近世日本の身分制社会(034/書きかけ140) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 有徳惣代気取りの勧善懲悪根絶主義者による国家経済大再生と、江戸の身分統制前史25/34 - 2020/05/13
 
織田信長の組織構築は、どんな指導の仕方にどんな差があったのかの具体的な話に入りたいが、しかしその前に、戦国後期の社会性(国際教義性)と織田氏の様子についてを、今一度まとめていく。
 
まず、織田信秀から織田信長にわたる、戦国後期という総力戦時代は、もはや「ただ邪魔者を排撃し、ただ領地を広げ、ただ軍を増強し、ただ組織を大きくする」だけの戦国中期のような単純な考え(ただの富国強兵やただの弱肉強食)は、いよいよ通用しない時代になっていた。
 
何事も、法の整備(国際社会化に対する教義競争)に見合わないことをすればするだけ、どんなに良い成果が挙げられても長期維持などできない所か崩壊の引き金となり、皆が困るだけという自覚を、ようやくするようになった。
 
悪い意味の後手後手の「世の中が必要だと認識したものが何なのかが解ってから、対処すればいい」で万事過ごしているだけの、状況(人的信用)を積極的に確認(尊重)しようとする主体性(当事者としての教義力)が最初から欠落している、戦国中期のような世の中任せの姿勢は、いい加減に通用しなくなっていた。(下克上の対象・態度が裁かれる時代)
 
そうではなく原則は「我々こそが、これからの世の基準の手本の組織になっているはずだ」の主体性(国際教義力)に積極的な姿勢が、戦国大名と重臣たち(地方の代表と有力者たち)に求められるようになった。
 
よそではできていない健全化をするようになった近隣が出てくると、そのたびにそれに追いついていない側との差を、皆が気にして比べるようになった。(教義競争)
 
旧態主義から脱却・決別し、繁栄や拡張を見せつけるようになった所が出てくると、それに追いつけるほどの意欲も強みもない側は、自分たちのしていることの信念(名目・誓願)の乏しさの時代遅れ観も、内心では実感するようになっていった。
 
先述した信長が対処していった桶狭間の戦いと、その後の美濃攻略の手口で明らかだが、ただ勝てばいいというだけでなく、どういった裁判力(教義力)で先方を調略・調伏していけるのかという、その国際政治力がいよいよ問われる時代に、すっかり突入していたのである。(教義競争)
 
織田信長がやってのけた尾張再統一の、宗教改め(教義改め)の前身の戦国組織改め(外戚改め・家格改め)ともいうべき、旧臣たちの領地特権の大回収と再手配の新基準整備事業は、信長が天才だの異常だのの話ではなく、本来は地方の代表らの責任(等族義務)として、されてこなければならなかった事業である。
 
戦国中期までは、結局これがどこも中途半端にしかできていなかったからこそ、地方も健全化されていかなかった。
 
そしてそれができていない分だけ、ただの損失補填的(ただの自転車操業的)な格差収奪合戦を繰り返さなければならなくなり、従事層たちや次代らにそれだけ甚大な負担をかけ続け、地元を不健全に閉鎖有徳化させていくことになった。
 
代を重ねるごとに、不相応に領地や特権を抱え続けるのみの、時代に合わない外戚や旧臣たちに対し、旧態主義から時代に合った主体性(教義力)で裁判権を刷新し、それらを抑えこまなければならない責任(等族義務)が、戦国大名にはあった。
 
戦国後期にはいよいよそれが認識だけはされたが、しかしどこもそれに中途半端にしか踏み切れずに、モタモタやっていた。(概念価値の減価償却対策)
 
そんな矢先に尾張の織田氏では、まず信秀が大きなその第一歩の原動力となり、次代の信長がそれに続くように、ついにそれを一気にやり始めたのである。
 
支配者には本来その責任(等族義務)があったという認識は、地位の低い従事層(下級武士や庶民)たちほど、そこを正確に認識することは難しかったが、ただし地方の代表や最有力層であれば、意欲はともかく認識は少なくともできていた。(でなければ早々に退任を求められた)
 
旧態主義で国威を維持し続けていた駿河の今川義元も、まとまりがなかった美濃を代わってまとめるようになった斎藤道三も「尾張を強国化して双方に多大な脅威を与えるようになった織田信秀」の存在に、当然注目していた。
 
織田信秀が度々攻めてきて、美濃の支配権を何度も奪われかけ苦しめられた地元有力者らも、ようやく危機感をもって団結するようになった。
 
信秀が急死し、信長が乗り出した尾張再統一戦(閉鎖有徳排撃)と農商業改革(公正な自由化)の産業隆盛についても、双方(駿河の今川氏・美濃の斎藤氏)は当然、その様子に注目していた。
 
斎藤氏も今川氏も、外戚問題を克服できないでモタモタしていた間に、尾張ではついに信長が先駆けでその克服を達成しつつあったため、自分たちができていない裁判権(教義)の整理を尾張に先にされてしまった脅威は、当然実感していた。
 
1552 年に信長が織田家を継承し、1553 年頃から尾張再統一(戦国組織改め)に本腰で乗り出して 1560 年頃になると、態度を曖昧にし続ける不満分子はまだいくらかいたものの、大勢は決着し始めていた。
 
その尾張で反信長派らが、かつての旧態権威を頼りに、懲りもせずに今川派として一時的な団結を見せるようになったため、それを支援する理由で今川義元が慌てて大軍をもって尾張に乗り込んだ戦いが「桶狭間の戦い」である。
 
今川氏は本来は遠征している場合ではなく、外のことよりも内のこと、つまり織田氏と同じように外戚旧臣を整理し、自国の国際裁判力を整備しなければならなかったはずであった。
 
桶狭間の戦いが起きた 1560 年は、かつて列強のはずであった今川氏と、かつて格下のはずであった織田氏との、時代に合った裁判力(教義力)の刷新実力の力量差は完全に逆転していて、その差が現れ始めていた状況だったからこそ、今川義元もあせった。
 
今川氏は尾張に軍を向けている場合ではなく、本来はその軍を自国の駿河・遠江・三河に向けなければならなかった。
 
そして信長と同じように、時代遅れの考えしかできていない外戚・旧臣らから領地・特権を巻き上げて回り、それに従わない者たちと戦い、旧態的な裁判権を回収する前例を作らなければならなかったのが、今川義元が本当にやらなければならなかった責任(等族義務)だったのである。
 
今川義元は支配者としてのその自覚自体は、もちろんあったと思われる。
 
そしてこれは、武田信玄上杉謙信にしても、どこもその努力こそされた(分国法)ものの、とても信長ほどできておらず、そのしわよせがそれら次代の武田勝頼上杉景勝今川氏真らに、一気におしよせることになる。
 
過去の組織の概念価値(代々の代表の発行債権価値)の減価償却(等族義務)の明確化は、どうしても有権者たちが過去の概念価値を否定されることに反抗し、閉鎖有徳との結託を強めることになるため、それをすれば内乱を招くことはどこも、解りきっていた。(再統一戦=選挙戦)
 
それでいったん権威が縮小化してしまうことの恐れと、さらにその時代刷新のための組織再構築をやり遂げる名目(誓願)にしても、どこも曖昧だったからこそ、どこも中途半端にしかそれに踏み切れないでいた。
 
戦国後期になって、どの地方も旧態権威とは決別しなければならない認識だけはされても、それが解っていても踏み切れずに、うわべの旧縁の団結の仕方にいつまでも頼りがちだった。(概念価値の減価償却 = 時代に合わない旧態権威の否定 = 等族義務)
 
今川氏は、元々の尾張支配の斯波一族とは親類であったことを強みに、その支配代理権威に頼り続け、尾張の特権に介入し続けてきたが、戦国中期までは、よそ者の権威同士がよその支配権に中途半端に介入し合ってばかりで、互いに地方の主体性(教義主導力)を阻害し続けていた原因になっていた。
 
その、よその今川権威を追い出して反抗し、尾張の国威(主体性・教義力)を見せつけてくるようになった、尾張の実質の代表として台頭した織田信秀が出現すると、今川氏もそれを抑えこもうと争ったが、全く抑えきれないでいた。
 
先述したが16世紀とは、自分たちで教義競争して裁判力(教義力)を自力整理していくことができない、自分たちで時代に合った代表を選出していけないような国際意識(等族意識)が欠落している組織は、それができている組織に格下扱い(属国扱い)されて当然、という社会風潮が強まった時代である。(19世紀に顕著になる国際外交・国際戦の前身)
 
そして16世紀には日本もヨーロッパも、一般教義(地方の教義力)と公的教義(旧態聖属権威)の国際教義力は、すっかり逆転(卒業)するようになった。
 
そんな中、法(国際化)の最大の手本でなければならないはずの公的教義は、教義競争力など一切ない実態に何も反省しないまま、なお旧態権威を振りかざそうとする悪影響の広告塔に過ぎなくなっていたから、ついに踏み潰れた(逆に制裁される側になった)のも当然だったのである。(態度が裁かれる時代)
 
そういう社会風潮が強まるようになった戦国後期は、地方ごとの組織の教義競争の意欲の差で、国際教義力からの組織力の差が大きく出てくるようになった時代だった。
 
尾張では信秀と信長の地方改革で、地方の法(社会性)も大きく変わろうしていた状況に、一方で「今までの考えのままの」尾張の支配代理を自負し続けた今川氏は、曖昧なままそれを放置する訳にもいかないという考えだった。
 
だからとりあえず、その妨害に出かけたといったような桶狭間の戦いの今川側は、主体性(教義力)がすっかり欠落していたと状況だったといえる。
 
尾張で悪あがきの反抗で一時的に団結するようになっていたに過ぎない反信長派(今川派)を契機と見てしまい、その支援に向かわずに尾張再統一を見過ごしているようでは、それだけでも「今の今川氏には尾張に介入できるだけの力はもうない」風潮がより強まり、かつての威信も低下してしまう所ばかり気にしていた。
 
今川氏は本来は、尾張介入をいったん切り捨ててでも、駿河と遠江の裁判権回収に着手しなければならなかったはずだった。
 
そして信長のように旧態主義を刷新して有能(教義競争者)を格上げし、無能(収容を偉そうに要求するだけの偽善者)を格下げする人事整理(等族義務)に努めるべきだったが、今川氏のように列強上級主義に頼り過ぎてしまった組織ほど、それがなかなかできないでいた。
 
概念価値が激しく変容し、どの支配者もかつての債務力(借方・指導力)と債権力(貸方・保証力)のあり方をさっさと刷新しなければその低下がどこも著しかった。
 
そんな中でかつての駿河・遠江・三河・尾張の広大な権威に見合わなくなってきていても、今川氏はなおそれを抱え続けようとした。
 
今川氏は地元の法の整備に着手し切れずに、時代への見通しの主体性(教義競争力)が曖昧なまま、よその台頭を潰しに無理をして桶狭間の戦いを挑んでしまった。
 
信秀と信長によって時代刷新に向かい始めていた尾張の裁判権に、地元の法の整備も中途半端なよそ者の今川氏が、その戦国中期のような一時的な軍事力(軍事裁判力)だけでよその地方の裁判権を簡単に獲得・確立できるなら、とうに戦国時代は終焉しているし、誰も苦労はしていないのである。
 
戦国後期になるとさすがに地方の有力者層は、とぼけていただけで大体はもうそこが解りきっていた。(意欲はともかく、そこを認識すらしようとしない有力者は、その家臣たちから早々の退任を求められた)
 
桶狭間の戦いの今川軍の名目が、表向きは尾張の裁判権を獲得・確立だと誇張しても、実質は尾張の刷新を妨害しにいくだけの、ただ収奪に出かけているだけなのと大差ないその外征の仕方に、国際力など生じる訳がない。
 
誰も十分な意見回収責任(等族義務)を果たさそうとしない、地縁閉鎖有徳の考え(口ほどにもない社会の正しさとやら)をただぶつけ合っているだけの戦国中期のような、今の公的教義の発想と大差ない国際戦(国際裁判権争い・国際教義競争)の欠けた時代遅れの競争方式をいつまでも続けた所で、先々の健全性など皆無なのである。
 
上級裁判権(行政法・外戚旧臣改め)で手一杯で、低級裁判権(庶民法)の手入れをする余裕がなかった戦国中期までには、閉鎖有徳どもが勝手に維持し続けてきた、従事層同士の格差収奪制度がついに、尾張では次々に排撃されていった。
 
そして公正な奉行所(意見回収)が設置されて産業の自由化がより促進されると、隣国からも大勢の下層庶民が意欲と希望をもって尾張に集まり、人材も当然集まるようになっていた。
 
それまで不条理な負担ばかりさせられ続け、経済意欲を奪われ続けてきた大勢の最下層庶民らにとって「地元の閉鎖有徳を改めることもできていないよその軍事裁判権威」など、一時的に従うことはあったとしても、尾張ではもはや心底から歓迎(支持・団結)する訳がない状況になりつつあったのである。
 
桶狭間の戦いは、その状況にあせって「時代遅れの法(国際社会性)を刷新できずに内情は崩壊寸前だった弱み」を見せまいと、無理をして虚勢で大兵を動員した今川軍の方にこそ、政治的な余裕などなかったといえるのである。
 
一方で美濃(斎藤道三)は、駿河(今川義元)とはもう少し対照的で、尾張(織田信長)での法の整備の競争差にあせり、それを刷新するための内乱が起きた。
 
織田信秀が美濃に出てきて猛威を振るうようになると、あせった美濃の有力者らが慌てて家来筋からその対抗馬となりえる器量があった斎藤道三を担ぎ始め、派閥闘争を制した道三が信秀を大いに阻止して美濃の国威(主体性)を見せつけるようになった、までは良かった。
 
斎藤道三は、その器量を美濃全土に明確に認めさせてのし上がった中心人物というよりも、慌てて有能な家来筋の中から担がれる形で派閥争いを勝ち取った面が強かったため、地盤は織田信秀よりも不利な立場だった。
 
賢明だった斎藤道三は、厳しい苦戦を強いられた織田信秀のことも、信秀に互角の力を認めさせて婚姻で和解して以来の、義父と婿との関係となった織田信長のやっていることもよく理解できていた。
 
斎藤道三も織田氏と同じようにしたかっただろうが、いずれにしても美濃全体が尾張の法(等族意識)に追いつけなければ、やがて併合されるのも時間の問題であったことを、重々認識していた。
 
美濃の実権を、当主である斎藤道三に委託返上(専制君主化)し切れていなかった、かつての領地特権を共有し続けていた美濃の有力者たちから見れば「我々の支持で支配者を代理していたに過ぎない」斎藤道三と対立するようになった。
 
斎藤義龍(よしたつ)こそが、これからの美濃の代表に相応しいと有力者らが擁立し、政権から完全に手を引くことを道三派に求めたため、美濃ではそれを契機に道三派と義龍派で分派する全体的な世代争いが起きた。
 
これによって、道三派は結果的に支持が集められず少数派だったことで、この抗争に敗れて一掃される。(信長が道三派の援軍に向かうが、早期決着してしまったため間に合わなかった)
 
美濃では斎藤義龍こそが、皆で明確に選出した我々のあるべき支配者だと強調して君臨させるようになるが、これは有力者らの道三派への報復人事も含んでいただろうが、尾張の影響力にあせったからこその、健全化が一応は目的になっていた内部闘争だったといえる。
 
かつての織田信秀の脅威の場しのぎのような台頭の仕方をした斎藤道三の、その曖昧な位置付けに今一度、自分たちで向き合うためのやるべき争いに、一応はできていた。
 
しかしその刷新の仕方は全く不十分であったことが、しばらくして斎藤義龍が急死してしまってからの、斎藤龍興(たつおき)の代になってからの美濃のまとまりのなさで露呈している。
 
理由はどうであれ、新当主として担ごうとする有力者らの自力教義的な擁立努力が足りていないままの、相変わらずの当主依存的な擁立体質(刷新というよりもただ責任先の交換)が結局は抜けきれていなかったことの現れだったといえる。(下の選任責任に見合わない、上への期待や義務の要求。上意下達と下意上達との責任力)
 
美濃の有力者らは、当主としての権威を強めようとする斎藤道三に、理由はどうであれ刷新の目的をもって排撃に出たまでは良かった。
 
しかし能力的にも期待されていた斎藤義龍が急死してしまうと、まだ若かった後継者の斎藤龍興を大して守り立てることもできず、その交代劇すら見られない所に、全体的な責任力(教義力)が育っていかなかったことも窺えるのである。
 
のちに信長が美濃を併合すると、降伏した三人衆ら美濃の代表的な有力者たち(稲葉良通・氏家直元・安藤守就ら)にも「お前らなど、やろうと思えばいつでも失脚させることができるのだぞ」と、そういう所に非常に厳しい疑いの目を向け、時代に合った努力を強制した。
 
信長に
 
「理由はどうであれ、お前たち美濃衆は自分たちで責任(教義競争)をもって時代に合った美濃の有力者層の等族意識を、自分たちで育てる(自分たちで専制君主体制を築く)ということを、結果的にしてこれなかった(間に合っていなかった)ではないか」
 
のひと言で、いざとなればあらゆる言い分を退け、その責任をいつでも追及して、追放や切腹を恫喝できるほどの教義力の大差が、主従関係にできていたのである。(態度が裁かれる時代)
 
そしてその中から、教義競争に有望で見込みのある者らを格上げしていき、一方で名目(誓願)の基準に見合っていないその見込みがない過分な有力者は、これまで保有し続けていた領地や特権を次々と巻き上げられ、格下げされていった。(継承権改め・家格改め)
 
信長が 1560 年に桶狭間で今川軍を撃破し、その後も法の整備は進められながら美濃併合に着手し、 1568 年頃にはそれも大方達成されるようになると、隣国との差はより目立つようになり、その教義競争の原理によるその国際裁判権(新基準)が、隣国に向けられるようになる。
 
美濃併合後に岐阜城を本拠に改めた織田氏の存在は、今までの戦国組織とは明らかな国際裁判力(国際教義力)の違いがあることに、朝廷や室町のかつての権威者たちもすっかり注目するようになっていたように、キリスト教徒の宣教師たちも注目していた。
 
織田政権の法(等族義務)の基準で、それが不足している各地方を追求し、従わなければ成敗するという、その新時代への世直しの名目(誓願)の裁定に従わなければ裁かれる時代が、いよいよ強まったのである。
 
それは「お前たちは無能(偽善者)どもの旧態価値を守るために、有能(教義競争者)を大事にできずに否定することしかしてこなかった、主体性(国際教義性)の手本もまとまりもない組織しか作ってこれなかった分際ではないか」という、言い訳無用の荀子主義的な大原則のもとにおいて、である。
 
織田氏の軍事裁判指導力とは、そうした根本的な差から優劣が明確になり始める時代、もはや戦国の終焉が見え始めていた時代に入っていたといえる。
 
等族義務による債務力と債権力の恩恵手本の、強制力(国際的な行政権)を執行できる専制指導体制ができている側と、概念価値の刷新が間に合っていない側とで競争が始まれば、できていない側は最初こそ抵抗できても、時間が経つにつれてどんどん対応できなくなっていき、その差で崩れていくものである。
 
この頁で前置きが長くなってしまったが、「では、そうなるまでに組織を国際強化させることができた信長は、いったいどのような優先基準の人事指導がされていて、他とどのくらいの差があったのか」などについて、次に触れていきたい。