おそらくもう交わることのなかった人生が、訃報という形で交差するということが、今後、自分が死ぬまで起こり続けていくのでしょう。


久しぶりに更新したと思ったら、また訃報の話で、もうこのブログは人が亡くならないと更新されないかも知れませんね(苦笑)。

強く思うところがあるわけではないのですが、今わたしは意識的に、ブログだけでなくSNS全般で何かを発信することをやめて、というか休んでいます(閲覧はしています)。一番の理由は過労による時間の無さと面倒くささなのですが、一生かけても消化できない量の発信物で溢れ返る世の中に、さらに何かを発信する動機が見出せないという反抗心のような気持ちもあります。


そういった諸々を振り払うのは、もはや人の死しか無いのかよと自分に呆れつつ、何故書くのかというと、自分が知っていることを書き留めておくことが、ある種の供養にもなるのかも知れないと思ったからでした。

ただ、今回は亡くなったのが昔に付き合っていた人だったので、色々気を遣うのですが、それ故にまた書き残しておきたい気持ちもあり……差し障りの無い範囲で書いてみようと思った次第です。


と云いながら、それはもう昔々、長旅に出るよりさらに前の話で、正直なところ、差し障りがあるほどの詳細を覚えていなかったりします。

その人自身のことや家の間取りなんかは朧げながら記憶していますが、どんな会話をしていたのか、どんな風に一緒の時間を過ごしていたのか、共通の趣味があったのかなどがきちんと思い出せない。実はわたしの捏造なのでは⁇と疑われても強く反論できないくらい記憶が曖昧なのです。当時の雑記帳でも出てくれば多少は蘇ってくるでしょうが…

しかし、ひとつだけはっきりしている出来事があって、それは、クリスマスに「ケイタマルヤマ」の財布をプレゼントしてくれたことでした。赤とピンクのブロック模様の二つ折り財布。それは、今のわたしでもかわいい、使いたいと思えるデザインでした。


共通の友人から電話で訃報を受けた時、それが突然死だったこともあってただ驚きと、悲しみになる前の未熟な感情が渦巻くばかりでしたが、わたしはその時たまたま大阪に帰っていて、実家で真っ先にしたことは、その財布を探すことでした。滞在中、暇を見つけては狂気に取り憑かれたように探し回りましたが、結局は見つかりませんでした。

わたしは典型的な「物を捨てられない」性質で、なおかつ物欲が人一倍強いので、いくら関係が終わった相手に貰ったからといって、まだ使える物をわざわざ捨てることは考えにくいのです。使い古して捨てたんだろうか?でも、他の古い財布はちゃんと置いてあるし…

恥ずかしながら、わたしはこれまでの生涯、安定的な恋愛関係を築けたことがほとんどありません。そんな中で、ちゃんとしたクリスマスプレゼントをくれた相手というのは、たとえ現在、何の交流も無かったとしても、人生から消去されることはない貴重な存在だったのだと思い至って、初めて涙が出てきました。


その人との付き合いは、いま思えばわたしの勝手でフェードアウトしたのでした。母親が亡くなった時、あまり親身になってくれなくて(と、わたしが一方的に感じて)、連絡をわたしの方から絶ったのです。ある時、電話があって、嫌いになった?と聞かれ、わたしは曖昧な返事をし、そのまま終わったという記憶です。それから1年以上が過ぎて、わたしが海外に旅立つ前、その人と、共通の友人がささやかな飲み会を開いてくれたのは、どういう成り行きだったのかよくわからないものの、その頃には気まずさやわだかまりは無かったということでしょう。


ここまで読むと、わたしがその人をずっと忘れられずに執着しているようにも見えそうですけど、訃報を聞くまでは1ミリも、頭の片隅にもその存在は消えていたという薄情ぶりでした。おそらく向こうもそうだったのではないかと思います。

旅行中に連絡を取り合うこともなく、帰国してから顔を合わせたのも何年も経ってから、共通の友人たちの飲み会で一度きりでした。その時も、別に気まずいとか嫌なことがあったわけでもなかったのに、SNSで繋がることも特にせず、飲み会で再び会うこともなく、単身赴任で関東に来ていたことも知らなかった。

だから、訃報によってまさに亡霊のようにその存在が現れたのであり、珍しくブログを書いてしまうほど心を占拠されてしまっているのは、いったいどういう感情の仕業なのかと、自分でも混乱しています。

他の、例えば一方的に好きだった人や短期間だけいい感じになった人が亡くなったら、同じ気持ちになるかと想像してみるけれど、いまいちピンと来ません。その決定的な差が、あの財布に象徴されているような気がします。


この大断捨離時代、プレゼントは花や食品などの消え物の方が相手に迷惑がかからない、という考え方が主流ですが、やっぱり物には何らかの、魂や気が宿るのだとわたしは思います(だから迷惑にもなりますが)。気持ちが形にならないからこそ、人は何とかしてその一部を物に託し、物に結晶させるのではないでしょうか。

財布を見つけたいのは、それをくれた人が確かに生きていて、わたしの人生のある場所に確かにいたという事実を証明できる、わたしにとって唯一の手がかりに思えるからなのかも知れません。「過去というわれわれの時間の部分は、神聖で特別なものだ」と書いたのはセネカでしたが、たとえ記憶が大量の埃に埋まっていても、過去だけが人間にとって確かなものなのだと痛感します。


人を食ったように飄々としていて、周りからはちょっと変わり者と思われていて、真面目な顔して突拍子もない言動をする天才肌という印象の人でした。その不思議さの正体に近づきたくて、好きになったんだっけな、と思い出します。

あの時もし付き合いをやめていなかったら、旅にも出ずにこの人と歩む人生という別世界もあったのだろうか、なんていう妄想はあまりにも感傷が過ぎるというものですが、せめて、関東にいたのなら一度くらい飲みに行って、ゆっくり来し方行末を聞けたらよかったな……と、今さら詮のないことを思うのでした。R.I.P.

千葉雄大が『ポーの一族』ミュージカルでアラン役を演じると聞いてからというもの、それまですっかり抜けていた『おっさんずラブ-in the sky-』オタクの魂が再び帰って来て(お盆かよ)、また心が忙しく汗をかいているのですが……。
今回はその話ではなく、今年一楽しみにしていたと云っても過言ではない映画『窮鼠はチーズの夢を見る』についてです。
いつものごとく、ネタバレに全く配慮しない内容ですので、これから観たいという方は何卒ご注意ください。

原作漫画を読んでドはまりしたのはもう8年くらい前のことで、ブログでこんな記事もしたためておりました。

https://ameblo.jp/hourouotome/entry-11199307648.html?frm=theme

 


当時は、二人の主人公――大伴恭一と今ヶ瀬渉をよりリアルに感じたいと、人生で初めて、ドラマCDなるものまで購入したほどでした。
それがまさかの実写化、しかも主役二人が人気俳優、監督もメジャーな人とあって、期待するなという方が無理な前情報。まあ、6月公開予定がコロナ禍で延期になってからはしばし放念していましたが……。
SNSでネタバレしない程度に感想を見ていた限り、とにかく言及されていたのは「これがR-15でいいのか? R-18でもおかしくないのでは?」という点でした。つまり、がっつりやってますよということですね(身も蓋もなくてすみません)。
まあ、一腐女子としてそれを楽しみにしていないと云ったら嘘になりますし、メジャーな、しかもジャニーズの俳優がそこまでやってくれるの?という何やら有難みのようなものはありつつも、この作品の魅力はそこだけではないと思っているので、ほどほどの期待を持ちつつ、映画館へ。

映画は概ね原作の筋を追っており、話もキャラクターもそこまで改変はされていないのだけど、なんだか別の作品を観たような、不思議な感覚でした。
原作が好きすぎて失望したというわけでは決してなく、しかし原作を越えたという感じも無くて、この気持ちをどう表現したらいいのか、とても困っています(笑)。
原作は、やや説明的にも見えるほど饒舌だし、二人ともけっこう感情をむき出しにしてぶつかり合うので、恭一と今ヶ瀬の心情がよくわかるのですが、映画はそのあたりを敢えて省略して、行間を読ませているという印象を受けました。その分、原作を知らずに観た人はどう思うのだろう、これでわかるのかな?とも。
一緒に観に行った友人が『ブエノスアイレス』みたいだねと云っていて、確かに、あんな感じの気怠さと、起承転結的な展開のなさ、煮詰まったようなうだうだした人間関係は似ているかもしれません。『ブエノスアイレス』から色彩と体温を引いた感じとでも云えばいいでしょうか。

好意を寄せてくる相手と何となく関係を持ってしまう“流され侍”の恭一のクズさは、映画のほうが際立っていたと思います。
ドラマ「モンテ・クリスト伯」の南条幸男(原作ではフェルナン)役で印象に残っていた大倉忠義の、綺麗なんだけど何を考えているかわからないようなビジュアルは、上っ面だけよくて中身はけっこう酷い男という意味では満点のはまり方で、特に後半、かわいい後輩のたまきと結婚寸前まで行って別れを告げる場面は、原作以上にたまきが気の毒になりました。
原作の恭一は、もうちょっと可愛げがあるんですよ。クズというよりヘタレというか、でも時折ふっと見せる男のかっこよさや、本物の優しさがあって、今ヶ瀬もわたしもそういうところにときめいてしまう。原作で、「お上品にとり澄ましてるけど本当は体の奥底に欲望と情熱を隠し持っている」と今ヶ瀬が評する恭一像とは、ちょっと違ったかな?と。
今ヶ瀬には、線が細くて少しきつい眼もとの、クールな黒猫のようなイメージがあったので、最初にキャスティングを聞いたときは、犬っぽい顔の成田凌でよいのだろうかと思いましたが、背が高くて華奢な体つきや、爬虫類のようなねちっこさでだんだん今ヶ瀬に見えてきました。ぬめっとしていて常に不穏な雰囲気を漂わせているんだけど、時々それこそ従順な犬のようにかわいい。男でも女でもないような不思議な存在感がありました。
恭一を取り巻く女性たちのキャスティングはいい案配でしたね。原作で重要な役割を果たす、それぞれにキャラの立った女性たちなので(ただし、映画で恭一が関係を持つ取引先の女性は、原作では言葉でしか出てこず、原作で登場する、同窓会で再会して関係を持つ人妻と融合したのかなと)、脇と云えども外してほしくないなと思っていましたが、それは杞憂でした。
さとうほなみが演じる夏生、吉田志織が演じるたまきもはまっていましたが、なかでも恭一の元妻・知佳子を演じた咲妃みゆは宝塚時代、“北島マヤ”と称されていただけあって、こんなちょっとした出番でも絶妙に印象に残りました。知佳子が恭一に離婚を切り出すときのセリフ「(あたしが何か言うのを待ってる空気がもう)キモチワルイの」これをどう云うか、めっちゃ注目していました。原作よりもリアリティのあるキャラでしたね。

体感R-15以上と評判のあれやこれやのシーンは、なんというか、わりと即物的に感じました。音や動きは生々しいんですけど、その分、妙に冷静な気持ちになってしまったというか(笑)。二人とも綺麗な体で、脱ぎっぷりも素晴らしいし、嫌な感じは全然しなかったですが、萌えるかと云われるとどうだろう……? 萌えの観点なら、キスシーンのほうが度数は高かったかな。
でもこれ、自分が好きな俳優だったらまた感想が違ったかもしれません。これが例えば、あり得ないけど四×成とかだったら、鼻血噴いて倒れていたか、あまりに刺激が強すぎて目を覆っていたかのどちらかでしょう。。。

映画でここは入れて欲しかったなと思ったのは、2つ。
1つは、リバに関しての何かしらの伏線です。映画では、行為の際の立ち位置がさらっと変わっているのですけど、原作では、恭一が行為中に“本当は今ヶ瀬は俺に抱かれたいんじゃないのかな”と考えるモノローグが前置きとしてある。ここは、基本的にリバNGが多い腐女子じゃなくても重要なポイントだと思うのです。わたしはこのリバはあり寄りのあり、むしろこの物語のカギと云ってもいいくらいの要素なので、あれ、流されちゃった?と残念に思ってしまいました。
もう1つは、原作では2巻目の『俎上の鯉は二度跳ねる』のハイライト、別れを決めた二人が海へドライブに行くシーンで、今ヶ瀬が恭一を“人の好意を嗅ぎまわってそこに付け入る酷い男”だと罵りながらも、いかにいい男なのかということも噛んで含めるように聞かせる語りですね。まあ、映像でこれをやったら説明的すぎるかなとは思うけれど、映画ではこの“いい男”の部分が端折られていて、ますます恭一がクズ寄りのクズに見えてくるという(笑)。
だけど、このシーンの映像はとても美しかったし、今ヶ瀬が「心底惚れるって、その人が“例外”になるってことなんだけど、あんたにはわからないか」と云って、恭一が「いや、わかるよ」と答えるやり取りは、饒舌でないからこそ伝わる情感に溢れていたと思います(この“例外”のセリフ、原作にもあるけれど、この場面じゃないんですよね)。
また、原作とは違う余韻たっぷりのラストシーンは賛否あるみたいですが、この映画に終始漂う曖昧さを鑑みると、映画のラストはこれでよかったのではと思います。

ところで、この手の作品で必ず付きまとう“(同性愛ではなく)人間同士の愛の物語”といった言説は、例外なくこの映画でも云われているわけですが……。
ジェンダーのタブーや差別が、少なくとも表面的には激減した時代にあって、男も女も関係ないと“云う”のは簡単だし、人間同士の~と普遍的な方向に持って行きたくなる気持ちもわかるんですが、現実は、ゲイかノンケかに関わらず、自分の性癖を越えていくということは、そんなに容易ではないと思うのです。仮に自分が、女性を相手に考えてみても、社会的にどうとかいう以前に、性的に惹かれるということがあまり想像できないというか……。それはもう単に、肉体の性癖としか云いようがないし、越えられるかどうかは実際にやってみないとわかりません。
だから、どノンケの恭一が、ゲイの今ヶ瀬を精神的にだけでなく、肉体的(性的)にも受け入れるというのは、それなりの逡巡や躊躇いがあっても何ら不思議ではなくて、そこを無視したり、差別的と捉えたりするのは、なんか違うかなあ……と思います。

原作は折に触れ再読していますが、映画もいずれ再視聴して、初見では気づかなかった細かな部分にもう少し目を凝らしつつ、映像表現と漫画表現の違いを味わい比べたいですね。
しかし……もうこれを上回るほど楽しみなコンテンツがあるとしたら、in the skyの映画化か、おっさんずラブ3の発表か、『聖なる黒夜』の実写化くらいしか思いつきません。誰か、誰か実現してください。。。

このブログの更新頻度を見てもお分かりになるように、わたしのSNSの殆どは活動休止に近く、中でもFacebookに関しては、自ページの更新はすでに数年前からやめており、ほかの人の記事もほぼ見ていないという状況で、たまに目についたらいいね!を押しているという体たらくです。

そんな中、ムギさんからメッセンジャーが入っていて、あれ、懐かしいな、なんだろうと思って開いたら、ある共通の友達の訃報でした。

友達、と書くにはちょっと、いや、かなりおこがましいかもしれません。彼女は、lunablancaというハンドルネームでブログを書いていたブロガーでした。そして、もう随分昔から、わたしのブログを読んでくれている人でもありました。

そう、この殆ど虫の息のようなブログを読んでくれているというだけでも貴重ですが、その中でもlunablancaさんはさらに、時折コメントを残してくれる人でもあったのです。もはや貴重どころではなく、絶滅危惧種に認定のうえ丁重に保護すべき存在です。統計を取ったわけではないけれど、おそらく彼女は、当ブログにコメントをくれたランキングで、間違いなく3位以内に入る人です。

最後にコメントをいただいたのは、おっさんずラブの記事でした。「千葉雄大の味わい深さ」という、まさに味わい深いコメントは忘れられません。当時誰も、この話題には、近しい人ですら食いついてくれなかったのに(泣)。

 

彼女はマメにブログを更新していて、いいね!の数もコメントの数もわたしよりよっぽど多くて、だから自分からコメントを残すことはほぼなかったけれど、野ばらちゃんブログと並んでお気に入りブログに登録し、時々こっそりと見に行って、そっといいね!を押したりしていました。旅だけでなく、映画やドラマ、スポーツと幅広く、色々なネタをこうも軽やかにインプットとアウトプットができるもんだなと感心していました。

多分、わたしより年上の女性で、独身で、北海道に住んでいて(昔、北海道旅行を計画していた時にもコメントをくれて、それで知った気がする)、文章からは理知的な印象を受ける人で、そのくらいしか知らなかった。だけど、10年以上もブログで繋がっていて、身近な人よりもわたしのことを知ってくれていたのかもしれないと思うと、人間関係って何なんだろう、と泣けてきます。

でも、この緩やかな繋がりが、ネットの心地よさでもあったわけで、それ以上踏み込むことはありませんでした。3月5日で更新が止まっていることに気がついてはいたけれど、ちょうどコロナ禍が世を覆い始めた時期で、lunablancaさんも何か思うところがあるのかなと、思っていたのです。自分が、より一層ネットでの発言を控えようとしていた時期でもあったから、勝手にそう思い込んでしまった。或いは、コロナにかかって療養中で更新が途絶えた可能性もあるのかな、と。だけど、気がつけばもう8月。もっとマメにブログを見ていれば、とっくにおかしいと気がつけたと思うけれど、自分のブログを放置していたせいもあって、ムギさんが連絡をくれて初めて、あ、そういうことだったのか…と、己の鈍感さに呆れ果ててしまいました。

 

ムギさんとも、本当に久しぶりのやり取りでした。ムギさんも昔ほどマメにブログ更新してないからな(笑)。

亡くなった人がこうして生きている人の縁を再び繋ぐことは皮肉だし、サルトルも「死者であることは、生者たちの餌食となることである」と見事に喝破しているけれど(樹木希林の死はまさにこれ…)、お葬式は生きている人のための儀式だっていうくらいだから、やっぱりここは素直に、lunablancaさんに感謝すべきですね。

 

ムギさんに限らず、特に旅関係が顕著だけれど、もう随分と連絡を取っていない人がたくさんいて、ある日突然、訃報を聞いてしまうということもあり得るし、逆に、わたしの訃報を突然知る人がいるかもしれません。

なぜ連絡をマメに取らないのかというと、生来の人付き合いの悪さと怠け癖としか云いようがないのですが、この世は諸行無常なので出会う人すべてと生涯に亘って交流が続くことはないという諦めの気持ちもあります。また、集まろうとか会いましょうってことになり、いざ具体的な(日程などの)話をする段になると有耶無耶になってそのまま流れるパターンも昨今はよくあり、去る者を追う習性の無いわたしは、それ以上、何か手を施すこともありません。例年、ある仲間内で持ち回りで行われている誕生日会があり、わたしの番になって、空いている日程を聞かれて答えたのにそのまま梨の礫になったときは、流石に悲しい気持ちになったけどな!
加えてやはり仕事がきつい、例の治療をしつこくやっている、さらに昨年は親が病気で倒れた(いまは幸い、だいぶ回復しました)などなど、まあ要するに自分自分で手一杯なんですよ常に!どんだけ自分が大事なんでしょうかね…。世界の貧困や内戦を憂うことはあっても、知っている誰かを気にかける余裕はないというね…。マザー・テレサも云ってたじゃん、世界平和のために何をしたらいいかと訊かれて、「家に帰って、家族を大切にしてあげてください」って。家族じゃなくても、ここは身近な人とも言い換えられるよね。

 

みんな、という云い方もどうかと思いますが、みんな、元気ですか?こんなしんどい世の中になっているけれど、参ってないですか?(参ってるよね;)

コロナがあってもなくても、自分から集まろうとかいうタイプじゃないけれど、急に他人に興味あるフリをするのも嘘くさいけれど、これからはもう少し意識的に、誰かに会いに行ったり、連絡を取ったり、面倒くさがらずにしたいし、しなきゃなと思います。

 

最後に、lunablancaさんの冥福をお祈りいたします。

 

ムギさんによる追悼記事

https://ameblo.jp/mugi-and-hop/entry-12618674794.html

珍しく続きの更新が早いのですが、表題のとおり、都知事選前にアップしておきたく、今回は番外編。
しかも、2本のうち1本は映画という掟破りですが、どうぞお許しを。

『女帝 小池百合子』
石井妙子

 

これを書いている時点で30万部超えのベストセラーになっていますが、単なる暴露本の域をはるかに超えた、戦慄のノンフィクションでした。
Twitterでは、「都民全員に配りたい」といったツイートもちらほら見かけましたが、わたしも同じ気分で、ちまちまと人に薦めております。何せ、ふだんならkindleで買うところを、人に貸したいがためにわざわざ書籍で買ったくらいですから!!

あちこちで解説されているので、今さらわたしの感想など百番煎じくらいの内容になってしまいますが、まあとにかく云いたいことは、「都知事選の投票前にこれを読んでください!」これだけです。
もちろん、ここに書かれていることが、100%正しいかどうかはわかりません。現に、舛添要一との熱愛については、舛添氏がSNSでひっそりと否定していましたしね。ここは中盤のけっこう盛り上がるところだけに、事実と異なるならもったいない欠陥です。
この点の傷は気になるものの、全体としては、微に入り細をうがつ取材と圧倒的な筆力で、440ページという大ボリュームでも、一級の推理小説のようにぐいぐい読ませます。
わたしは東野圭吾の『白夜行』を思い出しましたが、人によっては松本清張作品や宮部みゆきの『火車』を彷彿とさせるようです。筋書きだけを見れば、この本は「生い立ちに陰があり、権力欲と上昇志向が異様に強い女が、あらゆるものを踏み台にしてのし上がっていくピカレスク・ロマン」と説明することができます。そして、そうしたフィクションであれば、すぐさま映画化できそうなほどの面白さです。
しかし、この本の真の恐ろしさは、これがノンフィクションであり、現職の東京都知事の話だということです。
“カイロ大学首席卒業”の疑いばかりが取り上げられますが、これは1つのエピソードに過ぎません(たいへん重要な話ではありますが)。読後の印象は、とにかく軽薄で信念がなく、息を吐くように嘘をつき、自分が目立つことは大好きだけど、人の痛みが分からない、そういう人なんだなと感じました。
阪神大震災の被災者の陳情を、終始マニキュアを塗りながら聞いた挙句に「塗り終わったから帰ってくれます?」と云い放つ。北朝鮮拉致被害者の家族の記者会見に同席した後、バッグを取りに来て「あったあ!バッグ。わたしのバッグ、拉致されたかと思った!」と冗談めかして云ってしまう。サイコパスという認定をあまり安易にするのはよろしくないかもしれませんが、本気で良心が欠如しているのでは?と思ってしまうエピソードが満載です。
わたしがこれまで読んで最も恐ろしかった本のひとつが、北九州監禁殺人事件のノンフィクション『消された一家』なのですが、この主犯の男を思い出しました。裁判では一貫して自分は悪くないと主張し、時には冗談まで飛ばす。罪状を鑑みればとてもそんな冗談を云える立場じゃなかろうよと思うのですが、傍聴席では笑いまで起こっていたというのです。つまり、この男には人を魅了する何かがあるのです。容姿も悪くありませんし、少し接する分にはむしろポジティブな印象を残すのでしょう。
表面的には普通の人よりも魅力的に見えるというのは、サイコパスによくある特徴であり、だからこそ恐ろしいといえます。

また、サイコパス的な不気味さとともに見逃してはいけないのが、「女性初の都知事」「女性初の総理大臣候補」こういった魅惑的なキャッチフレーズをとことん利用してきた小池百合子の、ミソジニー的な(?)側面です。
男女平等や女性の地位向上など、フェミニズム的な理由から彼女を応援する人も少なくないでしょう。しかし、読み進めていくと、田嶋陽子も指摘していますが、彼女は決して女性の味方などではなく、女性の皮を被った男性(おっさん)に過ぎないのです。社民党の福島みずほも、例えば野田聖子さんにはシスターフッドのようなものを感じるが、小池さんには全くそういうところがない、とコメントしています。確かに、「築地女将さん会」への仕打ちを見ても、女性同士の連帯云々ということは、パフォーマンスとしては大いに利用しても、心の底ではどうでもいいと思っていそうです(苦笑)。女の中で一番偉くなりたいとは思っているかもしれませんが。
かくいうわたしも、もともとは女性同士でつるむのが苦手な人間なので、小池百合子の気持ちがちょっとはわかるかな?と考えてみたのですが、彼女のように男性の中でうまくやっていけるタイプでもないので、やっぱり共感できませんでした。

ともあれ、これを読んでそれでも彼女に投票するという人がいるならぜひ理由を聞いてみたいのですが、政治信条など何もない空っぽな人を御輿に担いでいる方が、正義やイデオロギーを振り回す人よりは結果的に安全という一面もある……のかもしれません。そんな政治はどうかと思いますし、多くの人の上に立つリーダーとしては決して尊敬はできませんけどね。

『君はなぜ総理大臣になれないのか』
大島新


こちらは映画。元・民主党で香川1区の衆議院議員、小川淳也議員の17年を追ったドキュメンタリーです。なお、大島新監督は、大島渚監督の息子です。
劇場の規模が大きくないこと、コロナ禍で客席数が減っていることもあるでしょうが、初日から満席が続くほどの人気だそうです。
小川淳也の政治人生を簡単に説明しますと、東京大学法学部卒、自治省(現・総務省)官僚となったのち、2003年、民主党公認で衆議院議員総選挙に初出馬。この時は落選しますが、2005年には比例代表で初当選します。彼の選挙区である香川1区には、自民党で四国新聞社の一族出身である対立候補がおり、毎回、熾烈な戦いで勝ったり負けたりを繰り返しています。民主党では前原誠司の側近であったため、希望の党騒動で党が分裂した際には、希望の党へ入党。しかし、民進党と希望の党が合流した国民民主党には所属せず、無所属(立憲民主党特別補佐)となって現在に至ります。

政治系ドキュメンタリー映画といえば、思い出すのが、マック赤坂を主役に羽柴秀吉や高橋正明、外山恒一など、いわゆる“泡沫候補”たちを追った『立候補』です。これと併せて、映画監督・真喜屋力の書いた有名なエッセイ「僕とイエスと掘っ立て小屋」(ネットで読めます)を読むと、二度と泡沫候補を嘲笑することはできなくなります。まあ、わたしが筋金入りの判官贔屓だということもあるのですけど……。
地盤・看板・鞄なしの選挙は、かくも過酷な戦いなのかと、これでは政治家を目指す人間が草の根から世に出てくるのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しそうだと痛感します。
小川淳也は極めて真っ当な政治人生を歩んできており、全く泡沫候補ではありませんし、『立候補』的な悲哀とはまた全然違うものの、どストレートに選挙戦を戦っているがゆえの苦悩や苦労がひしひしと伝わってきます。
野球部で頭もよく、爽やかな人気者。そんな恵まれた属性なら、もっとイージーモードで生きていくこともできたでしょう。しかし、「なりたい」ではなく「ならなければ」という使命感を抱いて政治家を目指す。政治を変えるために、自分がやらなきゃいけない。そのことが、家族を苦しめることになっても。
普通は、政治家に限らずたいていの人は初心を忘れて慢心に至りますが、彼は清々しいほど青臭く、初心を汚さずにここまで来た稀有な人なのだと思いました。伏魔殿といわれる政治の世界において、それを保ち続けることのできる人が、どのくらいいるものでしょうか? 彼が、希望の党騒動に巻き込まれて大きな挫折をする場面は、上記『女帝 小池百合子』を既読しておくと、彼の苦悩を5割増しで味わうことができます。
この映画を観れば、政治信条が合わなくてもたいていの人は小川淳也を好きになるでしょう(緊縮財政派なので、わたしも合いませんが……)。出馬から17年、現在、奥さんと住んでいるのは家賃4万いくらの賃貸の家。ホセ・ムヒカかよ!

私が政治家に求める気質として、「気は優しくて力持ち」というものがあります。
これは敬愛する藤永茂先生の受け売りではありますが、「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない」というレイモンド・チャンドラーの言葉にも通じるものがあると思います。本来は人間全般に適用されるべきですが、とりわけ政治家にはこうあってほしい。
彼はまだ「力持ち」という点に置いては弱いのかなと思いますが、優しさや誠実さはよく伝わってきます。まだ49歳、政治家としてはまだまだ若い年齢ですから、いずれ「力」を身に着けて、政治の中枢を担える人になっていく可能性もあるでしょう。
映画の最後に「総理大臣を目指しますか?」と監督に聞かれ、逡巡しながらも、「その答えが『NO』なら、今日にも議員辞職すべきだと思います。『YES』だからまだ踏ん張っている」と云い切ったのはとてもかっこよかったです。

すみません、本を読むスピードに感想を書く手が追いつかず、世の中のスピードにも追い付けず……。
もう①のみでしれっとやめようかと思いましたが、せめて②まではやりましょう……これからは、番号を振るのではなく、続、続々などにしたほうがいいですね(笑)。
今回は、“なんとなく、ゲバラ祭り”です。

『チェ・ゲバラ伝』
三好徹


長らく本棚に眠っていた積読本のひとつです。
フィデル・カストロとチェ・ゲバラの仕事と生涯を、一度通読してみたいという思いはあったものの、なかなか時間が取れずにいました。しかし、キューバの医師団が、感染者が爆発的に増えている最中のイタリアに入ったというニュースを見て、ようやく引っ張り出しました。
こういう世の中で、社会正義とは何なのかを考えるのに、キューバ革命はよい素材だと思います。
少し前、池上彰と松井秀喜がキューバを訪れる番組が放映されていましたが、キューバのよいところ、悪いところが簡潔にまとまっていたと思います。
買い物大好きなわたしにとっては、キューバの“物の無さ”は耐え難いかもしれません(旅行中もちょっと思っていました)。いくら断捨離して無駄を減らし、必要最低限の物だけで質素に暮らすことが推奨されても、そういう“無駄”が世の中を楽しくしていることも無視できないからです。無駄に美しい(かわいい)もの、栄養的にはゼロのおやつが心を豊かにしてくれることは、どんな人にも多かれ少なかれ経験があるのではないでしょうか。
しかし、決して豊かではない国で、教育と医療が無料という事実は、素直に感心せざるをえません。国を支えるものは結局人であり、人を大切にしようという思想が見えるからです。
今回に限らずキューバがこうした危機の際に、医師団を海外に派遣しているのを見るにつけ、物は無いけれど、プロフェッショナルの人材はいる。だからそれを役立ててもらおうという姿勢は、単純に「かっこいい」と思うのです。「人は城、人は石垣、人は堀」という武田信玄の言葉を思い出しますね。そして、そのかっこよさは、指導者であるカストロはもちろんですが、医師でもあったゲバラの理想が息づいているのだと思います。
好意的な目線で書かれているということもあるでしょうが、本を読んで、“かっこいいゲバラ”の印象が変わることはありませんでした。放浪の旅の末が革命家って、できすぎたフィクションですか?! 全バックパッカーがひれ伏してしまうわ! とは云え、最期は無残に殺されてしまいますし、決して完全無欠のヒーローではありませんが、こういった英雄が権力者となってすべからく腐敗の沼に落ちていく末路に比べれば、清潔な精神と志のまま生涯を全うした(短い生涯ですが)稀有な例と云えます。
ゲバラのように生きられる人はなかなかいないと思いますが、世界にとっての良心の象徴として、その名はこれからも輝き続けることでしょう。自分もせめて、心の中に、バッジを付けるような気持ちでその名を刻んでおきたいものです。

『反逆の神話』
ジョセフ・ヒース、アンドルー・ポター


チェ・ゲバラつながりで読んだわけではないのですが、表紙が、みんな大好きゲバラTシャツです。読み進めていくと、このTシャツが象徴しているものがわかってきます。
わたしは、どう自己分析しても左派・リベラル寄りの人間ですが、同時に、そちら側と近似性の高いSDGs、代替医療、フェミニズムなどといったものに、どこかモヤモヤとした違和感を覚えてもおり、右翼の街宣車とはまた違った怖さを感じることがあります。
この本では、そういった左派やカウンターカルチャーが孕む欺瞞を、さまざまな事例から繙いています。エコ、自然主義、パンク、オルタナティブ……あらゆる反体制文化が、結果的に消費(商業)主義に取り込まれ、さらに消費主義を推進して問題を悪化させるという、なんとも救いようのない内容です。例えば、こんな具合に。

有名な一九九九年のシアトル暴動のさなか、商業地区のナイキタウンを抗議者たちが破壊したが、現場を記録したビデオに、前面の窓を蹴りつけている抗議者数人がナイキの靴を履いているのが映っていた。多くの人が思った。ナイキこそ諸悪の根源と考えるのならば、それを履いちゃいかんだろう、と。だが何千何万という若者がナイキを履かないとなれば、当然「オルタナティブな」靴の市場が生まれる。

こうした例が、これでもかと、半ば嫌みなほど(笑)列挙されていきます。
消費主義に反対してきたナオミ・クラインが住んでいるトロントの「本当の倉庫ビルの最上階」とは、カナダにおいて最も価値の高い、マンハッタンのソーホーのロフトにも匹敵する住まいであるという話。
消費主義から脱却して「本当に必要なのは地球だけ」と悟ったミシェル・ローズという女性(日本でいうところの〝ていねいな暮らし”系の著名人)が、有機栽培やシンプルライフの実践のために、開発されていない土地を求めてあちこち飛行機で飛び回り、商売のタネにしていること。
音楽で売れて人気者となったアラニス・モリセットが、充電期間中にインドやキューバを訪れたことが〝人生を変える経験”となり、次のヒットシングルで「ありがとう、インド」と歌ったことに対し、著者は「モリセットに限ったことではない。西洋人は何十年も前から、第三世界諸国を個人の自己発見の旅の背景に使ってきた。」と辛辣に書いています。

全部が全部そうだとは云いませんが、左派やカウンターカルチャーにうっすらと漂う“胡散臭さ”は、体制側のむき出しの欲望と一見違う正義や倫理(悪く云えば“きれいごと”)を纏っているけれど根本は同じであり、地球に優しいオーガニック商品やエシカルファッションが高価で人々の生活に優しくないのは、消費主義をやめましょうという“商売”だからだということでしょう。羊かと思って安心して近づいたら狼だった的な、そうした欺瞞が見えてしまうと、どの口が云うてんねんとつっこみたくもなるし、ユニクロに人々が流れるのも致し方ないと思ってしまいます。
反体制カルチャーは結局のところ「俺はお前たちとは違う」というスノビズムに端を発して単なるマウンティングに陥り、消費主義に取り込まれるがゆえに決して世の中を変えることはないというのが、この本で繰り返し主張されていることであり、世の中を改善できるのは「民主的な政治活動の面倒な手順を経て議論し、研究し、提携し、改革を法制化することで達成したのだ」と、著者は結論づけています。
この手の欺瞞に対しては、反発心もあると同時に、反体制的なものに傾きがちな自分も少なからず持っているものだと感じるので、自戒をあらたにした次第です。ゲバラTシャツは持っていないものの、サパティスタのTシャツはしっかり買ってファッションで着てしまう人間ですからね!まあ、サパティスタが細々とグッズを売って活動資金にしていることは、責められるべきではないとは思いますが……。
半端な反逆ではかえって消費主義に加担してしまう。左派やカウンターカルチャーが本気で世の中を変える気があるのなら、これまでとは違う戦い方をしないといけないということも痛感しました。

『ゲバラ覚醒 ポーラースター1』
海堂尊


ドラマ化もされた『チーム・バチスタの栄光』の作家による、ゲバラを主人公とした大河小説です。こちらは1巻。さらに、『ゲバラ漂流』『フィデル誕生』と続きますが、そちらは未読です。
わたしは、史実とフィクションのバランスにいちいち目くじら立てるタイプのうっとおしい読者ですので(近年の大河ドラマに対してはだいたいこれで怒っています笑)、この小説にも二の足を踏んでいました。
全体を通してやや少年漫画っぽいノリで、ティーンのゲバラが逮捕されたフアン・ドミンゴ・ペロンの解放の手助けをしていたり、ゲバラがエバ・ペロン(エビータ)に懸想していたりというゲバラファンが鼻白みそうな(笑)設定など、なかなかありえない感じの展開になっていますが、当時の南米の政治情勢や、政治的指導者たちの思想や性格がうまく盛り込まれていて、ためになります。巻末には膨大な参考資料が列記されており、著者も相当勉強して執筆されたことがうかがえます。上記の『チェ・ゲバラ伝』でも登場するボリビアのエステンソロや、チリのサルバドール・アジェンデ、チリの国民的詩人パブロ・ネルーダ(五木寛之の『戒厳令の夜』にも登場していましたっけ)、『伝奇集』の作家ルイス・ボルヘスまで南米のスター総出演。なかでも、梟雄フアン・ドミンゴ・ペロンのキャラクターは面白く、中盤、ブエノス大学で講義する場面は、ペロンの人物評を再考させられる一幕でした。
ゲバラのキャラクターは、映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』で描かれた青春真っただ中の、好奇心と正義感が強く、ちょっとやんちゃで甘いとこもある、どこにでもいる気のいい兄ちゃんを踏襲しています。しかし、終盤は『モーターサイクル~』とは違う展開になって結末を迎えます。
なお、この物語ではゲバラもさることながら、ヒロイン的に登場するエビータ(物語上では“ジャスミン”)が肝になっています。わたしはブエノスアイレスでお墓参りに行ったくらいには彼女に興味を抱いておりまして、“派手に着飾りながら貧しい人々の味方をする”という二面性が自分のなかにもある性質だということと、貧しい労働者たちに向けて「あなたたちもこんな服を着ることができるようになる」というメッセージを織り込み、何だかんだで彼らに実質的な果実をもたらしたことに感心するからです。敵には容赦なく、あまりにも神格化されすぎたエビータのやり方は極端だとしても、「みんなで(それなりに)豊かになる」ということは決して間違った思想ではないと思いますが、それは難しいのでしょうかね? 

次回も、あまり期待しないでお待ちください;

前回の記事が、BL映画の感想だったことを思うと隔世の感がありますが……。
ご無沙汰しております。
「おっさんずラブ」にとち狂っていた日々が何億光年前かと思うくらい、世の中がたいへんなことになっていましたが、皆さまつつがなくお過ごしでしょうか?
こういう状況下において、自分の思想や態度をどこに置くべきかは、日々自問自答するばかりです。
今日は正しいと思っていることが、明日には変わる世の中で、簡単に何かを断定して、今日書いたことを明日さっそく訂正するというのも、面倒でいかがわしいし、バカは沈思黙考のフリでもしているほうがマシということは、9年前に重々身に沁みてわかったことです。
ツイッターなどを見ていると、錦の御旗がトピックごとに乱立し、自粛/反自粛、給付金は一律/必要なところのみへ、学校9月スタート/反対、バトンリレーに対する好悪……などなど、戦国時代さながらに対立・分断があちこちで起こっています。一言一句一挙手一投足に正解/不正解ボタンが用意されていて、うっかり早押しすると、有名人はもちろん、わたしのような一般人でも大怪我を負いかねません。
わたしは、現時点では、自粛はほどほどにと考えているし、学校(の1学期)9月スタートは山ほど問題があるのではと思うし、一律給付金はベーシックインカムの第一歩として有難く頂戴するし、バトンは苦手なうえそもそも回ってきませんが、いずれも正しいという確信があるわけではありません。まあ、どういう立場に立っても批判はあるし、何なら立場を表明しないことにも臆病だ卑怯だと批判が集まる世の中です。すべてのトピックをゆっくり勉強して吟味できるわけでもない身ゆえ、脊髄反射的に結論に飛びつかないようには気をつけたいものです。
とか云いつつ、よせばいいのにわざわざブログを更新するにあたって、この騒動が始まってから読んだ本について書くことにしました。本の著者を盾にして自分の身を守ろうという魂胆が見え隠れしますが、何卒ご容赦ください。

『ペスト』
アルベール・カミュ

この3月でしたか、ツイッターで見てびっくりしたのですが、とある書店では「おひとり様1冊まで」という制限があったとか……。
幸い、わが家には積読本として本棚に刺さっていましたので、これを機に読みました。それと前後して、お笑い芸人マザー・テラサワの読書会でもこの本が取り上げられることになり、それにも参加しました。
舞台は194×年、フランス植民地時代のアルジェリアにある、平凡な都市・オラン(架空の町)。そこにペストが突然忍び込み、じわじわと広がっていきます。当局の曖昧な態度、住民たちの躁鬱的な感情と行動、迷信やデマの蔓延、不条理な世界で自分の仕事を黙々と勇敢に行う人々など、まさにコロナ下の今をなぞったかのような描写は、人間の心情や行動は100年くらいでは大して変わらないもんだなと安心半分、失望半分の気持ちを抱かせます。
医師、小役人、旅人、新聞記者、神父など、さまざまな立場にある登場人物が、ペストに対して、どんな態度を取り、どんな行動を起こすかという点が、物語の核になっています。「ペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」だと語り、そのとおりに行動する医師リウーや、よそ者(旅行者)でありながら有志の保険隊に加わり人々を助けるタルーは無論、魅力的であり、人間の美しい部分を象徴する登場人物ですが、読後、妙に思い出すのは、犯罪者のコタールです。
誰もがペストとその恐怖で委縮していくなか、この非常事態、大災厄のなかでは自分の悪事などは取るに足らなくなっていく。そのことでコタールは「俺のターン」とばかりに元気を得ます。ほかの登場人物が皆ペストを敵とするなかで、一人、まるで味方につけているかのようで、“正しい世界”が、万人にとって必ずしも生きやすいとは限らないということを、よく表している人物です。

世界を根底から揺るがすような出来事が起こらない限りは、強固な社会格差のルールから解き放たれることは難しい――かつて、ロスジェネ世代の論客・赤木智弘が書いた「希望は戦争」という言葉や、トランプゲームの「大富豪」における“革命”を思い出します。ウォルター・シャイデルは『暴力と不平等の人類史』で、“平等化の四騎士”として「戦争」「革命」「崩壊」「疫病」を挙げていますね(ここには「災害」も加えたいところですが)。
卑近な例で云えば、あれほど社会的にマイナスに思われていた「引きこもり」という行動が、急に推奨されるようになりました。わたしはいちおう社会人の端くれとして働いているものの、基本的に労働が苦手ですので、この災厄で“不要不急の”労働、つまり人生の債務が制限されていることに、どこか安心してもいるのです。無論、まだ失業しておらず生活できているから云える寝言ですが、本音としては、そんなに働かなくても誰もがそれなりに生きていける、生存と労働を分離できる社会になっていくのが理想です。
今回の疫病でも、せめてこの被害の代替に、何かよい種子が撒かれ、世の中の変なシステムや価値観が是正されないものでしょうか。例えば、一気に推進されたテレワークが今後も当たり前のこととなり、テレワークでもオフィスワークでもどちらでも好きな方を選べるようになって、満員電車の地獄から解放されたり、労働時間の短縮化が進んだりするのなら、一律10万円の給付金を機に、ベーシックインカムが始まって、“働かざる者、生きるべからず”という世の中が変わることに期待したくもなるというものです。

『改訂版 全共闘以後』
外山恒一

都知事選出馬でおなじみの活動家、外山恒一になぜか今更興味をもったのは、彼がツイッターで、「不要不急の外出闘争」を呼び掛けていたことでした。
5月の今でこそ、“自粛警察”という言葉がすっかり定着し(なんなら“自粛ポリス”というあまり変わらない派生語まで飛び出し)、反自粛派も増えつつありますが、緊急事態宣言の前後は、まだまだ自粛派が多かったように思います。
そんななか、「補償しなくても自粛してくれるFラン人民なんぞナメられて当然である。(中略)「頼むから、カネを出すから家でじっとしててくれ」と奴らが懇願し始めるまで街に繰り出し続けるべきなのだ」と呟いていたのが外山恒一です。
“自粛”を“要請”という強制力のなさでも、唯々諾々と従い、なんの抵抗もしない人間でよいのか?という懸念は最もです。このころ、和牛券や魚券ですったもんだしたり、ハードルの高い給付金を掲げたりしていたのが、なんとか一律10万円給付に着地したのも、こうした不屈の(?)闘争精神がなければ引き出せなかった結論という気がしてきます。
一方で、新宿や渋谷といった繁華街以外、わたしの暮らす生活圏では、平日週末に関わらずそれなりに人の出もあり、意外とそんなに自粛もしていないので、これもひとつの抗議運動か……と、微笑ましくさえ感じたのでした。

そんな彼に興味をもち、最新刊のこの本を読むことにしたのです。
kindleで読んだのですが、紙の本ではなんと621ページ!そりゃなかなか読み終わらないはずだ(笑)。
タイトルのとおり、1968年全共闘以降の社会・学生運動の通史です。1972年の連合赤軍事件を決定打として、政治的なものと文化・思想が分離してしまい、途絶えたと思われている若者たちの政治運動が、実は現在まで脈々と続いているという分析に基づいた一大運動史です。
坂本龍一、糸井重里、保坂展人、辻元清美、鈴木邦男、吉本隆明、柄谷行人、赤瀬川原平、尾崎豊、ブルーハーツ、忌野清志郎、小林よしのり……など誰でも知っている有名人から、太田リョウ、山本夜羽、見津毅、佐藤悟志、鹿島捨市、中川文人、劇団どくんごなど初めて知る運動家や文化人、アングラテント芝居まで、百花繚乱の傑物が入れ代わり立ち代わり登場し、左右思想とカルチャーが縦横無尽に入り混じり、オウム真理教や3.11以前の反原発運動なども飲み込みながら「運動史」という1本の線の上で展開していくさまは、壮大な歴史大河ロマンそのもの。全員の生年と出自も律儀に書かれています。登場人物は、思想の違いはあれど、ほぼ皆が「公権力と対峙する」スタンスからスタートしているので、活動家版水滸伝とも云えそうです。
「だめ連」あたりからはわたしにも一読者としてなじみのある名前が登場し、「素人の乱」の松本哉、「エノアール」の小川てつオ(上京したてのころ何度かお目にかかりました。今も元気でお過ごしでしょうか)なども、運動史で見ると、なるほどこういう思想を背景にこのアクションに結びつくんだなと、さまざまな発見がありました。「どうも単なる面白サブカル青年であるように見える松本ら素人の乱」という表現には笑ってしまいましたが、松本哉については詳細な記述があり、その華麗なる活動歴を見ると、とても“面白サブカル青年”というくくりで語ってはいけない人物だなと思いました。著者も「金友(隆幸)はシンプルなアイデア1つで最大の反応や具体的成果さえもたらす実践をいくつもおこなっており、これに匹敵する“才能”は左派にはせいぜい、だいぶ年上の松本哉のみだろうし」と書いていて、わりと好意的に評価しているように見えます。
好意的と云えば、SNSでたびたび“日和見おじさん”などと揶揄される糸井重里のことも、(坂本龍一とともに)全共闘出身者として紹介し、のちに糸井が“資本主義の手先”ともいうべき企業コピーを生業にすることについても、「自己表現としての言葉はやがて必然的に“何らかの大義”を招き寄せてしまう。糸井が選択したのは、“自己表現”になどなりえない“表現”としての広告コピーだったのではないか。(中略)コピーライターの作品は“何らかの大義”をいずれ招き寄せるに違いない“自己表現”であることを必ず免れることができる」とポジティブに書き、むしろ糸井重里は日和見どころか、最初から一貫した思想の持ち主であるという見方をしていて、興味深いです。
また、栗原康経由で知って、近著の『夢見る名古屋』がとても面白かった矢部史郎は、外山恒一とは浅からぬ因縁があって、これまた「へえ~!」の連続でした。なかなか辛辣に批判してもいますが、著者の言葉で“ドブネズミ世代”を生きた同志としての友情もあるのかなと感じました。

そんな運動史の中で、もちろん外山恒一本人も当事者としてたびたび登場します。さまざまな運動と関わり合いながら、最終的にムッソリーニに傾倒し、「歴史上、国家権力と既成左翼とを同時に敵として闘い、勝利した運動が一つだけあるではないか」という結論に達し、ファシストを名乗るようになります。ファシズムの是非については留保しますが、アナキズムの行き着くひとつの答えだという見方は興味深いです。

なお、ここに挙げた名前はごくごく一部で、興味深い登場人物はまだまだ……付録で一覧できる年表が欲しい…!

『目からウロコが落ちる 奇跡の経済教室』(基礎知識編)
『全国民が読んだら世界が変わる 奇跡の経済教室』(戦略編)

中野剛志

以前、『最強のベーシックインカム』という本を紹介したことがありますが、その著者であり、ツイッターでもベーシックインカム(BI)の必要性をわかりやすく説いている「のらねこま」さん(本の著者名は駒田朗)が名前を挙げていたので、読んでみることにしました。
……ら、まさに目からウロコが落ちて世界が変わる、とてもためになる本でした。MMT(現代貨幣理論)を基本とする、多くのツイッターBI論客による啓蒙の下地があってこその感銘ではありますが、要約しますと、

・平成日本でデフレが続いていた(今も続いている)のは、デフレなのにインフレ対策ばかりしていたから
・インフレとは、金<物、デフレとは、物>金の状態である
・国家財政を、家計や企業経営に置き換えて考えてはいけない(合成の誤謬)
・貨幣とは物々交換の延長にあるものではなく、負債の一形式である(信用貨幣論)
・銀行は人々から集めた預金を貸し出しているのではなく、貸し出しが預金を創造する(信用創造)
・通貨の価値とは、納税手段としての価値である(現代貨幣理論)
・税金は財源ではなく、物価調整の手段である
・国の財政赤字を減らすと、国民の金が減る
・自国通貨建ての国債は、返済不能に陥ることはありえない(例えばギリシャで財政破綻が起きたのは自国通貨ではなかったから)

……といったところでしょうか。
しかし、これらのことは、わたしのような経済音痴には、なかなか体得しづらいものです。「国の借金が600兆円!次の世代に背負わせてはいけない!」といった論説が長らく流布し、まるで親の借金を背負わされた子どものように憤りと恐れをもって信じてしまう世の中では、“天動説を信じていた頭を、地動説に切り替える”くらいの気持ちでないと、納得はできないでしょう。

でも、これらの説を聞くと、株価は上がっても給料は大して増えもせず、景気がいいという実感が全くなくて何でだろう?とモヤモヤする気持ちに、少なからず光明が差してきます。

続編の「戦略編」では、さらに政治や世界情勢の話へ踏み込んでいきます。
1968年以降、左派の関心が、経済社会の階級闘争ではなく、女性、少数民族、LGBTなどのマイノリティの解放に向かい、アイデンティティを巡る闘争に変貌したという記述や、現代は右と左(保守とリベラル)での対立だけではなく、経済を巡ってもう1つ、グローバル/反グローバルの基軸によって新たなマトリクスが形成されているという分析など、腑に落ちることが多すぎて、本に付箋を貼りまくってしまいました。
多くの社会問題が貧困に起因していると感じますが、さらに源流を辿れば経済の問題に行き着くでしょう。今、“コロナか経済か”という対立軸で語られることも多い経済というトピックを、今こそ、ベーシックインカムも含めてそのシステムを真剣に学び、吟味する時なのではないでしょうか。

長くなりましたので、②として次回に続きます。

なんか……3カ月連続で更新記事があったことって、何年ぶりなんだろう?!
萌えのエネルギーって凄いよね!電気作れるレベルだよね!!

友達からはさらに『ダブルミンツ』や『どうしても触れたくない』を薦められたのですが、ここで敢えてわたしが次に手を出した、というより再視聴したのが『太陽と月に背いて』でした。
厳密に云えばBLじゃないんですけど、昭和の腐女子であるわたしにとって、BL実写よりはるか前から存在している同性愛を描いた映画は、かっこうの萌え対象、いやむしろ本家と云っていい。私的金字塔にして殿堂入りは『モーリス』に決まっているとして、その次くらいに好きなのがこの作品。『Total Ecripce(皆既日食)』っていう原題も凄まじくそそります。
まずはAmazonをチェックしたらすでにDVDは廃盤で、中古価格がとんでもない高額になっており、あれ、わたしもしかしてDVD持ってたんじゃないのか?と都合よく思い出してみたんだけど、実家にも今の家にも存在していませんでした。しかも、TSUTAYAにもVHSしかないんだよ! ビデオデッキを捨てずに取っておいて本当によかったです。わたしが好きでもう1回観たい映画やドラマって、どういうわけか絶版になっていることが多いんですよ……『ロックよ、静かに流れよ』とか『司祭』とか『深く潜れ』とか……。

何ゆえこのタイミングで見返そうと思ったかと云うと、この映画の主人公である二人の詩人、ポール・ヴェルレーヌとアルチュール・ランボーの関係性を、四宮と成瀬につい重ねてしまったからなんですが(結局それかよ!)、再視聴してみると、ちょっと残念なおっさんの年上が生意気な美男子年下に心乱される、という設定以外は、そんなに似てはいませんね。特にヴェルレーヌは、ちょっとどころかあまりにも残念なやつなので、四宮と一緒にしたら怒られそうです。
ランボーは、見目麗しく詩作の天才、だけど性格は我儘で態度は粗暴という、BL的にはもちろんのこと、そうでなくてもたいへん魅力的なキャラクターです。それを、ビジュアル最高潮のレオナルド・ディカプリオが演じています。遥か昔の自ホームページにも書き散らかしましたが、若かりしころの彼の魅力はこの映画に極まっていると云っても過言ではなく、少年と青年の狭間にある独特の美しさと妖艶さ、傲慢と無垢が同居する天才詩人の危うさを、その美貌と演技で見事に体現しています。ほんと、ランボーが乗り移ったのかと思うくらいに説得力があります。ヴェルレーヌを不遜な態度で罵ったかと思えば、自分を置き去りにするヴェルレーヌに子どものように泣いてすがったり、表情がくるくる変わってかわいい。んもう!この小悪魔!(いや、悪魔か?)
対するヴェルレーヌ役のデヴィッド・シューリスは、正面からがっつり剥げていておっさん感というかねちっこい中年感が強く、上映当時から否定的な声が多かった記憶がありますが、肖像画を見る限り剥げ散らかしているのは事実ですし、オランウータンのような醜男って云われていたらしいですから……。それから考えれば、シューリスは背が高くて指も綺麗、帽子を被ればなかなかの紳士ぶりで、むしろ底上げされているとも云えますし、ヴェルレーヌの弱さや女々しさが、その情けないビジュアルも含めてよく表れていたと思います。
ちなみに、実際の年齢は、出会った当時ヴェルレーヌ27歳、ランボー16歳で、この年の差は四宮&成瀬とほぼ同じだわね!と、ちょっとテンション上がります。27歳だったら、まだまだ若い美青年として描かれていてもおかしくないけれど、それだと史実から乖離してしまうからなあ……。
もともとは、ランボー=リバー・フェニックス、ヴェルレーヌ=ジョン・マルコビッチがキャスティングされていたらしいですね。それだとまた印象が違ったでしょうか。顔の好みは、ディカプリオよりも断然リバー・フェニックス派なんですけど、もはやわたしの脳内では、ランボーと云ったらディカプリオでしか再生不可ですから!

キャストの話はこの辺で置いておいて、再視聴して思ったのは、これは男同士でしかあり得ない愛憎劇だなということでした。またしつこく参照しますが、サンキュータツオ氏の著書で、BLは「男は丈夫だから安心」「鈍器と鈍器みたいなもんだからぶつけ合える」という大前提があるからこそ成立する世界だという話があって、それをすごく納得できたんです。
ヴェルレーヌとランボーは、小学生のがきんちょみたいにはしゃぎ合ったかと思えば、酷い言葉で罵り合い容赦無く殴り合います。アル中でDV気質のあるヴェルレーヌが妻に振るう暴力はいたたまれないんだけど、ランボーに拳銃をぶっ放すシーンはなぜか酷いと思わない。腐女子バイアスと云ってしまえばそれまでですが、男同士だからこそ、肉体的にも精神的にもあんなに傷つけ合うことができるんじゃないのかなって。そこが男女の恋愛との大きな違いで、我々のような腐った人間が熱狂する所以であると思います。
さらに二人の関係性を紐解くと、肉体的な攻受ではランボー攻、ヴェルレーヌ受なんですね。これがビジュアル的に受け付けない腐女子の方々も多いみたいですが、妻の元にたびたび戻ってしまうヴェルレーヌに嫉妬交じりのムカつきを隠せなかったり、初めて海を見て満面の笑みでヴェルレーヌに抱きついたりするランボーには、受けっぽいかわいさもあって、わたしの中ではリバ可、ということで勝手に解釈しています。

二人はフランスを出てロンドン、ブリュッセルと放浪しながら爛れた生活を送りますが、まあこんな関係が長く続くわけもなく、痴話喧嘩の末にヴェルレーヌがランボーの手を拳銃で撃ち抜いた「ブリュッセル事件」によって、2年で終止符が打たれます。ヴェルレーヌは監獄送りになり、ランボーは実家のあるロッシュ村に帰郷。ヴェルレーヌが出所してから一度だけ再会しますが、すでにランボーは詩作をやめており、その後はご存知のように、アフリカで商人として後半生を過ごし、二度と詩を書くことはありませんでした。
道徳的にはどうしようもない二人の、脆くて儚い関係。しかし、その作品と伝説は永遠の命をもって歴史の記憶に刻まれています。当時、彼らを非難し、軽蔑したであろう人々の生きた証明よりも、遥かに鮮烈に。何しろ、2016年のオークションで、例のピストルが約5300万円で落札されたっていうんだから!ゴッホじゃないけど、極貧放浪生活を送っていた二人がこれを聞いたらどう思うだろう……。
映画のラストで、ランボーの妹に兄の作品を渡してほしいと依頼されたヴェルレーヌが、彼女が去った後にその名刺を破り捨て、アブサンを2杯注文してランボーの幻影を見るシーンは、何度見ても切なくて胸を打たれます。「私たちは幸福だった。忘れない」と呟くヴェルレーヌ。そして、ランボーの最も有名な詩の一節「見つけたよ。何を? 永遠を。太陽を溶かしこんだ海だ」が、アフリカの乾いた大地と海の映像とともに流れます。二人にしかわからない理解と共犯関係、愚かで輝かしい青春を、ぎゅっと永遠に閉じ込めたような素晴らしい終わり方でした。

青春と云えば、ランボーの存在や生き方そのものが青春の権化のようですよね。だからこそ、未だに詩の世界のカリスマであり続け、後世の人々の好奇心を掻き立てる。後年、アフリカで書かれた家族への手紙に普通の結婚への憧れを綴っているのを読むとちょっぴり寂しくもなりますが、希求する魂の躍動こそが青春だとすると、ランボーの生涯はずっと青春だったようにも見えます。アフリカの地で過酷なビジネスに勤しんでいたとしても、それは、ペンで詩を綴るのではなく、体で詩を生きる行為だったのではないでしょうか。
わたしは詩を書きませんが、詩と旅は似ていると思います。情報の多い2000年代に旅したわたしにとってさえ、イエメンやエチオピアは遥かに遠い土地でした。ランボーが生きたころはもっと未知で苛烈な世界だったはずですが、それでも行かずにはいられなかった。その衝動や無謀は、詩のロマンにも似ています。だけど、実際にかの地に行って住んでみたら、超タイクツな場所ですとか手紙でこぼしているのが、ランボーらしいというか、旅人あるあるというか(笑)。
反対に、ヴェルレーヌのろくでなしぶりに共感できるのは、多分、青春が終わってからなんでしょう。このどうしようもない弱さ、流されやすさはなかなか擁護しがたいのですが、そんな性質こそが、美しく物憂げな詩を書かせるのだとすれば、人間、何が幸いするかわかりません。映画では描かれていませんでしたが、ヴェルレーヌはランボーと永遠に別れる前、彼から詩稿を託され、それを世に送り出すために献身したといいます。詩集『イリュミナシオン』として結実したそれは、ヴェルレーヌの未練と執念の賜物にほかならず、それだけでもう白飯を3杯はお代わりできるほど萌えられるというものです。
余談ながら、当時も今回も、ヴェルレーヌ夫人役のロマーヌ・ボーランジェの恐ろしく豊満な肉体には大いに驚いたものでした。ヴェルレーヌも「妻の心よりも体が好き」などと最低発言していただけのことはあります。

 

※DVD再販、再上映などを希望する署名があるので、リンク貼らせていただきます。ご興味あるかたはご覧ください!

http://chng.it/QMbKSyYMMm


『太陽と月に背いて』の話がずいぶん長くなってしまいましたが……。
最近ちょっといいなと思っている実写ものが、テレビ東京のサスペンスドラマ『僕はどこから』です。
原作漫画がありますが、わたしは未読です。今はドラマが楽しみなので、読むのは放映終了後に取っておきます。
まったくBLではない、健全バディもの(匂い系?ブロマンス?)で、第4回までは視聴済みの録画は消しているくらいの思い入れでしたが(HDDが常にギリギリなのです)、最新の第5回でいきなり気持ちが高度1万メートルまで上がってしまいました。
優しくておとなしい作家志望の薫と、若きヤクザの組長・智美は、高校時代の同級生です。二人してユニセックスな名前もツボすぎるんですが、どこからどう見ても白と黒、正反対のキャラクターなのに、「読書会」という最高にエモーショナルな交流と、智美の妹の危機を薫が救った過去によって、普通の友人以上の絆がある二人。
薫は、人の書いた文章を書き写すとその思考をまるごと読み取れるという特殊能力を持っていて、それがストーリーのキモになっています。
第5回では、ある事件で窮地に立たされた二人が、あわや友を売ってしまうのか?!という筋書きからの、一気に彼らの強い結びつきが際立ってくる展開には鳥肌が立ちました。もともと、自らのBL嗜好の根本を考えるに、どっちかというとこういう、恋愛でもなく、友情と呼ぶには強すぎる、「絆」としか表せない関係性が大・大好物なんですよね!
この二人の関係って、みんな大好き『BANANA FISH』のアッシュと英二にも似ているなと思いました。つまり、アッシュにとっての英二が良心や純粋さの象徴で、英二にとってのアッシュが強くてかっこいい憧れの存在……というのが、まさにアッシュ=智美、英二=薫で当てはめられる気がします。
薫役の中島裕翔と、智美役の間宮祥太朗のビジュアルの組み合わせもいい。特に、間宮祥太朗ってこんなに美形だったっけ?と、画面でアップになるたび惚れ惚れします。映画『翔んで埼玉』で、通行手形無しで東京に入り込んで呆気なく逮捕されたモブ青年と同じ人とは、とても思えません。
今夜放送の第6回も、予告を見る限り、腐的胸キュン展開がありそうで楽しみです!

世は新型コロナウイルスで騒然としているのに……と我ながら呆れつつも、何せ年末からずっと頭が腐りっぱなしで気持ちの切り替えができません。
とっくに忘れたはずの同人界隈のことまでゾンビのように蘇ってきたりするのですが、手に入らなかった幻の本などを徒然なるままに検索していたら、なんと高松のBe-1と、下北沢のコミケットサービスが閉店してるじゃないですか……それも3年くらい前に。
その間、特にわたしの需要がなかったということでもありますが、この2軒では、池袋の乙女ロードでは決して手に入らないようなお宝を掘り出したこともあり、今日のように病気が再発したときの心の拠り所でしたのに……。在庫の行方が気になりますが、全国のまんだらけなどに散らばったのでしょうか。

……という前振りからの、今回の話題は同人ではなく、BL実写です。
懲りずに腐った話題だけど、おっさんずから離れただけでも進歩だと思って!
おっさんたちのせいなのか、小説・漫画もいいけど実写もね、という気分になっていて、とは云えあんまりポルノやAV寄りのものだとかえって萌えられないので、腐女子友達が薦めてくれた、いわゆる鉄板名作BLの実写版を観てみることにしました。
2020年も早や2番目の月に入ったというのに、本当にどうかしていると思いますが……だって今年は、ついに『窮鼠はチーズの夢を見る』も公開だしね!やっとこさ公開日も発表されたし! 第一印象は、今ヶ瀬がちょっとイメージと違うかなあとか思っていたんですが、ちらほらネットに出て来る宣伝ビジュアルを見たら、だんだんストライクゾーンに入ってきて、楽しみで仕方ない。

まず、おっさんず熱がいったん収まったところで観たのが、『ポルノグラファー』『インディゴの気分』。
昨年末、件の腐友からDVDを借りていたのですが、おっさんたちの世界からなかなか心を移すことができず、やっとのことで年明けに鑑賞。すでに方々で語られ絶賛されているだけあって、素晴らしい作品でした。
2作は続きになっていて、原作漫画があります。深夜とは云えBLドラマが地上波で放映されるというので、界隈ではかなり話題になったようです。
おっさんとはまた違った、胸が締め付けられる感じ、それは萌えというよりも切なさなのかもしれません。おっさんはあれほど盛大に心を揺さぶられながらも特に号泣したという記憶もないわたしが、このドラマでは随所にこみ上げてくるものがあって、うっかり誰かと一緒に観なくてよかった……と思いました。
鬼束ちひろの主題歌もいいんだよな~。特に『ポルノグラファー』の「Twilight Dream」がいい。頭出しを聞くだけできゅーんと胸が絞られる。
登場人物は、官能小説家の木島、大学生の久住、そして編集者の城戸。『インディゴの気分』ではもう1人、官能小説界の大御所である蒲生田という老人が重要な役割を担いますが、ほぼこの3人で展開します。
3人とも決して極端な過去やトラウマなどは抱えていないのだけど、全編がほの暗く、儚く、ブルーな(インディゴな?)雰囲気を纏っていて、見終えると深いため息を吐きたくなって、心に何か重いものが残るような余韻が凄い。見終えてしばらくの間、つい自分まで気怠い感じになってしまいました(笑)。
最初は正直、知らない俳優さんばっかりだし……と及び腰になっていたのですが、見終わったらメインキャストの3人のことがとても好きになってしまい、公式ブックまで買う羽目に。原作漫画を後で読んで、主役の木島先生以外はそんなに似てないなあと思ったけれど、むしろ原作に対して「違うじゃーん!」と武蔵の口調で云いたくなるほど、映像とキャスティングが素晴らしかった。ドラマはかなり原作に忠実に作られているのですが、それが功を奏してか、原作を実写が超えたんじゃないかと思えるほどの世界観を作り上げていて(自分がドラマから観ているせいもありますが……)、三次元の破壊力って凄いなあと感嘆。
特に木島先生=竹財輝之助は、神キャスティングですね。おっさんずもそうだけど、この手のドラマはキャスティングが命だとつくづく思う。本当に失礼ながらそれまで全然彼のことを知らなくて、もったいない限りです。齋藤工に似ているとよく云われているようですが、もうちょっと中性的で繊細な雰囲気。これで39歳とか信じられない。でもこの年齢だからこんなに色気があるのかしら。細い縁の眼鏡が最高に似合っていて、眼鏡外してもやっぱり美形で、昔、自分のHPに眼鏡をかけたスナップを載せていたときに、「美人なら眼鏡かけてても美人とわかる。こいつは違う」などと巨大掲示板で書かれたことを急に思い出してしまいました(粘着質ですまんw)。
ちょっと調べてみたら、去年のNHK『旅するスペイン語』講座の旅人だったのですよね。今なら、拝みながらガン見してスペイン語をマスターするのになー!


どちらも面白かったのですが、どちらかというとわたしは、続編の『インディゴの気分』のほうが好みです。木島が久住と出会う前の、城戸との過去のお話。
冒頭の城戸のモノローグ、「なんとも説明しづらい関係ってあるだろ」という言葉が、ラストに繋がっていくんですが、きちんと結ばれなかったがゆえに、一生心の奥で燻り続ける思い、切なさと背徳感が背中合わせになったような思いを、十字架のように背負っていくっていうのがもうねえ、堪らないです。
それはとても辛いんだけれど、どこか甘美でもありますよね。永遠に閉じ込められた、だけど確かに生きている感情。人や人生の陰影や味わい深さは、そういうところにあると思ったりして。『モーリス』のラストで、ヒュー・グラント演じるクライヴが、自分のもとを去っていくモーリスの幻影を見るシーンを思い出します。
自分が古い人間なのかもしれないけれど、ピュアな愛と同じように、歪んだ愛……というか愛が変質してしまった感情、執着とか嫉妬とかただの性欲みたいな後ろ暗い劣情を、フィクションには求めてしまうのです(現実世界だと劇薬すぎるのでね)。
一瞬恥ずかしさで目を覆いたくなるような激しめの濡れ場もありながら、それ以外のところでの肉付けが本当に上手い。純文学から転向して官能小説を書きあぐねる木島に、蒲生田が「経験なんかなくてもいいんだ。自分の欲望を自覚すればいい」という場面や、病魔に侵されていく蒲生田を前に憔悴する木島など、サイドエピソードにも見どころがいっぱい。

なんか、あまりにもよく出来ているので、これなら腐ってない友達に普通のドラマとして薦めても差し支えないんじゃないかな? とうっかり思ってしまいましたが、結構な裸と絡みのシーンがあるため、冷静に考えたらやっぱ差し支えますかね!
あんまりAVばりにがっつりやりまくっていると、もはや一作品としての評価がしづらいのですけど、これはほんとにギリギリのラインで品を保っている感じ。一歩間違えたら大事故になりそうなところ匙加減を絶妙に調節した、奇跡的な出来だなーと思います。

次に観たのが、『宇田川町で待っててよ。』
これは先に原作漫画を読んでから観ました。漫画も素晴らしかったのですが、わりと淡々とした雰囲気の漫画が、今どきのイケメン(主役2人がジュノンボーイ)によって三次元化されると、やっぱり破壊力が増しますね。映画というよりスペシャルドラマみたいな小作品ですが、そのコンパクトなサイズ感と、『ポルノグラファー』シリーズよりも演者が初々しいのが、この物語の世界観に合っていたと思います。
舞台は男子校、クラスではまるで存在感のない陰キャ主人公の百瀬と、対照的にイケてるグループに所属する八代。だけどある日、密かに女装趣味のある八代が、渋谷の喧騒のなかでその女装姿を百瀬に見つけられてしまうところから、物語は始まります。この舞台が、渋谷ってところがまずいいです。毎日の通勤で渋谷のスクランブル交差点を通らねばならないのが辛すぎるせいもあり、渋谷よりも断然新宿派のわたくしですが、この設定はやっぱ渋谷でないとね!
わたしはそれまで、女装男子というジャンルには、知識も萌えもなかったのですが、八代の絶妙な女装具合にはドキドキしてしまいました。元が綺麗な顔だから女の恰好をしてもかわいいんだけど、やっぱりどうにも男がチラ見えする、よく見たら妙に上背あるし咽喉仏もあるしやっぱ男なんじゃね?というような、完成度80~90点くらいの女装、これを実写で表現できているのが素晴らしい。歌舞伎や宝塚とも違う、性別の境界に立っている際どくて危うい美しさ。よくよく思い出してみると昔からわたし、「八犬伝」の犬坂毛野には特別な感情を抱いていましたし、萌えツボなのかもしれません。にわかに女装男子に興味が湧いて、大島薫の著書にまで手を出してしまったわ。この調子で行けば、そのうちオメガバースも嗜めるようになるかも!?
萌えとは別に考えさせられたのは、「周りの目を気にせずに好きな服を着る」という気概についてです。

女装や男装は、ファッションという以上に性癖の面も大きそうですが、わたしもやっぱり、好きな服を好きなように着ることが自分を肯定することに繋がっているから、「自分でも(女装は)似合ってないってわかってる」と自虐する八代に、なんの疑問もてらいもなく「かわいい」と云ってのける百瀬の姿には、ときめきとともに、神々しささえ感じてしまいました。それは好きになるわ!

 

長くなりそうなので、後編に続きます。

年が明けても、寝ても覚めても(おっと、これは今話題の……)、相変わらず「おっさんずラブ-in the sky-」の沼から抜け出せない体になってしまって、本当に、成瀬じゃないけど「責任取ってくださいよ」って云いたいです。
終わった恋(萌え)を乗り越えるには新しい恋が必要、ということで、そっち系のあれこれを物色しては気を紛らわせているのですが……いったい何なのでしょうかこの情熱は……思春期真っ只中の男子の抑えきれない性欲みたい(知らんけど)。
で、今回は、そっちで読んだり視聴したりした作品の話を書こうと思っていたのですけど、正直なところ、今いちばんハマっているのはネット上で日々アップされるおっさん二次創作だったりして(そのうちコミケに足を運ぶであろう自分の姿が見える……)、そうこうしているうちに公式ブックが発売されちゃったりして再び沼に突き落とされたので、この話題にしつこく舞い戻ります。まあいいよね、個人のブログなんだから好きなことを書けば!
はーそれにしても、配信のゆく年くる年SPを見て、もはや妄想なんかしなくても十分満たされたつもりでいたのに、人の欲とは計り知れないものですよね……。さすがに劇場版なんかあるわけねーかと思っていたけれど、ちょっと期待、いや熱望している自分がいるもんな! 映画とか大げさでなくていいから、バレンタインとかお花見SPとかないのか? 四宮と成瀬の行く末はもちろんだが、春田と武蔵だって色々補足が欲しいじゃん? テレ朝に長文お便り書こうかしらん!?

今年に入って気がついたこと。
それは、以前わたしは「なるしの(成シノ)がしっくりくる」と書いたんですけど、やっぱりなるしのじゃなくて、しのなるかも……より厳密に云えば精神的にはなるしので、肉体的にはしのなる、が私的な正解なんじゃないかということです。えっ、ごめんねどうでもいいお知らせで!
いや、元々どっちもアリなんだけど、色々考えた結果、四宮にはいざという時には男っていうか、雄になってほしいって気持ちが抑えきれなくなってきまして……何せあの見事な腹筋だし、整備士だから腕力もありそうだし、身長は同じだけど成瀬に四宮が組み敷ける気がしないし……そもそも四宮が成瀬に「お前かわいいな」って2回も云っちゃったりしているわけだし、かわいい担当は受っていうほうが目に優しいし、つまりは四宮はやっぱり抱く側に回ってくれ!ということなんです(お前は何を云っているんだ)。業界用語でいうところの、ヘタレ攻めの襲い受けってやつですか。
なかなかおっさんの話で盛り上がれる人を現実世界で見つけられず、おっさんず展にも一人で2回も足を運んだりして、いかにも孤独なオタクライフを送っているのですが、先日、ようやく交友関係のなかで一人、リアルファンを捕獲しました。腐女子ではない上に男子なので、腐的な萌えと違うところはありつつもドラマを楽しんだ一視聴者として、きゃっきゃ盛り上がってたいへん楽しかったのですが、そんななか、5話で四宮が元妻・子どもと向き合えて、男としての自覚とか自信をそこで取り戻したんじゃないかっていう彼の意見が、なかなかに新鮮で。ふだんネットで死ぬほど考察を読んでいるけれど、あまり見たことのない見解だったのよね(読むものが偏りすぎているのかもしれんが……)。で、成瀬のことを「あれはどネコでしょ」とばっさり断言したのにはビールを噴きそうになってしまいましたが、わたしはそれを聞いて、自分の迷いをだいぶ吹っ切ったのでした。
そうだよなー、初回から成瀬のキャラとビジュアルは、わたしのなかでは「風木」のジルベール風味の典型的ビッチ受と信じて疑わなかったのに、6話で四宮を襲っちゃったもんだから、つい、あれ?逆?とか思ってしまった。好きの感情が大きいほうが攻なのかな、とかね。
なるほど、人は(ってか腐女子は)こうやってCP(カップル)固定主義になっていくわけだね。自分ではあんまりこだわりないつもりだったけれど、思い起こせば、その昔、某二次創作にハマったときも、逆CPはあんまり好みじゃなかったかも。基本的にはニコイチで好きだから、全然地雷にはならないですが……。腐女子にとって、関係性というのは何をさておいても大切な要素だということをあらためて学んだ次第です。

でも腐女子にはなるしのの方が人気が高いってのも、なんとなくわかる(個人リサーチでは倍くらい違う)。ほら、腐のレベルが上がると、おっさんにかわいさを見出しがちだって、サンキュータツオ氏も著書に書いていたし……。
萌えの解消のために、あれこれ物色しているなかで見つけた『YOUNG BAD EDUCATION』『YOUNG GOOD BOYFRIEND』という漫画があるんですが、なるしの的な色眼鏡をかけて読んだせいか、いちばん萌えた作品です。
年下のかっこよくて成績優秀な男子高校生と、冴えないけど妙に色っぽいおっさんの化学教師が、お互いにストーキングするくらいベタ惚れし合って、その後10年以上もラブラブで付き合っていくお話。年の差、なんと20歳! 11歳差の成瀬と四宮どころではない!
んなことあるか?といちいちツッコみたくなるほど中年に都合のいい設定ですが、ヘタレな年上にぐいぐい行く年下くんを優秀イケメンパイロットの成瀬にどうしても重ねてしまうし、それ以上におっさん教師が四宮っぽくて(「こんなおっさんのどこがいいんだよ……」的な懊悩とか)、今のわたしのストライク萌えゾーンに刺さる。何があっても、相手の残念なところも全部好き!みたいな、まさに成瀬じゃんという感じの年下くんの恋心がいい。

と、ここまで完全に頭がお花畑の内容ですが、実際のこの界隈はというと、熱烈な愛や楽しい妄想とともに、地獄のような争い、誹謗中傷、恨みつらみ、忖度、マウントなども日々飛び交っているわけで……やっぱりCP論争は血で血を洗う宗教戦争ですね。
気をつけないと流れ弾に当たって死ぬ可能性もあり、ツイッターのほうが色々と活発だけど、わたしはこの自宅(ブログ)で一人ごにょごにょやっているくらいがたぶんちょうどいい……こんなマイナーブログにすらなんだか変なコメント付いてるけど! 一方で、安全そうなオフに参加して萌えを共有したい気持ちも多分にあって、心が緊縛されているみたいで苦しい……。
気を取り直して、先日発売された公式ブック。もっとでかい版型で見せてくれー!とか、成瀬はもうちょっとすっきりフェイスラインの写真はなかったのか?などの引っかかりはあるものの、成瀬の千葉雄大と、四宮の戸次重幸のインタビューで、あのセリフやあのセリフがアドリブだったという話を読めただけでも元が取れました。役者ってマジで凄いな、本当に役を生きているんだな、ドラマってみんなで作っていくものなんだな、などと感動しちゃったわ。あと、気になったのは、成瀬のプロフィールで、初めての海外渡航先=トリニダード・トバゴってのが……なんで? マイナーすぎないか??パイロットの研修所かなんかがあるのか???
公式ブックの発売とともに、感想や考察はもちろん、各種二次創作もまた盛り上がってて凄いよね。やっぱ旬ジャンルの二次は勢いがありますね。毎日何かしら更新されるし、みんなこれでもかというほどドラマの行間を埋めまくっていて、もう書き込む余白ないんですけど!という感じ(笑)。わたしは、過去作のすでに枯渇した二次にしかハマったことがないので、とても新鮮です。ほぼカップル人気割れしなかったS1は、もっと盛り上がっていたんでしょうね~。

みなさま、メリークリスマス!(いつにないテンション)
無事に最終回、そしてスピンオフまで配信され、ようやくわたしとOLとの長い日々は終わりを告げました。
ひと言でいうと、感無量に尽きるのですが、この溢れる思いを書き留めておきたい気持ちでいっぱいなので、最後、しつこくやらせていただきますね!

最終回を待つ間は、あまりにも思い詰めすぎていたので、気持ちの拠り所を求めて、成瀬×四宮を応援するツイッターアカウントの呟きを祈るように探し、狂ったようにファボる1週間でした。もう、検索ワードも心得たもんだからね! 隠語(っていうのか?)で検索できるようになったもんね!でも、マイナーカップルなので、気分はすっかり隠れキリシタン……。
それでもしつこく検索していると、ほどなくして大体が見覚えのあるアカウントやツイートばかりになってしまい、これ以上掘っても、もう何も出てこないなあ……というところまで行き着いてしまっていました。
さりとて、某掲示板や某某掲示板などへ行くと、心折れる考察や意見に溢れているので、もう泣いても笑ってもあと数日なのにわざわざ傷口に塩を塗らんでも……と思いましてね。こうして、人の視野とは狭くなっていくものなのですね……。

希望があるとしたら……縋れる根拠は、下記のとおりでした。
・予告で、四宮が誰かに「俺のどこがいいわけ?」と云っている(映像無し、台詞のみ)。これは成瀬相手では?
・武蔵は、成瀬が恋する相手を知っている。だから、一時的に黒澤家に住むことになって武蔵に弟子入りするという四宮(予告情報)に、そのことを諭すのでは?
・月曜の「TVガイド」で、超重要シーンとして春田×成瀬のハグがレポートされていたので、この段階でそんなネタバレがあるわけないのでは?
・逆に、クランクアップなど最終回に関する情報がまったく出てこない四宮は、重要なネタバレに絡んでいるのではないか?
・成瀬は、古墳とかグラタンとか1つのことに執着するタイプだから、一度本気で好きになった相手にはとことん執着するのでは?
・成瀬の父親の命日と、四宮の誕生日が同じ日というのは運命的な符号では?
・第4話の卓球大会で、成瀬・四宮がペアだったことには、意味があったのでは?
・最終回の数日前に、なぜかシノメシブログ(四宮の料理ブログ)が上がっていて、これが最終回に黒澤家でふるまう天ぷらだったので、最終回後はグラタンが来るのでは?
・これまでの春田は年下のイケメンとくっついてきたけれど、S2で果たして同じことをやるだろうか?

……まあでも、どれも根拠薄弱であることは否めず、7話の最後、春田と成瀬の手つなぎで、成瀬の手が名残惜しそうに離れたように見えたのと(実際そういう演出だったと思う)、四宮の気持ちがどこまで成瀬に向くのかがどうにも自信がないまま迎えた最終回。
当日は、もちろんリアタイ視聴です。有馬記念直前の中山競馬場にいる心構えで、「気持ちは完全に成シノ1点買い!……だけどやっぱ、春成も500円くらい買っといたほうがいいかしら……」とかどうでもいい独り言をブツブツ云いながらの幕開けでした。
予告とこれまでに出た情報や布石を、ひとつひとつ確認するように、超集中、息を止めて視聴。こんなに真剣にドラマを見たことが、かつてあっただろーか?!(笑)


ここからは、詳細にネタバレしますので、ご注意くださいませ。
わたしの注目は、なんといっても、成瀬が変節しないかどうか?その1点に尽きます。
まず、「春田とはうまくいってるのか?」という、予告でも流れた四宮の台詞。これは前半早々に回収されました。
7話のラストで寮を飛び出した四宮と職場で出くわした成瀬が、外で歩きながら話す場面。ここの成瀬がまたかわいい。「あなたがいない(ご飯を作ってくれない)せいで、俺はグラタン食うしかないし、春田さんは俺のグラタン食うし……」と愚痴をぶつけるんですが、その返しが「春田とは……」なんですね。そこで成瀬が、なんでわかんないんですか!?とブチ切れてくれたので、この時点ではまだ成瀬が四宮を好きなことがわかって、ほっとしました。

寮を出た四宮は黒澤家に居候しており、そこで彼は、愛の極意を武蔵から学ぼうと弟子入りします。実際に何かを学ぶような描写はありませんが、第4話に続く黒澤杯(今回は相撲大会)を経て、四宮は寮に戻り、また春田と成瀬と3人で食卓を囲むまでに関係は修復。成瀬は、嫌いだった人参を食べられるようになっていて、四宮もなんだか嬉しそう。
またある日の食卓で、春田が四宮に「チーズハンバーグが食べたい」とリクエストするのですが、四宮は「お前のリクエストはもう聞かん」と断ります。それでも四宮の側に行って食い下がる春田に、成瀬が立ちはだかり、春田を外に連れ出します。
そこからが、例の、「TVガイド」にも出た重要シーンね! うわー来た来た来た、ここで春田と成瀬、抱き合ってたもんね! 成瀬は涙流してたし……。ここの答え合わせ如何で、運命が決まるってことよ!
もう、自分が誰になっているのかわからないくらい心臓をバクバクさせながら固唾を飲んで成り行きを見守りました。結果……、成瀬はこう云います。
「春田さんは俺にとって大切な人だから……それは(付き合うことは)できない」
ああああああああ!そっちかーーー! 期待はもちろんしていたけれど、成瀬-----!!!(気分は9回二死裏)
「あんた(四宮)としか(キス)したくない」とまで成瀬に云わせた落とし前を、きちんとつけてくれて本当によかった……。

そして、パイロットを引退する武蔵のクリスマス・ラストフライトを経て、それぞれの結末が出されるわけですが……。
成瀬×四宮は、四宮が成瀬を受け入れようとするところで終わります。このラストシーンが、どんだけよ!というくらい萌えが詰まっていて、6話のラストと二大巨頭で鬼リピ確定。ていうかもう、現時点で100回は再生してる(←病気)。
まず、成瀬の好きなグラタンを、四宮と成瀬がふたりで作っている!それだけでもう感情のダムが決壊しそうになりましたが、予告で四宮が云った台詞「俺のどこがいいわけ?」はここで、成瀬相手に使われて大歓喜!
で、ここからの成瀬の返しがまたいいの。「なんか見てらんないんですよね……(中略)だって、どことなく残念じゃないですか?」などとからかって、四宮が「残念云うな! どこがいいか聞いてんだよ!」と文句を返すと、四宮の目をじっと見つめながら囁くように「どこがいいのかなあ……」と、にじり寄って云うんですよ!なななななにこれ!? 天使の誘惑!? そういえば中の人は「ゴセイジャー」で天使の役だったもんね!?(意味不明)
成瀬、やっぱ君はこうでないと!タコ公園のタコの滑り台で子どもみたいに泣いている君よりも、ずっとこっちのほうが成瀬らしくて好き。かわいくて、いじらしくて、でも基本的に不遜で、とても色っぽくて……これぞ成瀬の真骨頂でしょ。
キスまで持って行く流れも神がかってた。思わず四宮が顔を近づけそうになって踏みとどまったところに、すかさず成瀬が迎えに行くようにキスするんですけどね! さらにそのあと、ダメ押しのように「キスしようとしてたでしょ?」とにっこり。ああああああああ!成瀬ってば、どんだけ手練れの小悪魔なのよ!?(さっき天使って書いたけどw) 7話であんだけ幼児だったのに、このギャップ! これはさすがの四宮も落ちるやろ……と思ったけど、その後、AbemaTVで配信されたスピンオフ(SP)を見たらけっこう往生際が悪い(笑)。

SPがあるだけでも感謝感激なのに、もしかしてキス以上のなんやかんやが見られたりするんだろうか?!などとさらに邪な願望を抱かずにはいられませんでしたが(こらっ)、そこもやっぱり視聴者の安直な期待とは違う方向に行くのがこのドラマ。
あんなキスシーンがあったというのに、かえってふたりの関係はぎこちなくなり、表面的には後退していきます。
最初に見終えたときは、「えー!?続き早よ!!」というのが正直な気持ちでしたが、冷静になって見れば、6話で成瀬が四宮を襲って、最終回では小鳥がついばむような軽いキスをして、SPでやっとデートに漕ぎ着けて……と、普通の恋とは逆方向に巻き戻っていくんだけど、お互いの気持ちはどんどん寄り添っていくという心憎い仕掛けになっているんですよね。
成瀬が、「キスまでにやらなきゃいけないことってなんですか?」と春田に尋ねたことを、愚直に実践している姿が、とにかくいじらしい。
そんなSPのラストは、単発おっさんずのラストくらい、匂わせながらも幸せいっぱいの素敵な終わり方でした。最後に、四宮の寝顔を見ながら成瀬がそっと目を瞑るところ、本当にエモすぎて、心臓が溶けそうになります。


前に、襲い受けが性癖なのかもと書きましたが(どうでもいいリマインド)、年上受がぐいぐい来る年下攻に翻弄される組み合わせも刺さるのかも? でもって、年下攻の情熱が空回りしている感じもいいのかも?? あと、両片想いっていうシチュエーションも好きなのかも???
わたしは固定厨ではありませんが、やっぱり成シノ(成瀬×四宮)の位置がしっくりきますね(と云いつつ、どっちもアリだし見たいけどね!)。SPでは、四宮に振り向いてほしくて、(四宮が好きだった)春田の真似をしてアホの子みたいになる成瀬が見られますが、アホだけど健気すぎて萌えが止まりません。いいよね、こんなにも好きな人に必死になれるって、マジで尊いわ……。
で、そんな成瀬を前に揺れまくる四宮の気持ちにも、すんごいドキドキする。整備士という職業柄か、生真面目で、失恋したばかりなのにもう次の恋に進んでいいんだろうか?とか悩んでいるわけ。好きになっていいのかなって、10も年上の男が怯み、困惑し、自分のダメな部分をどんどん晒しちゃう様子、なんてもどかしくてかわいいんだろう……って、成瀬もたぶん、そう思っていそうなのがいい。一方で、子どもじみたところが多々ある10も年下の男を、おそらく本能的に放っておけなくて、あれこれ世話を焼いちゃう四宮がまたいい。
6話ラストも切なくて最高だったけれど、好きなカップリングが関係を築いていこうとする過程は、実に麗しいですね。薄い本を探しに行かなくても、公式が腐女子の妄想をどんどん実現してくれて、誠にありがたい限りでした。だけど、もうこの先は見られないのかと思うと、やっぱり薄い本での補完は必要かしら……。
ちなみに、SPの見どころはたっくさんありますが、前編のラストで春田が出てきて「ハッピーニューイヤー」っていう場面、やっぱ春田かっこいい!って思ってしまいました(←現金)。あの一瞬で出す存在感、やっぱ主役だなーと。

……とまあ、わたしは自分の願望通りの結末だったから前向きな気持ちで振り返れるけれど(公式の見解と自分の希望が一致するのは実にすっきり、そして安心感がありますね)、納得のいっていない人はたぶん死ぬほどたくさんいて、中国のファンは怒り狂っているとかいう噂も……(中国は、ビジュアルのよい春田×成瀬推しが圧倒的多数とか)。このブログも、見る人が見たら爆破対象になってもおかしくありません。
わたしも、リアタイ視聴時は、春田の気持ちがあんなに早く武蔵に行ったのは、ちょっと、え、えーーーマジ?!ってついていけなかった。
思い起こせば、7話での武蔵のファイナルアプローチに春田が涙を流して断った場面や、乱入クレーマーを体を張って止めようとする武蔵を怒るほど心配しているところ、最終回で武蔵がパイロットを辞めると聞いて激しく動揺する春田……決して、フラグがなかったとは云わないけれど、贔屓目に見ても唐突感があり、もうちょっとなんとかならんかったのか?とは思いました。意地悪な見方をすれば、成瀬と四宮をくっつけるために、春田と武蔵を無理やりくっつけた感も否めないわけです。
武蔵エンド自体はいいの。なんだかんだで、「おっさんずラブ」は春田と武蔵の物語であり、この組み合わせこそがドラマの主軸・目的であり、武蔵を入れた4人のカップリングにおいて、最もハッピーエンドに近いのはこれだと思う。何より、すっかりギャグ担当として蚊帳の外に置かれていた感のある武蔵が、きちんとラブストーリーの主役になったことは、心から嬉しい。単発、S1ともに、武蔵にいちばん泣かされてきた身としては、なおさら感慨深いものがありました。武蔵といるときの春田は、やっぱり「はるたん」みがあってかわいいしな!
だからこそ、春田の気持ちの旋回を、もう少し丁寧に、もう少し布石を置いて見せてくれたらよかったなあ、と。成瀬から武蔵へ矢印を振り向ける理由が、もうひと押し欲しかった。しかも、成瀬に振られた次の日に武蔵に行くって、急旋回すぎない?!
後から知ったことですが、もともとこのS2は、武蔵エンドで終わらせるつもりで書かれていたというから、なおのこと惜しい……。そこさえしっかり書いていれば、本当のハッピーエンドでカタルシスも半端なかっただろうし、春成推しもある程度は納得できたと思うの。何せ武蔵は、単発から3回も春田を追って転生(?)しているのだから!
あと、春田を抱きしめるシーンもあった獅子丸は、もうちょっと重要な役どころでもよかったんじゃないかと……ちょっと登場が遅すぎたか?

全編を通して思ったのは、好きな人に好かれない、好きじゃない人に好かれるという、恋愛が持つ容赦のなさでした。ほんと、ドラマ内のキャッチコピーじゃないけれど、「好きになってくれた人を好きになれたらいいのに……」ですよ。人としては好きなのに、恋の対象にはならない相手。なんか、いろいろ思い出して辛くなるな……(笑)。
それでもこの人じゃなきゃダメで、たった一人の、心揺さぶられる人だということが恋愛の尊さでもあるわけですが(そこが、私が成瀬を推す理由でもあるのですが)、一方で、最終回前にふと思ったのは、「貫く」「受け入れる」「応援する」という愛のカタチがあって、それを登場人物それぞれが担うのではないかということでした。
それを誰が担うのか?となったときに、わたしのなかでしっくり来る割り振りは、成瀬=貫く、四宮=受け入れる、春田=応援するだったのです。で、武蔵は、そんな3人をさらに大きな愛で包む役割?とか思っていました。
わたしは成瀬に肩入れしすぎているのでこうなりますが、これは、見ている側一人一人で答えが違うでしょう。でも、自分の愛を貫く強さ、いい意味での我儘さが、成瀬にはあると思ったんですよ。だって、ビッチだったのに、誰とでもキスできたのに、春田とだって2回もキスしたのに、なんでそれで、完全に片想いと分かっていて四宮に行ったか、って話なんですよね。そこから翻って春田に行く必然性なんて、ないのよね。成瀬の「本気だよ」が1話で変節してしまうなんて耐えられない、人間不信になっちゃう!と思っていましたが、ごめんね疑って……。
じゃあ春田は? 四宮は?ってことなんだけど、春田に関してはわたしもギリギリまで成瀬エンドあるかも?と思っていたのであれなんだけど、四宮は、春田と一度きちんと決別してしまっているのよね。春田の気持ちが自分にないことを、はっきりとお互いに確認してしまっている。だからここから再び……というのは無いと思っていました。もちろん、すぐには春田をふっ切れないとしても、成瀬の情熱に触れて、心を動かすことがあってもいいんじゃないの?と(だからこそ、成瀬には諦めてほしくなかった)。それを変節だとは思わなかったし、最終回で、春田の料理のリクエストを断った時点で、四宮はもう前を向いているんだと思いました。
で、春田の行く末は最後までわからなかったけれど、最終回中盤の、成瀬と向き合うシーンで、成瀬はきっぱりと春田に、大切な人だからこそ、軽い気持ちで付き合うことはできない、と告げている。それは、春田が四宮に向き合ったときと同じくらい、はっきりとした結論だったと思う。もしかしたら、手つなぎの時にすでに、春田は成瀬の気持ちが自分に向いてないことに気付いていたのかな?(ここはわたしは読み違えていたけれども)
それだったら成瀬も四宮にはっきり、というか酷い断られ方してるじゃん!と思うんだけど、前のふたつとは中身が違って、きちんと向き合ってないんだもの。だから、ここだけはまだ可能性があるんじゃないかって。

まーた長くなってしまいました。「ROCKIN'ON」の2万字インタビューかよ! ほんと、重症ですみません(汗)。
まるで自分が恋しているみたいな……とはちょっと違って、あくまでも人の応援の立場なんだけど、恋の苦しみに限りなく近い気持ちを嫌ほど味わわせてもらって、‟感謝文句”(by成瀬)を云いたいですね。
まあでも、こんなにはまったのは、結局のところ、成瀬=千葉雄大のビジュアルに幻惑されたっていうのが、案外いちばん大きかったりしてな……。もう2年くらい前ならもっと凄絶な美しさだったかもしれませんが、時々顔が真ん丸なのも、成瀬というキャラクターのダメダメなかわいらしさと合っていてよかったのかも。逆にあと2年後だったら、このかわいらしさは出せなかったかも。本当に、このキャスティングには感謝しかないです。
もはやあとは、来年の『窮鼠はチーズの夢を見る』の公開を楽しみに暮らしていこう……また腐った沼に落ちないか心配だけど、結末がわかっている分、気は楽だし。
このブログで、「実写化したら、ファンのバッシングが恐ろしいことになりそうだけど、わたしは実写でも観てみたいなあ。色気のある上手な役者さんに、リアルとドラマが絶妙にブレンドされたこの世界を再現してほしい!」と書いたのは、もう7年も前のこと。さすがに実写は無理やろと、ドラマCDをリピっていたあのころを思うと、夢って叶うもんですねえ。