エーコの小説 | ほうしの部屋

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 先頃、亡くなった、イタリアの記号論学者、中世美学・思想学者、小説家のウンベルト・エーコは、私の物書き人生の師でした。その記号論の理論書は難しく、『開かれた作品』『完全言語の探求』『カントとカモノハシ』といった評論もすこぶる面白いのですが、とにかく、中年以降に書かれた小説群の面白さは群を抜いています。
 エーコは生前、自分が小説を書く動機について「学術で扱えないことは小説で書くしかない」という意味のことを言っています。つまり、記号論や文献学などでは扱えない、人間のもっとエモーショナルな部分についての関心を、小説という形式で表現したのです。
 人間の恋愛、肉欲、偏愛、異常な信仰、書物愛、回想、知的好奇心、冒険心、怨恨、偏見といったものがどのように生まれ育ち、人間関係や文化にどのように影響を与えるかといったことは、学問的には説明つかず、小説にするしかないというわけです。
 そういう意味で、エーコが小説を書いた動機は、意外にシンプルでオーソドックスだと言えます。蓮見重彦が小説を書くのと似ているようにも思えます。
 ウンベルト・エーコは、いわゆるエモーショナルな「学術的にはなじまない」素材やテーマは小説にするしかないと考えていました。しかし、その小説は、自らの小説理論を駆使して形成されています。
 エーコの小説を語る上で欠かせないのは「開かれた作品(開かれたテクスト)」という概念です。自らの文学評論でも提唱しているもので、ロラン・バルトなどとも通底する考え方です。
 エーコの小説は、緻密な理論的構築がなされており、そのままストレートに読んでも充分に筋を楽しめます。しかし、同時に、盛り込まれた素材やキャラクター、その配置、セリフや動作などの組み合わせ、構成上の工夫などにより、何通りもの読み方や解釈が可能になっています。これこそが、読者がいてこそ始めて作品が完成するという「開かれた作品」の理論を実践していると言えます。
 エーコは記号論学者ですから、シニフィアン(指示するもの)とシニフィエ(意味されるもの)との対応が恣意的であることを充分に心得ています。エーコが提示するシニフィアンとしての小説作品(テクスト)は、様々な読者によっていかようにも読まれ多様なシニフィエを生み出します。このような記号(シーニュ)の恣意的な形成過程が、小説を書く→読者が読むというプロセスにも隠されているのです。
 エーコの小説を読むという行為は、エーコが小説を書くプロセスに間接的に参加し、本当の意味で作品の完成を導くものです。もっとも、上記のような「開かれた」状態の作品は、本当の意味では、永遠に完成しないと言えます。
 ウンベルト・エーコが50歳すぎてから小説家としてデビューして、いきなり文学賞を取り映画化もされ世界的ベストセラーになった処女小説『薔薇の名前』には、やはり学者肌の入れ込みも見受けられます。
 ストーリーは、修道士が殺人事件を解明していく、正統派の推理小説ですが、背景には、エーコが研究していた中世思想でも有名な、トマス・アクイナスの「唯名論」があります。
 つまり、人間は、名前をつけることによって、始めて、物事を分節化し、対象を表象として認識するという考え方で、素朴実在論(人間が介在しなくても対象は既に存在するという考え方)と対立するものです。
『薔薇の名前』では、禁欲を命じられている少年修道士が恋愛や肉体関係に走り、悩む様子も出てきます。この恋愛や肉欲の対象は、近くの村の美しい少女ですが、名前はありません。「恋人」「愛人」といった一般名称で呼ぶこともはばかられます。しかし、厳然として少女は存在します。物語の後半で、異端審問の火刑台から、この少女だけが村人によって助け出されます。
この少女は名前はありませんが、明確に存在し、少年修道士の思い出にも深く刻まれます。「私の愛した薔薇は名も無き薔薇」というセリフが出てきます。この、名づけがたい、それでも確実に存在すると思われる対象の大切さを、エーコは小説の隠し味とともに隠れたメインテーマとして扱っているのです。つまり、トマスの「唯名論」に反旗を翻しているのです。
 2作目からのエーコの作品には、明確な哲学的素材は出てきません。しかし、『フーコーの振り子』では、百科引用的なテクストの快楽を、『前日島』では時間論を(これは失敗作)、『バウドリーノ』では中世の東方ユートピア思想とそのテクストの快楽を、昨年出た『プラハの墓地』では、主体の揺らぎとそれを支えようとする思想的偏見や差別意識の交錯を、各々ちりばめています。つまり、本筋には出てきませんが、隠れた主題、素材、構成アイデア、テーマになりうる哲学的エッセンスが多岐にわたって登場します。知っている人が読めば、ニヤリとさせられます。
 そうは言っても、エーコの小説の魅力は、哲学的・歴史的知識などが無くても、またそれを無視しても、充分に物語として楽しめるという、エンタテインメントとしての完成度にあると言えるでしょう。