近世日本の身分制社会(037/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 有徳惣代気取りの勧善懲悪根絶主義者による国家経済大再生と、江戸の身分統制前史28/34 - 2020/06/30
 
織田政権の教義性について、時系列の前後が少し激しくなる説明の仕方をしていくが、それと深く関わっていた家臣の羽柴秀吉や、信長の親類たちの様子に触れていきたい。
 
羽柴秀吉とは下級武士から始まり、次第に知将としての才覚を信長に見出され、軍政両面で重要な役割にどんどん抜擢されていったことでも著名な人物である。
 
その元々の地位の低さから見れば、誰もが目を見張るほどの、家中第一の出世頭だったといえるほどである。
 
功績面だけでいえば、羽柴秀吉明智光秀の2名は、家中で1位2位を競っていたといえるほどの驚くべき競争力を見せていたが、さらに別格扱いされていた柴田勝家丹羽長秀の2人には、どうしても及ばなかった。
 
1582 年の本能寺の変によって、織田信長が重臣の明智光秀に討たれたこの時に、重要な旗本吏僚たちの多くも戦死してしまったことは、少し先述した。
 
京に滞在していて警護も手薄だった織田信長・信忠親子を、明智勢(主に丹波勢・近江南西の坂本勢)がそこを狙うように襲撃し、2人を討ち果たすと、明智勢による山城(京)と近江(安土城)の支配戦が始まる。
 
ここはよく「信長・信忠親子が油断していた所を襲われた」という解釈がされがちな部分である。
 
信長はこの時、中国地方への一騎駆け(棟梁が直々に戦場に出馬すること)を予定をしていたようで、しかし朝廷や外交、そして再軍備の手配などで非常に忙しかった時期である。
 
つまり「信長・信忠が油断している所を、明智光秀が襲撃した」というより「忙しかった2人のその隙を、明智光秀が襲撃した」という方が正確である。
 
この襲撃(本能寺の変)は、それを実行した当事者である明智光秀の計画性も曖昧なため、少しややこしい歴史的事件といえる。
 
本能寺の変についての詳細は後述するとし、これによって旗本吏僚まで多く失った上、その後の明智勢による政局解体(織田政権=近江安土体制の解体)の動きが顕著だったことで、その後の織田政権の維持に当然響いた。
 
その異変に羽柴勢がいち早く駆けつけ「明智軍に中央の軍事裁判力や団結力を増強されてしまう」前に、その時間を一切与えずにその鎮圧を成功させる。
 
その後の織田政権は、地方に出て戦っていた柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興などその他、最有力部将たちの寄り合いによって、その中央力の建前がしばらく維持されたが、その体制は数ヶ月しかもたなかった。
 
旗本吏僚も多数失い、いったん解体同然になってしまった織田政権はかつての主体性が大いに失われていったが、その代わりに地方に出て戦っていた最有力部将たちは、依然として各地の支配者たちよりもよほど強力な裁判権威を有し続けていた。
 
その中で羽柴秀吉が積極的に名目(誓願)・名声を身に付けていき、織田政権がやろうとしていたこれからの日本の行政構築事業を引き継ぐための、その立候補的な政治活動が活発になっていく。
 
これは、単に羽柴秀吉の野心や欲望うんぬんという安直な話だけでは、決してない。
 
まず、旗本体制がいったん解体されてしまった状態で、建前上の幼年当主、織田秀信(織田信忠の子・信長の孫)を、それぞれ同じような権威を有していた最重要家臣たちが非専制的(多頭的)に支えて再建させるようなことなど、とても困難な状況だった。
 
織田政権は、いよいよ具体的な新時代政府としての身分制度がこれからついに公布され、確定されようとしていた、まさにその時に信長が討たれてしまった。
 
良悪賢愚がどうであれ、そういう所を明智光秀がよく解っていた上で、本能寺の変を起こしたのは明らかだったといえる。
 
織田政権は、「具体的な新政府体制」の朝廷への提出(すなわち諸氏と全国の従事層へのその公布)が行われる前段階の状態で止まってしまった。
 
だからこそいくら偉大な当主の後継者がいても、強力な代表によって「政権を支えなければならない強力な名目(誓願・法)」が今一度、誰かによって具体的に公布されて、確定しなければならない状態にいったん停滞してしまった。
 
残された織田氏の最有力の重臣たちは、そこで停滞したために「さあ、これからどうする」という状態だったのである。
 
そういう状態だったからこそ、日本が戦国前期に巻き戻ることのないよう、誰かがそれを代行しなけけばならないという自覚は、信長のこれまでの教義指導(等族社会化)があったために、重臣たちもその大事な所はすっかり認識できるようになっていた。
 
ただし皆似たような実力者たちだったからこそ、そのことをすぐに話し合うことができなかった。
 
重臣たちによる会議が設けられたが、ヘタな口走りを見せれば揚げ足の取り合いが始まるという、その「遠まわしに遠まわしに」の、皆の出方の探り合いばかりしていた茶番劇が、清洲会議である。
 
明智軍が鎮圧されるまでは、織田氏の支配地は混乱は起きた所も多かったが、羽柴軍に鎮圧されるとその混乱もすぐに収束した。
 
日本がせっかくひとつにまとまりかけていた織田政権は、それが引き継げそうな誰かが今一度、強力な代表となって立ち、日本をひとつにまとめ、戦国前期への巻き戻りはなんとしても阻止しなければならないという、等族意識は育っていた。
 
力をもつ者が、弱い者をただ奴隷のように従わせようとするだけという、戦国前期が抜けきれていないようなそうした時代遅れの手抜き政治の認識が、いかに愚劣極まりない態度であるかを、信長は重臣たちにそこをしっかり叩き込むことができていた。
 
支配名代として戦地に向かっていた、次男の織田信雄(のぶかつ)と三男の織田信孝が顕在だったが、この2名は建前だけは織田政権を引き継ぐことができても、実質それを再建することはほとんど不可能だったといえる。
 
2人は次期当主としては目されておらず、政権の中心を支えるためのお膳立てもそこまで受けていなかった、つまりそれだけの十分な育成も典礼も受けていなかったためである。
 
そのためその若い2人よりも、組織のことをよく解っていて、品性も高かった実弟の織田信包(のぶかね)に「亡き信長の当面の代理人(後見人としての代表)になってもらおう」という流れができた。
 
もう1人の弟の織田長益(ながます・織田有楽斎・うらくさい)もその候補に挙がり、その役目を重臣たちから依頼されたが、2人ともこれを「丁重にお断り」している。(清洲会議)
 
この2人は態度こそ出さなかったが、その人をバカにしたようなあからさまな無礼依頼に内心ではかなり怒っていたと思われ、だからこそ2人ともその代役を断ったことは、かなり賢明であったといえる。
 
「ではお前たちは、地方で獲得した支配地を織田政権に返上せよと迫ったら返上するのか?」と、支配総代としての権威を大してお膳立てを受けてきた訳でもない織田信包からそう問われたとしても、強力な支配権(器量・裁判力)を有するようになっていた重臣たちがそう簡単に手放す訳がなかったことが、容易に窺えたためである。
 
その時の織田政権の体裁上の都合だけでそう言っているのが容易に見てとれ、支配総代という見方だと立場が難しい信包に対して、何かあった時の落ち度を皆がかばう気など最初からない態度も、見え見えだったのである。
 
織田信包は、連枝衆(れんきしゅう・親類家格)として、組織のために仕方なく不条理な扱いを受け続けてきたひとりである。
 
器量を誇ろうとすることなど一切許されないまま、良い意味でも悪い意味では家臣たちへのみせしめの主従の見本として、常に不条理な支配名代としての荒い扱いを強要され続け、その立場に黙々と耐え忍んでいた人物である。
 
この信包は、戦場で危険な現場を何度も戦い、どうにか生き残ったため「ひとりの戦国武将として」の活躍機会をもし与えられていたなら、実際はかなり活躍できたはずの有能な人物だったのではないか、という見方もされている。
 
もう1人の織田長益は、信包のように支配名代の役割すら与えられていなかったこともあり、むしろ開き直りの「世の社会風潮に、なんでもかんでもいいなりになる気などない」という信長の弟らしい気風を見せたことで、評価されることにもなった。
 
同じく連枝衆として抑えこまれるばかりだった長益は、一応は外交官としての活躍はしていたものの、その人生観は茶道に凝縮されるようになり、茶道の先生(うらく流茶道)として名を残し、のちに徳川家康からも少し特別扱いされ、大名家格を保証されることにもなった人物である。
 
長益についてはともかく、組織の構造をよく理解していた信包が「単なる責務の請負人」を清洲会議で調子良く求められただけあったため、皆のその態度に「扇子でコイツらの頭を、ひとりずつ順番に叩いてやりたいくらいだ」と、内心は怒っていたことは容易に想像できる。
 
織田信包は、本能寺の変の真相を知っていたひとりだっと思われ、重臣たちの中にもそれは何人かいて、ただしそのことでヘタなことを発言すると大いに悪用される恐れもあったため、皆あえてそれには触れずに黙っていただけだったと、筆者は見ている。
 
その風潮は、信長の組織方針の「是非におよばず」の風潮、つまり「そうなってしまったことに対して、ただその良悪賢愚のことだけに一生懸命になった所で、当事者力(教義力)がともなっていなければ何の意味もない」という風潮もできていたことも、変について皆、あえて深堀りしようとしなかったと思われる。
 
その後の信包は、重臣たちが揉め始めて(賤ケ岳の戦い)も、政治に口出しをして存在感を示そうとすることもなく、何か要求するでもなく静観的だった。
 
豊臣政権にも大人しく従っていた(合わせていた)にもかかわらず、豊臣秀吉から「信長の実弟」としての家格の、執拗な格下げのための侮辱ともいえる嫌がらせを受けている。
 
これからの新時代政権を再建しなければならなかったため、半分は仕方なくだっただろうが、策士である秀吉の狡猾な策謀挑発の態度に、信包はよくその陰謀的な手口に一切乗らず、我慢できたなと感心するほどである。
 
筆者が信包の心情を代弁すると「家来筋の分際で! 人の周囲を汚らしく走り回るこの下品なドブネズミめが!」と怒鳴りつけ、鉄でできた扇子(実在する)で秀吉の頭を全力で叩いて、全治半年くらいの負傷をさせてやりたいくらいである。
 
しかしそういうあからさまな挑発策謀に一切乗らず、何ら動揺も見せなかった品性ある信包の態度に、さすがに気まずいと少しは秀吉も思っただろう。
 
信雄(次男)と信孝(三男)は、その存在を格下げしようとする目的の秀吉の狡猾な挑発策謀に耐え切れずに、そこにつけ込まれて、織田一族の名義からでは完全に政治権威を再建できなくするよう、仕向けられていった。
 
秀吉は、挑発策謀に一切の動揺を見せず何の落ち度もなかった信包に対しても、無遠慮に大名資格を剥奪(所領を没収)したが、改めてすぐに大名資格を与えている。
 
これは、もはや豊臣政権ではかつての主家の織田一族に対しても、領地特権の加増・削減・国替えの手配権(裁判権)は全てこちら側(豊臣政権側)にあるということを全国に知らしめる、そのみせしめもいい所の標的にされたといえる。
 
その広告塔に利用された信包はかなり侮辱された扱いだったといえ、そうやって権力者に利用され続けるばかりの信包は、関ヶ原の戦いまでろくに報われなかった人物だった。
 
そういう報われない扱いばかり受けてきた織田信包のことを、徳川家康はさすがによく見ていたようで、関ヶ原の戦いで日本の主導権を得たのち、信包のことはもっと尊重して扱っている。
 
織田長益の場合は、関ヶ原の戦いでは東軍参加を表明し、しかも勇将として名が高かった横山喜内(きない・蒲生頼郷・よりさと)を討ちとるという戦果も挙げて皆から一目置かれたたという、徳川派の功労者という縁ができていた。
 
その後の長益は「秀吉の妻であり、豊臣秀頼(豊臣秀吉の後継者)の母である淀の方」の縁(長益から見て、姉の子たちという親類の縁)から、頼まれて大坂方の後見人役の客将として招かれたものの、大坂夏の陣で豊臣家が滅ぼされたのちもなお、長益は徳川家康から特別扱いされ続けた。
 
一方で織田信包は、徳川氏とは大した由縁もできていなかったまま、関ヶ原の戦いでは東軍派の細川氏がきっかけで局地戦となった田辺の戦いに無意欲的に西軍参加し、徳川家康に何ら義理など果たしていなかったにもかかわらず、何の咎めも受けなかった。
 
徳川氏に何の義理も果たさずに西軍参加した大名のほとんどが、徳川家康からことごとく叱責され、そのほとんどが領地特権の剥奪や格下げ(良くて削減で済んだ者もいた)を受けていた中、信包は何の叱責も受けず、むしろその品性の高さが再評価されている。
 
織田政権時代も豊臣政権時代でも、それまで織田信包は決して良い扱いは受けていなかった。
 
豊臣秀吉においては、かつての組織内のことをよく知っていた信包に対しまるで「余計なことはいうな、するな」といわんばかりに、侮辱に近い格下げ圧力ばかりかけた。
 
それでも信包は秀吉の死後は、淀の方と豊臣秀頼が親類にあたるというその義理で、無意欲に西軍(豊臣方)に参加していた。
 
何の発言権もなく、あえて存在感を求めず、人の悪口も不満もいわずに大人しかった織田信包の手本的な品性態度に、徳川家康はかえってその人間性を尊重したのである。
 
信包は、関ヶ原では西軍参加したにもかかわらず、弟の織田長益の好印象も手伝って、徳川家康から何ら罰則も叱責も受けず、信長の実弟としての存在を改めて再評価し、大名家格を保証している。
 
徳川家康は、関ヶ原の戦いに挑む際に、次政権を目指す江戸幕府の武家諸法度(これからの武家の法律)の概要(名目)を朝廷に提出できていて、その政治理念は西軍よりもだいぶ具体的だったといえる。
 
これは徳川家康なりのやり方で、そういう所が大事であることの信長時代がよく見習われていて、また厳しさの一方の、ひとりひとりを公正に評価していく寛大さも大事であることも、よく見習われている部分でもある。
 
話が前後するが、本能寺の変が起きた時に「中国地方の平定を任じられ、西方の実力者・毛利氏と戦っていた総司令官の羽柴秀吉」が、その異変を素早く察知すると、目先の交戦相手であった毛利軍とさっさと講和を済ませて急いで軍を引き返し「反乱を起こした明智軍を鎮圧する」という実績作りに急いだ。(中国大返し)
 
これはまた「明智勢に代わって、中央権威が再構築させてしまうような時間など一切与えさせず、それを迅速に鎮圧する」という政治的な狙いも含んでいた。
 
山崎で羽柴軍と明智軍が激突し、ここで明智軍は撃破されて総崩れを起こし、体制を立て直す隙を与えずに瞬く間に明智軍を鎮圧した羽柴秀吉の立場は、信長・信忠を失ったその後の建前上の織田政権内での発言力が、一気に有利となった。
 
羽柴秀吉のその時の権勢は、元々の長浜(近江北東部)の本領の他、播磨但馬(はりま・たじま・兵庫南部と北部)備前美作(びぜん・みまさか・岡山東南部と東北部)他、その周辺の支配代理としての強い影響力を有していた立場だった。
 
各地のまとまりのない支配者たちよりも、織田氏の重臣である柴田勝家や羽柴秀吉たちの裁判力の方が、もはや格上であることが明確になってきていた頃である。
 
織田氏がどんどん強大化していく間には、中国地方の毛利氏のように、10ヶ国もの吸合に一応は成功してどうにかまとまりを見せていた、代表的な戦国大名もいくらかいた。
 
天下統一を目指して次々と迫ってくる織田軍(羽柴勢)に、毛利氏も一応の軍事抵抗力(地方裁判力)は見せていたもの、織田氏ほどの強力な国際裁判力(名目・誓願)に対抗できるような教義体制は、さすがにどこも構築できていなかった。
 
本能寺の変が起きた 1582 年は、信濃・甲斐・駿河・上野西部の支配者であった武田氏の制圧に乗り出した織田軍に、あっけなく消滅させられた年にあたる。
 
西は織田軍(羽柴勢)が中国地方に、東は関東方面の制圧に織田軍(滝川勢)が、北は北陸方面の制圧に織田軍(柴田勢)が、南西では四国方面の制圧に織田軍(丹羽勢・池田勢・蜂屋勢ら)が、というように、織田政権による日本統一の流れに向かいつつあった。
 
その様子に、どうにか生き残った各地遠方の群雄たちも、そのあまりの組織力の差にどこも内心では「もう時間の問題」「(こちらの家格を認めさせるために)どこまで抵抗するか、いつ白旗を揚げるか」を考えさせるほどの大脅威を与えていた。
 
ただし織田軍がいくら優位であっても、不慣れな他領に踏み入る以上は、反外圧派の一時的な団結によって激しい抵抗を受けることも多く、それで苦戦させられることも多かった。
 
しかしそうした抵抗はどこも長期維持できる訳もなく、組織力(教義力)の大差によってもはや時間の問題になりつつあったのが、本能寺の変が起きた年の、1582 年の日本の状況である。
 
織田軍(柴田勢)が加賀(石川県南部)を制圧し、能登・越中方面を威嚇し始めると、その間には別働の織田軍(金森勢)が飛騨をあっという間に制圧、続いて飛騨方面からも越中へ織田軍(斎藤利治勢)が乗り込むという状況である。
 
その頃の織田政権の裁判力(教義力)とは、地方をそこまでまとめられていなかった各地の代表たちと雲泥の差が出ていて、越中制圧戦などがその差が顕著になっている。
 
越中(富山県)では、永らく畠山氏・一向一揆・長尾氏の複雑な介入を、支配総代として目されていた代表格の神保氏が、本来はこれらを牽制して主体性を主導していく戦国組織としてまとめなければならなかったが、それが中途半端にしかできていなかった。
 
越中から見て西の加賀に織田氏が、また南の飛騨にも織田氏が押し寄せて、越中を圧迫するようになると、神保氏は遅々として片付かなかった越中の内乱を収めるべく、織田氏の権威を頼ることになった。
 
建前上の当主に過ぎなくなっていて、越中をすっかり追い出されていた神保長住(じんぼうながずみ)が織田信長を頼ると、多少は見所を評価され、織田氏に従属を誓う大前提の上で軍を派兵してもらえることになった。
 
織田軍の加勢によって神保長住は、富山城(越中の本拠)の奪還に成功し、越中の表向きの代表として返り咲くことに、いったんは成功した。
 
しかしその立場も1年ほどしかもたず、神保長住は反神保派の国衆たちを抑えきれなくなって、居城(政庁)の富山城を奪われてしまった。
 
しびれを切らした信長は、神保長住のことはサジを投げ、有力武将の佐々成政(勇将にして民政家でもあった)に越中の指揮権を与えて再攻略と統治を任せると、それによって争乱をようやく鎮めるようになった。
 
神保長住と似たような立場で信長を頼っていた小笠原貞慶も、これが信濃制圧における深志城復帰の件が結局認められなかった理由の1つになっていたかも知れない。
 
信長は神保氏の当主筋である長住よりも、地位はそんなに高くなかったが有能だったその外戚の神保氏張(じんぼううじはる)のことは高く評価していて、佐々成政に所属させている。(のち徳川家康にも再評価され、好待遇の旗本として扱われた)
 
今度は精鋭で知られる佐々成政が富山城に乗り込んで、周辺を黙らせて再支配を始めると、先に神保長住を追い出した国衆らも恐れ、いくらか大人しくなった。
 
織田政権の傘下の名義によって富山城に復帰したはずの神保長住に協力せず、それに従わずに牙を向いた越中の国衆たちを信長はもはや反逆者扱いし、それらの中で態度の悪い連中を調べ上げて次々に出頭を命じた。
 
重臣の佐々成政を追い出せずに態度を曖昧にし続けていた越中の多くの国衆(有力者層)たちは、信長から「どういうつもりなのか安土に出頭し、申し開きをせよ。出頭しなければ反逆とみなして全て攻め滅ぼす」と通達(恫喝)された。
 
越中の国衆たちは渋々出頭すると、信長は申し開きの機会すら与えずに、安土のすぐ隣の丹羽長秀の管轄の佐和山城に連行して、そこで問答無用で切腹を命じ、少しでも抵抗しようとすれば容赦なくその場で成敗した。(従事層たちの手本にならない上を厳しく取り締まる、等族社会化)
 
態度を曖昧にし続け「争ってでも、自分たちで名目(誓願)を固めて団結していく」という手本がろくにされてこなかった、罰則の対象に挙げられた越中の国衆は、代表を真剣に育てて選出していくというそのまとまりの自覚のなさ、その態度の悪さがもはや裁かれる対象となっていたのである。
 
信長に「問題の多い有力者」と見なされた国衆のそれぞれの家長は、次々と出頭を申し付けられて容赦なく成敗されていくと、国衆は混乱していよいよ団結を失い、無条件降伏したり、出頭せずに離散したりした。
 
そうして越中は反抗派が排撃されていき、織田氏の裁判権で統治されていく所となったが、このようなやり方は伊勢攻略や摂津攻略などでも顕著に実行されていて、どこもこれに対抗できなくなっていた大差が、日本にはすっかりできていた。
 
この裁判権の教義感覚が、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、明智光秀、滝川一益、池田恒興ら最重要幹部たち、旗本吏僚たちの中では、それが当たり前(最低限)になっていて、それができていなかった地方から見ると、新時代的な織田氏の教義力(社会性)はもはや別次元に見えていた。
 
織田氏が各地にそうした強力な上級裁判権を行使して、順番に屈服させていく「畳み掛け作業」に入っていたまさにその段階に、本能寺の変が起きた。
 
1569 年に織田軍が京へ乗り込んで朝廷を救済し、1571 年には公的教義を踏み潰して京の都市経済を大再生させてからの、それからたったの11年後にはもはや総力戦時代は終わっていた、つまり地方の代表同士の総力戦という単位の力量比べ(教義競争)は、ほとんど決着してしまっていたといえる。
 
戦国中期までには、形骸化・老朽化ばかりして何の役にも立たなくなっていたあらゆる時代遅れの旧態社会教義を、それを誰かが改めなければならなかったが、誰もテコ入れできなかったのをついに織田信長によってされるようになり、世が新時代政権に向かおうとしていた。
 
地方のそれぞれの戦国大名の裁判権が織田政権に否定され、まさに全てが織田政権の中に組み込まれようとしていた、その真っ只中に本能寺の変が起きた。
 
そうした中、着実に地方を降していった西方制圧の総司令官であった羽柴秀吉は、その頃には播磨の姫路城を拠点に、西側への支配力(裁判力)の強化に務め、西方の最有力・毛利氏との対決も激化していた頃だった。
 
羽柴秀吉は、毛利氏と険悪だった周辺諸氏を味方に引き入れつつ、それに組みさなかった毛利派(反織田派)の諸氏を、着実に潰していった。
 
まとまりのなかった但馬・因幡(いなば・鳥取県)の名族・山名氏を傘下に組み込み、強力な財源となる生野銀山を事実上掌握できていたことも、立場を大いに有利にしていた。
 
織田氏の社会改革は、豊臣政権にも強く受け継がれ、徳川政権でも緩和はされつつ、それが受け継がれていった。
 
織田信長の貴重な教義指導によって、社会全体が大いに健全化されていったからこそ、関ヶ原の戦いも「日本のこれからの行き先を皆で真剣に考えなければならない」流れに、結果的にできたともいえるのである。
 
応仁の乱でそこが全く自覚できずに教義崩壊が決定的になって以来、戦国後期を経てようやく人々もそれができていなかった愚かさ学ぶようになった。(近世化・等族社会化)
 
そして今一度、関ヶ原の戦いという形で今度こそあるべき、やるべき、これからの政治の姿をはっきりさせるために戦われたのが、その総選挙戦ともいうべき関ヶ原の戦いの本質である。
 
羽柴秀吉が本能寺の変を起こした明智勢を鎮圧すると、織田政権時代の有力者らを、自身の実力(器量)をもって懐柔・屈服させていき、その主導性を明確化し、急務であったその後の日本の行政機関が再構築されたのが、豊臣政権である。
 
豊臣秀吉は、信長の家臣時代に「どういう政治をしていかなければならないのか」という所に強く関心を向け、その手本をそれだけ吸収できていたからこそ、豊臣政権による、いったんの天下統一事業のための組閣も実現できたといえる。
 
本能寺の変については、まず 織田政権 - 豊臣政権 - 徳川政権 の流れを先にまとめてから触れる方が良いように思ったため、次は主に豊臣秀吉のことに触れていきたい。