近世日本の身分制社会(030/書きかけ145) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 有徳惣代気取りの勧善懲悪根絶主義者による国家経済大再生と、江戸の身分統制前史21/34 - 2020/03/25
 
浄土真宗(親鸞派)が降伏する2年前に 1578 年に織田領内で起きた、法華宗(日蓮派)浄土宗(源空派)の教義論争について、これがどのようなにものであったかに触れる。
 
東国から領内にやって来て布教活動を始めた浄土宗の指導者たちを、法華宗は追い出したい一心で、浄土宗と教義対決をしたいと信長に申し出た。
 
信長は、教義対決は行なわずに和解するよう勧めたが、法華宗側が承認しなかった。
 
法華宗の指導者たちは、信長が法華信徒の同胞者でありながら、その熱心さを見せない姿勢に内心は怒っていたと思われ、信長もそういう所にうるさい指導者たちに、あえて怒らなかった事情についても、順述していく。
 
法華宗が教義対決を訴えた経緯について、もう少し具体的に触れる。
 
法華宗とは教義面で対立的だった浄土宗の、その指導者が、東国から織田政権の領内にやってきて布教を始め、法華信徒をもっていかれそうになったため、熱心な後援者たちがその布教の現場に乗り込んで反論をしたのが、まずはきっかけになっている。
 
あれこれ苦情を投げられた浄土宗側は「説明したくても、互いの宗派の歴史と経典についての理解の深い方でないととても説明できない話のため、それが理解できる方をまず案内されよ。その方に何でもお答えしよう」と返した。
 
では互いに経典に詳しい者同士を集めて「どちらの方が教義力が上なのか、教義対決をしよう」という話になり、そのことで領内が騒がしくなった。
 
宗派間で騒がしくなったため、信長は何があったのか確認することにし、双方の指導者に事情を確認し、教義対決はしない方向で和解するよう勧めた。
 
しかし法華宗は、対義的な宗派だった浄土教(浄土宗・源空派)を、信長は法華宗の信徒でありながらあっさりと領内で容認(自由化)してしまった上に、何も便宜してくれない様子に不満を抱え、対決意志を崩さなかった。
 
仕方なく信長も「では、どんな理由でどんな対決をするのか、おおまかな計画をまずは提出せよ。それで開催の有無を決めよう」と法華宗の指導部に提出させた。
 
そして織田政権の公認下の会場も計画されて 1579/05/25 が公式の対決日と発表された。
 
浄土宗側は、安土城付近にあった浄土宗の寺院の貞安(ていあん)という僧侶と、東国の指導者のひとり霊誉(れいよ)という僧侶の、2名の出場となった。
 
法華宗は7名の出場となり、法華宗側が派手で贅沢な恰好だった訳ではないが、それと比べると浄土宗側は質素な格好だったのが目立ったと、伝わっている。
 
いざ当日、午前の早めの時間から行われたが、午前8時頃には決してしまい、この対決は浄土宗側に軍配が挙がることになった。
 
教義論争の様子を順述していく。
 
まずは中立な立場でこの議論の審査ができそうな、信用できる僧侶も探され、日野の南禅寺(臨済宗)の鉄叟(てっそう)という僧侶が審査役となった。
 
鉄叟は博学の評判が高く、日野の南禅寺の評判も良かったため「あの方なら安心だろう」となり、審査役に選ばれることになった。
 
会場の警護として、旗本衆(馬廻り衆・親衛隊・行政事務官)の責任者たち5名も、この対決に立ち会った。
 
この内の堀秀政長谷川秀一は、のちに豊臣秀吉、徳川家康にも大名格の器量として高く評価された人物である。
 
残りの3名の矢部家定、菅屋長頼、津田信澄も目立たないものの、行政の大事な役割によく名が出てくる面々で、後者2名は信長の親類である。
 
津田信澄(織田信澄・のぶずみ)は信長の甥で、かつて信長と対立し、仕方なく上意討ちした実弟の信勝の子である。
 
まだ幼年だった甥の信澄のことは責任(義務)をもって養育し、親類の中では少し特別扱いされていた人物だった。
 
話は戻り、議論が開始されると、早い段階で浄土宗側の貞安の方から、今回の発端だけでなく、歴史的な法華宗側の浄土教に対する非難の要約で切り出され、争点の口火が早々に切られることになった。
 
この対決はいざ開始されると、どちらかというと浄土宗側が法華宗側を問い詰めるような展開となった。
 
法華宗はこれまで、歴史的に延々と「浄土教の教える念仏は、仏教の教えの全てを放棄させようとしている無間地獄の所業・邪法」という非難を繰り返していた。
 
その事情から浄土宗側の貞安が「なぜ法華宗は『浄土宗の念仏は無間地獄』といつまでも非難し続け、念仏には『無間地獄の念仏』と『救済の念仏』があるかのような、そんな分化するような、おかしな教え方をやめないのか」と問いかけた。
 
法華宗側「まるで法華経の教えを捨ててでも、念仏を大事にせよといっているようなおかしな指導の仕方を、浄土教ではしているためだ」
 
貞安「法華経の念仏も、浄土教の念仏も、弥陀(みだ・念仏を唱える救いの理由を約束している如来(先生)のこと)を通しているのは同じで、その原則を全然違うかのように教え、良い念仏と悪い念仏があるかのように教えているのは、法華宗の方ではないか」
 
法華宗側「ではなぜ浄土教では『念仏を唱える際は、雑行を捨てて一心に念仏に集中して唱えよ』というその『雑行』に、あからさまに法華経(聖道門主義)も雑行だと扱おうとするのか」
 
貞安「念仏で経典を放棄せよと教えているのではなく、念仏を唱える瞬間は、そのくらいの集中の気持ちを大事に、その時は弥陀に向かって一心に唱えよと指導しているに過ぎない」
 
さらに貞安の主張は続く。
 
貞安「そもそも法華経の中で、法華経のみがいついかなる時でも絶対の真実であるかのような約束の仕方などは釈迦はしていない。あなた方は法華経の成立時期こそが全ての絶対であるかのようにいうが、ではあなた方は法華経の経典が絶対でさえあれば、方座第四(法華経が成立するまでの、釈迦の40年間の修業・研究期間のこと)の『妙』は不要だといわれるのか?」
 
法華宗側「その『妙』とは、四妙(釈迦の40年間の研究期間で、指導のために起案した大事な心得)の内の、どの『妙』のことをいっているのか?」
 
貞安「法華経で説明されている『妙』のことだから、あなた方が最も詳しいはずなのでは? 経典(法華経)の成立時期に機械的(偶像的)に価値を求めて思考停止しているだけに見えるあなた方は、その『妙』の成立について一体、どのように指導しているのか?」
 
ここで法華宗側は何も答えられなくなってしまい、決着がついてしまった。
 
貞安は「法華宗は、後発の経典が法華経よりも優先する位置付けの教えは許さないというような構えだが、では法華経の成立となったその前段階の四妙の位置付けは、どんな経文(根拠・経典で説明されている部分)でどう指導しているのか」ということを訴えたのである。
 
法華経の成立後に、浄土教の経典(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経の3つ)など後発的にできていった中には「法華経を必ずしも絶対の聖道門(全ての正しい道)と見なす必要はない」と説明している経文(説明)はいくらでも見られることを、議論の中で貞安は主張している。
 
もちろんその意味は、法華経(聖道門)で皆が手本を示すことができるなら、それに越したことはないが、実際はそれも難しいだろうからそこを配慮し、必ずしも法華経を頂点とする必要はないという意味である。
 
それなら、人それぞれできる所まで地道に努力し、その代わりに努力する気がない範囲のことはでしゃぱってはいけない、というやり方も大事という意味である。
 
要するに「できもしない者、そこまで目指す気もない者に聖道門で一方的にただ押さえつけ、強引に総括(総意化)した所で、かえって怠慢解釈がはびこるだけ」ということも、法華経成立後の経典で、次第に喚起されていったのである。
 
浄土教(浄土宗・浄土真宗)は、ただの思いつきの自己啓発で法華宗(聖道門主義)とは反体制的(反動的)になった訳ではなく「法華経を必ずしも絶対の聖道門(全ての正しい道)と見なす必要はない」と書かれた経文(説明)を整理し、成立したに過ぎない。
 
宗派ごとで経典の優先順位を決めるのならともかく、仏教の経典である以上はどの経典でも、宗派の都合で勝手に経典を否定するようなことをすればそれこそ仏教徒ではない異端である。
 
当時の法華宗は「浄土教(浄土宗・浄土真宗)は法華経(聖道門主義)に反した教義体質だから異端」だと、そこばかり主張し続けてきた。
 
しかし浄土教(浄土宗・浄土真宗)は法華宗には反動的(対義的)でも「法華経の経典」そのものを否定などしていなければ「法華宗の教えは地獄に落ちる」などというやり返し批判も、これまでしてこなかった。
 
むしろ法華宗の指導者たちの方こそ、他の経典をよく確認(尊重)もせずに勝手に否定し、誤解を拡散させているのではないかと、貞安は返した。
 
仏教の経典の確認(尊重)をより多くしている側に対して、そこまでできていない側が偉そうに否定していたことが明らかになってしまっても、なお否定を繰り返そうとするのは経典否定と同じ、仏教そのものを否定する異教徒といえる。
 
朝早くから開催された法華宗と浄土宗の教義対決は、朝の8時頃には、あっさりと決着がついてしまった。
 
その結果を知った会場の付近の人々は、法華宗の指導者たちに対する怒りで暴動が起きて乱れたため、警護の堀秀政たちがなんとか鎮めた。
 
この時に怒った人々は主に、法華宗の指導者たちに不満だった他宗の者たちだったが、失望して自分たちの立場がなくなってしまったことに怒った法華信徒たちもいたかも知れない。
 
法華宗の指導者の取り巻きたちと大勢がもみ合いになったが、数に押されて取り巻きたちも逃げ出すと、法華宗の指導者たちはその群集に棒で叩かれたり経典を破られたりした。
 
城に居た信長に、決着した報告記録が通達されると、しばらくして会場に信長が現れた。
 
双方の宗派がそれぞれ責任(義務)をもって、議論の経過と結果の記録を信長に提出する、そしてその内容は織田政権で審議され双方はその裁定に従う、という約束だった。
 
双方の記録報告を、証人である鉄叟と警護の責任者たちの話と照合し、明らかに法華宗側に分が悪かったことが確認された。
 
信長は、教義のためといいながら野心や我欲ばかりで対決を煽ったような不届き者がいたのではないか等、対決に関わった者たちの素性も、事前に調べ上げていたようである。
 
対決の勝ち負け以前の問題として、最初の仕掛け人であった2人組と、対決に参加した7人の僧侶の内の1人の計3名が、教義への向き合いの態度があまりにも劣悪過ぎたこと、無駄に騒ぎを拡大させたことを理由に、処刑された。(態度が裁かれる時代)
 
その他は大目に見られたものの、法華経の経典指導のことに答えられなくなってしまった部分は、強く咎められた。
 
信長は「法華宗は、織田政権の再認が降りるまではしばらく、他宗の布教活動を妨害したり非難したりしない、他信徒に布教活動はしない」という誓約書を提出し、もしそれを提出しないなら、法華宗については今後一切の保護も約束しないと、強く迫った。
 
法華宗の指導者たちは渋々誓約書を提出したが、その後処理で「我々は最大限の努力はしたが、残念ながら敗れてしまった」という真剣さや悔しさの抱負の念がどうも感じられず、信徒たちを思いやるような配慮が乏しかった。
 
そこにひっかかった信長は「我が政権内の武士団は贅沢など許されず、日本再建のために庶民も日夜懸命に働いている。一方でお前たち法華宗の指導者たちは贅沢といえるほど手厚く優遇されてきて、いくらでも教義について研究できる環境を用意してやっているはずなのにこのザマは何だ! 教義の手本となるべきお前たちのだらしない態度が、どれだけ地域の寺院や信徒たちを失望させ、怒らせ、悲しませ、心を腐られてしまうのか、少しは考えたらどうなんだ!」とネチネチクドクド説教した。
 
説教で済んだだけでも十分、大目に見られているといえる。
 
一方で浄土宗側の貞安と霊誉の2名は信長からねぎらいの言葉がかけられ、ささやかだが記念に扇などが贈呈されて表彰された。
 
公正に審判した鉄叟にもねぎらいの言葉がかけられ、記念に杖が贈呈された。
 
これは「浄土宗の指導者2名が、教義のことで信長に表彰された」というその事例が、その宗派や寺院にとっての多大な恩賞だったといえる。
 
信長は、こういう論争や事件がない限りは、領内では公正な中立を保つために、普段は教義に関しては多少の落ち度も大目に見て、なかなか賞賛や非難をすることはなかった。
 
その信長によって「浄土宗(源空派)の指導者が高く評価された」という話が伝われば、それだけでも「今の浄土宗の指導者は優れている者たちが多いに違いない」という好印象を世間につけさせることができ、布教に大きな影響力が得られるためである。
 
この一件は、降伏も間近に迫っていた石山の浄土真宗(親鸞派)たちへの、遠まわしの降伏勧告への善用にもなっている。
 
つまり「織田政権は浄土教そのものは評価しており、争った浄土真宗(親鸞派)たちでも反世俗権力さえ捨てて降伏すれば、責任(義務)をもって保護を保証する」ということを、降伏するかどうか迷っていた浄土真宗(親鸞派)に、遠まわしに訴えることになった。
 
この対決の結果が世に知らされたその翌年の 1580 年には、石山の浄土真宗(親鸞派)たちがついに織田政権に折れて降伏することになった事情を考えると、その後押しになったと考えられる。
 
信長もかなり苦戦させられた浄土真宗(親鸞派)たちの、その教義力の部分は暗に認め、最終的には潰す気はなかったからこその処置だったことが窺える。
 
この教義対決の裁定は、当時の複雑な事情への対策意図が、多く見られる。
 
当時、法華宗が一番尖っていてうるさかった理由は、開祖である日蓮の影響力があまりにも強すぎた所にあった。
 
先述したが日蓮が生きた時代は、浄土教を悪用ばかりした念仏至上主義がすっかり蔓延していて、勇気をもってそれを非難する者がおらず、経典から基本を研究しようとしなくなった者であふれ、経典離れが加速して深刻化していた時代だった。
 
日蓮は権威に一切頼らずに堂々とそれを非難したために、厳しく弾圧を受けたが、しかしいかなる迫害にも負けずに、経典の原点である法華経に向き合い「経典離れは亡国の原因」だと論文を次々に発表して、当時の仏教社会を必死に喚起し、今一度、僧侶たちに経典に向き合わせることになった重要人物である。
 
法華宗(日蓮宗)は開祖の日蓮の行ないを偶像視し過ぎていて、不受不施(ふじゅふせ)の教えにしても、その柔軟性が全くない宗派になっていた。
 
法華経の経典を同じく頂点としていた天台宗との大きな違いは、法華宗の場合は教義の決め方には反権威的で、天台宗とは経典では同調できたが、権威で教義を決定していくような天台宗のやり方には対義的だった。
 
法華宗は教義の決め方が権威的であることに否定的ではあったが、都合によって世俗権力とも争うこともあっても、世俗権力とは融和的だった。
 
法華宗の不受不施の教えは、法華宗は法華信徒でない者との「受け与え」の交流関係を軽々しく築いてはならないという教えで、これが閉鎖性を強調してしまっていた。
 
この元々は、中途半端な受け与えの関係を保つことが、いい加減な規律関係が作られていく原因で、それが教義を教義で決めようとせずに何でも権威で決めようとする関係になり下がっていってしまう(教義力が低下していってしまう)から、それをやめさせることが目的だった。
 
つまり助け合う以上は(社会性を語る以上は)、うわべだけの口ほどにもない中途半端な同胞規律ではなく、強固な同胞規律の信念をもって助け合うことが大事(そういう社会性を語り合い、改善していくことが大事)という、それを強調するための教えだった。
 
法華宗はその教えを柔軟に内外に活かせず、内と外で体制的に分けて頑固に維持し続けてきたため、信長の時代のようにその教えが裏目に出てしまうことも多かった。
 
ただし法華宗のそうした尖っていた部分は、仏教のことも大事にしたかった戦国武将の中にも好んだ者は多く、教義が難しくなっていった当時、法華宗の教えは権威的ではなく、救済の教えも同胞的で解りやすかった所には、確かに人気があった。
 
法華宗は他宗には厳しかったが、信徒(同胞者)にはかなり優しかったのは、良かった所である。
 
しかし法華宗の不受不施については、織田信長の死後、豊臣秀吉、徳川家康の時代でもたびたび問題視された。
 
戦国中期のような閉鎖的な気風をもつ不受不施に対し、豊臣政権からも徳川政権からも、そこにもっと柔軟に改善するよう何度も勧告を受けたが、法華宗は遅々としてそれを改めようとしなかったため厳しい摘発を受け続け、そのたびに法華宗の力は削減されていくことになった。
 
信長もその事情は当然問題視していたと思われ、ただし織田家が法華信徒だったこともあって、論争が起きるまでは法華宗には強く言わなかった。
 
信長は「今の法華宗の体質を許し続けていたら、法華宗の教義力は低下していき、彼らのためにならない」と憂慮していたと思われる。
 
織田政権の家臣団に法華宗が多かったのは「御当主が法華信徒であるから、何かあった時のために我々も法華宗で合わせておいた方がいいかな」と考えて、家臣同士の縁なども考えて法華宗を選んでいた者も多かった。
 
信長は領内で認可している宗派・寺院である以上は、それを理由に人事差別をすることは一切しなかったが、それでも家臣たちは気にする者も多かった。
 
そして他宗にしても、法華信徒を布教活動の対象にすることは、信長が法華信徒だったことで遠慮され、控えられていたと思われる。
 
織田政権がどんどん広げていく領内で、当主である信長が法華信徒だったことで信徒確保も有利に作用してしまい、教義競争で大して苦労せずに信徒を維持できてしまったことが、かえって法華宗の教義力を弱める悪循環となり、そこを信長は危惧していたと思われる。
 
1578 年に織田政権の領内で、浄土宗の布教に法華宗が騒ぎ出した発端は、実は信長がそこを苦慮した上での裏政策が発端だったのではないかと、筆者は見ている。
 
当時の法華宗の指導者たちに教義競争の危機感をもたせるために、天敵である浄土宗から教義力のある者(貞安や霊誉)を事前に見つけ、領内で法華信徒を狙い撃ちするような布教を、信長があえてけしかける指示をしたのではないかと見ている。
 
あるいは法華宗の指導者たちも、それを察知していたからこそ、かなりムキになって教義対決を申し入れたのかも知れない。
 
法華宗と浄土宗の教義対決は、信長にとって一石二鳥の効果が見られる。
 
1つ目は、法華宗に教義競争を怠けさせないよう、その天敵の浄土宗(源空派)を奨励し、織田家が法華信徒だからといっても織田政権は法華政権ではないことを知らしめる目的。
 
2つ目は、浄土宗(源空派)への評価を強調することで、今まで敵対していた同じ浄土教であった浄土真宗(親鸞派)へも、降伏の受け入れの準備もできていることを知らしめる目的。
 
教義対決で大ヘマをやらかした法華宗の指導者たちに信長が説教しているのも、これも便宜上は信長も法華信徒という立場で説教している分、それだけでもだいぶ事態を収拾できているといえる。
 
このやらかしがあっても信長は改宗する気配など全く見せず、不受不施で尖るのはいいがなんだか頼りない当時の法華宗の指導者たちのことを見捨てようとはせず、一応は同胞者としてどうにか良い方向に導こうとしている所に、信長の面倒見の良さが窺える。
 
比叡山焼き討ちを始めとする、長島一向一揆の大量虐殺、高野山の討ち入り、越前加賀の一揆制圧など、織田政権に反抗した宗教勢力の社領・寺領の討ち入りは、全て連座としてあえて皆殺しを強行し、織田政権の裁判権に従おうとしないとどういうことになるかを存分に見せつけた教義改め(宗教改め)政策は、後世にかなり強烈な印象を与えた。
 
しかしその一方で、とりあえず織田政権に従いさえすれば、信長も面倒がらずにしっかり意見回収する責任(義務)を果たそうとし、なんでもかんでも弾圧するような愚行などせず、多少の落ち度も大目に見ながら対処していった様子が窺えるのである。
 
これから、信長の最後となった有名な「本能寺の変」のことに触れたいが、その前に「織田信長の性格と組織性」について、まとめておきたい。