戦国!風雲!北条戦記
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第八節 【長尾景春の乱】

序章 -室町時代の関東-

第八節 【長尾景春の乱】



文明五年(1473)六月、山内上杉家の家宰・長尾景信が没したことにより、「亨徳の乱」は新たな局面を迎える。

山内上杉家当主・顕定は、新たな家宰に景信の弟・忠景(惣社長尾家)を任じた。

これに景信の嫡子・景春が反発し、文明八年(1476)六月、武蔵・鉢形城で主家の山内上杉氏に対し反旗を翻た。


翌、文明九年(1477)正月十八日、景春は鉢形城より出陣して、上杉方の拠点・五十子陣に攻撃を仕掛け同陣を崩壊させた。

山内上杉家の家宰職に就けなかったとは言え、祖父・景仲、父・景信と、二代続けて家宰職を出してきた白井長尾家当主・景春の反乱には上杉氏の領国上野・武蔵・相模から多くの諸将が呼応し、その数は二・三千騎にのぼった。


さらに、景春は古河公方成氏と手を組み、下総・千葉輔胤も景春に組した。




四月十日、武蔵勝原合戦では、太田道灌の弟(甥ヵ)・資忠が長尾景春方の矢野兵庫助を破り、道灌自身も上杉朝昌(定正弟)・武蔵千葉自胤と共に、武蔵江古田原合戦で豊島氏に勝利し相模・南武蔵を押さえた。


道灌は、五月には北武蔵に進軍し、長尾景春を武蔵用土原で破り鉢形城を囲んだが、七月になると古河公方足利成氏が景春援護の為上野に進軍してきた。


このため、上杉勢と景春・成氏勢は上野塩売原で対陣したが、決戦には至らず、翌文明十年(1478)正月には、上杉が幕府と公方成氏の和解を仲介することを条件に、上杉と成氏が和睦した。


しかし、上杉勢と景春勢との戦いは続き、一月に道灌が再蜂起した豊島氏を破り、二月から四月にかけては相模に進軍し、小机要害を攻略した。


この間武蔵では、扇谷上杉定正が河越城に進軍してきた長尾景春を浅羽・羽生合戦で撃退した。


さらに上杉勢は、武蔵の大石憲仲・千葉実胤、下総の大石石見守を下し、七月には北武蔵で長尾景春を敗走させ、本拠地の鉢形城を攻略し、山内上杉顕定が入城した。


十二月、太田道灌と千葉氏本来の流れである千葉自胤は、下総の千葉孝胤を境根原で破ったが、戦いは翌文明十一年(1479)七月まで続き、太田資忠・千葉自胤が臼井城の千葉孝胤、飯沼の海上師胤、長南の武田上総介(道信?)、真理谷の武田清嗣(信興?)を攻略した。



一方、長尾景春は武蔵秩父を拠点に抵抗を続けていたが、文明十二年(1480)六月に日野城を落とされ公方成氏の元に逃げ込み「景春の乱」は終焉を迎えた。



文明十四年(1482)十一月、古河公方足利成氏と京の幕府も、ようやく和睦が成立し、三十年に及んだ「享徳の大乱」も終結した。






これに対して、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌は両者和睦の道を探ったが、それが無理と分かると長尾景春討伐の軍を起こした。

文明九年(1477)三月、太田道灌は景春方の相模溝呂木・小磯要害を攻略、次いで小机要害を攻撃した。
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