第七節 【亨徳の大乱】その二
序章 -室町時代の関東-
第七節 【享徳の大乱】その二
下野・古河城に本拠を構えた公方・足利成氏は、利根川以東を勢力下に治めていった。
康正元年(1455)八月、下総・千葉家では公方派の馬加康胤が、甥の千葉胤直・胤宣親子を討って当主の座に就いた。
康正二年(1456)には、公方成氏が下野・宇都宮氏を攻め、当主の宇都宮等綱を追放し、公方成氏に忠誠を誓った息子の明綱を当主の座に就けた。
京都では亨徳四年(1455)に「康正」と改元し、その後「長禄」「寛正」「文正」「応仁」「文明」と改元を繰り返したが、公方成氏は父・持氏の時が如く「亨徳」の年号を使い続け、幕府に対しても対決姿勢を示した。
これに対し幕府は新たな関東公方として、室町将軍足利義政の弟・香厳院殿を還俗させ、長禄二年(1458)関東に下向させたが、様々な事情や関東の諸将の思惑により箱根の山を越えることが出来ずに伊豆堀越に留まった。
堀越公方・足利政知の誕生である。
一方、上杉勢は上野・武蔵・相模・伊豆の旧利根川以西を勢力下に治め、武蔵・五十子に本陣を構えた。
長禄三年(1459)十月、関東管領・山内上杉房顕と越後守護・上杉房定は武蔵太田荘・上野羽継原で公方成氏勢と戦い、敗れて武蔵五十子に退陣した。
十一月には、上杉方の佐竹実定が同じく公方成氏に敗れている。
その後、上杉方では不幸が続き、寛正四年(1463)八月、山内上杉家を支えてきた長尾景仲が没した(享年61歳)。
(山内上杉家家宰は二年前に嫡子の景信が継承)
文正元年(1466)二月には、山内上杉家当主・房顕が三十二歳の若さで没し、後継には越後守護・上杉房定の子で十三歳の龍若(顕定)が入った。
翌年の応仁元年(1467)には、扇谷上杉持朝が没し、孫の政真が十七歳で家督を継いだ。
文明三年(1471)四月、上杉勢は攻勢をかけ六月に古河城を落としたが、翌年(1472)の春には古河公方勢の反撃に遭い古河城を奪い返された。
さらに、文明五年(1473)十一月に上杉勢の本拠・五十子陣を古河公方勢に攻められ、扇谷上杉当主・政真を討ち取られた。
扇谷上杉当主には、持朝の子で政真の叔父・定正が就いた。
扇谷上杉家では当主の政真が亡くなる五ヶ月前に、家宰の長尾景信が没していたが、この事が「享徳の乱」新たな展開を生むこととなる。