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2018年11月14日

パンク義経、アナーキー・イン・ザ・中世

テーマ:偏愛

わたしのなかで、第何次だかすでにわからないほどの源義経ブームが起こっています。
それというのも、夜更けの書店で偶然見かけた、町田康『ギケイキ』(義経記)。町田康×源義経という組み合わせに興をそそられ、軽い気持ちで手にしたらこれが面白いのなんのって!
先日、某作者さんと久しぶりに会いまして、その際、某作者さんが「ホラーやSF以外の小説をあんまり面白いと思ったことがない」とのたまうので、いやそんなことはない、小説にはノンフィクションには到達できない境地があるなどともっともらしく反論したものの、近年は、昨年一時的にはまった西村賢太と、ドラマの影響で読んだ『モンテ・クリスト伯』以外、ほとんど小説を嗜んでいなかったため、至極説得力に欠けていました。
しかし、この『ギケイキ』は、久しぶりに小説を読んで楽しい、ページをめくる手が止まらないという興奮に満ちていました。もちろん、わたしが源義経好きだからという要素(まさに判官贔屓)を差し引く必要はありますが、半面、すでに知っているストーリー(義経の一生)をこれほど新鮮に読ませてくれるというのは、やっぱり小説の持つ力なんだろうと感服しています。

古典の現代語訳とか、歴史小説だと思って読むともうむちゃくちゃです。無論、いい意味で。
ナルシストでやたらファッションにこだわる義経、不細工でメンヘラの弁慶、顔がばかでかい頼朝、なに言ってるかさっぱりわからない義仲…などという、ほとんどマンガかコントのようなキャラ設定からして脱帽ものですが(しかしメンヘラはともかく、ほかは伝承とそんなに乖離していないはず)、言葉遣いもバリバリの現代語、ヤンキーやらオカマやらコテコテの南部大阪弁やら乱れ交ってたいへんなことになっていて、斬り合いになれば腸ははみ出し脱糞し、なにかといったら菊門をつけ狙い、すぐに「殺します」とか云っちゃうんですけど、案外、この野蛮さ、チャラさ、柄の悪さって中世当時のリアルだったりするのかも、と思える妙な説得力があります。
そして、途中で絶妙にぶっ込んでくる現代の話題や風俗の破壊力。というのは、義経が現代によみがえって当時のことを回顧するスタイルを取っているからそんなことが可能なのですが、兄の朝長の死地に造った卒塔婆をジョン・レノンが来訪したことで有名な銀座の喫茶店に喩えてみたり、歩きづめの行軍で膝が痛くて「皇潤を飲みたい」という兵士がいたりするのが、史実以上に頭に残ります(笑)。なんたって、冒頭からしてハルク判官、ですからね!

会話のあほらしさも絶品です。たとえば、義経に平氏打倒の協力を仰がれた陵介重頼と従者のこんなやり取り。
「ああ、どうしようどうしようどうしよう」
「どうしたのですか」
「むっさやばい、むっさやばい」

突然、義経に頼って来られてみっともなく狼狽する重頼に対し、冷静な従者が答えます。
「だから、平家を滅ぼす手伝いはできない、ってはっきりそう言えばいいじゃないですか」
「あ、そうか。でも、そんなこと言ったら気を悪くされないだろうか」
(中略)
「だからあ、清盛に命を助けられたのに、その清盛の命を狙うなんていうのは、スピルチュアル的に考えても非常によろしくない、とかなんとか言えば、あー、はい。ってなりますよ」

…と終始ふざけているようにしか見えませんが、この重頼という男の小心さがよーくわかって妙にリアルなんですよね。
歌舞伎にもなっている「堀川夜討」もずいぶんとページを割いていますが、貴船に逃げ追い詰められた、日本一の駿足ランナー(こういう喩えがいちいち可笑しい)土佐坊正尊のぐちゃぐちゃに混乱したモノローグは圧巻です。

『へうげもの』を読んで打ちのめされた時にも思ったけれど、歴史ものの面白さは、結局は揺るがない史実に、どこまで大胆なフィクションを織り交ぜられるかにかかっています。
そのフィクションというのはキャラ設定も含めて、有りえないんだけど有りえるかも、意外とこの説アリかも、リアルかもと思わせる魔術的な手腕と理屈を超える熱量が必要で、中途半端にこちょこちょと現代の感覚が混じっているのが、いちばん失敗だと思うのです。
だから、あまり大きな声では云えませんが、「真田○」はダメだったなあ…。秀吉の右腕みたいになっていたり、淀殿にちょっかいかけられたり、まあ普通に考えて有りえないんだけど、そこの説得力がほとんど感じられず、すべてがご都合主義に終始しているとしか思えず、幸村を信繁と表記したくらいでは到底補えない史実(と一般的にされている事)との乖離が、いちいち気に障ってしまったのでした。
わたしは大坂編の初期あたりで嫌気が差し、夫が視聴する横で薄目を開けて見たり見なかったりしていましたが、大坂五人衆の一人、毛利勝永が岡本健一くんという個人的においしすぎる情報を聞くに及んで、再びテレビの前に座ってみたところ…なんですか、あの小物感漂うチンピラは。。。明石全登なんか、ひたすら祈ってるだけのモブキャラじゃないですか!
まあ、ふた言でまとめるなら、「リアリティがなく」「誰もかっこよくなかった」というガッカリ感ですかね…。「真田○」がダメで、『ギケイキ』がOKという感覚を、うまく説明できないのがもどかしいのですが、決定的な違いはここなんだと思う。後者のキャラはむちゃくちゃアホだけど、時たまもんのすごくかっこよくなるというか、凄みを見せるのがいい。五条大橋での出会いの後、義経と弁慶が一緒に経を読み上げるシーンなんて、若干菊門的な意味でも鳥肌が立ちましたよ。

その昔、なぜかコルカタの安宿で、町田康の初期作品『くっすん大黒』だか『夫婦茶碗』だかを読み、その炸裂する文体に衝撃を受けた記憶があります。その証拠に、当時の個人的な日記が、一時的に町田文体の真似事みたいになっています(笑)。
しかしその後は、そんなに熱心に追いかけることもなく今に至っていたのですが、ここで再び出会おうとは。それも、日本史上屈指のアイドル・源義経とともに。これを機に、名作といわれる『告白』あたりに手を出してみようかしら。
源義経で創作するのではなく、あくまでも枠組み・骨子は『義経記』であるという基本姿勢もいいのかもしれません。人として生まれたからには、やっぱり源平合戦で大活躍するかっこいい義経を見たいじゃんと思いますが、なんと原作の『義経記』でもばっさり端折られているんだって。小説内では、義経自ら「(そういうのは)平家物語とか読めばよい。大河ドラマとかにもなっているし」と一蹴しています(笑)。それでも、良くも悪くも自由でスーパースターな義経像はいささかも損なわれていない。古典の範囲で創作するというバランス感が、ちょうどいいのだと思います。

今書いていてふと思ったのですが、町田康と栗原康が同じ下の名前の持ち主というのも、「康、侮りがたし」という何やら奇妙な感想を抱かせます(ついでに、北村一輝の本名も康)。
栗原さんも一遍の評伝を書いているし、こういう憑依型でかつパンクでアナーキーな文体と歴史ものって、相性がいいのかもなあと思います。ひょっとしてこれが歴史小説の新境地? 


余談ですが、『ギケイキ2』のサブタイトル「奈落への飛翔」ってのもいいよね。すべてを諦めきったようなアナーキーな天才・義経のあっけらかんと悲しい感じが凝縮されている感じ。
2021年完結、全4巻予定らしいけど、それまでわたしが生きられますように!

2018年09月12日

奴隷にならないためのアナキズム

テーマ:上京後

労働への忌避感から、数年前、わたしはその名も『はたらかないで、たらふく食べたい』という本を手にしたのですが、この夏は、作者の栗原康さんの勢いが凄いことになっていました。
なんたって、この夏だけで、アンソロジーや共著も含めてですが4冊もの本をリリース! 時代が彼を求めているのでしょう(たぶん)。
カウンターカルチャーの側からものを云う人はたくさんいると思いますが、彼はもう、突き抜けすぎて次元が違います。もちろん、アナキズムというある意味極の極みたいな思想を扱っているということもありましょうが、この世を覆っている建前の欺瞞を、これでもかとベリベリ剥がしていく、暴走ブルドーザーのような破壊力と疾走感は、単なる共感や納得を通り越して、宗教的恍惚すら感じてちょっと危ないです。

前作の一遍の評伝『死してなお踊れ』はこれまでの著作に比べて、個人的には若干間延びしたかな?という印象があったのですが、今回の『菊とギロチン』『何ものにも縛られないための政治学 権力の脱構成』は、凄い爆発力で、キレもグルーヴ感も抜群。文章を読んで、上手いなと思うことはあっても、気持ちいいという感覚は、なかなか味わえるものではありません。この気持ちよさは、音楽の、というかリフのそれなんでしょうかね。一遍の評伝は、リフがちょっとくどかったのかも(笑)。
『菊とギロチン』は、こんなにも栗原節全開でありながら、じつは映画のノベライズ。ノベライズはどうしても原作の添え物というイメージがありますが、本作は、こんなに面白くていいのか?と逆に心配になるほどです。でも、その後、映画館に足を運ぶのは年1回程度のわたしがわざわざ映画を観に行ったくらいですから、この本の宣伝効果は絶大でした。
映画は、中浜哲=東出昌大という配役がまずよかった。本から入ったわたしは、一切のキャスティングを知りませんでしたが、これは思わず膝を打ちました。お上品だけど素朴さもある彼に、心優しきゴロツキはぴったりでした。村木源次郎に井浦新という配役もいいし、他の俳優さんのことはあまりよく知らなかったのですが、誰にも違和感がなく、和田久太郎なんて本人そっくりだし!
本当はこのMe Tooなご時世、女性側に立って、もうひとつの主人公である女相撲に共感すべきなのかもしれませんが、わたしは、ギロチン社のでたらめさに、なんとも云えないシンパシーを感じます。
女相撲の女の子たちは、じつは誰もだめじゃない。当時の世間では異端だったかもしれないけれど、誰も間違っていない。一方のギロチン社は、正義を掲げながらも女郎屋通いがやめられないし、せっかく掠奪した金をあっさり浪費したり騙し取られたりという、悪い意味で人間味溢れる面々。挙句の果ては死刑にまでなりながら、特には何の成果もないという結末。この究極に役立たずなところがいいのです。「役に立つ」という発想がもう、アナキズムの観点からしたらいじましいですからね!

そして、『何ものにも縛られないための政治学 権力の脱構成』。こちらも、kindleで何カ所ハイライトしたかわからないくらい面白かったです。評伝もいいけれど、こちらのほうがより思想が純化されていて、言いたいことがストレートに伝わって来ます。
「はじめに」でもう、いきなり目からぼろぼろウロコが落ちます。
「労働っていうのは、なにかをつくることに意味があるんじゃない、ながれをまもることに意味があるんだ。」
「あたらしい権力がたちあがった時点で、それはもう革命でもなんでもないんだと。だって、権力なのだから。真に革命的であるということは、権力なしでもやっていけるということだ、インフラなしでも生きていけるということだ。」
「ひとをカネでふるいにかけて、支払い能力のないやつをいじめぬくこの社会。いまはちょっとくらいカネがあったとしても、つぎは自分の番かもしれないとあせらされて、ひたすらカネにおいたてられるこの社会。」

……全く、仰るとおりでなんも云えねえ。この勢いで、最初から最後まで破壊力満点の論考が続きます。

あとの2冊は、アンソロジーと共著の対談本。こう見ると、バラエティに富んだ4冊ですね。
アンソロジー『狂い咲け、フリーダム』は、大杉栄に始まり、マニュエル・ヤンで終わる、日本のアナキスト列伝です…が、半分くらい知らない人でした(笑)。各人にもれなく付く栗原さんの短い紹介文がなければ、どう興味を持っていいかわからないくらい、とっかかりのない人物が多く、こうして見ると、アナキズムって日本では(世界でも?)明らかにマイナーな思想だということを痛感します。
懐かしの「だめ連」も堂々名を連ねていました。だめ連の本、実家にありますわ! 昔っからこのテの思想や生き方に魅力を感じていた自分というものをあらためて発見する思いです。アンソロジーには、神長恒一さんの短いエッセイが収録されていますが、今読んでも共感しか湧かないわね…。
金子文子という人は知らなかったのですが、どうやらあのブレイディみかこさんが評伝を執筆中らしく、これはまた期待大ですね。皇太子暗殺計画のかどで死刑判決を受け、その後減刑されるも23歳の若さで自殺。その裁判での弁明が清々しいほど真っ直ぐで、冴えています。
矢部史郎さんも面白かった。「自己管理」こそ奴隷の道徳という言説には目からウロコが落ちました。誰のための早寝早起き、誰のための健康維持、誰のための節約なのか、たまには真面目に考えてみてもよさそうです。

最後は、『文明の恐怖に直面したら読む本』。フランス文学者・白石嘉治さんとの共著です。ポップな表紙と判型が今どきのおしゃれ本風ですが、中身はぜんぜん違います(笑)。
やはり栗原さんがおすすめしていたので、白石さんの単著『不純なる教養』も持っていますが、なんとなく難しそうで積読になっていました。しかし、この共著を読む限り、栗原さんに負けずとも劣らないぶっ飛びぶりで、がぜん興味が湧いてきました。まず、冒頭近くの「文明とは巨大建築である」という定義に、ぐっと心を鷲掴みにされます。
そして、いま栗原さんが「島原の乱」に注目しているというのも嬉しいではないですか。わたしは、天草四郎=豊臣家の落胤説が気になるタイプのミーハーなキリシタン好きではありますが、島原の乱をアナキズムで解釈すると、悲劇や陰惨さだけではない、明るい面も見えてきますね。虐げられた貧しい民たちが、自分たちだってやれるんだ!と、大杉栄の言葉を借りれば「生の拡充」を図った、歴史上に燦然と輝く蜂起だと思えば。
いつか栗原さんが、アナーキーな島原の乱の伝記を書いてくれたら、絶対に読みます!

すべての本を乱暴に要約すると、大杉栄も云うように、「奴隷の生を生きてはいけない」ってことだと思うのです。
昔、毎回むちゃくちゃなスケジュールを強いる“お得意様”が耐えられなくて、当時の上司に「こんなの奴隷じゃないですか」って云ったら「サラリーマンは奴隷なんだからしょうがない」みたいな答えがさらっと返って来て、顎が外れそうになった記憶が…。
じゃあどうすんの?って云われても今のところ目ぼしい答えもなくてサラリーマンに甘んじているわたしは、目くそ鼻くそを笑うも甚だしいんだけど、それでも、「奴隷だからしょうがない」と納得したら、なにか大切なものを捨ててしまうような気がするんですよ。
でも、そこから脱出して「自由な生き方」を模索しようとすると、高確率でそれを餌にした高額セミナーや情報商材などに出くわしたりするのが、いかにこの世がとことん人を喰い物にするようにできているかの証左という感じで、苦笑いするしかないですが…。
この世界の複雑なシステムや約束事は、本質的には「ドラクエ」となんら変わらぬゲームであって、その世界観やルールに乗っかれるかどうかだけなのでしょう。
わたしも浅薄な人間なので、目の前に快楽があればそれですべてを忘れてしまう程度の自覚しかありませんが、おそらく何の根拠もないようなルールや空気を読むことがまかり通っていて、でもいちいちツッこんでいたら面倒くさいから、何も考えずに右から左へ受け流しているだけなのです。
このゲームのなかで勝者になる方法を探すよりも、ゲームの外で生きる方法の方がはるかに魅力的だと思うけれど、あまりにも長いこと、ゲームのルールが内在化されていて、トラウマのように自分を縛っている。誰もが官憲みたいに、それこそ自分の中にも官憲みたいなのが居て、小さな正義を振りかざして得意になっている。あれはダメ、これもダメ、それは違反で、あれは悪。誰もが“国民の血税”を代表して、生活保護受給者を叩く。

「旅くらい明確な目的なんかなくたっていいじゃないか」と、常々標榜して来ましたが、本当は旅だけじゃない、生きていること自体、明確な目的なんて無く、生産性(いま話題のやつ!)で生存の優劣を測られる筋合いも、本来は無いはずなのです。
いじましい自己啓発、自分磨き、自己管理……すべては自分を市場で「高く売る」「役に立たせる」ための努力に集約されていく悲しさ。まさに奴隷の道徳! 金にならないスキルを磨くのは時間の無駄とばかり、大学も就職してなんぼみたいな方向性にどんどんなっているし、会社にしたって、昔ならよくも悪くも会社が面倒を見ていたようなことが、あとは自分でやってくださいね、生き残りたかったらせっせとスキルを(自腹で)磨いてくださいねって感じになっていて、会社に勤めていなくとも終わりなく自分をピカピカに磨き上げる必要があって、もう、どんだけ稼いで役に立てば「人間」として認めてもらえるのかという基準が際限なくて、頭が痛くなります。
無償。無意味。無目的。ゲームに与しないためには、すべてを無に帰することも厭わないという強い気持ちが必要かもしれません。
「あらゆる秩序に灰になってもらわないかぎり、奴隷解放も動物解放もありえない。」(『何ものにも縛られないための政治学』より)

「だめの底を抜く」と、栗原さんはたびたび書いています。だったらもう、いまの社会で求められている「人間」を降りてやろうというわけです。
みんな大好き「おっさんずラブ」の後釜ドラマ、「ヒモメン」は、“働かないなんてありえない”という世の中においてはあまり評判がよろしくないようですけど、第1話で、お前のキャリアをずたずたにしてやる!と自らの権力を振り回す金持ちに向かって、ヒモ男が「無職の前では無力です!!!」とドヤ顔で叫ぶシーンには、腹を抱えて笑いました。
これぞ、「だめの底を抜く」! この鮮やかな逆転劇(?)こそが革命の本質。ぜひ、今年の流行語にノミネートしてほしいです。金と権力を笠に着ていばり散らすやつよりも、よっぽど清々しく見えるのは、演じる窪田正孝がイケメンだからという理由だけでもないでしょう。
なぜ、無職やニートや生活保護受給者を、何のてらいもなく「クズ」と呼べるのか。そのてらいの無さがどこから来るものなのか、もう少し立ち止まって考えるくらいの余裕はあってもいいいはずです。

アナキズムには具体策がないとか批判されるけれど、具体策がなければ価値がないなんてことはありません。まずは、叩き壊してから考えるってことも、時には必要だと思うのです。
だから、細かいツッコミを入れても意味がないし、ほとんどの批判は低層のレイヤーにおける正しさであり、アナキズムの観点からすると、ベーシックインカムですら、低次元の解決策にすぎないのかもしれないのです。
それでも、役に立つか否かに固執するなら、アナキズムは現代を生きるお守りだと思ってみるのもいいかもしれません。この世のルールに押し潰されて、身も心も瀕死になってしまいそうなとき、懐に忍ばせておくだけでも、少しは元気になるんじゃないですかね。

2018年08月24日

続・労働なき世界

テーマ:上京後

起きたらそこは月曜の朝だった……あの瞬間の絶望に似た暗い気持ちは、何度味わっても慣れてラクになるものではありません。
月曜の朝、それは呪いの朝。労働が始まる朝です。まだ寝たい体を起こし、餌のような朝食を食べ、最低限の化粧をして、通勤に出る。この起きてから会社に到着するまでの90分から2時間くらいの気分は最低です。週末にめんどくさいメールなんかが来ていたら最低度はさらに倍。やり場のない怒りと悲しみがないまぜになって、心が真っ黒になります。
勤め先は不完全フレックスで、月曜の朝には朝会などというものが設けられ、出社時間が決まっているのがまたつらい。
出社して仕事を開始すれば、さっきの気分はちょっと大げさだったかな?とも思うのですけど、まあとにかく、月曜は低電力モードで、無性に家が恋しくなります。

旅を終えて、再就職してからというもの、わたしは労働というものに絶えず忌避感を抱いてきました。
その思いは10年以上連続して働いたことで、いや増すばかり。最近では、「すべての不幸は労働から生まれている!」と原理主義者のような思想傾向になりつつあります。
貧困も、過労死も、ストレスも、うつも、セクハラも、パワハラも、リストラも、雇い止めも、男女差別も、家庭の不和も、少子化も、「保育園落ちた死ね!」も……労働と紐づいていない社会問題があるでしょうか?
保育園に落ちたことに憤怒せざるをえない世の中は、「寝不足でも、しっかり寝た肌の状態にしてくれるスキンケア」(実際にそういう謳い文句の商品があるんです)にも似た本末転倒感に満ち溢れています。本来、怒るところはそこじゃないような気がするのです。仕事が好きでバリバリ働きたい人はともかくとして、「保育園代を稼ぐために働く」という話を聞くと、なんでそんなに世の中が捻じれているんだろうと悲しくなってきます。

労働が生み出す問題と憎悪を考えると、思い当たることがいくらでもあります。
些末な例でいうと、わたしは満員電車が嫌で自転車通勤していますが、電車ほどでなくても、マシな地獄というだけのことでやっぱりつらい。自転車には走りづらい東京の道路を走るだけでもストレスが溜まりますが、赤信号で強引に曲がってくるトラック、隊列を組む歩行者、逆走する自転車、やけに長い信号……それらにイラつくわたしの、イライラの根本にあるものは「早く(会社に)着かなきゃ」という焦燥にほかならず、たかだか始業のための、5分程度の節約のために、信号を急ぐ必要も歩行者を障害物と見なす必要も、本来はないはずなのに、追いつめられる。早起きをして早く出ればいいという問題ではありません。その分、睡眠時間が削られるのは困るので、こっちもギリギリでやりくりしているのです。
世間で何かあるとすぐに炎上し、親の仇のように該当者を糾弾するのも、みな働きすぎ、或いは金がなさすぎて、心身ともに疲労しているが故のイライラが爆発しているんじゃないかと思えてきます。
また、「仕事ができない」という理由で人を批判する光景は珍しくありませんが、あれこそ、労働に歪められた悲しい心の表れです。
労働のために、人にイライラし、イライラされ、時には人格にまで及ぶ罵倒を受ける。労働の出来不出来で、他人が嫌な奴に、そして価値の無い奴に見える。まあ、なかには仕事のやり方が汚いとか人格に問題がありそうな人もいますが、仕事が遅いとか、効率が悪いといったことが、「人として許せない」のレベルに浮上してしまうのはなんだかやり切れません。あまりにも労働と人格が強固に結びつきすぎなのです。
そう考えると、メンタルを鍛えるだの、すべては心の持ち方次第だのというのは、呑気な戯言というか、自己責任論の最たるものという気がして、全面的に鵜呑みにできません。
もはや好きな仕事かどうか?という問題だけでもない。例え(比較的)好きな仕事だとしても、そればっかり休みなくやれるほど人間は機械のように安定してはいません。いくら魚卵が大好物でも、魚卵しか食べられない食生活はつらいのと同じです。
仕事=人生と思えるならそれもいいかもしれないけれど、遊びだって等しく大切と思う者にとって、現代の日本における仕事の比重は、あまりにも高すぎます。
それに、芥川賞を獲るみたいな一世一代の勲章でもない限り、仕事の達成感なんて、わりとすぐに消えてしまうものです。余韻に浸る暇なんてなく、やってもやっても次を、そして上を求められるのですから。達成度によって終わりが来ることはおそらくない。終わりが来るのは定年とか病気とかクビとか、身も蓋もない理由だけ!

月曜の朝に少しでも希望の光を灯してくれるのは、ツイッターでフォローしている“BI論客”の皆さんのツイートです。いつも餌を食べながら、いいね!パトロールにいそしみ、「いつかこんな世の中が来るかもしれないから」と、心を落ち着かせています。
わたしがよく見ているBI論客は、ポン介さん(旧うめポンさん)、遊民さん、入間川梅ヶ枝さん、はぐれおおかみさん、怒れるフェネックギツネさん……など、他10人前後いらっしゃいますが、その一人、「のらねこま」さんの著書『最強のベーシックインカム』(著者名は駒田朗さん、サンクチュアリ出版)は、経済に疎いわたしのような人間にもわかりやすく、現実的でありながら希望のある内容で、とてもよい本でした。共産主義との違い、他の社会保障との違い、財源と税収の話、インフレへの懸念など、BI反対論者がツッコみそうな部分は、逐一丁寧に解説されており、BI入門の参考書として、家族や知人に配り歩きたいくらいです(笑)。
経済を「金」ではなく「物」で考えることは、わたしのような経済オンチが、一見複雑な経済のシステムに惑わされないために、必要な視点だと思いました。お金イコール財(生産物)ではなく、お金は世の中に流通しなければ無と同じだということ。昔から、「金は天下の回りもの」とはよく云ったものですが、これをもっと体感的に理解する必要がありそうです。
のらねこまさんは、目指すべきは、皆が平等に裕福になることであると説いています。ここは案外重要なポイントで、ただ平等であるだけでは駄目なのです。平等に苦しみ、平等に貧困を目指す、ではまったく希望が持てません。
「何といっても社会は明るくなければダメだ。今の世の中は暗すぎる。大勢の若者がツイッターに『死にたい』なんて書き込むような社会は将来性がない。」

とにかくいま、世の中に必要なのは、労働(と貧困)からの解放、もっと簡単に言えば「余裕」ではないでしょうか。
どうしてこんなに物理的には便利になった社会で、そしてこれからも便利になるであろう社会で、相も変わらずサービス残業がなくならず、人は過労死寸前まで働き、職を失ったら失ったで途端に生存の危機にさらされるのか?というのが、いつもいつもわたしの素直な疑問なのです。
なんの遠慮もなく云ってよければ、人類が目指すべき理想は、「働かないで、たらふく食べる」(by栗原康)だと思います。
機械化で物を簡単に安価に生み出すことができるようになったので、人は必死で働かなくてもそれなりに暮らしていくことができるという状態。もはや人の労働がすべての価値を生み出しているわけではない現代において、それは、理論の上では十分成り立つことのように思えるのですが、現実はそうではありません。

BI論客の皆さんの共通した問題意識は、大きくは「富の再分配がうまくいっていないこと」「労働が生存条件になっていること」「労働が宗教化していること」の3つに集約されると思います。
ありあまる富の例として、わたしはアホのひとつ覚えのように「恵方巻きの大量廃棄」を思い浮かべるのですが、恵方巻きに限ったことではなく、ただ作られては人の手に渡らずに消えていく物(富)がこの世には大量にあって、一方で子どもの貧困が問題になるこの不均衡を是正するには、努力とか根性とか引き寄せの法則とかでなく、社会のシステムを変えるしかない。
つまり、労働(金銭)と引き換えの生存条件を、見直すということです。自分だけサバイバルする方法を必死で習得し運よく生き残れたとしても、これからのAI時代、雇用が大崩壊するといわれる未来においては、対処療法にすぎません。椅子取りゲームで数少ない椅子に座る術よりも、椅子取りゲーム自体を無くす、或いはみんなの椅子を用意する方法があるなら、わたしはそれを知りたい。そのひとつの答えが、ベーシックインカムなのかなと思っています。それはもはや、夢や理想ではなく、現実的な解決法として視野に入れる段階に来ているのではないでしょうか。
年1万円ずつ増やし10年くらいかけて定着させる(のらねこまさん案)、期限付き通貨にするなど方法もいろいろありそうです。決して万能なわけではないでしょうが、人間の生が全面的に労働に依存している現代の危険を、少しでも和らげる意味はあるでしょう。大手だろうが中小だろうが、一企業に人の生存を担わせるのは限界があります。だって企業は、人より金(利益)の方が大切な団体なのですから。そして、人は機械のように、使えなくなったら廃棄処分というわけにはいかないのです(無論、それが権力を持つ側の本音ではありましょうが…)。
再分配と生存の問題は全世界共通ですが、労働の宗教化については、さすがはkaroushiを生み出した国・日本特有の(韓国などもそうかもしれませが)病、自分が過労やブラック企業で病気や鬱にならない限り、なかなか脱却できない価値観だと思います。個人的にも数々の嫌な思い出がありますが、長くなりそうなのでここでは割愛。絶対的宗教ではなく、せめて規模の大きいゲームと考えるくらいの余裕は必要だと思います。

雇用が無くなる時代、なんていうと一様に悲惨な受け取り方をされがちですが(仕事の場での世間話でもよく出る話題)、生存にさえ影響しなければ、それは喜ぶべきことでしょう。働かないでたらふく食べられる豊かなユートピアを目指して、人類は発展してきたはずなのですから。
週休2日が3日になり、4日になり(なんなら休暇の方が多くなり)、長期休暇ももちろん取れ、失職してもそれなりに安全に生きていくことができる社会のほうが、誰にとっても生きやすいはずです。
そうなってくれれば、月曜の朝だって、きっとそんなに嫌じゃなくなる(かもしれない)。わたしはなにも、仕事を今すぐ辞めたいとかいうのではなく(今の世では辞めると野垂れ死にしますし)、せめて楽しく、気持ちよく、なるべく苦しまずに余裕をもって生きたいだけです。仕事にだってもちろん喜びはありますが、その餡子の部分を覆っている不味い皮が分厚すぎてね…。がんになっても働ける社会ではなく、がんになったらゆっくり休んで治療できる社会に暮らしたいんですよ。
それが当たり前になるには、「自分の心の持ちようだよ」なんて言いくるめられている場合ではなく、「じゃあ会社辞めればいいじゃん」という問題でもなく、「働かざる者食うべからず」とか「お給料はガマン料」という旧来の価値観を、一掃する必要があると思うのです。
怪しげな“働き方改革”に期待するよりも、長期的にはそのほうが、皆が幸せになれるのではないでしょうか。

2018年07月23日

さらば青春の光

テーマ:偏愛

「さらば青春の光」といえば、今ではお笑いコンビを思い浮かべる人も多いのでしょうが、これをタイトルに付けたのは、元ネタの映画のことを書きたいわけではなくて、なぜか男闘呼組の話です。

これまで、TM NETWORK熱が不意に再燃するということが何度もあり、このブログでも何度もお目汚しして参りました。
しかし、同じころにハマった男闘呼組に関しては、その後、わたしの中のファンスイッチが入ることはなく、あれは一時的な感染症のようなものだったのだろう……と思っていました。
ところが、人生とはわからないもので、ある日、BGM代わりにつけていた音楽特番で、ジャニーズの皆さんがメドレーの一曲として「TIME ZONE」を歌っているのを耳にしてしまったのが運のつき。過去にも、ジャニーズメドレーで「TIME ZONE」が歌われる光景は何度か目にしてきたものの、そこで特にスイッチが入るでもなかったのに、なぜか今回、100年の眠りから覚めたかのように、心を奪われてしまうという非常事態に陥っています。
これは猛暑の為せる業なのでしょうか? 暑さには、男闘呼組の暑苦しさで対抗せよという、一種の猛暑対策なのでしょうか?!

まずはウォーミングアップとして、過去に何度も観た動画を、ひと通りおさらいチェックしていると、なんと、成田昭次くん主演のドラマ「お茶の間」全話に行き当たるという幸運に見舞われました。
6年前のドはまり時期に取り逃したものがいくつかありますが、「お茶の間」はそのひとつでした。都内のTSUTAYAで何度も在庫検索して、やっと見つけたときも、すでに撤去されていただか何かで結局断念することになった、あの、幻の「お茶の間」が!
まさか、あれから6年になろうという今になって、神様がプレゼントしてくれようとは……。
いやー、堪能した。成田くん、やっぱり惜しい人材すぎる。歌ってる姿も声も好きだけど、演者としても光ってる!
不良っぽくてシャイなところが持ち味だと思っていましたが、このドラマの役みたいな、暑苦しいハイテンションキャラも上手いじゃないですか! 成田くんの田舎ヤンキー属性が遺憾なく魅力として昇華されていて、とってもいい感じ。
とにかくまっすぐで、根拠のない自信とゴキブリみたいな生命力の持ち主で、でも捨てられた子犬のような可愛らしさもあって……花井薫(役名)みたいな彼氏、実際に付き合ったらうっとおしそうだけど、こんなふうに熱烈に愛されるのはひとつの理想ですよね!

この「お茶の間」放映と同じ年(1993年)、映画「極妻」に出たのを最後に、もうドラマや映画でその姿を見ることはなくなってしまいました。
成田くんのドラマ出演、そんなに多くはないんだけど、どれもけっこういい役をもらっているんですよね。
「僕の姉キはパイロット!」(1987年)は、男闘呼組全員がパイロット見習い生の役で出演していましたが、成田くんは、主人公の教官パイロットを演じた浅野温子の弟役。この姉弟っぷりが麗しいのなんのって。勝ち気なキャリアウーマンの姉に、反抗的でちょっとシャイな弟。星野ありさに星野隼人って、もう名前からして完全に勝ち組だし!(?)
オープニングテーマが、男闘呼組の「STAND OUT!!」で、壮大なキーボードのイントロを背景に、制服に身を包んだ浅野温子と、私服の男闘呼組が滑走路を並んで歩いている映像が、めちゃくちゃハマっててかっこいいのです。

「オトコだろっ!」(1988年)は、リアルタイムでも見ていた記憶があります。
八ヶ岳の麓でペンションの便利屋を営む“ゴリラ”こと中嶋一郎太(西田敏行)のもとで、プー太郎の若者4人組(男闘呼組の4人)がひと夏のアルバイトにやって来てこき使われるだけのドタバタコメディですが、今見ると、男闘呼組の青春メモリアルビデオという感じで、切なさが止まりません。
長野あたりでペンションが大流行していた時代感も懐かしいけれど、DASH村的な田舎(案外、DASH村の原点はこのドラマにあるのかも)で、悪ガキどもがブーブー文句を垂れながらケンカばっかりしている姿は、大きな動物がじゃれ合っているような可愛らしささえあります。
ここでも成田くんは、“子どもと動物にしか好かれない”ちょっと硬派なキャラクター。他3人が、ラストではそれぞれ意中の女の子といい感じになるシーンがあるなか、ひとりだけ犬と子どもと戯れる場面が用意されているという、ある意味おいしい役どころです。途中、高橋くんとヒロインの不良少女を取り合うんですが、気持ちを伝えることなく身を引いちゃうんですよ。ヒロインと一瞬見つめ合いながらも目を逸らす演技が、なんとも悩ましげで上手いなあと思います。

余談ですが、ドラマの序盤、高橋くんとつかみ合いになる場面で、高橋くんが成田くんに「ショーケンみたいな顔しやがってよ!」という台詞はアドリブだったのか、気になります。確かに、ショーケンに通じるところ、あるかも……。

それに、ドラマじゃないけれど、あの名作青春映画「ロックよ、静かに流れよ」でも、誰よりも強烈な印象を残したのが、やっぱり成田くん演じるミネさでした。
これはほんと、これ以上ない当たり役だったわけですが、この流れで、紡木たくの「ホットロード」も男闘呼組、いや、せめてハルヤマを成田くんの若かりしころに撮影しておくべきだったんじゃないかしら? 特にこのマンガに思い入れがあるわけではないけれど、コワモテで気の優しいヤンキーときたら、当時の成田くんに叶う演者はいないのでは? あんなにリーゼントが似合う妙齢の男子は、他にいなかったと思うの!
その後の成り行きが消息不明という不幸な結末に至ったことにも起因していると思うのですが、あのころの成田くんというキャラクターには、青春の煌めきそのものが詰まっている気がするのです。ガラが悪くて、無鉄砲で、不器用で、でもホントは優しくて……ああ、なんてベタな、思春期しか許されないキャラ! だがそれがいい!!

と、ここまで成田くん中心で稿を進めてきましたが、男闘呼組4人で出演している3作品には、わたしの大好物にして泣き所の原点とも云える映画「STAND BY ME」的な、二度と戻らない季節、永遠の一瞬、うたかたの日々……つまり儚さゆえの切なさが通底しているように思うのです。
男闘呼組はみんなけっこう演技が上手くて、それぞれの持ち味が生かされていたのがまたいいんですよね。そして、落ちこぼれ役がよく似合う。愛しのろくでなし(ラストアルバムのタイトルも「ロクデナシ」だったわね)。
「青春は遠きにありて思うもの」とは、室生犀星のもじりですが、青春のただ中にいる人間には決して見えないのが、きっと青春の光というものなのでしょう。

2018年07月18日

ゲイとノンケ、ノンケとゲイの物語(下)

テーマ:偏愛

最近は、自分はタイムトラベラーなのかと思うほど月日をワープしている感が凄いのですが、いつもどおり、(上)の更新から幾星霜となってしまいました。誰も読んでいないと思いつつ、(上)で終わっていると気持ち悪いので、今さら更新します。

さて、私は昔から腐女子属性濃厚な変態ではありますが、BLならなんでもいいわけではなく、刺さるパターンというのがやはりあるのだな……ということを、ドラマ「おっさんずラブ」を見て、あらためて思いました。
ちょうど「おっさんずラブ」の放送真っ盛りのころ、昔から読んでみようと思いながら機を失していた『夢みるトマト』というマンガを読みましたところ、これが意外にも、わたしのBLランキング上位に飛び込んでくる勢いの面白さでした。
青年誌に連載されていた漫画とあって、いわゆるBL的なスタイリッシュさやキラキラ感は皆無ですが、大島弓子の描くやおい的世界にも通じるような気持ちのよい読後感なのです。

主人公の玉吾は、従妹のとまと、同じく従兄の菜ちゃんと3人、死んだ祖母の家で同居を始めます。
玉吾は、だらしなくてエッチ好きという、極めて普通の男子大学生。1つ年上のとまとは、可愛い容姿の持ち主ながら、過去に誘拐されたことがあり、性的なことに異様に恐怖がある女の子。そして菜ちゃんはゲイ。家事万能、成績優秀というハイスペックな好男子です。
玉吾は彼女がいながらも美しく成長したとまとが気になって仕方ないのですが、とまとはゲイの菜ちゃんに全幅の信頼を置き(但し恋愛感情ではない)、その菜ちゃんは小さいころから玉吾が好き……という三角関係です。
性的にも性格的にもいたってノーマル男子の玉吾は、菜ちゃんがゲイであることを気味悪がり、時には心ない言葉で傷つけてしまいます(まあ、1980年代のお話ですからね)。
しかし、だんだんとその関係に変化が起き、物語の後半、玉吾と菜ちゃんは、一度だけ結ばれることになります。それは、歴代読んできた漫画の“性描写”のなかでも、5本の指に入るくらいの屈指の名シーンでした。単なるセックスではなく、もっと根源的な、自分の偏見や価値観を越えて人を受け入れることのメタファーとしてのセックス…というような、怒涛の描写は圧巻です。
ラストまではさすがにここでは書きませんが、わたしは久々に漫画を読んで嗚咽したのでした。二度と戻らない青春の煌めき、もう会うこともなくなってしまった人たちへの郷愁、そんなものがどばーっと押し寄せてきて、夜中というのに心の汗が止まりませんでした。

もうひとつ、やはりどマイナーな漫画で恐縮なのですが、『大きな栗の木の下で』という作品があります。
この2冊のコミック(正確には続編の『大喝采!』を併せて3冊)は、「実家で読みたいあの本この本」にも該当する本のひとつなのですが、こちらもまた、こうした性別や性癖の揺らぎを見事に描いた青春恋愛漫画です。
主人公の花田くんは、男子校の生徒会長でサッカー部キャプテン、学校の名物男と呼ばれる人気者。ですが、密かに、ちょい悪な下級生・高柳くんに恋をしています。
花田くんの妹・さくらは、友達と同人誌制作に励む筋金入りの腐女子。お兄ちゃんが誰か男の子と恋に落ちてくれないだろうかといつも願っています。花田くんは、とてもじゃないけれど、高柳くんのことをさくらには話せません。お祭り騒ぎになってしまうからです(笑)。
花田くんからすると、さくらの趣味はまったく理解不能でふざけているようにしか思えないのですが(大概の男子は腐女子に対してそう思っていることでありましょう…)、たまにさくらは、同性を密かに好きになってしまった花田くんの核心に触れるようなことを言ったりします。

花田「…おまえの好み(の男子)って…」
さくら「男の子に恋するタイプ」
花田「(!?)」
さくら「冗談だよーん。でもそんな 男の子にもつい恋してしまうような ナイーブな男の子が さくら 好きなんだ」

結局、花田くんは気持ちを伝えることのないまま、高柳くんは転校してしまいます。
ふたりはその後、海水浴で再会しますが、花田くんも高柳くんも女連れ。といっても、花田くんは妹軍団のお守りで、高柳くんは年の近い親戚の叔母さんと一緒だったわけですが、お互いそれを知ることもなく、花田くんは自分の初恋をひっそりと埋葬します。
高柳くんの後姿を目で追いながら、
「俺はずっと…彼に笑いかけてほしかったんだ…」
そう呟く花田くんが切ない。

この二作品に共通するのは、どマイナーなこと……ではなく、“性別の揺らぎ”を描いたBL、という点だと思います。
そして、わたしが好きなBLというのは、男と男が当たり前に結ばれるご都合主義的なユートピアではなく、古いジェンダーの枠を越え、殻を破っていく課程が見えるBLなんだな、と。それがあるべきBLの姿と云いたいのではなく、単に好みの問題なんですけどね。
そもそも恋愛の尊さとは、自分の理想が理想のまま形になることではなく、自分一人では到達しえなかった思いや価値観に気がつくことではないでしょうか? そこにカタルシスがあるからこそ、漫画やドラマというフィクションの恋愛にも、人は感動を覚えるのではないでしょうか。
「おっさんずラブ」のよさも、BL的に都合がいいわけではない世界で(でも部内のゲイ率高すぎだけど!笑)、ぼんやりしていた主人公が、同性に好きになったりなられたりして混乱に突き落とされるうちに、新しいドアを開いていく過程にあるんじゃないかと思います。
だから、BLの物語の主軸にノンケがいることは、個人的にとても重要なファクターになっているのかもしれません。
いずれも紙の本はとっくに絶版ですが、kindleで読めますので、ぜひ“埋もれた名作”を手に取ってみてくださいね☆

ところで、未だにドラマのファンは多いようで、放映中はツイッターでもずいぶん楽しませてもらいましたが、当時ちょっと怖いなと思っていたのが、腐女子界におけるカップリング論争でした。
牧春原理主義者(牧と春田のカップルしか認めない主義者)みたいな人が少なからずいたらしく、ラスト付近で部長がはるたんと暮らし始めたのを見て、番宣用に開始された部長のツイッターに本気で突撃する人たちが現れるという恐ろしい事態に…。
わたしも腐女子の端くれ、二次元で妄想する趣味は充分持ち合わせておりますが、あらためて、深入りしてはいけない世界だと思ひました。リバ(攻受逆転)も凄く嫌われていますよね。やっぱ、BLって性癖的な部分に抵触するデリケートな世界だからかしら。
あとは、「悪い人がひとりもいない世界」という絶賛をちらほら見かけたんですけど、それもむず痒かったなあ……。いや、おっさんずラブに限ったことではなく、いろんなフィクションでこのテの絶賛を見ると、いつも違和感があります。
すみません、最後はなんか悪口みたいになってしまったな(笑)。

2018年06月21日

ゲイとノンケ、ノンケとゲイの物語(上)

テーマ:偏愛

たいへんご無沙汰しておりますっ(汗)。
久しぶりに更新しましたが、腐女子の独り言みたいな内容なので、ご興味ない方はスルーしてください…。

 

前シーズンから視聴している「家政夫のミタゾノ」第1回を観ていて、たまたま番宣で流れた「おっさんずラブ」。
腐女子の端くれとしての勘が働き、こ、これは見なければ……と観始めたら、あら大変。自分もだけど、それ以上に世間が沸騰してちょっとした祭りになっていました。
昨年のブレイク俳優が高橋一生なら、今年は田中圭で間違いないですね。体も鍛えているし、そのうち「an-an」がまた脱がせにかかるのでは?と心配になります…。
これだけ世間で騒がれ(と云っても、現実世界の周りで観ている人はそんなにいなかった)、どハマリしている人多数になると、ちょっと引き気味にもなってしまうのですが、とりあえずLINEスタンプは買ったし、オフィシャルブックはきっと買うし、ドラマの後にはうっかりツイッターで呟いちゃうし、何より4カ月ぶりにブログを更新している時点で、わたしもしっかりハマっている証拠です。

知らない方のために、ごく簡単な説明を。と同時に、この先はネタバレ含みますので、ご了承くださいね。
不動産会社で働く、どちらかというとダメ男の主人公、春田創一(愛称はるたん)が、ある日突然、仕事のできるダンディな上司、黒澤武蔵(中身は恋する乙女)に告白され、時を同じくしてやっぱりデキる後輩でルームメイトの牧凌太(ドSで巨根)にも思いを寄せられて……という、恋愛ドラマやBLも含めた少女漫画の歴史においては、たいへん既視感のあるストーリーです。
制作側はBLとして作ったわけではなく、いわゆる月9的な恋愛ドラマを男同士でやったらどうなるか? という試みだったらしいんですが、それってやっぱりBLなんじゃないでしょうかね?
やおいの時代から、いや遡れば24年組の時代から、男女の恋愛を男男に置き換える試みは脈々と行われており、それが現在のBLに結実しているとわたしは思うのです。男女でも成立する話を、わざわざ男同士で組み立てるのがBLの世界です。
でも、設定こそ男女で置き換え可能だけれど、男男でしか生まれない「何か」というのがあるわけで、腐女子たちはそれを求めて薄い本などを読んでしまうのではないでしょうか? たとえそれが、本物のゲイの方々に失礼だとしても…。
その「何か」は、腐女子によってさまざまなのでしょうが、概ね“男同士の恋愛は純粋”という妄想(狂気?w)に集約されるのではと思います。そうでなければ、このドラマがこんなに盛り上がるはずがありません。試しに男女で置き換えてみれば、どれだけ陳腐になるか分かります。
だから、このドラマを、BLじゃなくて純愛ラブストーリー!と称賛する人たちの気持ちは分からんでもないけれども、やっぱりBLなんじゃないか(いい意味で)というのが、わたしの感想です。

「おっさんずラブ」を観て、まずわたしが思い出したのは『窮鼠はチーズの夢を見る』『俎上の鯉は二度跳ねる』でした。
数年前にどハマリしてブログでも書いたことのあるマンガですが、これも、ストーリーはいたってシンプルなんですよね。あらすじだけ読んだら、読む気が起こらないほど拍子抜けします。でも、余計な設定がない分、鬼気迫る現実感がありました。
ドラマの前半は、後輩の牧と、『窮鼠~』でノンケの主人公をずっと思い続けている今ヶ瀬渉がいちいちオーバーラップしてきて、切なさに胸を焦がしたものでした。ノンケの男に惚れてしまって、でも相手に垣根を越えてほしいとは要求できなくて、相手の優柔不断さに引きずられてにっちもさっちもいかなくなる……みたいな感じ。
ただのルームメイトだった春田に、つい強引にキスしてしまって、家を出ようとしたんだけど、やっぱり友達として一緒に住もうよと引き止める春田に、「もう、元には戻れないです」と、唇ではなく額にキスする牧くんとか、なにこの今ヶ瀬っぷり!って(笑)。あと、やたら世話焼きで家事がパーフェクトなところも今ヶ瀬!!
主人公でノンケの“流され侍”こと大伴先輩と春田も、「なんか好きになられちゃったし…」とずるずる付き合っちゃうタイプってところは似ていますね。大伴先輩はそれなりにモテ男で、春田はモテない設定ですが…。
だから、ドラマの最後は、大伴先輩と今ヶ瀬の攻受が逆転したあの時を思い出して、ああ、こういう組み合わせのひとつの到達点ってここなんだろうな、とか意味不明な納得をしてしまいました。
ついでに、BLでたびたび議論になる女子の存在についても、「ただの噛ませ犬じゃない、ちゃんと存在のある女子でないと登場してほしくない」という、やたらに厳しい腐女子のワガママを、ドラマもマンガもしっかりクリアしておりましたね。

しかし、『窮鼠~』と「おっさんずラブ」の決定的な違いは、なんと云っても部長、黒澤武蔵の存在です。
前者には、これに替わる登場人物はいません。部長がいたからこそ、LGBTがどうこうというデリケートな話にならずに、“あくまでラブコメ”として、腐女子だけではないお茶の間になじむことができたのだと思います(セクハラの観点からのご指摘もありましょうが…)。
初回登場時、いや番宣からすでに異質な存在感を放っていた部長。初回終了後すぐに、ほとんどの人が牧春というカップリングに流れたことを思えば、部長は、番組側が「ヒロイン」と位置付けているにも関わらず、終始ないがしろというか、ただのギャグ要員にされていた感がありました。
極めつけは6話のラスト、牧と別れた春田が、1年後、部長と同棲しているという衝撃の展開で終わった際、SNSには牧と春田が結ばれる結末しか許さないという過激派が溢れ返る羽目に…。いや、かわいそうすぎやろ、部長…。
そんな騒ぎを目の当たりにして、すっかり及び腰になってしまったわたしですが、一緒に観ていた夫も「なんだよこの展開は!ありえん!テレビ局に抗議するお!(←部長風)」と激昂しているので失笑しました。カップリングに厳しいのは、腐女子だけの特権(?)ではなかったようです。
まあわたしも当初は牧くんを応援していた方ですけれども、吉田鋼太郎のあのいかつい外見で全力で乙女を演じられたら笑ってしまうんですけれども、部長だって幸せになる権利あるやん!と、判官びいきのわたしはつい、肩を持ちたくなってしまったのでした。
部長は真っ直ぐで、牧はちょっと自虐的なんですよね。「春田さんなんか好きじゃない」と嘘をついて家を出てしまう牧。その切なさに共感することはもちろんできるんだけど、こういう“こじらせ感”は、自分の恥部を見るようで辛い(苦笑)。心とは裏腹の言葉をつい投げつけてしまう感じ、とてもよくわかるよ!だけど、わかるからこそいたたまれなかったです。なんでそんなこと云っちゃうの…って。


それに、なんだかんだで最終回、いちばん泣かせてもらったのは部長でした。
「はるたんが大好きです。君に会えてよかった。」こんなに使い古された言葉が、あれほど涙腺を刺激してくるとは思わなかったなぁ。
結果がどうあろうとも、誰かを好きになってよかったという気持ちの純粋さは、涙腺を刺激しますよね。
何の見返りも求めていない…って、そりゃ好きになってくれたら、結ばれたら嬉しいに決まっているけど、もしそうじゃなくても好きになれて幸せだと言えるその潔さよ! わたしみたいな真っ黒な心の持ち主には死んでも云えないセリフ!
だけど、こんなふうに人を好きになれたら、たぶんそれは一生の宝物になるんだと思います。

で、また(上)とか書いて、(下)はいつアップされるのやら、自分が自分をいちばん信用なりませんが、とりあえず、(下)に続く!

2018年02月15日

実家で読みたいあの本この本③

テーマ:偏愛

なんということでしょう、前回の更新からたった数日で更新できるなんて。
じつはわたしは、やればできる子だったのでしょうか?
ダブル青木と勝手に並べるのも違和感ありまくりですが、第3回は青木景子、第4回は青木光恵を取り上げようと思います。名前が同じで、わたしが好きだという以外に特に共通点はありません。

青木景子は、わたしの子ども時代において重要なパーツのひとつである「詩とメルヘン」からプロデビューした詩人です。
「詩とメルヘン」とは何ぞや? それは、故・やなせたかし先生が編集長を務めた、サンリオ刊の月刊誌。タイトルのとおり、題材は詩と、「メルヘン」というファンタジックな大人の童話が中心で、そこに美しいイラストが惜しげもなく添えられた、今思えばなんとも贅沢な雑誌でした。
「詩とメルヘン」がわが家にやって来たのは、父が偶々、書店で見つけて買ってきたのが最初です。わたしの父母は、わたしとは似ても似つかないほど読書をしない人たちでしたが、「本を読めば賢い子になる」とでも思っていたのか、本は比較的多く買い与えてくれました。だいぶあとになってから、「なんで『詩とメルヘン』を買って来たん?」と訊いてみると、「きれいな本やなあと思って」と答えが返って来ました。父にもきれいなものを愛する心があるんだと、ずいぶん失礼な感想を抱いたものです(笑)。

「詩とメルヘン」は、詩人やメルヘンの作家だけでなく、数多くのイラストレーターを起用していました。
北見隆、東逸子、黒井健、葉祥明、牧野鈴子、きたのじゅんこ、おおた慶文、味戸ケイコ、早川司寿乃、高田美苗、内田新哉…ああ、名前を打つだけで懐かしさとときめきが蘇って来ます。宇野亜喜良や林静一といった、当時でもすでに大御所のイラストレーターの作品が見られるのも、たいへん貴重でした。
このころは、サンリオから詩集や大判の画集が、ばんばん出版されていたもので、正方形の詩集には、やはり詩とメルヘン関係のイラストレーターが絵を手掛けました。
メルヘンの分野でも、谷山浩子や安房直子、竹下文子、すやまたけしといった方々が執筆しておりまして、特に谷山浩子のこのころの小説が大好きでした。眠る方の夢を語ることは至極難しいものですが、谷山作品においては、それが成功しているかのような不思議世界が見事に描かれているのです。

…と、ついうっかり「詩とメルヘン」について熱っぽく語ってしまいました。まだまだ云いたいことがあるので、いずれ稿をあらためましょう。
さて、青木景子の詩に初めて出会ったのは小学生のころで、当時はなんだか難解な詩に思え、あまり魅力を感じていませんでした。それよりは、きのゆりの書く少女の童謡のような詩が好きでした(きのさん、いまはどこでどうしていらっしゃるんでしょう!)。
ところが、もう少し大人になると、青木景子の魔術のようにかっこいい言葉遣いに魅了されるようになります。
これが詩人の言葉かとノックアウトされる、アクロバティックで研ぎ澄まされた言葉。音楽のようなリズム。炭酸水のように爽やかな刺激。張りつめた糸のような緊張感。秘境の湖のような透明感。それらはしかし、完成された隙のなさではなく、どこか不安定でぎこちなくもあり、かえって作品の魅力を際立たせていたと思います。
タイアップページに添えられた詩、巻末の投稿者からのお便りにすら、詩人の香りがしました。
どの詩が好きかと問われると困ってしまいますが、いま、手元にはデビュー作の『プラチナ色の海』しかないので、そこから一編、季節に合わせて引用してみます。

「美しい二月」

いっぽんの線に
みんなで並んだら
いっせいに走り出せ!

僕たちは
体ごと空を切って
走り書きのような毎日から
ころがるように飛び出すんだ

長い助走につかれたり
長い迷路にとまどったり
フットワークもなにも
あったものじゃない毎日に
はいつくばってなんかいたくない

風に似たかろやかな
僕たちの脚は
二月のきらやかな光にさらされて
どんな草よりも
どんな樹々よりも
澄んできれいだ


この詩集は、「詩とメルヘン」の投稿作品もいくつか収められているので、「あ、この詩はきたのじゅんこさんのイラストが添えられていたな~」など、朧げながら思い出すことができて、懐かしいです。他にも好きな「片思い」という詩は、牧野鈴子さんのイラストだったっけ。
詩集はこのあと、確か再録本を含め7冊が出版されるのですが、内田新哉が絵を手掛けた『道の途中で』は、青木景子の透き通った世界観が、イラストと絶妙に共鳴し合っていたと思います。海に漂流する青い瓶の中のような世界。
そして、忘れてはならないのが『ガールズ』。詩で紡ぐ小説のような作品です。3人の少女が語り手となり、それぞれのモノローグが詩で綴られ、物語ともいえないような日常が進行していきます。刹那を生きる少女らしい粋がり方、子猫のような弱さ、小さくて壊れそうな愛…、まるで青春の宝石箱のような一冊です。

やがて、その表現をさらに研ぎ澄ませるかのように、詩よりも制限がかかる短歌へと活躍の舞台を移していくことになります。
早坂類と改名して出版した処女歌集『風の吹く日にベランダにいる』は、現在ではAmazonで1万円近いとんでもない高値がついていますが、運よく普通の値段のときに入手でき、やはり実家の本棚に鎮座しています。
いまや絶大な人気と地位を誇る歌人・穂村弘も、著書『短歌という爆弾』で、たびたび早坂類の歌を取り上げています。“この歌はほんとうのことだ”と感じさせる圧倒的な力、独特の緊迫感と評していましたが、まったく同感です。

ジャングルの夜にまぎれてドーナツとアイスクリームを食べている。風。

ブティックのビラ配りにも飽きている午後 故郷から千キロの夏

カーテンのすきまから射す光線を手紙かとおもって拾おうとした

虹のたつむこうの岸はあてどないあこがればかりに埋め尽くされて


いかしたコピーのようなきらめきと、詩人にしか紡げない言葉の選択と配列。
詩から短歌へと移っても、透明で張りつめた表現、鮮烈な言葉遣い、明るいのに寂しいような世界観は変わりなく、言葉の芸術とはこういうことなのかと目が洗われる思いがします。この、明るさの裏にある寂しさというのは、TM NETWORK時代の小室さんの楽曲にも感じていて、たぶんわたしのツボにはまる感覚なのでしょう。
小説もいくつかお書きになっていますが、小説になると描写や進行のために余分な言葉を加えていかないといけなくなるので、やっぱり詩か短歌のほうが真髄を味わえるのかなという気がします。

余談ですが、かなり後年になって、彼女が主宰する「RANGAI」というサイトから、彼女自身が手作りした1点もののビーズのネックレスを購入したことがあります。なかなかのファンですね(笑)。他にも死ぬほどアクセサリーがあるので、なかなか着用の順番は回ってこないけれど、それはお守りのように、アクセサリーケースのなかで静かに待機しています。
ツイッターもフォローしているものの、最近はあまり拝見していなかったのですが、久々に読んでみると、いまは北九州市でブティックを経営されていることが判明。どこだろう、気になる…。

2018年02月13日

実家で読みたいあの本この本②

テーマ:偏愛

さっそく間が空きまくってすみません、実家で読みたい本・第2回は、平中悠一です。
平中悠一作品との出会いは、受験生のころ、たまたま深夜に放送されていた映画『She's Rain(シーズ・レイン)』でした。
彼のデビュー小説が原作となっているこの映画は、作品自体の出来以上に、阪神大震災が起こる前の、芦屋や神戸の美しい風景が映像に残っているというだけでも、今となってはたいへん貴重です。当時を知る人ならばなおのこと、泣けてしょうがないのではないかと思います(Amazonでは、VHSにも係わらず結構な高値がついていました。わたしもVHSを持っていますが、プレイヤーを実家に送り返してしまったので、観たいときに観られません泣)。
かくいうわたしも、内容以上にその映像に魅せられ、大学生になったらあのあたりを散策しまくるぞ!と勢い込んだものでした。その夢は、震災によって儚くも砕け散りましたが…。
関西に住んでいる者にとって、阪神間、とりあわけ阪急沿線の“あのあたり”は、ちょっと特別で、憧れを伴う場所なのです。それは単に、金持ちが多い高級住宅地というだけでなく、絶えず涼やかな風が吹いていそうな、大阪や京都とは違った軽快で洒落た雰囲気のためもあると思います。
そして、映画および小説で描かれるのもまた、そうした別世界でした。

時代はバブル前夜(1984年)、神戸の坊ちゃん嬢ちゃんたちが繰り広げる麗しき恋愛模様。教会で結婚式の真似事をする主人公の少年少女、少年は男子だけど子どものころからピアノを習っていて、高校生になったらプール付きの友達の家でホームパーティ…っておい! 関西のどこにそんなユートピアが存在するんだよ! 
…と、関西圏住みたくない街候補の某市で生まれ育ったわたしには、どこからつっこんでいいかわからないほどきらきらしい世界なのですが、それは決して架空の出来事ではなく、平中氏が住んでいる世界そのものだったことが、エッセイ集『ギンガム・チェック』を読むとわかるのです。
『She's Rain』から始まる、華やかだけど切ない“若い男女の神戸ラブストーリー”な小説群もよいけれど、エッセイになると、ご機嫌で無鉄砲なお喋りを聞いているようで楽しく、ウキウキします。
なかでも、神戸の魅力的な女の子たちについてのエッセイは、ご自身が好きなものだからか(笑)、素晴らしい熱量で語られています。
初読はもうずいぶん前のことになりますが、いま読み返しても驚くのは、神戸のお嬢さんたちは、中学生で『JJ』を卒業しちゃうっていう話。中学生で『non-no』すら買うお金も知恵もなかったわたしには、まるで異国のおとぎ話です。
「神戸式別嬪について」というエッセイのなかで、平中氏と同級生らしき女子大生が「東京ってすごいのよ。ショート・ヘアとかピンク・メイクの綺麗な方がいらっしゃるのよ」とのたまう記述にも驚きますが、神戸における美人の必須条件は、長い髪にブラウンメイクであり、要するに、早いうちから“女”として完成されているのが、神戸のお嬢さんたちなのですね。「彼女達にはもう、フェミニンしかないわけ。」 ああ、なんて潔いのでしょう。いい年こいて、“かわいいもの”集めにいそしむわたしとは大違いよ!(笑)

昔から、神戸という街がやけにハイソに見えるのは、そんな大人っぽさや成熟を好む文化のせいなのでしょうか。いまや関西は、東京の二番煎じに過ぎず、後塵を拝しまくっていると個人的に思いますが、このころはまだ、二項対立的に文化の違いがあったのだなと、惜しみたい気持ちになります。シティボーイ&ガールは東京人だけのものではなかったのです!

まあ、誰も彼もが中学で『JJ』を卒業する必要もないとは思いますが、この時代の、神戸文化(より正確には阪神間文化?)のコンサバティブな思考って、一周回って健全に感じられるから不思議。
この80年代当時ですら、平中氏は自分がコンサバであることを自覚しているので、21世紀を過ぎて20年近く、ジェンダーの問題も語り尽くされてきたいまでは、思いっきり時代に逆行していると思うものの、一方で、古きよき美しさも感じられたりします。
例えばこういう記述に、わたしはある種の清々しさを感じるのです。フェミニズム的視点からすればつっこみどころ満載だとしても。

「女」という一点に於いてしか勝負しないということはつまり、知性(?)やセンスによって所謂「いい女」度をリカヴァーできない、ということでもある。だってマキナニーがどうのとかヴェンダースがどうのとかいったって、彼女達にかかれば「なに、それ」ってなもんだから。正直いってそういう」アイテムに乗ってくるコって僕にとっては簡単なわけ。でもそういう女のひとってかなり冒されてると思うよ。「男という病」に。女のコってもっと快感に対して素直に反応できた方が仕合わせな気がする。(中略)僕個人としては女のコには女のコである、というそれだけの理由で惚れたいし、才能とかセンス込みで惚れる、っていうのはなんだか不潔な気さえしてしまう。

男に媚びた服きて偉そうにして、みたいないわれ方してるけど、女のコが男に好かれようとする、若いから生意気、そんなの当たり前じゃない。(中略)かあいくなろうと努力してるコがかあいいのは当たり前だし、そのコのことをかあいい、っていってどこが悪いのさ。あのコなんてすっぴんになったら、とかってすぐいうけど(中略)関係ないじゃない、化粧してかあいけりゃ。

ああ、自分の性やジェンダーについて小難しく考えなくてもいい時代に、すっと大人になりたかった(笑)。って、そんなに真剣に考えて生きてきたわけでもないですけど。
『ギンガム・チェック』は、『バック・トゥ・キャンパス』と名を変えてのちに文庫化され、そちらは東京に持って来ているのですが、やっぱり仲世朝子さんのイラストに合った80年代らしいポップな装丁の単行本のほうが雰囲気が増しますね。
巻頭には、本人のモノクロポートレイトが4ページにわたって掲載されているのもなかなか貴重です。関西学院と言えば大江千里ですが、ちょっと感じが似ているのは校風のせいでしょうか。

2冊目の『シンプルな真実』は、もう少し時代が下って、90年代に書かれたものなので、だいぶ落ち着いて内省的になった印象もありますが、車やお酒、オペラやクラシック音楽についての薀蓄は相変わらずの饒舌ぶりで、独断と偏見に満ちていて、やっぱりウキウキします。
「夕飯のパスタを茹でながら安い白ワインをくいくい飲む」とか、「うだるような暑い日にトリスタンの《前奏曲と愛の死》を聴きながらよけい暑くなって、死ぬ―とか云いながらうだうだお昼寝するのが好き」みたいな記述を読むと、いいな~その感じ、と、昔も今も思います。
ひねくれてるなと思うところもあるけれど、根底が健全、陽性で(「若いうちは、村上春樹ではなく片岡義男を読もう」とかね!)、読んでいて気持ちがいいのです。やんちゃだけどお上品で、悪意や嫌味ったらしさがなくて、ちゃんと恋愛を信頼していて。そう、平中氏のエッセイをひと言で表すなら、「気持ちがいい」がいちばんしっくり来る。だから、実家でぬくぬく過ごしているときに、何度も手に取ってしまうのかもしれません。次の帰省時には、芦屋か夙川あたりの喫茶店に持ち込んで読んでみるかしら…。

現在はパリ在住で(いつの間に?! どんな紆余曲折で??)、フランス人作家パトリック・モディアノの作品を2冊翻訳していますが、ご自身の作品は、『ミラノの犬、バルセローナの猫』(エッセイ)を最後に出されていないのが残念です。最近、『ベルリン日和』という短いエッセイだけ、電子書籍になっていたのでさっそく拝読しましたが、やはりエッセイは一編だけでは物足りない! 電子でもいいので、ネタもマニアックでいいので、いつかまた、まとまったエッセイ集を読みたいものです。パリ案内とかもいいね!

2018年01月21日

小室さんの「引退」について

テーマ:偏愛

前回の続きを書いている最中、他ならぬ小室さんのニュースが飛び込んできて、頭の中はそのことでいっぱいです(いや、他にもっと考えるべきことはあるのですが…)。
さまざまな言葉がずっと脳内を駆けめぐっていて、早く吐き出さないと消化不良を起こしそうなので、上手くまとまらないかもしれないけれど、思いつくままに書きます。

 

不倫云々は、本人も、己の男性機能の低下にまで言及して(!)否定していることだし、そもそもどこまでがセーフでアウトなの? という疑問もあるので、わたしの中での重要度はそんなに高くありません。
それよりも、会見でも話していたように、今回のことはきっかけに過ぎず、20年も感じていた才能の枯渇や自分の音楽をもう時代が必要としていないんじゃないかという自問自答がまずあって、さらに先の見えないKEIKOの状態と介護のことで、とっくに目一杯になっていたんだと思うのです。
ここ数年、小室さんは積極的にメディアに出ていて、なんだかんだで愛されてるじゃん小室さん!と嬉しかったけれど、ほとんどは90年代のブームの振り返りばかり。常に破壊と創造を繰り返して、新しい未来を語ってきた小室さんには、じわじわと辛かったんじゃないのかな。
かく云うわたしだって、近年の仕事よりも、もっというなら90年代よりも80年代のTM期がなんだかんだでいちばん好きなんだけど…ごめんなさい小室さん。そもそもがTM NETWORKのファンだからそれは許して!でもAAAに提供した曲は聴いてますよ!「仮面ライダービルド」の曲も「アイナナ」のTRIGGERの曲もかっこよかったですよ!
こんな云い方はよくないけれど、不倫に至れないくらい弱っていることのほうが、ファンとしてはいたたまれない。昔の女性遍歴を考えたら、こんなもの悲しい不倫報道は小室さんらしくない。
いまはとにかく疲れているんですよね、小室さん? 疲労が云わせているんですよね? しばらく休んで、体調整えて、疲れが取れて、心身ともに余裕ができたら、また音楽を作って、帰ってきてほしい。

 

ファンの前に今後姿を表す可能性を尋ねられたとき、
「「なんでもいいから、生き恥晒してでもいいから、音楽作れよ」という意見が何割あるのかというところで。(中略)この時代ですから数字に如実に全部出てきますので。その数字に従いたいかなぁと今漠然と思っています」
と答えていた小室さん。
数字とは、売り上げのことなのか、SNSなどの反応のことなのか分からないけれど、期待があれば応えてくれるってことだよね? とわたしは一縷、いやもう少し多めに望みを抱きました。だって、「”悔いなし”なんて言葉は一言も出てこない」って云ってるんですよ?音楽に未練ありまくりじゃないですか!少なくともツイッターは小室さんを惜しむ声で溢れかえっているんですから!
生き恥だなんて全然思わないけれど、生き恥さらしてでも音楽を選んでほしい。安室奈美恵の引退は潔くてかっこいいかもしれないけれど、そうじゃない、見苦しくもがくことのかっこよさもきっとあるし、そこに心を揺さぶられる人だってたくさんいるはず(その意味で、浜崎あゆみは立派だなと思う)。現に今だって、そんなにも長い間、才能の枯渇を感じながらも音楽を続けてきて、ちゃんと納期も守ってきて(1週間遅れで反省するなんて…YOSHIKIとかどうなるんですか!笑)、私生活では家族の辛い姿と向き合ってきて…その必死に生きる姿だけでもう、尊いとさえ思う。どこかのインタビューで、お墓には「I’m proud」と刻みたいって答えていたけれど、小室さんは十分すぎるほど頑張ってきたって、みんな知ってますよ。
宇多田ヒカルの登場で自分は終わったと感じた、という話をあちこちでしていますが、会見によれば、今はそういう存在は日本にはいなくて、あくまでも自分との戦いだと。
90年代みたいなブームはきっともう来ないでしょう。でも、てっちゃんとか先生とか呼ばれて、仲間と一緒に音楽をやっていた原点に、また戻ってくれたらいい。音楽がただ好きだったころに。坂本龍一みたいに、自分のやりたい音楽に徹して創作していくのもいいと思う。

 

会見の小室さんは茶化す余地もないシリアスさだったけれど、ふと「不倫報道で引退宣言までジャンプするなんて、さすが小室さんは希代のトリックスターだわね」と、妙なところで感心してしまうファン心理(笑)。
不倫の釈明のはずが、最後は社会における介護問題への言及で終わるという「???」な展開も、なんだか小室さんらしいな、と微笑ましかったりして。
まだどこかに、メディアを騒がせたり、世間を驚かせたり、人を煙に巻いたりするユーモアやサービス精神、或いは不遜さが残っているんだと信じたい。

 

ちょっと話が逸れますが、これは小室さんに限ったことじゃないけれど、アーティストの道徳性を厳しく問うのはなんだかナンセンスだなと思ってしまいます。むしろ破天荒に生きて欲しい、すべてを芸や作品として昇華してほしいと、どこかで願っているから。普通の人と違うからこそ生まれる目も眩むような創造(TMで云うところの”金色の夢”)に、普通の人は期待しているのです。
だから、数々の不倫報道過熱の先駆けとなってしまった川谷絵音とベッキーの件も、「それはそれとして、でも彼の作る音楽はいいし、才能あるよね」と思っていて、運悪くバンド名に「ゲス」なんて言葉を入れてしまったせいで格好の餌食になって燃えに燃えたんだよね、とか、だいぶ甘々な感想を抱いています。まあ、今回の小室さんの件と比べたら、遙かにタチの悪い話ではあるでしょうが…。
あの報道が出る直前のゲスの極み乙女。というのはまさに上昇気流に乗ったアーティスト独特の輝きがあって、あのまま順調に行っていれば、もっとその才能や音楽性に注目されるべき存在だったと思うので、もったいないことです。
それでも、まだ若くて体力も気力もあって、なにより自分の才能を信じられるから、世間がなんと云おうと復帰して、バンドも続けていて。このくらいの自信と図太さが、今の小室さんに小さじ1杯くらいでもあればね…と思うけれど、それは酷な話ですね。
「病的なのはメディアでも週刊誌でもない。紛れもなく世間」などと本人がコメントしていて、「お前が云うな!」とまた叩かれていますが(笑)、ここまでの大騒ぎになった要因は、文春のせいだけでもなく、大衆の憎悪に拠るところが大きいのは否めないと思います。週刊誌がこういう商売なのは、今に始まったことではないのですから。
だから今回も、文春を許さない!なんて気炎を吐いている方も多いけれど、全面的には賛同できない違和感があります。
小室さんの今回のことはやむをえない事情があるから…と擁護する役目は大衆が果たせばいいのであって、そんな曖昧な基準で誰かはボロクソに断罪して、誰かは擁護するというのも、メディアの姿勢としては違うのかなと思ったり。トピックの内容を見て判断するのは結局、大衆だということは、この2つの不倫報道を見ても顕著ですよね。

 

まあ、もっと根本的な話をすると、一般常識として不倫は許されなくて、アーティストや事情のある人だけが許される(許されてないけど…)というのも変な話なんですけどね。
どんなに倫理的、社会的に間違っていたとしても、恋愛の世界では愛し合っている者が勝ち、というのが否めない実感です。今や懐かしいセンテンススプリングのLINEも、なんて浅はかで、愚かで、でもむず痒くなるほど甘酸っぱくて、中二マインドがざわざわしたものでした。まさにスピッツが云うところの「誰もさわれない ふたりだけの国」ってやつ。
妻にはもちろん怒る権利があるわけですが、常識や正しさとは別の尺度が、恋愛には存在していて、そこから弾き飛ばされてしまったときに出来ることって、正直何もないな…とも思うわけです。どんなに世間が味方になってくれたって、倫理的に自分が正しくったって、いちばん大事な人の気持ちがこっちに向いていなければ、いくら相手を責めても報われることはないですよね。悲しいし、悔しいし、理不尽だけど、愛し合っている者同士が正義なのが、恋愛の国。
自分も結婚しておいてなんですが、一夫一妻制の結婚というのは、欠陥も矛盾も大いにはらんでいるシステムだと思います。
既婚者とそうでない人の浮気の罪の重さは、”法的に”違うということであって、契約書にサインした以上は契約は守りましょうということでしかない。まあ社会においては、その契約が重要なわけですが。
浮気相手に対する、"泥棒猫”という言葉がありますね。確かに、法的な契約が存在する以上、泥棒と見なされても仕方ない部分はあります。しかし、他人の心は、たとえ夫や妻であっても、もちろん親や子どもであっても、所有はできません。契約書によって相手の心を所有していると考えるのは、人の心を金で買えるという考え方にも似ていないでしょうか?

 

おっと、話がだいぶ脱線してしまいました。不倫のことはこの際、重要ではないと云ったはずなのに(笑)。
ともかく、今回の引退に至った経緯の重要度は、才能の枯渇>介護=自身の体力>>不倫なんじゃないかなと思います。
天才に限ったことではなく、人間はどうしても人生のピークを基準にしてしまうけれど、今は今のベストを尽くして生きることしかできないし、常に成長し拡大し続け、走り続けるべきとも思いません。だって、生命体である以上、物理的に無理だから。

 

小室さんにはとにかくしっかり休んで、宮崎駿監督みたいに、「引退するする詐欺じゃん」とか云われながらも、そのうちしれっと戻ってきてほしい。それがいつになってもいい。わたしなんてもともと、2011年という謎のタイミングでハマったファンですしね!

2018年01月11日

実家で読みたいあの本この本①

テーマ:偏愛

あけましておめでとうございます。
このブログも死んだも同然の状況ですが、年始に、未だブログを気にかけてくれている旅友達に会い、「せめて1カ月に1回くらいは更新してえな」とありがたいお言葉をいただきまして、年始くらいはやる気を出そうかなと思った次第です。
ただし、同じ友達に、昨年の年始にも同じことを云われたにも係わらずあのような更新頻度なので、今年も期待はしないでください。。。

さて、ただでさえ少ない更新なのに、不妊治療のつらい話ばかりを書いて、ますます読む気が失せてしまっている方もいらっしゃることでしょう。
閲覧者が少ないのをいいことに、今年もまた、掃き溜めの如くここでそのネタを書く可能性大ですが、リハビリがてら、今回は軽い話題にしようと思います。

この年末年始も一人実家に帰り、こたつにもぐるかセールに行くかという自堕落な毎日を過ごしておりました。
ぐうたらするならするで、せめて積読になっている本を消化できればいいのですけど、実家に帰るとつい、昔懐かしい、既に何度か読んだ本を読んでしまいます。
そのなかでも登場回数が多いのが、高河ゆんの『REN-AI 恋愛』、平中悠一のエッセイ集『ギンガムチェック」『シンプルな真実』、青木光恵の『きせかえごっこ』、青木景子の詩集、そして山岸涼子の短編集です。
半分以上マンガなのは、実家に帰ってまで頭を使いたくないという気持ちの表れかもしれません(笑)。

書名を聞いてもピンとこない方が多いと思いますので、ひとつずつ解説していきましょう。

高河ゆんという漫画家は、わたしくらいかもうちょっと上の世代のマンガ好きにとっては、特別なきらめきを放つ存在でした。
二次元のガラス細工の如き流麗な絵、中性的な美形のキャラクター、SFともファンタジーともつかぬ不思議な世界観。そして、研ぎ澄まされた詩のようなネーム。
それまで『りぼん』や『なかよし』のTHE少女漫画しか知らなかったわたしは、とにかくすべてが、新しくてかっこよく見えました。今でも、仕事で人間の絵を描く必要がある時、つい目の形を高河ゆん風にしてしまうほど影響されています。

初期の代表作『アーシアン』や『源氏』のようなSFやファンタジー作品が多い高河ゆんですが、唯一(?)妖精や吸血鬼や宇宙人などが出てこない、普通の世界を舞台に“少女マンガ”を描いたのが『REN-AI 恋愛』です。
時代はバブル絶頂期(1989年)、人気アイドルの藤緒理真を一方的に、熱狂的に愛する容姿端麗な男子高校生・田島久美(久美と書いてひさよしと読む。で、あだ名はクミちゃん、というネーミングがまたいい)が、追っかけ中に、理真のマネージャーである池柴という男にスカウトされ、理真に近づきたいという執念だけで芸能界に入るというストーリーです。
まだアイドルが今とは違う輝きを持っていた時代、アイドルを応援するための手段が葉書や電リクしかなかった時代の、ノスタルジックだけど硬質なおとぎ話。いわゆる芸能界モノにありそうな泥臭さはなく、あくまでも都会的なシャープさとキラキラ感に溢れています。
三田高校出身の高河ゆんが、実際によく遊んでいたであろう芝浦あたりの描写など、大阪の平凡な住宅街で育ったわたしには、たいへん眩しく見えたものでした。東京に移り住んで10年になろうとする今でも、わたしの東京の正しいイメージはそのあたりの世界で、今は東京の抜け殻に暮らしているような気持ちです(ヒドい言い草)。

どうやって久美ちゃんは芸能界で成功して、理真と結ばれるんだろう?! と続きを楽しみにしていたのですが、その後、作品は数奇な運命を辿り、現存する作品は、実に複雑怪奇な構造になっています。
まず、1、2巻が出たあといったん休載になり、10年後(!)に3巻が出て完結はしたのですが、2巻と3巻の間のストーリーにも10年の歳月が流れてしまい、いきなり久美と理真が夫婦になっているじゃないですか! しかも、その10年の歳月を埋めるべく『恋愛ーCROWNー』という焼き直し的なマンガが全4巻出ているというややこしさ。
わたしが好きでたびたび再読するのは、初期の『REN-AI』の1、2巻限定です。この2巻までのように、ヒリヒリしたテンションで続いて完結していたら、本当に大傑作になっていたんじゃないかと思うんです。『CROWN』は正直なところ、いくら主人公が変わらなくても、別物としてしか読めませんでした。絵もやや甘ったるくなってしまったし…。
『REN-AI』では、久美の理真に対するストーカー的な片思い、子持ちで年齢の離れたマネージャーを密かに好きになってしまう理真の報われない恋、マネージャー池柴の久美へのビジネスともそれ以上とも見える興味、久美に片思いする女の子の兄が妹に抱く度を超えた愛、デビューした久美にただひたすら「田島久美」と名前を綴った手紙を送ってきたファン心理など、恋愛が持つ狂気や執着が、さまざまなかたちで描かれます。
スタイリッシュな絵とネームに助けられてそうは見えないものの、ひとつひとつの恋愛は切実すぎて危なくて、さすがはやおい界のスーパースター、と妙な感心をしてしまいます。
ちなみに久美ちゃんは、連載当時のファンレターで「小室てっちゃんがモデルですか?それともウツですか?」という問い合わせが多かったそうです。藤井フミヤという声もあったらしいですが、実際は岡村靖幸がモデルとのこと。
美形で、勉強ができて、超生意気で、フェミニスト。でも過去になにか訳あって、女の子とばっかりつるんでいるという設定も気になるところでしたが、この伏線は、『CROWN』ではまったく回収されていないどころか、なかったことに…。

愚痴はともかく、とっくに終わった作品に未だに愚痴を云いたくなるほど、初期2巻は素晴らしい出来栄えでした。
この作品に限らず、最初の展開はいつも神懸かっているんですよね。同年代でやはり高河ゆんの洗礼を受けた友達は、「ふろしきの広げ方がすごい」と云っていましたっけ。でも、ふろしきを畳めないんだよね~(泣)。畳み方が下手くそというだけならまだしも、未完で終わっちゃうし!(ブログの更新の遅いわたしが云えた義理じゃないけど…まあこちらはアマチュアですし…)
他作品同様、『REN-AI』もいいネームが満載でした。
例えば、芸能界に入りたての久美が、理真に対して意地悪な言葉を投げつけてしまう場面で、久美はこう云います。
「ただ…あの口で …あの唇で あの声で ぼくの名前を言ってみてほしかっただけだよ」
今の時代では、※ただしイケメンに限るという注釈が必要になりそうですが、片思いの切なさが滲み出る良ネームです。
アイドルの定義について、理真のマネージャーである池柴さんが久美に話す言葉も秀逸でした。
「アイドルっていうのはねえ ただの魔法使いだよ 誰でも味方にしちゃう力を持ってる ただの魔法使いさ」
なんかこういう、素晴らしくキレのあるネームを読むと、これぞ高河ゆんの真髄!と今でも興奮します。

余談ですが、このころ出した『CYCLAND』という、エッセイ、マンガ、日記がごちゃまぜになったファンブックも、たまに読み返したくなる本のひとつです。
時代も、ご本人もノリにのっていたころでしたね。免許も無いのに高級車を買ったり、アシスタント全員連れて1カ月間ハワイに行ったりと、疾走感溢れる、なんともリア充な日々。生意気を絵に描いたような言動や行動にも、若気の至り独特の輝きがありました。
短いエッセイが10本程度入っているのですが、「美学」について、「ほんもの」についての話は、当時120%の勢いで頷きながら読んで、その後も何度も読み返した記憶があります。

最近の漫画も読んでみたいですが、『LOVELESS』はまた例によって未完なのですね…。

おっと、一つ目から長くなってしまいましたので、更新回数を稼ぐためにも、次に回すとしましょう(頑張れ、わたし!)。

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