戦国!風雲!北条戦記 -5ページ目

その後の上杉憲実

-その後の上杉憲実-


上杉憲実は「永享の乱」の後、越後より弟の上杉清方を呼び寄せ後事を託すと、出家して伊豆に隠棲した。


その後「結城合戦」が起こり、幕府の要請により、一旦は復帰するが、合戦が終結すると再び隠棲した。


憲実は、関東分国内の所領は家臣に分与するか、料所として進上するよう、また次男・竜春(のちの房顕)に越後の所領を継がせ幕府に奉公するよう支持し、その他の子はすべて出家させた。


つまり、自分の子には山内上杉家家督・関東管領職、ならびに関東分国内の所領も継がせなかったのである。


十歳前後で関東管領職に就き、その後二十年間、鎌倉公方足利持氏と京の幕府との間で奔走し、翻弄され、最後は公方持氏を攻め殺さなければならなくなった、憲実の胸中がうかがえる。


しかしその後、清方が亡くなると、憲実の意に反して長尾景仲(山内上杉家宰)らが中心となり、憲実の長男・竜忠を還俗させ、山内上杉家当主ならびに関東管領に擁立した。


これに怒った憲実は、還俗し上杉憲忠と名乗った長男を義絶した。


上杉憲忠は文安五年(1448)十一月、十六歳で関東管領に就任したが、前年 新に鎌倉公方の座に就いていた足利持氏の子・永寿王丸(十五歳?)との関係は、親の代の因縁、まわりの大人達の思惑もあり最悪であったため、享徳三年(1454)十二月二十七日、二十二歳の若さで、公方成氏の命により謀殺された。


これにより「享徳の大乱」が勃発し、上杉憲忠のあとを継いだ弟の房顕が、公方足利成氏との泥沼の戦いに突入していく。



一方、上杉憲実は関東を後にして諸国を遍歴し文正元年(1466)閏二月六日、長門国大寧寺にて死去した。


享年五十七歳であった。