概念の産出 | ほうしの部屋

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 ドゥルーズ=ガタリの最期の共作『哲学とは何か』を読了しました。相変わらず、説明もなしにいきなり造語や曖昧な言葉を連発するので、難渋を極めます。文章そのものはそれほど難解なレトリックを使っていないので、読み進めることは可能ですが、造語のせいで、知らず知らずのうちに、何を言っているのかわからないという陥穽に陥ってしまいます。そこで、今回も、『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』で試みたのと同様に、哲学書(思想書)というよりも、一種の散文詩を読むような(ニーチェを読むような)姿勢で、一定のスピード感をもって読み進めました。その結果、ドゥルーズ=ガタリが意図したような深い読解には到底至らなかったとしても、何を書いているのかはおおよそつかめました。私の頭脳では、それが限界でしょう。

 

 この作品で、ドゥルーズ=ガタリは正面から「哲学とは何か」という問いに向き合っています。過去にも、アリストテレスの分類(自然学の後にくる形而上学(メタフィジクス))とか、ギリシャ哲学でいうところの「愛知(フィロソフィー)すなわち知を愛すること」といった定義づけはいくつもあります。ドゥルーズ=ガタリの定義は意外なほど単純です。「哲学とは概念を打ち立てる(引き出す)ことである」というのが定義です。また、その概念は「面白い」ものでなければならないとも言います。確かに、ドゥルーズ=ガタリは『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』の中で、「器官なき身体」「戦争機械」「平滑空間」といった突飛な(面白い)概念を数多に提起しました。

 概念は、内在平面と呼ばれる一種の思考のイメージの上に打ち立てられます。概念は、カオス(混沌)から引き出されるものです。内在平面で概念を引き出す役割を担う概念的人物は、一種の「白痴」です。白痴ゆえに新しくユニークな概念を引き出せるのです。概念は、内的平面において、脱領土化と再領土化を繰り返します。これは新しい概念が既成事実となり、それを脱する試みが行われ、再び新しい概念として蘇るということです。

 概念の敵はオピニオン(見解)です。オピニオンは主に批評家や哲学史家によってもたらされ、せっかく脱領土化した概念を再領土化したり、カオスに落とし込んでしまいます。これは、オピニオンが一つの硬直した意味づけを行うからです。ここに、徹底して意味づけを嫌うドゥルーズ=ガタリの姿勢が見て取れます。多様性やユニークさを尊ぶ彼らは、意味づけによる一元化、神格化、主体化をことごとく拒絶します。内在平面(思考のイメージ)において、概念とオピニオンの闘いが繰り広げられるのです。そうやって、概念は生き残るか、陳腐化して死ぬか(カオスに落ち込むか)します。

 

 ドゥルーズ=ガタリは、哲学と芸術と科学を峻別します。哲学は概念を打ち立てる(引き出す)ものです。芸術は、諸感覚のブロック(被知覚態と変様態の合成態)です。つまり、芸術に属する感覚をもってモニュメントを打ち立てます。科学は、科学に属するファンクション(機能)をもって、物の状態を構築します。哲学も、芸術も、科学も、内在平面(思考のイメージ)の上で活動しますが、その仕方も道具も手法も異なるのです。哲学と芸術と科学が干渉しあう場合もありますが、根本的には相容れないものです。

 ドゥルーズ=ガタリの面白いところは、論理学をかなり軽蔑的に扱っていることです。論理学は、哲学の概念を単純な数学的関係に落とし込み、そのユニークさ(面白さ)や脱領土化を失わせる、つまり、物事をつまらなく単純化するというのです。これもまた、論理学が一種の一元的な意味づけに加担しがちだからでしょう。

 

 私の頭脳で読み解けるのはこの程度です。しかし、ドゥルーズ=ガタリは、哲学とは、思考のイメージの上に概念を打ち立て、それを面白い(ユニークな)ものとすべく、日夜、多様性と多元性のもとにリニューアルし続ける、アクティブで魅力的な作業だということを、明確に主張していると思います。

 ドゥルーズ=ガタリの哲学愛(知を愛することを愛する)がよくわかる作品だと言えます。