近世日本の身分制社会(127/書きかけ140) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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本能寺の変とはなんだったのか55/?? 本能寺の変の全体像01/? 2023/12/13


これまでの説明がある程度把握できている前提で、今回で本題の「本能寺の変における全体像」に触れたい。

 

1549 年頃、西方教会圏の主導国スペインの公式による、イエズス会士ザビエルを乗せたポルトガル船が日本に向かうことになる。この年に文化交流を求めて九州に上陸してきた西洋人たちのことは、日本中で話題になる

 

 ※その少し前の 1543 ~ 1546 年の間で、旧倭寇( かつてのわこう集団。対馬方面、朝鮮方面、琉球方面の海運権を、この海域の地元民である日本人、琉球人、朝鮮人、中国人たちが同盟的に中国大陸政府や朝鮮政府に反抗しながら交易していた )を介して火縄銃が日本に伝わり話題になっている。火器兵器自体は13世紀の蒙古襲来(元寇)で知られていたが、この頃に伝わった前近代的な銃器型も日本で強い関心がもたれた(後述)

 

 ※西洋人たち(アジア航海の主導はポルトガル)は 1510 年代にはアジア方面への航路( モルッカ貿易 = インドネシア貿易 )はすっかり確立できていた。インドネシアやフィリピンよりもさらに東になる日本と接触するための計画も、前々( 火縄銃が日本に広まるようになった1543 年頃? )から見せていた

 

1551 年頃、ザビエルの一向( 布教の宣教師としての役目だけでない、外交大使としての役目もあった。スペイン公認のイエズス会士 )は、日本政府( 中央の朝廷・皇居と室町将軍 )との正式な謁見を試み、堺衆の案内を得て入京。この頃の京( 今の京都。中央都市 )は、畿内( きない。中央とその近隣 )で一時的に勢力を広げていた三好氏( 室町体制内でのかつての最有力・管領細川氏の執政・有力家臣の家柄だったが、下剋上的に細川氏を排撃してのし上がる。名族小笠原源氏の分家筋で徳島県を拠点としていた )が占領していた。戦火続きで荒れ果てていた 1551 年の時点での京は、中央政局( 世俗・聖属両中央議会 )としての形を成しておらず、外交大使に対応できるだけの人員体制( 政権らしい議会 )なども全く維持できていおらず再建の見通しも立っていなかった。その中央の様子を確認したザビエル一向は、やむなく九州方面、中国方面西部( 山口県 )に引き返すことになった


 ※対馬交易( 九州北部海域 )と交流網をもっていた堺衆たちは、九州で交流を進めていた西洋人たちの様子を把握し、堺衆たちの中でも交流目的でキリスト教の改宗をさっそく始めた者たちもいた。ザビエル一向は、キリスト教に一定の理解を示してくれた有馬氏、大友氏、大内氏といった西側の有力諸侯たち、そして旧倭寇(わこう。対馬や九州西側の海域の住人たち)や堺衆たち( 当時の日本の代表的な商人団。ちょっとした財界人たち )との交流を深め、初動ではそれら庇護を受けながらスペイン( 当時の西方教会圏の主導国。ろくに教会改革できずにたびたび暴走するローマ・教皇庁への制裁人事に乗り出し、その首根っこを掴みながらイエズス会たちの公会議制による教義対策を公認・支援 )と日本( 皇室を肩代わりする日本全体の代表格。主導家長 )との正式な文化交流の話を早々に進めるための模索に、奔走していた

 

 ※この時のザビエル一向の中央の訪問は政治的な狙いだったと見てよく、堺衆から

 

 「各地方ではそれぞれの有力諸氏たちが地元をどうにかまとめながら、都市開発も積極的に進めるようになったものの、肝心の中央(京)はいつまでも( 1551 年時点でも )まとまりがなく戦火で荒れ果てたままが続いている。今中央に訪問しても徒労に終わる」

 

 と事前に聞かされていたのは間違いないザビエル一向は

 

 「はるばる西洋から来た我々は、文化交流の話を早く進めたがっていることを日本列島全体で知ってもらいたい。その話を進めてもらえるような日本の明確・強力な代表格が勝ち名乗りを挙げたなら、我々はすぐにでもその最有力支配者と国際通商協約の話を進めたいのだ」

 

 という意図を知ってもらおうとするための大事な動きだったと見てよい。これは西洋人たちの意向だけでなく「もう誰でも( 足利家でも有力家臣でも )いいから、いい加減にさっさと中央再建に取り組んでもらいたい」ことを前々から願っていた堺衆たちや旧荘園領地の住民ら( かつて中央経済を支えていた、旧態隷属の負担を延々と押し付け続けられる一方だった中央寺社領の住人たち )の意図も、当然のこととして大きく作用していたと見てよい

 

 ※1551 年頃のザビエル一向の中央訪問は「海外から外交大使の訪問があっても、肝心の中央( 旧室町体制 )がそれに応対しているような状態でなかった」実情を強調されてしまったことも意味する。それは、その再建の見通し( 政権議会改革・身分再統制 )をいつまでもはっきりさせられない旧中央関係者たち( 旧室町機構 )が、畿内( 中央近隣の支配権 )を巡って見通しもなくダラダラグダグダ揉め続けていたそのだらしなさが強調されてしまったことを意味する。当時の三好派( = 反足利義晴・義輝派 反よしはるよしてる派 = 三好氏が擁立する親足利義維・義栄派。親よしつなよしひで派 )にしても、反三好派( 足利義晴・義輝派というよりも三好氏への反感派 )にしても、その世間体の気まずさが良い刺激になったのは間違いない

 

 ※しばらくして再建( 中央議会改革 )の目覚ましい巻き返しに足利義輝( 当時15歳。室町再建の最後の希望 )が動き始め、その矢先に惜しくも暗殺され次にそれを肩代わりするように中央進出( 中央議会改革 )に乗り込むことになる織田信長( 当時17歳 )の、少なくともこの2名は当時はまだ若いながらも この 1551 年のザビエルの中央訪問にかなりの等族責任( 外交大使も満足に応対できない中央の危機管理能力の無さ/地政学間の敷居認識力の無さ )の深刻さ( 憤り )をもったと見て間違いない

 

1554 年 それまで尾張( 愛知県北西 )再統一( 地方議会改革/人事・裁判権敷居改め )を進め、まとまりのなかった尾張衆を牽引するようになった織田信秀( 43歳。1552 年には亡くなっていた説もありそれだと41歳 。当てにならない本家筋の大和守織田氏と伊勢守織田氏を抑え込んで尾張の代表格となる )が急逝。織田信長( この時20歳 )がその継承を表明すると同時に、信秀時代からのさらなる尾張再統一( 敷居の次世代化 )を明確化しそれに乗り出される

 

1560 年 織田信長( 27歳 )による尾張再統一( 人事敷居改革。前近代的な軍兵站体制のためのさらなる官民再分離。身分再統制 )が8~9割方果たされ、達成したも同然となる。そんな矢先、かつて東海道( 駿河・遠江・三河・尾張 )で権威を効かせていた今川氏が急に大事なことを思い出したかのように「室町機関としての尾張の元々の支配者は、足利親類衆の斯波(しば)氏のはずで、その衰退後は同じく足利親類衆である我が今川家が尾張の支配代理だったはず」などと、今頃になって( 半農半士闘争・閉鎖有徳闘争をろくにまとめらない旧身分制議会の執政権などいよいよ無力化していた旧室町機構は、何もかもが曖昧なままだったからこそ、織田信秀に続いて織田信長のさらなる次世代化の地方選挙的な尾張再統一が行われ、尾張での地方改革がすっかり果たされてしまった、その後になってから = 今川氏ではとてもできていない高次元な官民再分離の評議名義性と選任議決性の確立を織田氏に見せつけられてしまった後になってから )そんな寝言( 敷居確認できもしない低次元な性善説 )をほざきながら、織田氏ほどの兵農分離( 前近代的な軍兵站体制に対応するための官民再分離 = 民事的地域政治体制刑事的公務政治体制の仕切り直しの人事序列敷居改革 )など大して進められていない中での今川氏は、時代遅れの旧態序列権威頼みに大見栄を張って( 背伸びの無理をして )大軍を動員して尾張に攻め入り、織田氏に返り討ちされてしまう( 桶狭間の戦い )

 

 ※今川氏は本来は桶狭間の戦い( 尾張攻略というより、格上気取りの今川氏が低次元であることが明確化され面目丸潰れになってしまう織田氏の人事敷居改革を、うやむやに妨害しに出向いた )を挑んでいる場合ではなかった。よそ( 尾張 )のことにとやかく介入する前に( 尾張の合格・高次元/失格・低次元 の裁定に出かける前に )、織田氏のように今川氏もまず自分の所の地元( 駿河と遠江 )の再統一( 身分再統制・人事敷居の地方議会改革 )を優先しなければならなかったのをモタモタとできずにいた( 旧態序列権威の従わせ方に頼りすぎた )ことで、むしろ今川氏の窮地のあせりから始まったのが桶狭間の戦いの実態( だらしない動機 )だったと見てよい。いくら大軍を動員できようがろくな官民再分離( 前近代的な軍兵站体制のための兵農分離・身分再統制 )も進められていない中で、そこ( 1万以上の軍勢を動員できても2ヵ月も遠征維持できない旧態序列体制/半農半士体制よりも、明確な3000の公務正規軍が中心の雇用序列による永続的な遠征維持/領内取り締まりができる軍兵站体制を保有できているのかどうか、そこが戦略的に優劣を決定付ける時代、すなわち戦国終焉への道を意味した )に大きな差を見せつけられてしまった織田氏に、無理をして戦いを挑んでしまい( 織田信長の身分再統制の人事敷居をうやむやに否定しようとして )派手に猛反撃されてしまうことになった今川氏は、この敗戦がまさに崩壊劇だったといえる。今川氏は以後、急激な衰退を見せ始め、尾張介入どころか三河介入の余力もなくなっていく

 

 ※マキアベリが君主論で後世に伝えた教訓と共通。オーストリア王室( のちスペイン王室・ハプスブルク家 )に競争意識( 地政学的人事統制権/キリスト教社会全体の主導権争い = 王族領特権争い = 皇帝権争い )を燃やし続けていたフランス王室は、危機感をもって自国の議会改革( 特に軍兵站体制 )を積極的に進め、まとまりのないイタリア( ひいてはローマ )の足元を見ながら格下扱いに積極的に介入し始めていたにも拘わらず、自分たちの祖国フィレンツェ共和国( イタリア・トスカーナ州 )がそういう所( 前近代的な評議名義性・選任議決性の確立 )を見習おうとせず、マキアベリがそこを必死に喚起しながら改革努力するも報われなかった。まとまりなど皆無な外圧任せ( ローマが我々を守ってくれないから、ハプスブルク家がどうだから、フランス王室が介入してくるから というそこ止まりの人任せ )政治( 旧態議会 )がいつまでも抜け切れずに、それが原因( 国家構想の無さ。自治権の育成理念の主体性/敷居確認の無さ )で不利な状況を作る( 自分たちで議会改革もできないローマ・教皇庁と同じ、だらしない低次元な集まりだと両王室から見なされながら格下扱いされる )一方だったフィレンツェ( だけでなくローマ・教皇庁を始めとするイタリア全体 )の暗黒時代を嘆いたマキアベリの無念が、のち君主論が書かれるきっかけとなった

 

1561年 当主の若年死が続いたことで衰退を招いて苦しんだ三河松平氏( 徳川氏 )は、尾張・三河( 愛知県北西部と南東部 )における今川権威衰退の決定打( 桶狭間の戦い )を機に、松平元康( 徳川家康。当時18歳 )による三河回復運動( よそ者の今川権威追い出しの再統一 )の動き( 三河の代表格としての姿を取り戻す動き )が顕著になる。これまでは織田氏の手先扱いの水野氏( 尾張家臣団の中では大手の方で、旧態的な自治権をヘタに維持してきたからこそ、尾張における今川権威の追い出しに織田信秀が動くたびに水野氏は態度を曖昧にすることも多かった。徳川家康の母の実家 )と、今川氏の手先扱いの松平氏( 徳川氏 )の構図で、尾張と三河の間で争和が繰り返されてきたが、桶狭間の戦い( 東海道筋の今川権威衰退 )を機に織田信長と徳川家康の間でそこが一斉に仕切り直される。今までの対立は水に流す形の清須同盟がこの頃に結ばれ、織田家は美濃( みの。飛騨を除く岐阜県 )斎藤氏攻略に、徳川家は三河再統一に注力するようになる( 今まで水野氏と松平氏は、織田氏と今川氏の間での抗争都合次第で、力関係的に強制参加させられてきたがそれがとうとう無くなった )

 

1565 年 できることも限られていた中での懸命な中央改革で武家の棟梁( 皇室を肩代わりする世俗議会の総裁 )の姿を取り戻し始めた足利義輝( 29歳没。室町再建における最後の希望だった )が惜しくも暗殺されてしまい、やっとまとまり始めた矢先だった中央は再び混乱が続くようになる。一方でこの頃には、軍兵站体制の強化( 身分再統制・中央議会改革が前提の地方議会改革の手本の示し合い )がどこよりも進んでいた織田信長( 31歳 )による美濃攻略が繰り返され、それに対応できるだけの整備を進められていなかった斎藤氏は年々苦しくなり、攻略側の織田氏優勢色、守勢側の斎藤氏劣勢色が強まり始める。まだ数こそ大したことはないもののこの頃に火縄銃が全国的に普及し始める。半農半士の中の下っ端出身の木下藤吉郎( のち羽柴秀吉 )なる無名が織田家中で頭角を現し、織田信長に重臣格に急抜擢( 織田家の有力家臣の浅野家の、その親類の木下氏の下っ端の出身が、浅野家を率いる家臣団家長側に急抜擢 = 他家ではまず難しかった、騒動が起きるようなこの人事序列改革ができて当然であるかのようだった織田信長は、次世代改革の等族指導がいかに優れていたかが窺える部分。織田信長が希望するその時代変容を浅野長政は受け入れ、その席を羽柴秀吉に譲って支える側に努めて行政手腕が高く評価された。浅野家のそうした品格は当然のこととしてのちに高く評価され、豊臣時代、徳川時代を経て大手の近世大名のひとつとして一目置かれるに至る。のち江戸時代の赤穂事件で有名な浅野家の祖 )されたのもこの頃。織田氏は合間に伊勢北畠氏攻略も進めている。地元をまとめるのに斎藤氏以上に難儀していた北畠氏( きたばたけ。伊勢神宮の氏子総代的な立場として、戦乱で荒れ果てたままのその社領も再建しなければならない等族義務があったが遅々として進まず、50以上も細かく乱立割拠した伊勢内の権力闘争をまとめる見通しも立っていなかった。伊勢北部の長島で反世俗権力運動が顕著だった浄土真宗の求心力の引き金になっていた。伊勢神宮の度会氏を補佐しなければならない治世の等族義務をろくに果たせていない、その見通しも立っていない時点で伊勢の支配者失格を意味する。それに比べて織田氏は先代信秀時代から熱田神宮の千秋氏ら、津島神社の祖父江氏ら氏子たちを旗本吏僚化/身分再統制して仲間意識を深め、また日蓮派法華宗たちといった庶民政治の地域振興に関係してくる地元寺社との面倒見の信用関係も築けていた、そういう所が大違いなのである。なお伊勢神宮再建はのち織田氏による伊勢再統一によってその再建計画がやっと進み、豊臣秀吉がその支援事業を引き継いだ )も、高次元な議会改革を進めていた織田氏から年々威嚇され続けて劣勢になる一方だった。なお織田家の盟友である徳川家康( 22歳 )はこの頃は、苦戦もしつつも三河再統一( 今川派排撃 )をうまく進めていた

 

1568 年 織田信長( 34歳 )の美濃攻略の大局は決し、伊勢攻略の方も時間の問題になっていた。尾張・美濃2ヶ国( と伊勢北部 )をただ力任せに併合したということではない、この時点でもはや次世代政権といえる組織改革を進められていた織田氏が有望視されたことは、足利義昭( 足利義輝の弟 )が、浅井・朝倉氏も含める六角・京極氏、赤松氏といった四職( ししき )層や、管領( かんれい )層の細川氏、畠山氏、斯波( しば )氏といった旧室町の有力筋を差し置いて織田氏を頼ったことでも( 中央再建までできそうな次世代化の整備が進んでいる織田氏と、それがいつまでもできそうにもない旧室町筋たちとの力量差が )はっきりしている。中央がせっかくまとまり始めていた矢先の足利義輝の暗殺によって再び乱れた際、足利義昭と共に中央を逃れた細川藤孝( ほそかわ ふじたか。いい加減な旧中央関係者たちが多かった中では際立つ有志のひとりで、のち織田信長に重用される )が目をかけていた明智光秀が、足利義昭の使者として織田信長と面会し、中央進出( 足利義輝・義昭兄弟を否定しながら足利義栄を擁立した三好派を、中央から追い出す要請 )の話が進められるが、この連絡のやりとりは 1565 年から始まっていて美濃攻略の大局が見えると本格化する。道義上は幕臣筋( 足利義昭の直臣と陪臣 )であった細川藤孝と明智光秀の両名を織田信長はさっそく有望評価し始めている。一方で織田信長の盟友の徳川家康( 25歳 )は浄土真宗( 反世俗権力運動 )との対立に苦戦するが三河再統一をうまく進め、この頃には今川領の遠江( とおとうみ。静岡県西部 )攻略に乗り出す攻勢側になっていた( かつて今川氏が徳川領の三河に介入する側だった力関係は、三河をまとめた徳川氏が今度は今川領の遠江に介入する側に逆転 )

 

 ※諸説あるがこの明智光秀は、かつて斎藤道三( さいとう どうさん。織田信長の義父 )と斎藤義龍( さいとう よしたつ )とで美濃の支配権( 再統一 )を巡って争われた際に、道三派に組して義龍派に敗れ明知城を追われ離散することになった明智光安( あけち みつやす。明智氏は、美濃の元々の代表格である土岐源氏一族。その家来筋 )の一族だったと推定される。叔父と見られているこの明智光安はその抗争時に死去したが、明智光秀本人はその時に明知城に居て逃れたのか、それとも既に外遊していたのかよく解らず、後者だったかも知れない。織田信長が美濃攻略を果たした際、かつて義龍派に敗れて失脚・離散した道三派の吏僚たち( 側近・旗本 )が織田信長に呼び戻される形で再登用された者も少なくなく、その筋であった猪子高就( いのこ たかなり。猪子氏は斎藤道三の元吏僚で、織田信長もこの猪子氏を自身の旗本吏僚として改めて採用 )は明智光秀のことを道三派の旧縁か何らかで知っていたようであり、織田信長と明智光秀の初面会の際には猪子氏らによる紹介が入ったようである。明智光秀はこの時点では、旧中央関係者の間で広く知遇を得ていた細川藤孝( 旧室町機関でのかつての最有力の管領細川氏の親類の三淵藤英の弟で、とうに実権はなかったが和泉の有力守護の家系であった細川元常の名跡を継承した。継承は和泉細川氏ではなく淡路細川氏だったという指摘もある。みつぶち氏は足利本家を護衛する重役・側近の家系 )からは個人的な有望視の知遇を得ていたが、足利義昭も含める旧中央関係者全体からは大した知遇・典礼は受けていなかった。京を追われて越前( 福井県 )朝倉氏の下( もと )に逃れていた足利義昭が、中央奪還( 対三好戦 )を織田信長に要請する際に誰を使者にするかの話になり、その時に細川藤孝が、道三派として故郷を失った元美濃衆出身の事情の明智光秀を推挙したと思われる。そうした経緯( 織田信長は美濃攻略中に、離散していたかつての道三派を招集し、美濃内部の対立事情を探りながら有望な味方を増やしていく降誘調略にも時間をかけ、攻略後の地盤固め/美濃の人事敷居改革をしながら作戦を進めていた )をもつ明智光秀と初面会した織田信長は、足利義昭からは大した知遇など受けていなかったこの明智光秀の才気にさっそく目をかけ、すぐにでも家臣団を作らせて( 妻木氏ら明知城時代の旧縁たちを集めさせて )、織田家の重臣( 幹部 )として木下秀吉のように急抜擢する計画を早い段階で立てていたと見てよい

 

1568 年末 本拠を岐阜城に移動して間もない織田信長は、足利義昭を介した、中央関係者の中の反三好派たちの取り持ちによる中央奪還の名目をさっそく整える。まず美濃( 岐阜県 )と山城( 京都府 )の通り道となる近江( おうみ。滋賀県 )北部の浅井氏( あざい と呼ばれていたが あさい と両方で呼ばれていたようである。京極氏の有力家臣だったが京極氏が衰退するとこの浅井氏が近江北東部を支配するようになった )は、織田氏の山城進出を妨害しない( 織田氏と三好氏の対立には手出ししない )旨を取り付けたが、近江南部の六角氏( ろっかく。名族・佐々木源氏の本家筋的な家系で室町機関における大手のひとつだった。著名な同族に京極氏、尼子氏 )はその阻止に動いたため、織田信長は 1568 年夏にまず南近江六角氏攻略に乗り出す。六角氏は自領( 南近江 )をまとめるのに難儀していた、だからこそ織田氏の中央進出の妨害運動に動く他なく、しかしその抵抗も結局半年ももたなかった。この時の戦いに敗れて主要地を失った六角氏の残党( 織田氏の身分再統制に臣従しなかった反織田派たち )は甲賀郡南部に逃れていくらかの抵抗は続けるが、大した巻き返しはできなかった。( ※下述 )南近江領の上洛路を確保した織田信長は 1568 年冬に即座に中央( 山城・京 )に乗り出し、権威のためだけに今まで中央をダラダラと占領し続けていた三好派の追い出し戦が開始される。この頃に西洋のキリスト教徒たちが、堺衆たちの案内を得て堺衆たちと共に織田信長に面会している

 

 ※北近江支配の京極氏の代行をするようになっていた浅井氏よりも、だいぶ立場が悪かった六角氏はこの時、もはや織田氏に抵抗する他に道はない窮地に立たされていた。浅井氏も結束など怪しい中でも表向きは北近江をどうにかまとめていたが、南近江をまとめる( 自分の所の地方再統一/地方議会の序列敷居改革をする )のも難儀していた六角氏は、反三好派の仲介( 名目 )を得て乗り出そうしていた織田氏の中央再統一( 反三好派たちから要請を請けた織田氏 )を支援するような余裕などはとてもなかった。有力家臣出身の浅井氏よりも、畿内においての等族義務をなお果たさなければならないひとつである六角氏が( 管領細川氏や河内畠山氏もそうだが )何もできずに、それを織田氏( 管領斯波氏の有力家臣のさらに家来筋出身 )に全て代行されてしまう既成事実が作られてしまえば六角氏の立場はいよいよ無く、畿内における六角氏の権威失墜の決定打( 面目丸潰れ )を招くことを意味したのである。六角氏( だけでない畿内近隣はどこも )は政変次第でいつ崩壊してもおかしくないほどまとまり( 政権議会の再建理念/地政学的主体性 )がなかったからこそ、反織田戦( 次世代派への対抗 )を煽ることを契機に親六角派( 旧態派 )でなんとかまとまることを期待し、それでやり過ごそうとする/乗り切ろうとするくらいしかなかった。計画性( 痛感性・当事者性教訓性・主体性の調整による構想敷居像 )などない( = 万事手遅れ寸前/手遅れになってから慌てたり怒り狂うことしか能がない = 全て旧態外圧任せの無神経・無関心・無計画な低次元な落ち度狩りに頼ることしか能がない = 次世代的な代表家長/支配者/危機管理公務手本側たる評議名義性/選任議決性の議事録処理的な等族指導の示し合いを低次元な頭の下げさせ合いねじ伏せ合いでうやむやに低次元化させ合うことしか能がない = 合格・高次元/失格・低次元を判定する側の格上の立場を気取る資格などない )時点で、織田氏との力量差( 特に旗本吏僚体制と軍兵站体制改めのための次世代的官民再分離 )は歴然としていた。時代遅れの旧態支配権( = 地政学間の危機管理/敷居改革/等族指導などできていない低次元な愚民統制序列敷居 )に頼ったねじ伏せ合いしかしてこなかった畿内の旧有力層( それに悪影響を与え続けてきた公的教義絡みの問題ももちろん含む )は、織田氏の次世代敷居によってトドメを刺されることになる戦国終焉に、この時点( 中央の次世代化を巡る織田氏と六角氏との戦い )で向かい始めていたのである。織田信長の高次元な中央再統一が敷かれてしまえば、その後に始まってしまう、容易に想像できた有力諸侯らへの上洛要請 格下げされて当然の低次元どもを上から順番に恫喝 )によって、その敷居に追いついていない全国総格下げ( 政権議会の次世代化 = 等族諸侯・公務吏僚の合格・高次元/失格・低次元の人事敷居序列改め )は免れなかった。そういう前近代的な地政学的情勢 文化教義圏単位/国際単位での異環境間の敷居確認/自分たちの文化技術交流の基準の明確化もこれからはできなければならない、そのための次世代的な政権議会化で国内の教義問題の整備もできなければならない国際社会観 )になってきているにも拘わらず、畿内の旧中央関係者ら( 世俗議会側の旧室町権力だけでなく、公的教義とその管理責任があったはずの廷臣たちも当然含む )にしても各地の代表格の上層たちにしても、地元従事層( 織田氏以外は官民再分離がどこもろくに進んでいない、いつまでも中途半端な半農半士社会/旧態序列感覚のままの家臣たち )をそれぞれ等族指導( 危機管理化・次世代化 )できなければならないのがどこもできずに( 織田氏の高次元な敷居に向き合うこと自体が組織崩壊を意味したため )にモタモタやっていたのも、とうとうその進退を迫られる事態となった。その気まずさでとぼけ続けていた地方裁判権止まりのだらしない有力諸氏ども( 人の合格・高次元失格・低次元を議事録処理・謄本登録する資格などない、そのための評議名義性・選任議決性の範囲とだらしない劣情共有の範囲の線引きもできない、その危機管理能力ももてない格下げされて当然の低次元な偽善者/閉鎖有徳ども )は、中央再統一の足並みに揃えることもできずにモタモタとやっていた所を織田信長が、次いで豊臣秀吉が内心怒っていた部分

 

 ※前後するが、だから中央再統一に乗り出した織田氏の敷居( 合格・高次元失格・低次元を裁量する等族諸侯の資格/公務吏僚の資格/書記局官僚の資格/人の上に立つ資格などない、議席/地位の譲り合いをしようとしない、その育成理念など皆無に低次元な落ち度狩りで人を従わせようとする身の程知らずどもは上から順番に格下げ! )に、格下げ覚悟で早い段階でやむなく臣従した親織田派たちは面倒見のよい待遇やまた今まで通りの仮処遇( 1580 年頃に再裁定の時間制限 )を「だったら貢献次第だ!」でどうにか受けられた者も少なくなかった。その進退を迫られてそれに結局耐えられなかっただらしない反織田派( 地政学観の敷居確認の手本をうやむやにし合う時代遅れの旧態序列を延々とたらい回し続けながら迷惑ヅラ被害者ヅラ善人ヅラし合うことしか能がない、今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものようにそれで顔色を窺わせ合い低次元化させ合うことしか能がないにも拘わらず人の合格・高次元失格・低次元にケンカ腰に口出し手出ししたがる閉鎖有徳ども/偽善者ども )が見苦しく騒ぎ始めるが、所詮はそうなってしまった後になってから騒ぐことしか能がない、すなわち大事なことの構想敷居計画をケンカ腰にうやむやにし合いながらただ保身に走る( 前近代的な評議名義性・選任議決性の姿を外圧任せのねじ伏せ合いでたらい回し合い雑用扱い化する = 低次元化させる )ことしか能がない、それで次代たちに甚大な負担を押し付け続けようとしているだけ( ただの愚民統制/劣情共有/猿芝居劇場の押し付け合いに振り回されているだけの低次元な人生観/老害主義を無神経・無関心・無計画に押し付け続けようとしているだけ )低次元ないい加減な結束( 人の合格・高次元失格・低次元を等族指導する資格などない、上から順番に格下げされて当然の図々しい法賊ども )などは3年ももたなかった。堺衆・大津衆たち( 畿内経済の担い手たち )にしても、文化交流を求めてはるばるやってきた西洋のキリスト教徒たちにしても、農工商における前近代的な地域自治体制の姿( これからの経済社会のための前近代的な開発/公共賦役の施政の姿。そのための官民再分離の等族義務。その謄本登録の議事録処理体制 )の基準をやっと整備( 民事的庶民政治体制刑事的公務吏僚体制 = 前近代的な中央裁判権と地方裁判権の全体的な敷居改めの身分再統制 = 代表家長による国家構想の明確化 )してくれるようになった織田氏のことを、次世代政権と期待/支持するのも当然なのである

 

1569 年 - 1571 年前半 今まで中央再統一( 中央再建 )の見通しなどはっきりしないまま、権威のためだけ( 管領細川氏に代わる畿内の覇者という既成事実をただ気取るためだけ )に山城( やましろ。京都府東部 )に居座り続けていた三好派は、織田勢に( 南近江の六角領を得て上洛路を確保してまもなくに )乗り込まれると3ヵ月ももたずに山城から一掃される。今までうやむやにされ続けてきた中央再統一( うやむやに騒ぎ合うことしか能がないだらしない連中がむしろ恐れていた、世俗/聖属両中央議会の次世代化へのテコ入れ = 政権議会の前近代化のための敷居改革/等族指導 )が、中央に乗り込んだ織田信長によって

 

 「旧幕府領( 中央世俗領 )の立て直しにしても旧荘園領( 中央聖属領 )の立て直しにしても外交大使体制( 朝廷の重要な役目のひとつ )の立て直しにしても、自分たち( 旧中央関係者たち )で何ひとつ進められない、それをいつまでもうやむやにし続ける畿内での低次元ないがみ合い( 派閥利害任せの低次元な旧態序列のままの議席/特権をただ横領し合っていただけの劣悪性癖 )を延々とやめさせられない( 人事敷居改革の次世代化を自分たちでできたことがない )中央( 国家構想の手本機関になっていない現状 )は一体どうなっておるのだ! どういうつもりだ!

 

 の恫喝がされながらとうとう身分再統制の第一歩が始まってしまう。

 

 ※三好派の追い出しを早々に済ませた織田信長はさっそく、織田領となった南近江( 滋賀県南部 )、美濃( 岐阜県 )、尾張( 愛知県 )で一斉の開発大動員を行い、山城( 京都 )とそれらの物流を結ぶための街道整備( 人々と物流の往来を快適にするための、都市と都市を結ぶ交通網と宿場の整備 )を急速に進める。このおかげで、永らく荒れ果て続けた京かつての今日の中央都市らしい姿が 1570 年に入ると100年近くぶりに大復活。のちの江戸幕府の見本となる織田氏による奉行所体制( 旗本吏僚が手配された役場体制。織田氏と良好関係が築けていた日蓮派法華宗もその連携施政に協力 )が敷かれる形で中央大再生に一気に向かう。下々の農工商に対する下々への面倒見の良い織田領の次世代的な謄本登録の新身分保証統治( 官民再分離。前近代的な意見提出の場、異業種間の道義交流確認の場、を設ける庶民側の民事政治の等族指導体制。その届け出と公認待ちを敷居確認し合う役所体制の品性規律を守ろうとせずに勝手ないがみ合いを始めてそこをうやむやにし合うことを禁止。揉め事があった際にそこを厳重注意しても許可なく武器を手にとって騒ぎ始めるような、地政学観の評議名義性/選任議決性の品性規律をうやむやにし合おうとする、公認どころか連名範囲的な意見整理提出の認知すらされていない勝手な上下権力の正しさの乱立とねじ伏せ合いをやめさせるための等族指導の手本の示し合いなどできたことがないにも拘わらず、身の程知らずにも人の上に立とうと合格・高次元/失格・低次元の裁量敷居にケンカ腰に口出し手出ししたがるような、次代たちに甚大な弊害負担を押し付け続けようとする今の日本の低次元な教育機関とそのただのいいなりどものような閉鎖有徳ども/法賊ども/反逆者どもは、相手が公的教義だろうが伝統ある大手の寺社領だろうが旧名族高官だろうが低次元化を助長する非公認アジトと見なして丸ごと一網打尽に摘発! 上から順番に厳しく連行・格下げ・処刑! )に安心した下々は京に商談に出かけたり、また手工業や物流などの職を求めて京や街道宿場( 織田領 )に大勢が駆け付ける形で中央都市経済は一気に活気づいた( 生活権の奪い合いのための正しさを乱立させ合いながら下同士でいがみ合わなければならない、下同士で下を作り合うために壊し合い貧しくさせ合う半農半士闘争/閉鎖有徳序列慣習の強制参加にこれまで縛り付けられ続けてきた下々は織田領内扱いされた地域から順次解放されていき、前近代的な経済社会活動に専念できるようになったことに皆が喜んだ )。山城( やましろ。京都府 )と近江( おうみ。滋賀県 )の間での経済の重要な担い手であった大津衆たち( 現大津市の商人団。こちらも堺衆のように物流における融資や為替などの問屋的な代替経済管理力に優れていた )も息を吹き返す形でその流通を快適に支えるようになる。この手際の良さは、中央経済の再生を永らく待ち望んできた堺衆や大津衆たちが、織田氏と再生事業の段取りを事前に進めていた( つまり次世代的治世といえる織田氏の官民再分離/前期型兵農分離の敷居は、経済の担い手たちからは内々では大歓迎の信用支持を得ていた )と見て間違いない。荒れ果て続けていた京の、まずは道路と橋の交通網再建のための資材、将軍御所や朝廷や中央寺院や市場施設などの再建のための資材( 木材や石材や金属など )が続々と運ばれた京は、明るい復興の活気に一気に溢れるようになる。織田氏の中央への乗り込みによって、国家らしい姿がとうとう取り戻される中央大復興で盛り上がっていた中、それぞれ地元の足並みを揃えるのに精一杯だった中央近隣のだらしない旧態有力者たちの立場というのは、本来はこれらこそがその中央再建に最も動かなければならなかったのを、結局それにどこも乗り出せないままモタモタとやっている間に、織田氏( 室町の三管四職体制の序列から見ればその陪臣のはずの、有力家臣の中の家来筋に過ぎなかった分際 )に乗り出され、つまりその等族義務( 上としての役目 )を丸ごと織田氏に肩代わりされてしまったという、旧態有力者たちにとってまさに言い逃れ無用の面目丸つぶれの結果となった。織田氏の次世代的な敷居( 次世代政権を十分維持できる議会改革/身分再統制の等族指導/裁判力の手本 )を見せ付けられ、もはや上から順番の格下げの恫喝( 上洛要請 )も時間の問題であることに、気の小さい中央近隣の有力筋たち( だけでなく、あくまで派閥利害的に反三好派を明確化にしたに過ぎない役目止まりだった灰色の足利義昭や廷臣たちも )は内心は青ざめるばかりだったのである。その一方で、まだ曖昧な所もありながらも織田派へ表明( 越前朝倉氏のたびたびの若狭武田氏介入にしぶとく抵抗を続けていた若狭東部の粟屋勝久、三好派の有力筋の大和支配代理の松永久秀、同じく三好派の有力筋として摂津北部をまとめていた荒木村重など。他、かつての領地特権は大いに失っていた細川昭元京極高佳らも格下げ覚悟で織田派として友好関係を築き始める )も目立ち始めるという、まさに新時代に向けての進退をそれぞれが明確化しなければならなくなった局面を中央は、織田氏の恫喝( 手本家長らしい説教 )によって迎えたのである。( = のち羽柴秀吉が乗り出した中央再統一のための賤ヶ岳の戦いや、のち徳川家康が乗り出した関ヶ原の戦いでの、前近代国家的な選任議決を巡る総選挙的表明戦の大きな手本となる )

 

1571 年後半 室町権威回復としての立て直しをしたかったから内心はあせっていた足利義昭としては、このまま織田信長に全て任せ放しにしていてはその高次元な敷居に染められてしまう一方になる、つまりその敷居( 次世代的な地政学観の合格・高次元失格・低次元の基準 = 前近代化のための賦課・税制の技術産業法の政権議会改革、特に公務吏僚体制と軍兵站体制の確立ができる次世代型身分制議会の官民再分離 )から見れば自分たちで何ひとつもできなかったという既成事実が確定してしまい面目丸潰れ( 足利家を中心とする権威による序列公判維持ができない )になる一方( 織田氏に上洛路を譲ることを結局しなかった六角氏もまさに、自分たちの今までの社会的地位が織田氏の敷居に脅かされる立場、その進退を迫られる立場 )だった。だからこそ山城( 京。中央 )における当初の治世再統制( 旧室町幕府領と旧荘園領の再統一。世俗・聖属両議会の中央裁判権改め。日本全体の代表家長としての手本基準の次世代化 )は足利義昭が表立った主導で行いたいということになり、織田信長も当初はそれを譲る形となった。つまり織田氏の後押しの影響力が多大であったとしても「そういうことなら( 自分たちでこれを中央を立て直す最後の機会として、今度こそ努力したいと節に心底思っているのなら )」と織田信長としても表向きは「我が織田家は、室町将軍家( 足利義昭 )の中央奪還の要請に応じ、中央再建の第一歩を手伝ったに過ぎない」という臣下的な歩調で合わせた( 先代信秀も買っていた、惜しかった足利義晴・義輝への義理もあった )ため、足利義昭も上機嫌になって織田信長に謝辞礼句を述べ、当初の関係は良好だった。旧中央関係者たちのことは自分たち( 足利義昭ら反三好派たち )でまとめ直したい( 中央再統一したい )という足利義昭の要望に応じた織田信長は、山城復興における物資面( 街道整備 )と防衛/治安面だけ支援し、権力機構的な統治には直接介入はせずに、織田領の近江南部、美濃、尾張、伊勢北部の統治に専念することになった。しかしこの足利家( 旧保守派 )織田家( 新生派 )の連盟統治( 折り合い )で戦国終焉( 地政学観の前近代政権議会化といえる等族指導 )を進めていくには敷居差があり過ぎた( 要するに間に合わない = 再統一/旧態議会改革/人事敷居改革/議席・地位の譲り合いを今まで自分たちでろくにしてこれなかった旧中央関係者たちが、派閥敵対の排撃を織田氏に手伝ってもらったというだけで急にそれができるようになるのかは話は別。そこが結局反省されることがなかっただらしなさが露呈するばかりだった )ことで、噛み合わない支障ばかり目立つようになる( 下々から見れば、結局は旧態のままの等族指導なき権力に窺いを立てなればならないこと自体が弊害負担。後押ししていた織田氏が直接再統一/等族指導した方が早い感ばかり目立つようになるからこそ、公的教義も含める足利義昭らいい加減な旧中央関係者らが、自分たちの低次元な敷居に合わせようとしない織田氏に気まずさの逆恨みをしなければならなくなる一方になる )この関係は1年ももたずに険悪化する一方となる

 

1572 - 1574 年 足利義昭( 旧保守派 )織田信長( 刷新派 )との対立が本格化するが、足利義昭は不都合を感じるごとに逆恨みの反織田派を煽ることでその場で結束しようとする気まずいやり方ばかりだったのに対し、織田信長は真逆だった。織田氏の敷居が畿内全体( の下々 )にはまだ浸透していなかった間だから通用していたに過ぎない足利義昭のごまかしの支持力/影響力は自爆的に失う一方になっていく。畿内における居場所がなくなった足利義昭が、まだ織田氏の敷居が浸透していない遠方( 中国地方の毛利氏のもと )に亡命する 1576 年頃まで( 足利義昭に対する空気3号扱いの格下げが決定的になるまで。1号は斯波義銀だが和解したため空気扱いを解除。2号公的教義 )、織田信長は足利義昭に対して和解する前提の寛容姿勢を採り続けた。両者の険悪関係が目立ち始めた 1571 - 1572 年頃までは足利義昭側( 旧室町派たち )織田信長側( 刷新派 )に対し、時に停戦和解しながら中央権威( 次世代化に対する態度を曖昧にしていた旧中央関係者たちの存在感 )を維持しようと( 敷居確認しようと )努めていたが、 1573 年あたりになるとそれももう耐えきれなくなる状況になり、足利派と織田派の間での真の鞍替え劇( 選任姿勢 )も顕著になる。それまで不都合を感じる( 自分たちの地位や発言力的存在感が危うくなる = 低次元な人生観の押し付け合いしかできないだらしない化けの皮が剥がれる )ごとにごまかしの口車で反織田派をただ煽って中央( 畿内 )をただ荒らす( 中央の人事序列敷居改めをうやむやに妨害する = 低次元なままの時代遅れの敷居を押し付け続けようとする )ことしかしてこなかった足利義昭側の化けの皮( 前近代地政学観といえる和解・健全化のための敷居確認/議事録処理/謄本登録の手本の示し合いを、うやむやにごまかし続けるための低次元ないがみ合いに転化し続ける = 次世代文化国家構想的/国際文化技術交流的な評議名義性/選任議決性の敷居を巡る争和のためなどではない、次代たちに甚大な弊害負担をかけようとしているだけの無神経・無関心・無計画なただの保身偽善運動 = 裁かれて/格下げされて/官民再分離されて当然の、文化圏国家全体を低次元化させることしか能がない/ただ失望させ合うことしか能がないにも拘わらず人の上に立ち続けようとする法賊どもの化けの皮 )が露呈するばかりになり、畿内における足利義昭派( 旧態派 )の居場所がなくなっていく( 畿内では皆が従わなくなっていく )一方の状況になる

 

 ※織田氏が中央に乗り込んだ際に、まだ織田氏の裁判権( 人事序列の次世代化 )の敷居が畿内全体で浸透している訳でもない( 下ほどすぐに理解するのも難しい )中で、「できるから」といって畿内に向けての支配戦を急速に向けようとすることは、何かあればうやむやに騒ぎ合おうとする( ただの敗者復活戦/ただの報復人事戦を繰り返そうとする )今まで通りの手口の低次元な挑発にまんまと乗せられるのと同じことを意味する。まず、理解するのにどうしても時間がかかる下々( ろくに身分再統制・官民再分離されてこなかった、閉鎖有徳主義に縛られ続けて目も耳も塞がれながら、下同士で下を作らせ続けてきた特に旧室町領と旧荘園領の半農半士たち )ただの勢い任せに頼った今まで通りの威力のねじ伏せ合いの権力闘争と何も変わらない失望の印象をただ与えてしまうことにもなりかねない。それは上( 旧態有力者たち・中央関係者たち・廷臣たちも当然含む )に対しても同じ、前近代的な中央議会らしい形をある程度( 評議・選任 )の時間をかけて採ることをしないまま急速にただ踏み潰すのみでは、今までただでさえ前近代的な誓約らしい評議/議決確認など採ってこれなかった連中( 畿内でも地方でも )に、そこ( 自分たちの課題の人事敷居改革も自分たちでできたことがない低次元同士が、人の上に立とうとする/上席の議席・地位に居座り続け、譲り合いをしようとせずに、旧態のままの時代遅れの正しさとやらをたらい回しうやむやにねじ伏せ合い低次元化させ合うことしか能がない身の程知らずは評議/議決する側の等族諸侯失格/公務吏僚失格として上から順番に議席・地位からつまみ出される/人事統制権を巻き上げられる/格下げされる )を解らせるための等族指導( 前近代議会的な解決 )を果たしたことにならない

 

 ※まず三好氏が占拠していた山城の追い出し戦が 1569 年に行われた( 織田氏が中央に乗り込んだ )この時点で、畿内近隣の有力諸氏たちが何らかの指針による連盟/結束などすぐに図れる訳がないことは既にはっきりしていた( 畿内近隣の有力同士で連署的な指針の評議/議決ができていたのならとうに中央再建に向かっていたはずだった。実際にはそれに向かう動きなど無い所か、それができかけていた室町最後の希望の足利義輝を畿内の皆で支援・団結しようとせずに、いつものうやむや騒動が起きた際はそれを見殺しにしてしまった有様だった。それと同じで旧態派の六角氏が刷新派の織田氏に上洛路を譲らずに妨害に動いたことで織田氏から攻め立てられることになった時も、その六角氏を支援しようとするような仲間意識すら旧室町体制は図れなかった )。そんな中で中央に乗り込んだ織田氏は、先の六角氏の掃討戦のように畿内それぞれの掃討戦( 各個撃破 )に乗り出そうと思えば可能だった状態、つまり織田氏の旗本吏僚体制と軍兵站体制に攻め立てられれば、単独ではどこも対応できないことははっきりしていた中、織田信長は勢い任せにただちにそれに乗り出さなかった。織田信長から見て、旧中央関係者たちをどうにもまとめることなどできそうにもなかった足利義昭は結果的に、反織田派たち( 要するに足利義昭のうやむや騒動の挑発にまんまと乗せられるような、人の上に立つ資格などない保身最優先のだらしない不満分子たち )をはっきりさせるための分水器代わりに戦略的に利用し、畿内での一斉の噛みつきを始めさせる方向にわざわざもっていった。それによる言い逃れ無用の議会的な形( 前近代的な既成事実的な形 )を作っていった所こそが織田信長の面倒見の良さの性分が見られる部分であり、説明されてこなかった大事な部分。この戦略的なやり口( やめさせなければならない当時の旧態社会観に対する荒治療 )は、当時遅々として教義改革( 国内文化教義交流の次世代議会化 )が進まずいつまでもモタモタとやっていた聖属議会側( 廷臣たち )に対しても同じ。そこを問題視した織田信長がのち明智光秀にその総議長( 求められていた地政学的な教義改革のための総議長と議席人事設置も廷臣たちは自分たちでできなくなっていた )を兼任させて織田信長側(世俗議会側)と明智光秀側(聖属議会側の代理人)という形での対立劇を演じたのも、同じく後になってからうやむや騒動を起こしかねない不満分子たち( 前近代的な評議/議決の人事敷居が敷かれた後になって「強制された!」と寝言をほざきながら低次元な旧態の落ち度狩り体制/だらしない報復人事体制に戻そうとする、最初からその腹で居る前提で場凌ぎで足並みを揃えようとしていただけの法賊ども )をはっきりさせる( 二度と低次元ないがみ合いを繰り返させないための身分再統制を敷くための )その分水器的なやり口の意味と織田信長の性分が説明されてこなかった。そのための前任としてその対立劇を代行しなければならなかった佐久間信盛が耐えきれなくなってしまったから明智光秀が肩代わりすることになった一連の事情は、中央聖属議会の改革( 朝廷体制の敷居向上/公的教義体制の敷居向上/旧荘園領の裁判権改め )が遅々として進まなかったことで当時の山城( 肝心の中央政局 )がいかに伏魔殿化していたのか、足利義昭ではそれをまとめるのはやはり無理だった( ことも足利義昭にいったん任せてみて、ただ権威の後ろ盾を得ながら家長を気取りながらねじ伏せてやり過ごせばいいという単純な話などではないことを証明させた )その問題をなんとかしなければならなかった織田信長と佐久間信盛と明智光秀が、この上なく手がかかるこの問題に手を焼いていた所が説明されてこなかった。本能寺の変が永らく誤認されてきた所として、のち羽柴秀吉( 豊臣秀吉 )の動きで見えてくる所とで順番に説明していく

 

今回は字数制限でここまで、この説明の仕方のまま次回に続けるが、次回に向けての補足も書いておきたい。


中央再統一( 旧荘園領/聖属領の裁判権改め )の真っただ中であった 1571 年比叡山延暦寺( 天台宗・公的教義 )がだらしなく錯乱し、武力運動を起こした( 織田氏と朝倉・浅井氏連合の対立に便乗し、反織田派として加担した )のを、織田信長は保証和解条件( 公的教義による武力運動自体が聖属政権再興運動であり、それは皇室の衰退を助長する教義崩壊にしかならず、建武親政失敗の教訓のはずという最後通達 )を提示して、世俗闘争の対立からは手を引くよう( 武力運動はしてはならないことを )延暦寺に和平交渉したが、延暦寺はそれを強気に突っぱねた( 廷臣たちもそれをやめさせることができなかった )ため、踏み潰し( 焼き討ち )に乗り出した。これは今まで反世俗権力運動を名目に武力自治権を維持してきた浄土真宗( 本願寺 )に対する恫喝( 警告 )を強めたことも意味する。織田氏による、有徳( 聖属 )への許可なき武力運動( 閉鎖有徳自治権運動 )の結託を禁止する取り締まりを巡って( 次世代化のための身分再統制を巡って = 織田氏に寺社領特権をいったん返上させ再度の謄本登録を受けさせ、賦役・公共税制にも関係してくる物的特権は今後は世俗議会側が前近代的に管理していくことを改めて明確化するため )両者は激突する。織田氏は旧室町派との対立にしても浄土真宗( 低次元なままの中央聖属・公的教義の序列統制とはとうに決別していた )との対立にしても武力闘争による地政学観の総選挙的な形を採ることもできただけ、幾分は解りやすい所もあったが、中央聖属に対してはそれ( 武力も荘園領も )を巻き上げた( 保護監察扱いした )中で4すくみの内部分裂( 今までは旧中央関係者たちの間でまとまりもなくいがみ合っていた中で、それをやめさせるべく織田氏に乗り込まれてしまったことで、今までただでさえ自分たちの当事者軸/評議性主体軸/議決性ももてていない連中にとっての対立構図は余計に複雑化するという意味 )を対処しなければならなかったのがややこしい部分。その聖属側の対立劇を仕方なく肩代わりしたのが織田信長と佐久間信盛と明智光秀だった。そして羽柴秀吉もそれを解決する( 和解・健全化の敷居確認を議会的にさせていく )ための大変さ( 等族指導 )は十分理解できていた。武力闘争( にどうしても踏み込まなければならない問題 )は世俗側が全て請け負わなければならないという前提の立場であった明智光秀が、聖属側( 廷臣たち )が織田信長によって自分たちの現状をやっと解らされた後の「今頃になっての泣き言」の手遅れ寸前の土壇場に仕方なく折れる形で、織田政権の否定に走った( 本能寺の変を起こした )動機にも関係している教義問題について、現代の組織像においても大いに教訓にできる部分として 1570 年代の前半と後半の様子を順番に説明していきたい。