近世日本の身分制社会(033/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 有徳惣代気取りの勧善懲悪根絶主義者による国家経済大再生と、江戸の身分統制前史24/34 - 2020/05/03
 
織田信長の、時代に合った組織構築の基礎概要について、深堀り解説をしていきたいが、その前に織田家の出発点となった尾張時代の話から今一度、経緯からまとめていきたい。
 
まず、先代の織田信秀の時代とは、それまでに力を維持していた有力者、かつての力はなくなった衰退者といったように、地方の有力者らの生き残りが、時代に合う合わないの存在とそのまま直結し始めていた時代だった。
 
そして地方での裁判権争い(教義競争)の争点も、時代遅れの不健全な富国強兵や弱肉強食(理念乏しき上下収奪・ただの損失補填の奪い合い)といったものは、それをもう繰り返させないよう、地方の代表が総括指導していくことが、求められるようになった。
 
戦国中期を経て自覚されるようになってきた「時代に合わない旧態地縁の閉鎖体制」から「時代に合った国際的な総力戦体制への切り替え」が求められるようになり、それができる人望と人徳(教義指導力)を有する強力な代表者の台頭と、それへの協力・団結が望まれるようになった。(国際専制政治の自覚)
 
同時に「ではどうなら、そうだといえるのか」を争点となった地方戦が目立つようになった。
 
織田信秀の時代は戦国中期から後期への突入期であり、その切り替えのための刷新(上級裁判権争い)が、どこが最もできているか、地方の中での教義競争(地方統一)から、いよいよ地方の代表同士の教義競争に移行し始めた時代である。
 
それまでの各地の有力者らは、元々は支配者や名族の直系でなかったとしても、争和が繰り返されながらどの有力者も、大抵はそれと縁組関係をもつようになっていた。
 
戦国大名(支配者・地方の代表)は代替わりするたびに、これら親類・外戚・有力者らを整理(統制・調整)することに、どこも苦労していた。(外戚問題)
 
地方の代表や有力者は、責任(等族義務)をもって裁判権の基準を教義指導していかなければならない時代に、移行していった。
 
迷走期だった戦国中期まではどの地方もまとまりがなく、不条理な収奪合戦が繰り返され、下層に甚大な負担をかけ続けたため、それが有徳を巻き込んだ惣国一揆の根強い団結を許すことになった。
 
そしてその閉鎖自治権運動による支配者への反抗が強まると、有力者らと閉鎖有徳らとの複雑で厄介な争和関係に、支配者はますます対処しなければならなくなった。
 
惣国一揆の風潮を抑えられず、どこも閉鎖自治権が強まっていくばかりで、各地域の閉鎖有徳の存在に有力者らも振り回されるようになっていたことが、地方統一(時代に合った社会性=裁判権の整理)の壁になっていた。
 
有力者たちは面倒事が起きるたびに、本来の責任(等族義務)による教義力(裁判力)で解決しようとせずに、目先の利害のみで安直に閉鎖有徳と結託するような、次代たちに何の手本にもならないような派閥闘争ばかり繰り返してきた。
 
誰かが地方全体のことを考えている訳でもない、有力者と有徳とのその場の保身ばかりのいい加減な結び付き方の繰り返しが原因で、地方の寺院(仏教による教義指導力)のあり方も閉鎖有徳化し、歪んでいったのは先述してきた。
 
こういう所を本来は、公的教義である天台宗(比叡山・延暦寺)が教義指導しなければならない責任(等族義務)があり、それが皆無だった実態に反省しなければならないはずであることも、繰り返し先述してきた。(ローマの教皇庁もその根底は全く同じ)
 
特に閉鎖有徳の存在が健全化の壁となったことで、法(仏教・社会性・人的信用)のあり方も深刻な教義崩壊に日本中が陥るようになり、その日本自力の教義競争力の乏しさが、のちに宣教師のキリスト教(よその教義)に皆が頼り始めて蔓延していった原因にもなった。
 
だからこそ代替わりするごとに、新当主がどれだけ時代に合った対応ができたかの裁判権争い(教義競争による行政権の整理)によって、地方統一の実力に直結し、その組織人事の手本が、そのまま戦国組織ごとの実力差になっていった。
 
支配者(最有力者層)たちが世代交代するそのたびに、まとまりなく外戚化していく一方の代々の親類たちも、時代に合った責任(等族義務)を果たそうとする自覚もそれだけ薄れていき、保身のためだけに旧態社会の閉鎖有徳にいつまでもしがみつく、という情勢が繰り返された。
 
この状況を帳簿に例えると、あらゆる概念価値(債権発行)は減価償却(実態価値の下落)も激しかったにもかかわらず、世代交代を期にそれを皆が公正に整理しようとしなかった腰抜けどもの風潮が延々と続いた状況である。(教義指導力の欠落=人的債務信用力の欠落=債権価値の欠落)
 
そんなせめぎ合いの時代の狭間に台頭し、その時代遅れの概念価値を一気に減価償却し始めたのが、弾丞家の織田信秀だった。
 
弾丞家とは、尾張の支配者・斯波氏を支える最有力武士団の織田一族(伊勢家と大和家)が、尾張で成長を続けてやがて分家して新たに武士団を率いるようになった、本家から見れば新興の家来筋の家系のはずだった。
 
弾丞家は、尾張西部での産業地帯の中心地になっていた津島神社と熱田神宮の世話役だったことから、従事層たちを早くから時代に合った代弁(意見回収)をするようになり、その面倒見が非常に良かったことで根強い支持を得、本家も警戒するほどの有力者に成長していった。(リナシタ・誓願の原点回帰)
 
尾張でも国内の主体性(裁判力・教義力)が一向に健全化していかない原因となっていた、かつての旧態権威とのいい加減な結び付き方をいつまでも維持し続けようとする有力者らと閉鎖有徳どもを、織田信秀がついに否定するようになる。
 
旧名古屋城に居座り続けていた、よそ者のはずの今川氏(尾張の元々の支配者である斯波氏の親類)の権力関係者の追い出しを手始めに、従事層との信用支持力を背景に、尾張の裁判権(教義)を時代刷新するための戦いに挑み、一族とも争和を繰り返した。
 
織田信秀はどれも完全なものではない社会実験的なもので終わってしまったものの、それでもその事跡は目を見張るものがあり、その優秀さに皆が驚いた。
 
今の尾張の代表格が誰であるか、自身の器量でそれを認めさせ、まとまりのなかった親類や家臣たちを団結させて大兵を率い、かつては尾張にとって脅威の格上のはずだった駿河の今川氏と互角に戦って見せ、国威を見せつけるという多大な前例を作った。
 
これは、旧態社会と決別して戦国後期に向かう手本を示したといえる、次代たちへの大きな第一歩を示したといえるほどの事跡である。(下克上)
 
ここで話が前後するが、信長が南近江と山城を制圧して中央進出(京都進出)を果たして以後の 1571 年頃に、手荒い教義改め(宗教改め)が徹底的に強行されていったことを先述した。
 
この時の教義改めの前身として、織田信長が織田家を継承した 1552 年に、しばらくして有徳狩りを始めた時に、その根本概念が既に実行されている。
 
「全ての親類や有力者は、尾張の実質の代表継承者(弾丞家)のこの信長に、領地と特権をいったん返還せよ」
 
「改めて吟味し、それぞれ役割に身分相応な、それに必要な権限(領地特権)を手配していく」
 
「これからの時代は、全ての領地や特権は当主からの授かりものとし、当主側はそれを保証する責任(等族義務)を請け負う代わりに、不相応を理由に返還を勧告されれば返還しなければならない責任(等族義務)は従事層側もあり、それに従わなければ反逆」
 
の態度を鮮明にして、尾張再統一 = 有徳狩り に乗り出している。
 
1571 年頃から顕著になった信長の教義改めは、いくら伝統と格式のある宗教勢力であっても織田政権に従わなければ、なお社寺領に居座り続ける者は全て連座と扱って手荒い討ち入りを強行するという、強烈な印象を世に見せつけた。
 
尾張再統一は、掃討戦よりも支持戦の性質が強かったためそこまでの手荒さはなかったが、1553 年か 1554 年あたりには尾張領内の有力者たちにその概要がそのまま向けられている。
 
この最高支配者を目指す大前提の「公正な継承権・保証権のための回収」ともいうべき、今までの支配者がやらなければならなかった、しかし誰もできなかったこの法の整備に、織田信長がついに本腰で乗り出したことで、これが戦国終焉の序章になったともいえる。
 
信長がこうした新時代の教義改め(相続権・領地特権制度改め)を当時の日本全土に徹底的に叩き込んだからこそ、江戸時代の近世身分制度(国替制度、改易制度、目付制度、参勤交代制度など)の幕藩体制も可能にしたたといえるのである。
 
これを信長がやっておいてくれたから、不条理も多かったかも知れなくても日本史上初ともいえる、武力闘争を抑制する法治国家らしい天下泰平の世の実現を可能にしたと、いえるのである。
 
キリスト教の恩恵によって日本よりも貴族思想が育っていたヨーロッパでは、皇帝や王族にその務めがあることは、責任の自覚はともかく既に中世には、その認識だけはされていた。
 
しかしヨーロッパでも、中世に乱暴ともいえるほどの経済景気と食料供給量の隆盛を見せ、あらゆる価値観が激変していくとかつての王族権も曖昧になっていった。
 
王族の実力差も横並びが続くようになって、時代に合った法の整備がどこも間に合わないまま、強力な専制君主も永らく出現せず、教義崩壊も加速する一方となった。
 
ヨーロッパでも中世には、教義(等族義務)のあり方に、もはや何のあてにもならない公的聖属だけに全てを任せている訳にもいかなくなり、世俗からの関心の高まりによる教義の見直しも顕著になって整理されていった。(教会大分裂)
 
それが整理されていった結果で迎えたのが16世紀の 身分制議会 = 専制国家化 = 等族議会 = 新時代の帝国議会制度 である。(聖属教義と世俗教義の逆転)
 
日本でもヨーロッパでも、せいぜい小特権者の従事層側が、等族義務を明確に認識することは当然難しかったが、それでも自分たちの態度にも気をつけながら、それを要求していかなければならない自覚も少しずつされていった。(本来は聖職者がそれを伝導する責任があった)
 
一方で、地方の支配者に近い立場(上級層)で苦労が多く、責任感がそれなりにあった者の中には、等族義務の認識がそれなりにできていた者も、いくらかいた。
 
日本では、時代に合った等族義務を果たさなければならない本来の支配者がろくに対応できていないなら、それができる者ができていない者を排撃して変わって代表を務めれば良く、皆もそれに協力すれば良いという考えになっていったのが、下克上の原則である。
 
その典型例として、家来筋の有力者の身から代表に台頭したのが、美濃の斎藤道三や、尾張の織田信秀といった、知勇に優れた者たちだった。
 
ヨーロッパでも、司教特権(公的教義)で都市法(庶民法)を独占し続けるばかりで時代に全く合わなくなっていた古臭い聖属裁判権の基準から、世俗側もついに脱却に動くようになった所は、見た目は似ていなくてもやっていることは、日本と共通している部分も多い。
 
旧態的な司教特権(教区体制)とは決別するべく、司教領から自由領(自由都市・王族領・皇帝領)に鞍替えするための運動が、中世から盛んになる。(公的司教座から地元聖属化への脱却)
 
そのためにまずは地元聖属(神学校・修道院)のあり方を地元従事層らが独自で整理(教義競争)するようになり、地元の神学校や修道院を育成努力して、交渉権を巡ってあてにならない公的権威(公的裁判権)に遠まわしに反抗するようになった。
 
時代に合う等族義務を果たせていない不当権力とは決別し、それを果たせる世俗権力(王族)に地元各地の従事層(市参事会・聖堂参事会)らが、ついに司教特権(支配権)を勝手に王族に譲渡・委託(自由化)するようになり、その特権競争で力をつけていった王族と衰退していった王族が出てくるようになった部分は、日本と同じようなものだったといえる。
 
話は戻り、ただ「上(自分)に甘く、下(人)に厳しい」だけの、ただの家長権威に頼っているだけのような、何の手本(等族義務)もない不当な態度は、戦国後期にはついに通用しなくなっていったことは先述した。
 
この「上」というものに対し、信長がまずは真っ先に厳しく取り締まったのは、織田一族の親類たちである。
 
信長は、まずは親類に対する些細な甘やかしこそが、組織全体を一気に不健全な法(社会性)に傾かせてしまい、あるべき手本も一気に崩れていってしまうという、戦国中期までの問題点の総括が強くできていた。
 
時代に強い関心をもっていた織田信秀と織田信長の親子は、あるべき等族義務を有する支配者としての自覚はかなり高いものをもっており、そこを自分で注意し克服していける人物だった。
 
織田信秀は親類と家臣を取り締まるようになっても、信長ほど強くは取り締まらなかったのに対し、信長はそれを徹底するようになった所が、顕著である。
 
信長の代になってから閉鎖有徳を徹底的に取り締まるようになった所も、だいぶ違いがある。
 
織田信秀も本来はそうしたかっただろうが、信秀の時代は戦国後期(総力戦時代)へ移行する過渡期だったため、それを徹底してしまったら腰抜けどもが気絶(錯乱)するばかりだから、時代段階的にできなかっただけだったと見ていい。
 
結果的に天下統一も目前まで組織を成長させた、信長がやってのけた強力な裁判権回収(教義改め)を可能とした要因は、そもそも先代の織田信秀がその前段階の貴重な前例を作っておいてくれたからだったと、いえるのである。
 
親類の今川氏の力に頼ってばかりでとうに支配実権などなかった斯波氏(尾張の元々の支配者)にも、信秀は体裁だけは上官扱いし、実質は斯波一族が貧窮しないように信秀が面倒を見ていたといえるほどで、誰がどう見ても尾張の実質の代表が信秀だったことは明らかだった。
 
信秀は自身を邪魔する者は厳しくあたった一方で、まずは下層が何に困っているかをよく意見回収して助け、また協力的な者たちもあまりにも気前が良すぎた所があった。
 
結果的な見方だけをすれば、信長と比べると信秀の人事整理は甘すぎたといえるが、しかしこれらは全て仕方ない次段階的なものだったといえ、本人も自覚してやっていたと思われる。
 
それまでは尾張の支配権に介入して脅威を与え続けていた、小うるさい今川氏に信秀は反撃に出るようになり、尾張介入を阻止するようになっただけでなく、逆に今川氏の三河介入に織田氏も介入するまでになった。
 
尾張をよくまとめ、朝廷に多額の献納までして財政力にも余裕も見せるほど、その存在感を世に十分に認識させ、美濃と三河に遠征を繰り返して隣国に多大な脅威を与えるまでに尾張を急成長させた信秀だったが、次第に行き詰まりを見せるようになった。
 
良くも悪くも、体制としては裁判力(教義力)よりも支持力頼りの統制力の方が強かった信秀政権は、ちょっとしたことで勢いが削がれて少し行き詰まりを見せた途端に、家臣たちはいとも簡単に手のひらを返す者が続出していった。
 
それまで信秀のおかげで多大な恩恵を受けてきたはずの、親類、家臣、従事層たちの中には「今ある領地や特権や経済圏は、当主から拝領したのではなく、全て我々の実力努力で勝ち取ったものだ」などという寝言を平然と言い放って何の義理も示そうとしない、図々しい者だらけであった実態が露呈していったのである。
 
それは仏教(社会性)の悪用ばかりしていた、怠け者の偽善集団に過ぎない閉鎖有徳どもが甚大な悪影響を与えていたのは、いうまでもない。
 
「良いことは家臣たちのおかげで、悪いことは全て当主のせい」という、まさに当主だけが優れていても、家臣たちの等族意識がまったく育っていかなかった典型例だったといえる。
 
従事層たちが等族義務をそこまで認識できないのは仕方がないにしても、最有力層はもうそういう訳にはいかなくなってきていた時代だったが、実態はどこもそんな感じだったのである。
 
信秀がいなかったら尾張の農商業の整備も団結もできず、尾張の国威(主体性)を見せつけることなど到底無理だったのはおろか、尾張介入が著しかった列強の今川氏に属国化され、食い物にされて終わっていたかも知れないにもかかわらず、である。
 
それが信秀の器量に頼ってばかりいた、等族義務の自覚が全く育っていなかった腰抜け家臣ども実態だったのである。
 
信秀が急死する数年前からそういう風潮が目立っていた尾張国内に、若き信長も内心は相当の怒りで信秀の家臣たちを「人生の先輩ヅラをすることしか能がない、何も信用できん連中だ!」と疑いの目で強く見続けていたのは、容易に想像できる。
 
信秀時代の尾張は、尾張統一より先のこと、つまり自国がまとまるその先の名目(誓願)の国際体制までは、信秀の器量はあっても家臣団はそこまで意識が育っていなかったことが、信秀が急死した頃にはすっかり露呈していた。
 
信秀は、時代についていってない頼りない家臣団にあまり強くいわず、それを我慢して引率した。
 
そしてむしろ「強力な当主にただ頼っているだけではダメだ」という、それだと地方の主体性(教義力)までは確立できても、国際的な主体性(教義力)など確立できずに国際戦(総力戦)に対応できなくなり、後で簡単に崩壊してしまうという、その人柱になってくれたとすらいえる。
 
信長が継承後にさっそく乗り出した、尾張領内のあらゆる領地・特権の回収と閉鎖有徳狩りがなぜ、結果的に可能だったのかのそもそもの要因は、まずは信秀のおかげだったといえる。
 
信長の裁判権回収のやり方があまりにも徹底していて、かつての領地や特権を大いに削減されていった親類や家臣たち、また寺院らの中には、当初は悲鳴をあげた者も多かったことは容易に想像できる。
 
それに対して信長は
 
「お前たちの先代たちは、かつて我が父信秀のおかげで多大な恩恵を受けておきながら、ここ一番という肝心な時には常に団結を乱す、腰抜けの集まりだったではないか」
 
「その多くは恩義に報いようともせずに、それ所か閉鎖有徳どもにたぶらかされ、行き詰まりや悪いことは後になって全て父のせいにし始めたではないか」
 
「先代に作ってもらった法と経済権から分与された領地や特権をその次代らは、保身だけで常に閉鎖有徳と結託してしがみつくばかりで、その身分に相応する責任(等族義務)をろくに果たそうとしてこなかったではないか」
 
「戦国中期から卒業できていない小心者の集まりのお前たちが気絶(錯乱)するから、寛大だった父はあまり強くいわなかっただけのことに、それを勘違いしてどいつもこいつも、つけあがりおって!」
 
の態度で、家臣団に強く対応するようになった。
 
信秀がまずは、時代に合った当主の責任(等族義務)の手本をもって皆を助け、農商業を整備して気前が良すぎるほど多大な恩恵を家臣団に与えて団結させたという動かぬ立証と、ただそれに頼っているだけではダメだという立証を、作っておいてくれた。
 
つまり信秀がまずは、当主側(上側・上意下達側・トップダウン側)の、時代に合ったあるべき努力(借方・等族意識をもった最低限基準の指導責任)を存分に果たしておいてくれた。
 
だから次は、親類・家臣・従事層側(下側・下意上達側・ボトムアップ側)が、それに報いる時代に合った努力(貸方・等族意識をもった頂点確認責任)をする番だというのが、信長の家臣団たちへの言い分の根幹にできたのである。
 
信秀は、次代の信長にそれをいわせるだけの尾張の優れた革命者であったのと同時に、信長本人もそれをいえるだけの手本(教義競争)を、なお示し続けた。
 
信秀は、下(人)にただ厳しくなり、下(人)に実績や世の社会性を一方的にただ求めるのみの戦国中期の愚行とついに決別し、まず上(自身)から手本(教義力)を改善して示していかなければ今までと何も変わらないことが、それが次代たちに深刻な負担になると考え、その大きな第一歩を示した重要人物だったのである。
 
そして賢明だった信長も、信秀の立証を家臣たちにただぶつけるだけでなく、戦国後期の総力戦体制に向かわせるきっかけを作ってくれた信秀の改革姿勢を引き継ぎ、その改革意識(等族意識)が止まることのないよう、国際化に向けた改良・改革が強くされ続けていった。
 
それで組織が国際強化(国際裁判権化)されていったのが、
 
 閉鎖組織の権威のためだけの無駄な関所や城塞の撤廃(有徳排撃)
 
 産業の自由化意欲促進による格差緩和(公正な意見回収の奉行所の設置)
 
 交通網整備(街道宿舎の整備と取引網の自由化。軍と物資移動の快適化)
 
 常備軍体制(旗本体制=公務身分制のきっかけ)
 
などである。
 
次は、信長の人事の様子などについて触れていく。