『差異と反復』の力(ピュイサンス) | ほうしの部屋

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 ドゥルーズの大著『差異と反復』を読了しました。二〇歳代の頃、単行本で出ていたものを図書館から借りて読んで以来、文庫版での再読です。若い頃、ほとんど書いてある内容を理解できいないまま、この難解な大著のコンセプトを引用しまくっていました。「反復が微細なズレを生み、その差異が新しいものの創造につながる」といったコンセプトです。しかし、再読してみると、ドゥルーズは、差異と反復を、あらゆる物事や概念の根源として位置づけており、本書は、それまで主流だった同一性を重視する哲学(思想)を根本から転倒しようという、実にラジカルな試みをしていることがよくわかりました。先人の有名な哲学者(思想家)の考え方に対する批判的検討もふんだんに盛り込まれています。初読から30年近く経ても相変わらず超難解な作品ですが、私の頭脳で理解できたと思われる概要を以下に記します。

 

 ドゥルーズによれば、全ての前提として、全てに先立って「差異」があります。私たちは類似(似ている)や同一性(同じ)によって、物事を理解しようとしますが、それは「表象=再現前化」のレベルでしか、つまり、イメージの上でしか理解していないことに相違ないのです。差異(違うこと、異なること)こそが、同一性に先立って、思考空間に存在するのです。差異は思考や認識の土台でもあります。私たちは、まず差異に出くわし、その類似性や同一性を無理矢理でっち上げて、表象=再現前化つまりイメージの俎上に載せることで理解した、納得したつもりになっています。しかし、その場合、私たちは幻想としての同一性(同じこと)にとらわれて、土台、根底にある全ての出発点である「差異」に目を向けようとしません。差異(違い、異なり)があるからこそ、私たちは同一性という幻想をでっちあげて理解、納得したつもりになれるのです。つまり、真に認識、理解すべきは、同一性(同じこと)ではなく差異(違うこと、異なること)なのです。そのことを私たちは意識から欠落させがちなのです。

 私が考えたわかりやすい例で言うと、対人理解が挙げられます。私たちは、見知らぬ他者に出会ったとき、コミュニケーションを介して、相手との共通点つまり同じ点(同一性)を捉えて、理解できた、友達になれたと錯覚します。しかし、その同一性はうわべだけのもので、でっち上げられた可能性すらあります。両者の土台には、違う点(差異)が横たわっています。その差異が表に出てきたとき、両者はたちまち理解不能に陥り、対立、関係の断絶にまで及ぶかも知れません。これは同一性を理解の根拠にしようとするために生じる失敗です。まず、互いの差異を認識し、差異を認め合うことが、真の相互理解の出発点であるべきでしょう。「同じだから好き」というのは、「違いがあるから好き」よりも遙かに安易で危険なコミュニケーション(相互理解)のプロセスなのです。

 

 ドゥルーズによれば、このような差異の永続的な発散と脱中心化を促す(支える)ものが、反復(繰り返し)です。反復は同じものを機械的に繰り返すというだけでなく、そこから必然的に、誤りやズレ、置き換えや偽装あるいは戯れ(悪ふざけ)が生じます。それこそが差異の源泉でもあり、差異を存続させる力でもあるのです。反復することは、類似物も等価物もない何かユニークで特異なものに対して行動することです。法則(記憶や道徳や強迫や抑圧も含む)に囚われない特異なものに関する(特異なものを産出する)反復をドゥルーズは重視します。習慣的な普通の繰り返し(一般性)とは異なる、特異な力、皮肉でもって法則性を覆す、差異の源泉としての反復が重要なのです。反復は概念なき差異として現れます。つまり、理解しない、追想しない、知らない、意識しない、という反復が重要なのです。とはいえ、反復は理念(イデア)の内部に留まります。そして象徴やしるし(シーニュ)といった能力を持ち合わせています。反復は様々な差異を包み込みながら、特別な場所から他の特別な場所へ移動していきます。そのような反復は、神を殺し、自我を崩壊させます。つまり、あらゆるものの権威化、神格化、同一化に抗い、それらがイメージされること(表象=再現前化)に抗い、差異を運び、差異を支え、時には差異を生み出すのが反復なのです。

 単純化した例で言うと、教育があります。教師が「私と同じようにやれ」と言っても、何も生まれません。これは単純な機械的な反復です。しかし、教師が「私と共にやりなさい」と言うと、生徒の反復は(悪ふざけも含めて)微妙なズレや置き換えを含みます。そこにこそ、差異の生まれる(差異の表現される)契機があり、生徒の個性の伸長につながるのです。反復は、反復する対象に何の変化ももたらしませんが、その反復を観照する精神には何らかの変化をもたらすのです。それが差異の源泉・発見でもあります。反復から何か新しいものを抽出すること、差異を抜き取ることは、多様で細分化された状態における想像力の役割です。差異を含む反復は想像力の源泉でもあるのです。

 時間との関係を考えると、一切は時間のつながりにおける反復です。過去は欠如による反復であり、現在における変身によって構成される別の反復を準備します。反復は、何か新しいものが実際に産み出されるための歴史的条件です。そして新しいものの過剰が未来において反復します。この反復は、新しいもの、変身したものにしか関与しない、ニーチェの言う「永遠回帰」を意味します。ここでは一切の同一性、一貫性が排除されます。異質なものが異質なままに、その存在を主張しあう、いわば差異の戯れのような状況です。これが永遠回帰としての反復がもたらす未来です。未来は過去と現在によって二度反復されることで意味づけられるのです。

 

 このような差異と反復に関する概念と定義を武器として、ドゥルーズは、過去の哲学者たちの思想を批判的に検討します。プラトン、アリストテレス、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、カント、ヘーゲル、ニーチェ、ハイデガーといった有名人たちが俎上に載せられます。このような、哲学者たちの思想をあまり知らなかった若い頃に読んだ時の私は、ドゥルーズが何を言っているのかちんぷんかんぷんでした。しかし、今では、哲学史や過去の有名な哲学者の著作もほとんど読んでいるので、ドゥルーズの批判のポイントはよく理解できました。それでも、概念を二重三重に転倒させて展開するドゥルーズの批評は非常に難解です。ただ、「差異」と「反復」の考え方に関して、過去の哲学者たちがどこまでドゥルーズに近くて、どこまで誤謬を犯しているかは、かなりよくわかるように書かれています。プラトン、カント、ヘーゲルに関しては賛否両論、スピノザ、ニーチェをドゥルーズは味方に引き込みたいようです。

 

 さらにドゥルーズは後半で、差異を数学の微分方程式で説明しようとします。差異は微分つまり微細な変化量としてしか把握できないというわけです。従来の哲学的理念を支えているものが弁証法だとすれば、差異を理念とする哲学は微分によって支えられるといいます。そこで、ここからドゥルーズは「差異的=微分的」という表現を多用するようになります。元々、フランス語や英語などでは、「差異」と「微分」は同じ語源から発生しており、同じ語根を持ちます。このような言語的類似性も、ドゥルーズが、差異を説明するために微分法に着目したきっかけになったと思われます。いわゆる文科系の人にとっては、この部分のドゥルーズの論証や問題提起はとっつきにくいかもしれません。しかし、微積分学を多少でもかじっていたり、微分の意味さえ知っていれば、この部分もそれほど理解するのに難しくはありません。要するに、ドゥルーズは、かつての哲学的理念を支えてきた弁証法の代わりに、差異の理念を支えるために、数学から微分法を借用してきたということです(しかもドゥルーズは微分法を単なる数学の一手法ではなく、普遍的な世界理解、概念展開、理念提示の道具とみなしています)。この「差異的=微分的」レベルにおける理念(イデア)は、かつての同一性に基づいたもの(例えば唯一の答えを持つもの)ではなく、諸能力のバラバラな行使に生気を与え、描き出している「純粋多様体」として現れます。この「差異=微分」に関する「多様体」という表現も、同一性を嫌うドゥルーズならではの表現と言えます。また、多様体に基づく差異の哲学では、「偶然」が肯定されます。同一性に基づく旧来の問いが必然的な答えを要求するのに対して、「差異的=微分的」な多様体の理念(イデア)における問いは、偶然がもたらす多様性を重視します。そして、この偶然によって生まれる哲学的理念の根源には、特異性の繰り返しとしての反復があると言います。この反復は同じものの繰り返しではなく、各々の理念(イデア)を産み出す問いにおいて、おのおの特異性をもって繰り返すという、差異の反復です。これもまた、同一性を嫌うドゥルーズらしく、少しずつズレを生んでいく反復と言えます。それが、存在の根源にあるというのです。この差異的=微分的な生成のプロセスにおいて、否定的なものは一切現れません(全ては差異の反復として肯定的に捉えられます)。反復は、差異の力の源泉であり、同一性や表象=現前化(イメージされること)においては繰り広げられず、理念(イデア)の中にあって、空間と時間の再生を規定し、意識の繰り返しを規定します。このような潜在的なものが現実化する際の働きを、ドゥルーズは「ドラマ化」と呼びます。それを差異と反復の観点から把握するのが「想像力」です。

 

 ここからドゥルーズは、「差異の倫理学」と呼ぶべきものを提唱します。感覚されうるものの充足理由たる差異の形式として「強度」があり、強度は、量の持つ、もともと質的な内容を開示すると言います。強度量は量における差異を含んでおり、差異を肯定し、差異を実在的に巻き込んでいます。強度量としてのエネルギーは、経験的に把握されるもの、つまり自然法則ではなく、先験的なものです。差異において存在が自己と同盟関係を結び、各々の主観的能力を限界まで運び、各々の孤独の尖端でようやく互いに連絡させ合うように、強度は存在の深さであり、深さは存在の強度であるといいます。差異つまり強度は、熱力学のエントロピーの法則のように、縮小、等化、均質化、一様化され、消される傾向にあります。このような物理学の特性を援用して、ドゥルーズは、理性が生み出す良識あるいは共通感覚の働きを批判的に分析します。良識、共通感覚は、不等(不平等)を悪いこととして平等化し、均質化、均一化、同一化を目指すため、強度としての差異をことごとく消滅させるように働くのです。雑多なものとしての差異を矯正し、縮小し、中間的なものに向けようと働きます。良識は平等の中におのれの所在を認める中産階級のイデオロギーだというわけです。良識は、予測不可能な差異を嫌い、差異を縮小させようとします。もちろん、一部の人間が生きていけないような経済的不平等のようなものは是正されてしかるべきですが、不等(不平等)として、あらゆる差異を縮小させようとする良識、共通感覚は、同一性、一様化、均質性をもたらす迷惑な存在です。この良識に対抗する哲学を顕示するものは「パラドックス」です。パラドックスによって、諸能力の共通の働きは打ち砕かれ、各能力は比較不可能なものに直面し、ひとつの共通な集合に統合されてしまわぬように、差異が有効化されるのです。また、ニーチェの言う「永遠回帰」は、同一性も類似性も等質性もなく、ただ差異としての強度のみがひしめく世界とされます。差異は第一の肯定であり、永遠回帰は第二の肯定、存在の永遠の肯定であり、諸感覚を越える強度から出発する最高の思考だとされます。神、自我といった同一的なものは一切還帰せず、差異のみが反復として永遠回帰します。永遠回帰における強度量の倫理は「最低のものすら肯定すること」「過度に繰り広げられないこと」だとされます。永遠回帰を思考する個体こそが、明晰かつ混雑したものの力(ピュイサンス)の全てを用いて、理念(イデア)を判明かつ曖昧なものとして思考します。したがって、個体性の多様で可動的な相互連絡している特徴を絶えず呼び戻す必要があります。私たちは、おのれを展開してはまた包み込みなおすあらゆる深さと距離、あらゆる強度的な魂によって作られています。包み込みながら包み込まれる諸々の強度、諸々の個体的差異と個体化の差異は、個体化の場を貫いて互いに浸透しあっています。そういう強度と差異こそが、個体化のファクターであり、個体こそが強度(差異)に先立って存在するのです。個体性は同一性といった自我の特徴ではなく、崩潰した自我のシステム(差異のシステム)を形成し育むものです。そして、一つの可能な世界の表現としての「他者」が存在します。永遠回帰の強度量の倫理としての「過度に繰り広げられないこと」はまさに他者において「おのれの表現の外には存在しないような表現されるものを全て私たちの世界に住まわせることによって、私たちの世界を多様化すること」を意味します。他者から発せられた言葉は、可能なものであるかぎりでの可能なものに、実在性を与えます(例えば、嘘など)。他者の存在と他者の構造に対応した言語活動は、表現的な諸価値の上昇をもたらします。

 

 ドゥルーズの差異と反復の理論は、ドゥルーズ自身も多くの学説を引用して説明しているように、自然科学における発生のメカニズムを比喩として引用できるように思われます。私が考えたのは、分子生物学における突然変異のメカニズムと、量子論的宇宙論における超ひも理論(超弦理論)です。

 生物は遺伝子によって構成されていますが、その潜在的なものは、DNAあるいはRNAです。DNAはA(アデニン)G(グアニン)T(チミン)C(シトシン)という4種類の塩基配列が多様に組み合わさった二重らせん構造です。これは差異を含む反復と言えるでしょう。AGTCの様々な組み合わせは差異であり、それが長く連なってらせん構造を呈するのは反復と言えます。DNAは複製を繰り返しますが(反復)、時折、コピーミスを生じます(新たな差異)。そのミスが新たな塩基配列をDNAの連鎖に持ち込み、突然変異の原因を形成します。それはガン化する場合もありますが、生物の生存にとって有利な生体機能の進化をもたらす場合もあります。つまり、差異と反復が、新たな生命現象の基底に存在していると言えるでしょう。

 量子力学的に宇宙の成り立ち(始まり)を説明するのが超ひも理論(超弦理論)です。始めに素粒子がゆらぎをもって(10次元の)ひも状になって存在し、それは、素粒子という差異がゆらぎという反復を伴って存在していることを表します。ひも状のゆらぎは、もつれや重ね合わせなどの変化によって特異点を産み出し、それが宇宙生成のビッグバンをもたらします。つまり、超ひも理論における差異と反復が宇宙が生まれる原点に存在しているということです。

 このように、ドゥルーズの差異と反復の理論は、単なる哲学的概念の遊びではなく、自然現象特に物事の生成を説明する上でも、理論的、概念的、理念的な示唆を与えていると言えます。静的な同一性は何も生み出しません。差異と反復こそが、あらゆる思考の概念から自然現象に至るまで、生成の源にあると言えるでしょう。

 

 1980年代に、アメリカの若い研究者であるホフスタッターが、ピューリッツァー賞を受賞した大著『ゲーデル、エッシャー、バッハ』において、ドゥルーズの差異と反復の理論に非常に似ている分析をしています。反復(繰り返し)における微細な差異(ズレ)が次第に大きな変調をきたし、創発(創造的発生)の源になるということを、ゲーデルの不完全性定理、エッシャーの絵画作品、バッハの対位法旋律を通して分析して見せています。また、ドゥルーズ自身も、1980年代に、ガタリとの共著『千のプラトー』の中で、伝統音楽(バロック以前)のリトルネロ形式を重視しています。リトルネロは、ABACADAといった形で、同じ旋律Aの繰り返し(反復)の間にBCDという異なる旋律(差異)を含み持つことで、反復から生まれる差異を表現しています。ドゥルーズ=ガタリは、このリトルネロを、同一性、画一性で固まった資本主義における国家装置に対する、ノマド(遊牧民)的存在たちの、ゲリラ的闘争の戦術として提示しています。また、ドゥルーズと同時代にフランスで活躍した哲学者のデリダも「差延」という概念を提示し、差異の引き延ばしが、同一性に毒されたデカルト的コギト(思考する自我)に対抗する概念であり、硬直した概念を脱構築することを提唱しています。

 1980年代のいわゆるポストモダン思想の核心に、ドゥルーズの『差異と反復』の概念は屹立しており、その意義は40年近く経った今でも、決して色あせてはいないと思います。同一性、画一性、常識に囚われた私たちの日常生活(日常的思考)に対して、ドゥルーズは今でも新鮮な揺さぶりをかけてくるのです。