入れ子細工の額縁小説 | ほうしの部屋

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 ジョン・ファウルズの長編小説『魔術師』を読了しました。とにかく見事な構成力に圧倒されました。もちろん、ストーリーの面白さもあり、読者を最後まで引きつけて放しません。

 

 主人公のニコラスは、恋人のアリソンと別れて、ギリシアの孤島フラクソスに、英語教師として赴任します。そこの別荘で暮らすコンヒスという謎の老人に出会い、コンヒスの好意的態度に引きつけられながら、次第にコンヒスの陰謀に振り回されていきます。ニコラスの前に、美しい女性のリリーが現れ、双子のローズとともにニコラスを翻弄します。ニコラスの周囲には、不思議な人物たちが次々と現れます。しかし、これは全て、コンヒスが仕掛けた芝居でした。ニコラスは知らぬままにコンヒスの芝居の登場人物の一人にされて操られていました。アテネで再会したアリソンにニコラスはリリーのことを打ち明け、本当の別れを告げました。芝居を超えて、リリーはニコラスに好意を抱いたようににも見えましたが、これもまた芝居でした。夏の終わりとともに、コンヒスの演劇も終焉を迎え、コンヒスたちは消え失せ、ニコラスはフラクソスに取り残されます。アリソンが自殺したという知らせも受けました。教師をクビになったニコラスは、コンヒスの言動や履歴のどこまでが本物かを調査しますが、ほとんどがでたらめでした。そして、あろうことか、死んだはずのアリソンが生きていて、コンヒスの演劇に参加してニコラスを翻弄していることも知ります。ロンドンに帰り、ニコラスは、リリーの出自などを調べますが、出てくる人々、出会う人々の誰がコンヒスの息のかかった演技者であるかわからなくなり、猜疑心にさいなまれます。自分の肉体的なふしだらさ、愛と性の区別がつかない未熟さをコンヒスたちに蔑まれているようで、ニコラスは怒りを沸き立たせます。そして、ついに、アリソンと再会したニコラスは、今度こそ本当の別離を決意します。

 

 このようなあらすじを語ることは、ある意味、無意味です。この小説は、究極の劇中劇、あるいは入れ子細工の額縁小説と言えます。ニコラスの額縁があり、そしてそれを包み込むコンヒスの額縁、リリーの額縁、アリソンの額縁などがあり、ニコラスという主人公は、額縁に取り込まれて翻弄されます。コンヒスが実験的な演劇(仮面劇)だと白状してからも、ニコラスはその演劇から抜け出すことができません。登場人物の一人としてコンヒスに操られ、また、操られているという猜疑心から抜け出せません。

 最後まで、コンヒスの本当の意図や正体はわかりません。しかし、一連のまさに劇的な出来事の連鎖が、ニコラスに、人を愛するとはどういうことかを気づかせていく仕掛けにもなっています。しかし、それも演劇的なコンヒスの台本の一部でしかないようにも感じられます。

 どこまでがニコラスの体験した現実なのか、どこまでがニコラスの妄想なのか、判然としなくなります。もちろん、小説は絵空事(フィクション)ですが、そのフィクションに描かれた現実を相対化するメタな領域のフィクションに、つまり、メタ・フィクションに読者は引きずり込まれていきます。

 究極の劇中劇、入れ子細工の額縁小説、巧みに構築されたメタ・フィクション。それでいて、最後まで読者を引きつけて放さないサスペンス・ミステリーの要素。現代小説の金字塔の一つと言えるでしょう。