋問しているようにも思えますが、ほとんど意味不明です。ヨーンはジョンという名前であることが判明しますが、ヨーン(ジョン)とHCEの関係は不明です。ヨーンの未熟な人生経験や世間の見方に対して、老賢者たちが批評を加えていくようです。話の成り行きで、ヨーンはHCEの息子ショーンと同級生で親友だったことが判明します。そこから、ヨーンはHCEやその妻ALPについて、その所業に関して知っていることを話し始めます。話の途中で、突然、ALPが出現して、自分の振るまいや夫HCEについて語り出しますが、それが本物のALPなのかヨーンの口まねなのか、判然としません。老賢者たちとヨーンとの言葉の応酬は激しさを増し、しばしの沈黙が訪れます。

 そして再び対話が始まりますが、これは演劇のように、会話文(セリフ)のオンパレードで、しかもその話者が誰なのかはっきりしません。先の老賢者たちとヨーンとの会話なのか、それとも、老賢者たちがHCEに尋問しているのか、はっきりしません。ただし、会話文では質問者と回答者は明確に分かれており、回答者の内容には、HCEやALPの所業に関することも含まれています。裁判(?)に際して、老賢者たちが証言を集めているような雰囲気です。しかし、内容は支離滅裂で、質問と回答が噛み合わず、何を話しているのかは、やはりほとんど分かりません。途中、主人公のフィネガンに関するあることないことを言い合っているような状態にもなります。つまりこの会話は、話者がはっきりしないのに加えて、誰のことを話題にしているのかもつかめないものになっているのです。

 そして、仮主人公で裁判の被告(?)のHCEが登場し、自己弁論を行います。極めて雄弁に、支離滅裂で意味不明なことを長々と論じます。自分の人生を振り返り、冒険譚らしきことや、妻ALPと出会って彼女を教育(調教)したことなどに長広舌をふるいます。老賢者たちは、すっかり聞き役で、少々ばかり合いの手を入れるだけです。

 

 第Ⅲ巻第4章の語り部はフィネガンと思われます。街の情景を説明し、そこに、仮主人公HCEの息子や娘が少しだけ登場し、娘のイザベラは午睡に落ち、息子のショーンはすぐに姿を消します。そして、裁判官の老賢者4人によるHCEの判決を待つ法廷のような描写が現れますが、すぐに消えてしまいます。

 そして、何らかの舞台装置の描写に移り、映画の撮影か上映の描写が出てきます。その中でHCEと妻ALPのやりとりが少し観られますが、話は飛んでしまい、支離滅裂に様々な人物たちが様々な行動をとることが語られます。今まで出てこなかった少年少女たちが登場して勝手気ままに振る舞いますが、これは、HCEALPの子供時代を象徴しているとも思われます。

 また、HCEの分身らしき過去の英傑たちの破廉恥な乱行、猥褻な行為についても語られます(まるでHCE本人の罪でもあるかのように)。また別のHCEの分身による、手形不履行、債権詐欺に関する説明も現れます。その他にも、HCEとの関係も不明な多種多様な人物が登場し、支離滅裂な行動を見せることが語られます。最後にHCEに戻り、彼の罪状らしきことが語られますが、いったいどのような罪を犯したのかは、さっぱり分かりません。つまり、HCEを被告とする法廷が開かれている意味が、最後まで分からないのです。

 

 第Ⅳ巻では、HCEに対する判決(評決)が行われるようです。HCEの前に水路図が広げられます。しかし水路などとは脈絡なく、世界各所での冒険譚が語られます。その中でHCEは石像など象徴的存在として現れます。自然の中での人間の営みなども語られ、そこでは若干、水路との関係も出てきます。しかし、そのほとんどが、HCEとの関係が分からないまま延々と語られていくのです。ロンドンやダブリンの街での破廉恥な行為についても語られますが、その行為者が誰なのか、HCEとどう関係するのか、全く分かりません。

 そしてようやく、水路図と関わる話になり、河の中州のような島や洞穴で、祈祷するために宗教者たちが集まる様子が語られます。そして祈りの鐘が鳴らされ、街の住人たちは集って、フィネガンの通夜へと繰り出します。そして、脈絡なく、ミュータとジューヴァという2人によるかけ合い問答が繰り広げられます。そして競馬が開催されます。誰彼となくアイルランド万歳を叫びます。聖者と賢者が言い合いをします。女たちは化粧して晴れ着を着ます。史上稀にみる発明品とHCEとの関係が語られます。

 そして、HCEの妻ALPが現れ、HCEとの関係やHCEの扱いについて一人語りします。HCE相手にALPの大演説が行われます。HCEに対するこれまで溜まっていた胸の内をすべて明かすように、ALPはしゃべり続けます。ALPの演説が続くまま、この小説は一応、終わります。

 

 天下の奇天烈小説『フィネガンズ・ウェイク』からは、意味の過剰(シニフィアンの過剰)が無意味をもたらすこと、逆に、哲学者ドゥルーズが言うように、無意味は(単に意味がないのではなく)意味の源泉となりうること、が分かります。

 シニフィアン(意味するもの)が過剰に描出されることにより、シニフィエ(意味されるもの)と結びつくことなく、シニフィアンが充満していきます。シニフィエが非存在なため、このテクストは無意味化します。しかし、逆に、過剰なシニフィアンがもたらした無意味は、意味の欠如・消失ではありません。シニフィアンは、読者によって勝手に(恣意的に)特定のシニフィエと結びつきます。そこに新たな意味が生成されるわけです。それがこの小説の筋になるのか、登場人物を表すのか、登場人物の言動を表すのか、それは誰にも分かりません。各々の読者によって異なる意味づけと筋立てが現れるのです。まさにウンベルト・エーコの言う「開かれた作品」です。このテクストは、読者によっていかように読まれても構わないのです。それは、無意味どころか、過剰なシニフィアンがもたらした、意味の豊饒の地と言えるでしょう。

 ややもすれば発狂するのではないかという不安に駆られながらも、読者は、このテクストから離れられません。シニフィアンの戯れに飲み込まれ、シニフィアンとの戯れに興じるのです。そのため、このテクストは、意味不明、支離滅裂と言われながら、最後まで読者を引きずっていくのです。そして、第Ⅳ巻の末尾から、再び第Ⅰ巻の冒頭に戻ります。こうして、シニフィアンと読者の戯れは、円環を描いて永遠に続くのです。

 

『フィネガンズ・ウェイク』は、シュルレアリスムの偉大な実験場とも言えます。ロートレアモンが言った「解剖台の上の雨傘とミシンとの幸福な結婚」という、一見、無関係な事物や言葉を同じ土俵に載せることで生じる新たな生成変化がシュルレアリスムの哲学ですが、それに類する表現が『フィネガンズ・ウェイク』の中には満ち満ちています。一つ一つを取り出せば(意味不明な造語や言葉遊びも多くありますが)意味を成す単語ですが、それが別の、本来なら出会うはずのない単語と組み合わされることで、意味不明、無意味に思える表現を生み出します。

 しかし、このプロセスは単なる無意味(意味不明)の創出ではありません。読者は、無関係に思える単語の衝撃的とも言える出会いを読むことで、無意識の領域に訴えかけられるような衝撃を受け、何らかの新しい意味(意味らしきもの)を引き出します(少なくとも引き出そうとします)。無意味による意味の創出です。これが、このテクストに無限の広がり(シニフィアンの洪水)を与え、シュルレアリスム的な感覚を読者にもたらすのです。

 そういう意味で、都合17年間の歳月をかけて組み上げられたジョイスの試みは、ブルトンやエルンストなどシュルレアリスムの中心的実践者の文章よりも、一層、シュルレアリスム的と言えます。

 

 ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を一応読んだという経験は一生残るでしょう(悪夢にうなされるかも)。しかし、いくらエンディングが最初に戻って円環構造になっているからといって、再読はごめんです。