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 最近、フッサールの現象学とハイデガーの『存在と時間』との接点を探ることに個人的に没頭しておりました。
 両者のつながりはつかめましたが、それで何なの?という具合で、面白みはあまりありませんでした。
 フッサールの現象学は、現代の認識論の嚆矢であり、臆見や歪曲に満ちた推測や理性的分析を取っ払って、純粋に主観が対象を観察する瞬間に認識の起点を求める考え方です。あえて独我論を出発点として、主観による一義的な観察の結果、何がわかるのかを問題にします。それが全ての認識の起点になるという考え方です。客観性というものに強く疑問を抱き、客観は間主観性(相互主体性)の中に存在する幻影という考え方をします。
 このフッサール現象学の主観による観察を、ハイデガーは『存在と時間』の中で、現存在(理想的人間のありかた)が世界内存在として周囲に「気遣い」を張り巡らせていくプロセスとして導入しています。ハイデガーによれば、人間存在が、ただの「ひと」(ダス・マン)から「現存在」(ダーザイン)に変容するための重要なプロセスとして、「気遣い」を挙げています。この「気遣い」は、フッサール現象学的な主観の営みから生まれてくると考えられ、ここに、フッサールとハイデガーは架橋されるのです。
 こんなことが分かっても何の役にも立たないのですが、長らく、ウィトゲンシュタインの分析哲学のような認識論に傾倒していた私は、最近、再び、青年期のように、実存主義のような存在論に関心を向けるようになってきました。
 死を前提とした自己投企によってただの「ひと」から「現存在」になるというハイデガーの存在論は重たいのですが、サルトルの(社会参加をイメージさせる)自己投企(アンガージュマン)による実存の選びとりがもたらす、自由と責任の関係、楽天主義、無神論などは、再び、自分の中では評価が上がっています。たしかに、サルトルの実存主義には、主体の絶対性というアナクロニズムや、社会的存在としての自己(世界や社会によって構造化されている自己)についての認識の甘さなど、問題はあります。でも、何か、元気を与えられるのです。
 そういう意味で、サルトルはハイデガーを受け継いだと主張し、ハイデガーはサルトルを後継者と見なすことを嫌ったというのは納得できます。ハイデガーの存在論は「死」を絶対的前提としてドイツ的に重厚なものであり、サルトルの実存主義はフランス人(ラテン系)らしい楽観主義があり軽薄にも思えます。