近世日本の身分制社会(036/書きかけ142) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 有徳惣代気取りの勧善懲悪根絶主義者による国家経済大再生と、江戸の身分統制前史27/34 - 2020/06/11
 
信長の公正な指令線の裁判権はどうやって維持されていたのか、信長の旗本(馬廻り衆)体制の教義性について触れていく。
 
信長は、この旗本(馬廻り衆)という組織の総本部が公正な伝達がされるよう、吏僚(りりょう・官吏。総裁から正式に任命されている政治代理人。正規の政務担当官また補佐官のこと)には徹底的な指導で鍛えた。
 
信長の吏僚たちは、部将(部署の最高責任者・地方総長)ほどの指揮権は普段はないものの、その厳正さと品性の部分では部将たちと同格だったといえる。
 
部将とは、組織が大きくなるに連れて、軍政を部署ごとに分担して統率するようになったその大将格・司令官のことである。
 
佐久間信盛、柴田勝家、滝川一益(かずます)、明智光秀、羽柴秀吉、原田直政らがその代表的な司令官で、彼らほど目立たないが信長の参謀役であった丹羽長秀や、同じく組織の重役だった池田恒興その他も、それらと同格の者たちである。
 
部将は第二次世界大戦でいう所の方面軍の代表の師団長にあたり、寄騎(よりき・与力)はそれら属将の旅団長といえる。
 
師団は補給線・支配地権の権限をもち、旅団を回収・集結・指令できる方面軍の代表といえ、旅団は師団から補給と大方針を受けながら作戦が遂行されていく関係である。
 
第二次世界大戦で師団と呼べるほどの作戦規模になると、その総指揮の軍位階級は最低でも少佐、できれば大佐、准将、少将あたりが望まれ、寄騎はそれに次ぐ大尉や中尉ほどの関係である。
 
織田氏は他と比べ部将と寄騎が大勢いるため、寄騎はさも地位の低い者のように見えてしまうが、寄騎は地位がかなり高い方である。
 
織田氏の部将は幹部であるのと同時に、今風でいう大支社を任せられている企画総司令で、寄騎はその大支社に従う小支店社長たち、そして旗本(馬回り衆)が本社といった関係である。
 
大尉あたりだと短期の攻撃作戦の総指揮を任せられるほどで、織田氏の寄騎も丁度それにあたり、一時的に単独で別働軍として手勢を率いて拠点攻略などに動き、部将や旗本(総本部)と合流するなども、よく見られる。
 
部将は他の戦国組織にも居るが、織田氏ほど力のある部将はそうおらず、1575 年に戦国最強といわれていた武田軍を長篠(設楽)で撃破した頃の織田氏の部将の権威は、もはや他の戦国大名と同格か格上なほどの力差が出始めていた。
 
その頃には畿内(近畿地方)周辺の勢力分布はすっかり塗り替えられており、尾張、美濃、近江、伊勢、山城、若狭、越前はほぼ掌握、さらに摂津、河内、和泉、播磨、伊賀、丹後、大和の掌握も時間の問題という、他の戦国組織とは雲泥の差が出始めていた。
 
織田軍の軍事裁判力は、19世紀以降に顕著になってくる、こうした部将と寄騎の構造からなる第一次世界大戦のような組織体制の前身の教義力を見せていて、他の戦国組織ではとてもそこまでできていなかった。
 
吏僚の話に戻り、重要な指令線の代行を任せられる信長の直臣である吏僚たちは、これら大物部将たちに対し、公正に伝達、公正に監視、公正に状況を確認(尊重)でき、報告に戻ることができなければならない、公正な秘書官としての役割も求められる立場だった。
 
その重要な公務の重みを自覚できている、特に重要な指令であるほど間違いがないよう、その慎重さや丁寧さの品性があり、さらに指令される側の大変さも理解できる、あなどられないような厳正な者でなければ、信長が求める信用できる吏僚は、とても務まらなかった。
 
信長が求めたその吏僚体制は、どうやって育成されたのか、ここがいまいち注目されてこなかった所である。
 
信長は、旗本の中から吏僚の見込みがありそうな者を選別してその候補生を揃えることに余念がなく、危険だったり大変な任務ばかりさせた。
 
戦闘が激戦となると、旗本からもその吏僚候補ら何名かも、それぞれ小勢で出動させて前線に援軍に向かわせ、どんな状況の報告の仕方で戻ってくるかを比べさせた。
 
戦国組織同士の総力戦で大局が決着すると、勝った側は相手領土への平定戦が始まる場合が多いが、抵抗力(団結力)を失って本部からの援軍が期待できない各地の領主や代官らは、その時に諦めて降伏したり亡命する者も多かったが、反外圧派で通してきた家系はその責任を果たそうと、討ち死に覚悟で反抗する所もいくらかあった。
 
平定戦で少数の残党がちらほら反抗するそのひとつひとつに、水攻め・食料攻めなどをしていても効果は乏しい上に、平定も長引けば統治力や計画にも支障が出てくるため、降伏に応じなければそれら小城を、手負い覚悟で城攻めをしなければならない場合も多かった。
 
小城に少数の篭城とはいえ、攻城戦となればいくらかの死傷者がつきものである。
 
総力戦でほとんど決着がついてしまった後の平定戦では、勝ったも同然の勝者側は、攻城戦はできることならやりたくなかった。
 
そのため小城相手の攻城戦でも、手柄の目立った者は高く評価するようにして、恩賞や待遇で兵卒がやる気になるよう工夫もされた。
 
信長はその小城の攻城戦でもやはり旗本から、吏僚候補らに小勢で出動させ、戻ってきた時たちの反応を見ながら吏僚資格を鍛えていった。
 
危険な現場に、部将たちの前線に応援軍という形で一緒に戦わなければならず、候補生たちも弓矢が飛んでくるような危険な場所に踏み入って、自身も槍や弓や鉄砲を持って一緒に戦う場合も多く、そういう所を監視し合うよう信長に厳命されていたため、皆命がけで戦った。
 
そのため吏僚候補たちは、その過程での戦死者も続出し、戦闘が終わって報告を待っていた信長は候補生が1人でも戦死してしまうたびに、内心ではかなりくやしがった。
 
しかし信長はそれをやめることはせず、吏僚候補に何度も危険な目に合わせて、それに合格した者を吏僚に抜擢した。
 
つまり、現場で人よりも何倍も頑張っている者が評価されなければならない公正な報告が、ろくにされなくなることが常態化すると、現場がどういうことになるのか、身をもって体験させた。
 
その公正さが維持されず、手柄の横取りや面倒事の押し付け合いの蔓延が見過ごされるような不当な報告が常態化してしまうことが、いかに従事層を失望させ、いかに意欲(教義競争)を喪失させ、愚かな組織に変えてしまうかを、身をもって体験させていったのである。
 
現場の大変さを理解しようともしない、ズルい報告ばかり横行してしまう組織がどんなに歪んでいってしまうか、そうさせないために細かい配慮まで視野が行き届くような、大事なことは丁寧さ慎重さの伝達と報告ができると信長が確認できた候補生こそ、重要な任務も任せられる正式な吏僚に抜擢されたのである。
 
だから信長の吏僚とは、本人が大身でない、つまり待遇は中級の旗本の吏僚(秘書官)であってもその役割の権威が機能し、何万何十万石という公領を任せられている最上級格の部将(方面司令官)に対しての指令代理が務まり、公正な確認(尊重)と報告の体制が維持できた。
 
これも江戸幕府における、旗本の家格と、また外様大名・譜代大名・親藩それぞれの藩士たちの家格の、門閥区別のきっかけになっている。
 
江戸時代の武士は、基本的には石高(こくだか・給料のための、領地権やその相応特権のこと)の待遇の高低が家格の基準になっていたが、旗本はその待遇そのものは大したことがなくても、外様大名や藩士にはない特権による家格が与えられる場合もあり、それで指令(政治力)を機能させることもできた、その前身の大きな手本になっている。
 
信長の吏僚体制によって、大身(身分が高い者)にありがちな、当主と直接やりとりをしている訳ではないことをいいことに指令代理である吏僚に対して「小身(中級武士風情)のお前に、組織の何が解るというのだ!」などと偉そうにいい始める問題も未然に防いだ。
 
この吏僚たちは、戦時だけでなく、部将たちが任せられていた例えば、城の拡張工事や、交通網や施設の整備工事、また不要になった城の破却(破壊撤廃)といった土木作業現場などにも小勢を率いさせ、積極的に応援参加させていたため、何がどれくらい大変なのかも大体解っていた。
 
大身の者に普段からそれを言わせないよう、常に色々なことを散々体験させられ、さらに公正な現場になっているかの監視役も常に担っていたため、どんな権限者も吏僚(秘書官)には見苦しい言い訳はできなかった。
 
そうやって、旗本の吏僚候補たちにも現場の応援に向かわせるのと同時に、現場の特権乱用の不正が見過ごされて組織力が低下することのないよう、その監視が徹底されていた。
 
そして戻ってきた者を別々に呼び出し、誰がもっとも公正で正確な良い状況報告ができているかの信用比べが何度もされた上で、そこが熱心に指導されながら正式な吏僚が厳正に選ばれていった。
 
上層に蔓延しがちな「お前に何が解るんだ理論」「説明しても理解できない理論」といったありきたりな男脳性癖の口ほどにもない柔弱な言い訳は、そこが鍛えられていた公正な吏僚たちには一切通用しなかったのである。
 
それ所か、あまりの態度の悪さが返ってこようものなら「貴殿がそこまでごねるつもりなら、代わって自分が代理しましょうか」と、いざとなれば品位をもって嫌味を言い返すこともできる者たちだった。
 
しかし吏僚たちは品性のある者たちであるため、組織が歪んでいかないよう、相手の態度が悪くなければ偉そうな高圧的な態度はもちろん採らなかった。
 
厳命といっても例えば、指令された側が「その開始予定日よりも10日ほど準備に時間がかかり、それを無視して予定日に合わせようとすれば支障が出てしまう」ことの事情を説明できれば、吏僚たちも「よく解りました。私からもそのことをお屋形様(お殿様・信長)によく説明しておきましょう」と相手が困らないよう取り計らうこともできる者たちだった。
 
組織というのは「大した事情などないただの言い訳」がいつまでも通用すると思う体制が放任され続けるからそれを繰り返そうとし、ひとつ許され始めると最低限の手本責任(等族義務)がどんどん低下していき、どんどんごねたり怠け始めていってしまうものである。
 
そういう日頃の態度からの悪化が目立つようになると、男脳性癖のただ雑で荒い偶像規則を用い始めて強要し合うばかりで、公正さから長期的な快適性の改善を地道に努力しようとしなくなり、性根もどんどん不健全に歪んでいってしまうのである。
 
待遇こそ大したことはなくても、信用を得て旗本の重要な吏僚として公正に活躍していた者たちは、歴史の表舞台では目立たなかった者が多いが、堀秀政、長谷川秀一、野々村正成、祖父江秀重、下石(おろし)頼重、矢部家定、菅屋長頼、猪子高就(いのこたかなり)など、他にも多数いる。
 
これらは本能寺の変で、最後まで逃げずに二条城の織田信忠(信長の長男・継承者)を明智軍から守ろうと戦死してしまった者も多いが、その親族らの中にはのちに徳川政権に再評価され、江戸の旗本に収容された家系も多い。
 
ちなみにこの猪子高就は、元は斎藤道三の直属の家臣で、美濃攻略で織田氏に降参した折りに改めて、吏僚としての品性が評価されて信長の直臣(旗本)に組み込まれた口である。
 
しばらくして、信長と全く面識がなかった明智光秀が面会を求めた時、その紹介の斡旋を頼まれた人物がこの猪子高就といわれているが、しかし年齢がどうも合わないため、そうだったとすると猪子高就本人ではなく、その親類の誰かだったと思われる。
 
猪子一族の誰かが、元は美濃の家臣同士の仲であった、派閥闘争で失脚した明知城の明智一族(土岐一族)の光秀のことをよく知っていた者がいたと思われ、その優れた才覚が信長に案内され、それが2人の初見の面会となった。
 
明智光秀が信長に大抜擢され、それがのちに本能寺で信長を成敗することになってしまい、その乱によって猪子高就も戦死してしまうことになるのは、少し皮肉な話ではある。
 
二条城で織田信忠を守ろうと一緒に篭城した猪子高就が、攻めてきたのが明智勢だと知った時には驚いたかどうかはともかく、規律の手本でなければならなかった吏僚(旗本)たちは、保身や恨みがましさなどもたずに最後まで責任(等族義務)を果たそうとし、有能(公正)な旗本吏僚たちの多くがこの時に戦死してしまった。
 
ここがいまいち評価されてこなかった所だが、この時に多くが戦死してしまった旗本吏僚たちが、信長から一身に直接指導を受けていた、新時代の等族義務の規範の第一任者を背負っていた者たちだった。
 
織田信長・信忠親子を成敗後の明智軍による山城・近江平定戦でも、明智光秀は信長の旗本吏僚たちのことを全く再評価も救済もしようともしていない態度が、変の要点のひとつになっているといえるが、詳しくは後述する。
 
話は戻り、信長の吏僚体制(旗本制・馬廻り衆)の教義性は、下を意見回収する奉行所体制の教義性も同じで、だから下(従事層)にも公正さ厳正さの指令線が維持された。
 
閉鎖有徳が席巻していたかつては「どうせ上は、下の意見など一切聞いてくれない」というスネた考えが当たり前になっていたから、下も等族意識(教義競争)に無関心・無神経・無計画・無意欲な揉め合いばかりが繰り返されてきた。
 
それを信長によってついに、公正な奉行所が設置されて「そういう不満があるなら、まずはなぜ、自分たちで意見を整理して奉行所に訴えなかったのだ」と、上もそれをまず言える状態を作っておいてから、下が奉行所を無視して騒ぎ出すことを恫喝される健全な社会に、改められていった。
 
その時に下がもし「奉行所に訴えたが何も聞いてくれなかった・何の返信もなかった・不当な返信しかなかった」といい張り出したら、信長は面倒がらずに、奉行所側に不当があったのか、従事層側に不当があったのかその指令報告線を洗い出すことに余念がなかった。
 
奉行所側の不当は、調書をひとつひとつ調べ、周囲の者の証言を集めていけば大抵は発覚するものだが、これまでの支配者はそういう誤解や不当は、調査と吟味をしてそこを再指導するというその最も大事な責任(等族義務)を面倒がって、人任せばかりしてきた。
 
そうしたかつての悪習を払拭するべく、そういうことがあると信長は面倒がらずに常に細かく上から調べ始めたため、不正(不当)はどんどん消滅していった。
 
江戸時代になると、大目に見られていたものもあったがそうした特権を乱用しようとする役人(武士)の不正は、特にそれが原因で武士同士の上下と、武士と庶民との上下のその建前を乱すものは厳しく取り締まる規範が自覚されるようになったのも、信長がやり出したこの等族社会化がきっかけになっている。
 
信長の場合はいうまでもなく、上が明らかに面倒がっているだけの手抜きや、不当に良い思いができる者と不当に負担ばかりさせられる者が出てくる「何の手本(健全性)にもなっていない不正」が発覚すれば、まず上に対してただではすまなかった。
 
まずそこに問題がないかを確認した上で従事層たちに「その地域だけが得をし、他の地域が損ばかりするような意見」の場合は、そこを面倒がらずにしっかり下に説明する責任(等族義務)を果たし、地域間の不健全な言い争いは繰り返させないようにした。
 
そうではなく郡全体、地方全体の手本になる建設的なものなら聞き入れ、人よりも工夫(教義競争)する地域や個人は奨励(意見回収)されるという態度を、信長によってついに熱心に明確化されていったからこそ「上は細かい所まで見ている」と下も思うようになり、中には意欲的になる者も出てくるものなのである。
 
信長は、下(従事層側)が弱音や泣き言でごねているのを見かけると、まずは手本になっていない、そういう気の小さいだらしない態度ばかり見せる口ほどにもない上(指導者側・管理権限者)がいるのではないかという疑いから、まずは始めるのである。
 
下同士で疑い合ってケンカしているのを見聞きすると、どの管轄の下層のできごとなのかを真っ先に見て、その責任者たちを呼びつけて「上のお前たちがだらしないから、下がああなるのだ」と下の規律の無さを上から追求することから始めるのである。
 
まず上に問題がなかったか、または指導の仕方に誤解がなかったのかを明確化していき、次に下の争いを仲裁し「上は不正はしていないから、皆も上の姿勢を見習って協力し合う努力をするよう」再指導し、よほどの態度の悪さでなければ、誤解からよく発生する下層たちの揉め事については、大目に見た。
 
だから先述した長谷川秀一、野々村正成の旗本吏僚の近江代官の例のように、訴えは慎重に吟味し、また訴えがなくても目立つ騒ぎには積極的に確認しに行き、信長の意に沿う公正な裁判が普段から行われているかどうか、そうした上からの積極的な態度の手本からの社会政治に改められていった。
 
信長の下の落ち度は、まずは上の落ち度から確認、という社会改革だったからこそ、常備軍に雇用してもらえた正規兵の者と、その雇用からあぶれた半農半士のままの者とでの恨み合い・ひがみ合い・蹴落とし合いという、これまでの浅ましい考えも、段々調伏(浄化)されていったのである。
 
その地位や立場に対する責任(等族義務)が、常に上から順番に厳しく追及される示しが常態化されれば、内心ではひがみがあっても上に立った時の責任(等族義務)について皆も考えるようになるのと同時に、下も下同士で不正(不当)を疑い、不正(不当)を消滅させていこうと健全化していくものである。
 
信長にとっての国際軍事裁判権の正規軍とは「公務待遇のみ欲しがり、それに見合った公務責任(等族義務)に全く関心が向いていない」ような、治安規範(教義競争)の手本になろうとしていない不真面目でいい加減な無能(偽善者)は、そもそもその中に入れてもらえなかったのである。
 
それを国際軍事規律の正規軍資格からの解りやすい形でも、人々に解らせていったのである。
 
「不満があるならそれ以上の教義競争力を見せてみよ。いくらでも評価(奨励)してやる」
 
 という、それだけの公正な器量(教義競争の受け入れや線引きの裁定力)が組織にあるから
 
「それ以上の教義力を何ら見せていない者が、政権に断りも無しに何を偉そうに発言権や優先権を勝手に得ようとしているのだ」
 
 という不当を抑えこむ健全性(等族社会化)も生じていくのである。
 
この「教義力を何ら見せていない者が」の部分が江戸時代では「その家格でない者が」に変わったが、こうした秩序も織田政権時代の手本になっている。
 
江戸時代には、織田政権のように特化していた教義競争は、戦国風潮への逆戻も恐れられてむしろ制限されるようになり、家格の厳格化によってものを言う教義社会に変わっていった所に違いがあるが、規範違反の不正の訴えは、審議して改める前提は尊重され続けた。
 
前身の織田政権が荀子的政治であったのに対し、段々と皆がついていけなくなったり、またそれを維持できる強力な当主が亡くなってしまえばその継続も段々難しくなってくることもあり、その前身が有効活用された徳川政権が孟子的政治に、段階的に切り替えられていったといってよい。
 
江戸時代では家格の上下統制の建前が非常に厳しかったが、ただし上の規律違反(条約違反)の不正のせいで大勢の下が困ることになる訴えについては、上はしっかりとその調査と審議をし、公正な低級裁判権(納税と労役の代替権である庶民保証法)を果たさなければならない責任(等族義務)の自覚自体は、強くされた。
 
しかし江戸時代には満足に審議されずにもみ消されることも度々だったため、問題がどんどん深刻化していき、一揆と藩士たちの派閥闘争が複雑に絡み合って激化し、藩が大騒動に発展することもよくあった。
 
そうして藩が大混乱になって収拾が着かなくなると、幕府も検察的に藩の取り調べの介入に動き、明らかな不正をしていた上に対する厳罰にも挑むようになった。
 
こうした江戸時代の、自分の所(藩)の不正を自分たち(藩の中)でろくに統制できない藩は、藩主でさえもその不始末の悪質さ次第では厳しい裁定を下すようになったその基準も、上から厳しく見るようになった織田政権時代の手本がきっかけになっているのである。
 
皇室を院政に封じた鎌倉の武家社会以降、今まであまりにも、上(自分)に甘すぎた不始末で下(人)に負担ばかりかけ、それが原因で断続的に400年も争ってばかりいたのを、尾張の織田信秀・信長の親子の登場によって、ついにそこが矯正されるようになったのである。(中世から近世への移行)
 
織田政権の「まず上(組織性)から矯正し、次に下(人々)を矯正する」基本的な順番と、その吏僚・秘書官体制は、それらは孫子の兵法でいう国際軍事規律の利や、情報処理能力を誤らずに養っていく諜報員の扱い方の利などに、まさに適応している手法だったといえる。
 
織田信長とは、従事層たちに対し、存在感や待遇を欲しがるだけで「上に立つことの責任(等族義務)の手本となることをそんなに面倒がるなら、だったら上に立とうとするな(正規軍入りしようとするな、正しさを主張しようとするな)」という、それまでそこが乱れきっていた部分を面倒がらずに、徹底的に世直しした重要人物だったのである。
 
あるべき社会論(組織論)を語る上で、また代表としての何らかの理念を名乗る上で心得として、まずは最もやってはいけない大事な2点について明確にしておきたい。
 
1つは
 
 結局面倒がっているだけの結論の出し方の態度。(慎重さ丁寧さ地道さの手本のない、むしろそれを否定するような偉そうなだけの結論の仕方の態度)
 
もう1つは
 
 「自分が皆の面倒を見てやっている」がありありと出てしまっているような無能な家長気取りの態度。(俺がいないと皆バカでダメな奴らなどといっているような、偉そうな勘違い家長気取り態度)
 
偽善性癖の愚の骨頂ともいえる、組織におけるこの二大愚劣態度は、組織(人や世の中・社会性)に良い影響などひとつも与えず、本人のためにも人のためにもならず、それを求め合っている内はそれ以上が生じることはない悪習でしかない。
 
真剣に向き合っていることを伝えたいなら、特に相手よりも自身の方がそうだと伝えたいなら余計に、それだけ面倒がる態度を見せるべきではない。
 
間違っているかどうかよりも、どちらの方がより「面倒がっていない態度」が示せているか、どちらの方が「結局面倒がっている結論の出し方ばかりしているか」で比べ合うことが、いい加減さを見抜く簡単な目安でもある。
 
結局面倒がっているだけの結論で締めくくることしかできていない範囲のことまで手出しや口出しをしてしまっている、当事者力(説明責任力)の欠けた無神経・無関心な意見や論述というのは、いくら関心を装った所で、無計画・無気力な結論の態度が必ず出てきてしまうものなのである。
 
「頭が良い悪い」「頭が固い(頭でっかち)柔らかい」などという、誰にでもあるそんな一過偶像を気にすることよりも「面倒がっているか、面倒がっていないか」を比べ合うことのが遥かに重要である。
 
当事者本人にとって面倒がっている部分との折り合い(線引き)を整理工夫せずに、ただ固執し続け、不健全な偶像ばかり用いようとするから偉そうに偽善憎悪したがるようになり、自身で解決するべきその問題を抱え続けて、人に負担や迷惑をかけることになるのである。
 
当事者本人にとって面倒がっているはずの範囲のことまで手出しや口出ししていることを、当事者本人で線引きさせることから始めずに、社会の正しさとやらでやみくもに手出しや口出しをさせ合おうとするから、その愚劣性癖の歯止めにも向かわないのである。
 
個人も組織も計画性(健全性)の肝要は「ただ面倒がっているだけでは、それ以上先はない」ことに対する不足を、どう補填していくかの計画的な線引き(折り合い)の整理力だと、まずはいえる。
 
やってみた結果、想定されていなかったことが多いほど、それだけ面倒ごとにも出くわすようになるのも、よくある自然の話である。
 
その時に、関心をもって丁寧に慎重に地道に面倒がらずに向き合うことが、どうもできそうになければ、自分で(自分たちで)そこをしっかり明確化して、線引きしていくべきなのである。
 
結局面倒がっている部分というのが、その個人その組織にとっての線引き(損益分岐)の部分であり、そこを面倒がり続けているだけの偉そうな結論の仕方しかできていない無神経・無関心・無計画な無能(偽善者)が知覚できている社会性など、知れているのである。
 
そこを見抜ける者と見抜けない者の差も、線引きを面倒がらなかった人生観(結論観)を大事にできていた者と、線引きを面倒がって偉そうにごまかすだけのいい加減で雑で荒い人生観(結論観)ばかりだった者との、その器量の差といえる。
 
教義競争力の根底的な差とは結局は、どちらの方がより面倒がらない地道な関心態度で、より議題に向き合おうとしてきたのかの差でしかない。
 
当事者本人にとって必要な、具体的な教義指導といえるものがこの世にまだ存在していない(そこまで整理されていない)場合も多いことや、また今まで注目されてこなかった隠れた所にしか、そのきっかけがないことも、実際は多いものなのである。
 
そういう所に気付こうともせずに、自身で面倒がっている範囲のことまで偉そうに口出しし、面倒がっているだけの偉そうな結論の仕方ばかり平然と見せる劣悪態度の無能(偽善者)こそ、殺人犯と同格罪に扱って摘発されるようになる体現体礼の教義に改められるべきで、そうすれば健全化していくに決まっており、未然に犯罪も激減させられるに決まっているのである。
 
偉そうな偽善共有に惑わされずに、自身に合った大事な生き方は、自身で地道に向き合う丁寧さ慎重さの心がけが強い者ほど、思いもよらなかった意外な所に手助けのきっかけがあったことに、ある日気付く可能性も高くなるのである。
 
史学研究関連の中には、10年20年の整理がされて出版される書籍というのも普通のことで、だからといってそんなに広く注目される世界でもなく、中には従説を大きくひっくり返す画期的なものもあるが、多くは研究家気質の有志たちの狭い中で、健全に役立たれていく世界である。
 
そういう世界もあることも確認(尊重)しようともせず、ろくな当事者力(説明責任・線引き能力)もない分際が、安直な幅広さを求めただけの薄っぺらい共有憎悪性癖だけで偉そうに論敵をうちのめしたがるだけの、そういう口ほどにもない公的教義のような無礼性癖が、いつまでも許されると思うべきではない。
 
この筆者の意見に文句のある者は一度、図書館へ足を運び、社会史学関連の棚をざっと見に行ってみると良い。
 
そこにどれだけの社会史学関連の書籍が並べられているのか、それだけを確認にいくだけでもいいから、図書館になかなか行くことがない人は、一度は見に行ってみるべきだろう。
 
そして読まなくてもいいから、どの本でもいいから1つでも手にとってみて、どのページでもいいから一度開いてみて、いい加減な姿勢で書かれているかどうかパッと見てみると良い。
 
それを見て多くの人は「小難しいことばかり書いている」しか思わないだろうが、そう思った誰かがそこからさらに整理しようとしなければ、その状況はそのままだということを、思い知っておくべきである。
 
「政治家も、世の人々も、皆が世の中のことを真剣に考えていない」と失望する前に、中にはそう思ってそのきっかけとなるかも知れないと思って社会史学(教義史・裁判権史)を整理してくれた先輩有志らの書籍を、これまで皆が無視し続けてきただけに過ぎない実態は、もう少し自覚されるべきである。
 
図書館に並べられている社会史学関連の書籍とは丁度、中世の時代に合った法(低級裁判権=庶民法・社会性)を巡る経典整理や経典論争と同じようなものなのである。
 
その書籍群に対し、皆がただ偉そうに「説明が長い」だの「それだと解りにくい」だのと難癖をつけるのみで、そう思った者こそがそこから時代に合ったものとして整理することを誰かがしなければ、せっかくそこまで整理してくれた先人書籍から先というのは、ないのである。
 
そういう実態に無神経で、偉そうに面倒がる結論しか求めてこなかった公的教義のような口ほどにもない下品な人生観しかもち合わせていない分際の学問観や社会観など、それだけ知れているのである。
 
図書館にただその確認をしにいくだけなら、家から出て戻ってくるまでに30分や1時間もあれば誰でもできるはずで、それだけでも、世が社会史学(教義史・裁判権史)に向き合おうとする意識がいかに低いかの現状がよく実感できるはずである。
 
果たしてどのくらいの人が、そこに並べられた本に今まで真剣に向き合うことがこれまでされてきたのか、今それらに向き合っている人がどれだけいるのかを、少しは実感できるだろう。
 
公的教義は何の役に立たない試験などを偉そうにさせている暇があるなら、図書館の社会史学の書籍(教義史・裁判権史)に対する向き合いの実情を生徒に紹介し、そこに向き合いもせずに偉そうに社会性を誇ろうとする下品な図々しさに恥と愚かさを覚えさせることを教義とすることの方が、何万倍も有意義なはずなのである。
 
次は、信長から見た家臣たちと、家臣たちから見た信長とで、互いにどのように見ていたのか等に触れていきたい。