近世日本の身分制社会(029/書きかけ142) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 有徳惣代気取りの勧善懲悪根絶主義者による国家経済大再生と、江戸の身分統制前史20/34 - 2020/03/17
 
織田信長が本願寺(浄土真宗・親鸞派)を降すことに成功したのが 1580 年で、本能寺で死去する2年前のことになる。
 
さらにその2年前になる 1578 年には織田政権の領内で、法華宗と浄土宗(穏健派)の教義論争が起きている。
 
この論争が起きた頃の浄土真宗は、織田軍に押されて領域的な争いはほとんど決着していた時期で、摂津南部にあった本拠地、石山本願寺城(大坂城の近く)を残すのみとなっていた。(各地でも残党が点在していたが、弱まっていた)
 
浄土真宗は最後の砦である石山本願寺城で堅守していたが、もはや反攻作戦に出るほどの余力はなく、織田軍も包囲線を敷き続け、互いに睨み合いの日々が続くようになった頃である。
 
浄土真宗の軍事裁判力は封じ込められ、それによって顕如のかつての教義影響力(裁判権の主導力)も封じられた状況だった。
 
浄土宗(源空派)と浄土真宗(親鸞派)は、時代も変わってきて組織も大きくなっていくたびに「浄土宗の中の流派」「浄土真宗の中の流派」で分流してその中で揉めることはあっても、ただし浄土宗と浄土真宗という単位では「同じ浄土教同志」としての同胞意識は強かったと思われる。
 
これは、開祖の源空と親鸞が非常に良好で盟友的な関係だったこと、また聖道門一辺倒(自力信仰一辺倒)の教義に否定的だった厭世主義(他力信仰)の浄土教は、何かと他宗から非難と弾圧を受けたため、その苦難を共にしているためである。
 
当時も「信徒」とひと言でいっても、寺院を通した人脈の縁と、冠婚葬祭の体裁で所属しているだけで、教義についてはそう熱心でない世俗層も多かった。
 
現代と同じように、支配者層はともかく従事層(支配者に従っている武士団や庶民たち)は、宗派とは地域旧縁で選び続けている者が多く、後は仏教(教義)の難しいことはよく解らないから寺院の信用と指導に任せているという感覚の者も多かった。
 
そこは現代のように、結婚式や葬儀や何かの儀礼行事について、典礼の一つ一つの理由に熱心に向き合っている者もいたが、丁寧な行いになっていれば全て案内だけで済ませても、文句をいう人などそういなかった。
 
「ウチは信用できる僧侶に頼んでいて、死者に対する典礼(葬儀)も粗末にすることなくしっかりやっている」になっていればいいのである。
 
しかし現代でも稀にあることとして、経文の読み上げの練習も、僧侶としての修練も大してできている訳でもない者を「多忙だったから」とか「増収したいから」というだけの寺院のいい加減な都合だけで、そこらの者を雇って僧侶を偽装させ、雑な葬儀をやらせるようなことになれば、当然問題になる。
 
任せる側(檀家側)からすれば、教義の詳しいことはよく解らなくても、信用のもとで行われる前提なのは当時も今も同じで、雑なことばかりしている寺院は当然非難されたが、とりあえず丁寧な形が維持されていれば、皆が教義のことに熱心にうるさい訳ではなかった。
 
宗派間の揉めごとや教義論争が起きる時は、信徒たち(所属世俗層たち)には訳が解らないまま、互いの宗派の上層指導者たちで勝手に盛り上がってうるさかっただけの場合も多かった。
 
ただし、当時の浄土真宗(親鸞派)だけは、そこが少し違った。
 
戦国中期までは、戦乱が長引くばかりで収束の見通しも一向に立たず、どの支配者も、寺院も庶民もろくに救済できていなかったことが浄土真宗の世俗権力否定の根拠となっていた。
 
労役と納税を課すその見返りの、支配者としての代替義務(寺院と庶民の保護)をろくに果たさない、どこも収奪と人事差別しかしないその世俗権力に一丸となって否定するようになり、聖属一揆によって戦国組織化していった団体である。
 
その事情から、当時の浄土真宗の信徒たちだけは、その教義力による規律で団結し、世俗権力の軟弱な規律に対抗するようになったからこそ、世俗権威を追い出して領地を全て寺領扱いにし、一向に整備されていかなかった農商業を独自に整備するようになり、織田政権に反抗するだけの軍事組織化も可能にした。
 
これも当時の浄土真宗の事情が正確に伝えられていないため、誤解の印象ばかり根付いてしまっている所である。
 
各地の戦国大名の多くが、有力家来筋たちが下克上的に台頭して代わって裁判権指導をするようになった点が、そこが単に浄土真宗の下克上による裁判権指導に置き換わっただけに過ぎない。
 
戦国期も聖道門一辺倒主義(孟子悪用主義)の正しさで機械的(偶像的)に判断することしかできなくなっていたからこそ、その一辺倒主義に否定的だった浄土教の態度も、それだけ目立った。
 
それに陥っている他宗たちの一方的な都合の押し売りが大前提の、浄土真宗への非難の記録ばかり目立つため、そこを鵜呑みにするべきではない。
 
まず開祖の親鸞「自身にやましさがなく、堂々と教義に向き合うことができていれば、修業の支障にならない古い戒律をわざわざ守り続けることはかえって支障(誤解)になる」と言い切って、禁忌とされてきた戒律を改める指導までした、思い切った人物だった。
 
その代表的なものが「肉食妻帯」「非僧非俗」「称名念仏」などで、この事情が全く正確に伝えられないまま戦国期に台頭した浄土真宗を語ろうとする傾向が強いため、誤解の原因になっている。
 
まず肉食(にくじき)の部分だが、仏教が導入されて以後の日本は「獣を好んで殺して食べる習慣は良くない」という、動物殺生の向き合いの思想が強まった。
 
鳥類やイノシシなどをたまに食べることもあったようだが、それは祭事や記念など、また飢饉の時など限定的だったようで、あとは宗派やその流派によって厳しさが違った。
 
肉食(にくじき)は基本的にはどの宗派も僧侶は禁じられていたが、流派によっては僧侶でない信徒にも殺生食はしないよう厳しく指導していた所もあった。
 
しかし魚だけは地上の生き物よりも抵抗は少なく「海からの恵み」と受け止められて古くから漁業が続けられ、民間では普通に食されていた。
 
鎌倉時代に改革的だった、源空と親鸞による浄土教の厭世主義は賛否の渦となり、支持もされたが激しく弾圧もされ、親鸞は僧籍を剥奪されて流罪処分(謹慎処分)を受ける事態となった。
 
親鸞は流罪時代に、元々疑問だった「本人が僧侶として経典と念仏の研究に真剣に歩もうとしているのに、従来と違うという理由だけの権力による反対だけで僧籍(国家資格)を剥奪され、僧侶ではなくなるというその理屈は、なんとも滑稽な話ではないか」という考えを、あからさまに出すようになった。
 
それは「高僧という国家資格を授けられさえすれば、どれだけいい加減で下品な役立たずでも、見せかけだけで高僧ということになれてしまう」という当時の実態に、そもそも滑稽さを感じたためである。
 
この時点でいかにも親鸞は荀子主義者らしかったといえ、源空もその気質はあったがもっと控えめだったのに対し、親鸞はかなりそれが強い人物だった。
 
僧籍を剥奪され、魚を食べるようになった親鸞は「魚を食べたら僧侶失格で、魚を食べなければ僧侶合格というのも、当事者本人が真剣に向き合われた理由でもない以上は、人が決めたものをたらい回しているだけのいい加減な決め方にしかならない」という考えを、あからさまに出すようになった。
 
「人々を失望させるような粗末さや暴食の悪い手本」ではなく、一つ一つの食事を丁寧丁重にできている品性態度に問題がないなら、当事者本人の向き合い方の態度に僧侶の姿を求めようとせずに、機械的(偶像的)に魚(肉食)に僧侶の姿を求めようとするのはおかしい、という考えである。
 
浄土教というこれからの時代に合いそうな教義として、人任せにせず自分で率先して牽引し、喚起していきたいと思えるようになっている者こそが、いかにも考えそうな所といえる。
 
妻帯も、魚と同じような理由である。
 
人的信用の品性がしっかり保たれていて家族愛の範囲が守られ、何らやましさがなく僧侶として堂々と手本となる生き方ができるなら、むしろ自身にとって不自然で滑稽な戒律に自身から脱却しようともせず、本人のこだわりでもない戒律に延々と頼り続けようとする者の方が、よほど不誠実という考えである。
 
親鸞の妻帯破戒は、恐らく密教の理趣経(りしゅきょう)も参考にされていると思われ、理趣経でも愛欲とは「それに驕り溺れ振り回され、手本から見失っていくことがあくまで問題」で、それは愛欲だけに限らず何にでもいえることだという教えがある。
 
まずは実態をいったんは認めることの大切さと、何がどう問題なのかを自分で整理できてもいないことに、偉そうにただの戒律狩り(ただの正しさ狩り)に頼っているだけの態度の指導の仕方こそ、人々が何も考えなくなっていってしまう、悪い手本(ただの偶像)を作っていく原因であることが、喚起されているのである。
 
妻帯問題については、プロテスタントの開祖となった、16世紀の教義刷新で活躍したマルティン・ルターも共通している。
 
「清らかさを保たなければならない聖職者は妻帯(結婚)者であってはならない」という、西方教会(カトリック)が続けてきた古代的な戒律にルターは「子を私生児扱いしているだけで皆、事実上の妻帯者と同然なのに、聖書で具体的に指摘されている訳でもない、清貧主義を曲解しているだけの戒律でなぜ規制しようとするのか」と教皇庁を非難した。
 
当時のキリスト教社会の庶民の冠婚葬祭は、低級裁判権(庶民法)で管理されていて、それが公的教義機関(教皇庁特権・司教特権)と結託した貴族層・富裕庶民層たちの圧力で管理されていた場合が多かった。(都市によってその強弱も異なった=市参事会側と聖堂参事会側の権勢と、聖堂参事会と司教・教皇庁の繋がりの強さに拠った)
 
家族構成の登録と関係してくる結婚の手続きは、富裕層が下層庶民を支配しやすくなるよう、中下層たちの結婚や葬式や移籍(労働権)や相続に関する手続きにあれこれ条件で縛り付け、逆らえば異端扱いして保有地権(農地権)や商業権(市民権)を剥奪して裁くと脅した。
 
さらに「清貧の教え」が曲解され、不作などで重税が払いきれなくなり保有地権の売却を強要され、富裕層の支配労働力に格下げされてしまった隷属小作層(最下層)が簡単に脱却できないような支配の仕方が、延々と続けられてきた。
 
経済観念が激変していた16世紀になっても、ただ曲解しているだけの清貧の教えを最下層は延々と押し付けら続ける一方、求められていた教義改革は失策と失望ばかり見せられ続けてきた下層たちもいい加減に、公的教義(司教領の高位司祭たちや教皇庁の枢機卿団たち)に強く不満をもつようになっていた。
 
そのような中でのルターの教義改革の訴えは、教義と直結していた低級裁判権の見直しとして最下層たちの強い同意に直結し、プロテスト運動(抗議運動)と連動した最下層たちによる大規模な農民一揆も多発するようになった。
 
公的教義(教皇庁)は「離婚は不誠実」の教えを、特に貴族間の結婚のことで介入するために、それを曲解して「離婚禁止」の戒律に結び付けていた。
 
外交関係が悪化してしまったり、また夫婦仲が険悪になってしまったりして、結婚が不都合になってしまった高位貴族から高額な献納金や特権の貸与・譲渡などの見返りを受けるなどで、色々理由をつけて特別に破談(離婚)を許可するなどしていた。(戒律を指導のためではなく、その寄進をただ特権化していただけだった)
 
ルネサンス期を経て、教義改革も強く求められるようになっていた16世紀の公的教義機関(教皇庁と司教領特権層)は、人々のその期待を裏切り続けていつまでも聖属を特権の食い物にし続け、教義改革と何の関係もない時代遅れの態度を続けられたことに、ルターがついに堂々と抗議(プロテスト)し始めた。
 
ルターは自身が神学教授つまり聖職者でありながら、堂々と結婚を公表し、公的教義機関にケンカを売ることまでやってのけた部分は、親鸞とかなり共通している所である。
 
教義崩壊もいよいよ深刻化していたからこそ、スペイン・オーストリア王室(ハプスブルク家)の圧力によって、前代未聞の教皇ハドリアヌス6世がついに出現することになり、ただの斡旋特権制度にしかなっていなかった悪習を、ついに止めさせる動きが始まる。
 
聖属の戒律を悪用した莫大な吸い上げをごまかすための、贅沢すぎる偶像聖属(最下層が餓死しても失望しても、支配威圧的(偶像的)で壮大な教会建造物を立て続けることなど)の悪習がいつまでも続けられ、最下層を苦しめ続けてきたキリスト教社会の、そういう所の規制にハドリアヌス6世がついに動き、倹約し始めたのである。
 
僧籍を剥奪された親鸞も結婚し、妻帯の身でありながら公的教義(天台宗)を完全無視して、これからの時代の僧侶のあり方を堂々と公表し、日本の妻帯僧侶の第1号となった。
 
親鸞は当然のこととして、戒律(体裁)の部分だけで女犯僧だの肉食僧だのと散々非難された一方で、愚直に正直に時代に合った教義に真剣に向き合うその気骨は、ますます親鸞のことを尊敬する者も増えた。
 
聖道門絶対主義(ただの孟子悪用主義)に陥っているに過ぎない時代遅れの天台宗と、同じくそれに陥りがちだった法華宗は、何かあるたびに浄土真宗(親鸞派)の反聖道門(厭世主義・他力信仰)を敵視し続けていた。
 
戦国期には世俗権威と決別して大組織化し「事実上の日本仏教の自力教義の最後の希望」と化していった浄土真宗の実力を朝廷も認め、直々に山官から禁官に格上げされる前例まで作った。
 
これまで偉そうに格上の先輩風ばかり吹かせていた天台宗(法華・最澄派)と法華宗(法華・日蓮派)の指導者たちは、いよいよ立場がなくなっていた。
 
戦国仏教化していった浄土真宗は、蓮如と実如がどうにか維持したその後には、時代刷新も激しくなる戦国中期から戦国後期への過程として、他の戦国大名たちの外戚問題(上級裁判権問題)と同じように浄土真宗たちの中でも、避けて通れない主導権争いも目立つようになった。
 
すると他宗はここぞとばかりに、浄土真宗の失策やその中のだらしない責任者を見つけては、聖道門一辺倒主義(孟子悪用主義)から脱却できていない負け惜しみとひがみ根性の正しさとやらで、彼らの肉食妻帯、非僧非俗、称名念仏を曲解し、浄土真宗こそが聖属の悪い手本だと誇張して、破戒集団扱いして叩き続けた。
 
日本仏教の自力教義の主体を浄土真宗に完全にもっていかれてしまい、戦国後期までの国際化の手本を大して示すことができなかった他宗は、もはや負け惜しみのひがみ根性だけで閉鎖的に浄土真宗を非難していただけに過ぎない。
 
遠吠えの他宗は、親鸞の教えを曲解ばかりして、聖道門主義(孟子悪用主義)の押し売りで、さも浄土真宗の信徒たちが腐敗し堕落しているかのように誇張し、自宗に大した国際規律の手本など有していない実態をごまかし続けた。
 
これは現代でも口ほどにもない集団や国家に定番のように見られる手口と同じ、当時の浄土真宗への教義批判の大抵は、浄土真宗を論敵(仮想敵)にすることで、自宗の内部問題の注意を外に向けていただけである。
 
むしろ外(浄土真宗)の論敵(仮想敵)の存在に頼り切らないと自宗(自己価値)を支えることもできない、だらしないことこの上ない有様だったとすらいえる。
 
厭世論重視の浄土教は、特に荀子主義寄りだった浄土真宗は「個人の責任ももちろん大事だが、手本にならない環境が人を無責任にしていってしまうことに気をつけることの方はもっと大事」であるため、他宗からの図々しい無意味な浄土真宗非難への言い返しは、だいぶ控えられていた。
 
「自分の所の教義指導の問題は、その教義指導と関係ない他宗に向けるのではなく自分の所で解決せよ」と、大した法(社会性・国際規律)など示すことができていない他宗からの挑発にイチイチ乗らず、余裕すら見せていたとすらいえる。
 
非僧非俗の教えに対し、僧侶は僧侶、世俗信徒は世俗信徒、という厳格な枠を守ろうとしていないだのと、従来の偶像狩りばかりして「全員が規律に厳格な僧侶の立場のはずなのに、皆が経典に向き合わずに労役し、仏教世界を乱している」などと、経済観念を見直して自立していった浄土真宗の信徒たちの成功に、難癖ばかりつけていた。
 
称名念仏(しょうみょうねんぶつ)の教えは、信用の向き合いを見失いそうになった時には、自身が僧侶であるかどうかなどが問題ではない、自分たちの行いを整理するためにいったん無心となって「阿弥陀如来はどんな愚か者でも決して人々を見捨てたりはしない」という念仏のはからいを大事にし、何でも絶望する(あきらめる・すねる)のをやめ、まずは落ち着きを取り戻してみよという教えである。
 
称名念仏は、余計な考えや邪念はその時はいったん捨てて、一心に純粋な気持ちで阿弥陀如来に向き合い、皆で助け合うべき仲間であるという気持ちで念仏を唱えることが大事だという、この部分も曲解ばかりされ「浄土真宗は念仏で、仏教の全ての教えを放棄させようとしている」などと、親鸞の教えにいいがかりばかりつけた。
 
法華宗も中央では、信徒を巻き込んで大規模な聖属一揆を頻発させたものの、どれも暴走に向かうばかりで結局大した国際性を示すことはできなかった。(法華一揆)
 
組織化(戦国後期の国際規律化=上級裁判権)の手本となるほど、戦国大名に強い影響力を与えられるだけの教義競争力を示すことができていたのは実質、浄土真宗だけだったことは、戦国後期にはもうそれがはっきりしていた。
 
キリスト教がついに日本に伝来し、教義力の差を見せ付けられてしまった当時の日本人は、日本仏教の自力教義のあり方に大勢が失望していた実態も明らかになり、ようやくそのことで各地でも寺院もあせり始めるようになった。
 
外堀の法華宗についてはともかく、公的教義であるはずの天台宗は、もはや日本の自力教義の命運も瀬戸際だったというのに、そういう肝心な時に何ら指導力(教義力・責任力)などもち合わせていなかったこともはっきりしていた。
 
信長が中央に乗り込んだ後に「これからは全ての教義機関も織田政権の支配下として扱い、何か問題が起きた時は織田政権の裁定に従わなければならず、それを否定する教義団体(宗派)は一切認めず破壊して回る」と意志表示するようになった時、比叡山(延暦寺・天台宗)の命運は既に決していたといえる。
 
解りやすいくらい徹底的な荀子主義者であった織田信長に臣従した所で、必ずテコ入れが行われ、もはや何の教義指導力もなかった比叡山が、今まで通りの公的教義の権威の座に居座り続けることももはや不可能だったことも、解りきっていた。
 
それと同じように周辺の戦国大名たちも、織田政権と対等に肩を並べるられるようなほど、それぞれ地方の法(国際社会性・上級裁判権)をそこまで整理することなど、どこもできていなかった。
 
それらもすんなり織田政権の傘下に入った所で、上から順に間違いなくその責任(義務)の重みを追及され、切腹や上意討ちや、助かっても格下げや追放処分に遭うことも解り切っていた。(態度が裁かれる時代の突入)
 
今まで通りの比叡山を権威を、信長がこれからも認めるはずがないのも解りきっていたからこそ、同じような事情だった朝倉氏と浅井氏と結託して反抗し、そして焼き討ちという顛末で、ついに解体させられる時代がやってきた。
 
法華宗については、織田家の家臣たちにも法華宗の信徒(世俗所属者)が多かったことも幸いしていた。
 
当時の法華宗も、上層部の指導者たちはどうも頼りない者ばかりだったが、法華宗に連なるその中間の各寺院の態度は、決して悪い訳ではなかった。
 
むしろ頼りない上層の指導者たちよりも、従事層と直接向き合っていたそれぞれの法華寺の方がよほど時代を自覚し、しっかりしていた。
 
織田政権で法華宗が、信長とあまり揉めずにそれなりに健全化に向かっていったのは、そもそも織田家自体が法華信徒だったことの同胞意識も働いていたと思われる。
 
信長はそれぞれの宗派に公正中立を示す必要があったから、あえて法華宗であることを強調せず特別扱いもしなかっただけで、便宜上は信長も一応は法華信徒である。
 
父の信秀の葬儀の際に信長が法華宗にケンカを売ったのも、閉鎖有徳主義で壁ばかり作っていた連中を否定し、敵意を見せた寺院と見せなかった寺院を区別するための一時的なものに過ぎず、その後に有徳狩りで臣従するようになった法華寺については、信長は責任をもって保護していた。
 
低級裁判権のゆくえを巡って織田政権と浄土真宗と激戦を繰り返すようになると、家臣団よりもこの保護下の法華宗の上層指導者たちがここぞとばかりに、浄土真宗のことをあれこれうるさく非難していたと思われる。
 
浄土真宗に散々苦戦させられた家臣団も、それに便乗して文句の1つや2つくらいはいっていただろうが、では「法華宗の信徒たち皆が一丸になって、浄土真宗を非難していたか?」といわれると、かなり怪しい。
 
もしそれができていたなら、法華宗が浄土真宗に匹敵するような、一丸となれる国際教義力を有していたことになり、さすがにそこまでの教義力は法華宗は有していなかったためである。
 
浄土真宗との闘争だけでなく、反抗的だった神社の社領への討ち入りでも同じことがいえるが、信長は自身が法華宗だからという名目(誓願)は全く用いずに戦っていた、つまり教義(宗教)要素は誓願では用いても、戦いの理由には用いず(頼らず)に戦っている。
 
苦戦させられた家臣団たちも、次第に追い詰められた浄土真宗たちも、味方の戦傷者を想って表向きこそ罵声を浴びせ合ったとは思うが、内心では互いに「互いに示しをつけなければならない、今後の日本のための仕方ない戦いだった」と割り切って戦っていたと思われる。
 
浄土真宗が織田政権に降伏することになった時、教義のことで言い合うことはあったとしても、法華宗の信徒(世俗層)たちは浄土真宗を差別的に見ていた様子など全く見られず、むしろ浄土真宗の信徒たちほど団結して頑張れていた訳でもない側が、偉そうに文句などいえる立場ではなかったとすらいえる。
 
差別どころか内心では、自分たちにはとてもできなかった「負けたとはいえ、自分たちで農商業を整備して織田政権とあそこまで戦い、規律と存在感を十分に見せつけることができていた浄土真宗たちはさすがだった」くらいの、他宗のことながらの尊敬の念すらあったと思われる。
 
浄土真宗(浄土教)非難は、目を吊り上げていた上層指導部と、冷静だった地域振興の各法華寺の中下層との間では、かなりの温度差があったと思われる。
 
1578 年は織田政権と浄土真宗(親鸞派)との領域争いはもう決着がついていて、織田軍の包囲線になおも残党が石山で抵抗を続けたものの、睨み合いが続いて終結も時間の問題というような状況になっていた。
 
そんな頃に、東国の浄土宗(源空派)の僧侶たちが織田政権の領内にやってきて布教活動を始めるようになり、彼らは「何かあった時には織田政権の裁判権に従う」帰順の姿勢を示したため、信長に容認(自由化)されていた。
 
それによって領内の法華宗の信徒たちに、浄土宗に鞍替えする者も目立ってきたため、東国からやって来た浄土宗の指導者たちを領内から追い出そうと、法華宗の上層指導者たちが騒ぎ始めた。
 
そもそも浄土教の厭世主義に否定的だった法華宗の指導者たちは、浄土教に信徒をもっていかれる事態など絶対に許せることではなく、信長もあれだけ戦ったはずの浄土教に対し、世俗権力とは融和的だった浄土宗(源空派)には柔軟すぎるほどあっさり容認してしまった所に、かなりの逆恨みが集中したことも、容易に想像できる。
 
法華宗側は領内から浄土宗を追い出したい一心で、浄土宗と教義対決をしたいと信長に訴えた。
 
信長は、そもそも聖道門主義の法華宗と、厭世主義の浄土宗との間で教義対決をした所で乱れる一方だと考えていたと思われ、教義対決はしない方向の融和的な和解を勧めたが、法華宗側がどうしても容認しなかった。
 
この時の浄土宗側は「こちらは織田政権に全て従う前提の布教活動で、噛み付いてきたのは法華宗側でこちらは争う気もなく、和解の裁定があればそれに従いたい」という非常に静かな態度だった。
 
法華宗はこの時、法華信徒でありながら法華宗を優先的に便宜してくれない信長を内心は逆恨みしての、裏切られた気持ちのこもった、あてつけの訴えが強かったと思われる。
 
そして信長もその法華宗の指導者たちの内心の不満も、当然察知していたと思われる。
 
しかしこれからは全て頂点である織田政権が、教義のことでも問題が起きた時は審議する公正な立場を、責任(義務)として守らなければならない。
 
それなのに織田家が法華信徒だから法華宗を常に特別扱いし、教義力や信徒の本音を無視してしまうようでは、法華宗がかつての公的教義(天台宗)にすり変わるだけで何も変わらない教団と化してしまうことを問題視していた。(等族社会)
 
信長は、法華宗のそういう逆恨みの態度もすぐに怒り任せな処置に走ることはなく、臣従している以上は責任(義務)をもって、公正な立場で保護するために、まずは言い分を聞こうとしている姿勢が見られる。
 
次は、1578 年に行われた法華宗と浄土宗の論争対決の具体的な話に触れていきたい。