近世日本の身分制社会(018/書きかけ141) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 有徳惣代気取りの勧善懲悪根絶主義者による国家経済大再生と、江戸の身分統制前史9/34 - 2019/11/21
 
宗教問題についてのまとめということは、教義のまとめであるため、筆者の公的教義の批判も具体的になってくるにともない、議題が若干それるが近世時代の余波としての近代の始まりの宗教問題と国政問題のことに、ここで先に触れておくことにした。
 
現代の仏教は、亡くなった人を埋葬する時の葬儀や、また家ごとや宗派ごとで法事を行うなど、現代ではそれが当たり前になっているが、「旧政府の解体」「新政府の設立」という時代の転換期が起きるごとに、今の仏教にどんどん固定化されていったという歴史がある。
 
日本の仏教は、時代の転換期ごとに常に二転三転していたといえるほどの変わりようの激しさがあり、なんだかんだで僧侶たちもかなり大変な想いをしている。
 
江戸時代の寺院とは、幕府の公家諸法度(朝廷と寺院の規制法)によっていよいよ寺院の主体的な政権(上級裁判権)への影響力というものは皆無となり、ほとんど地域政治(低級裁判権)の範囲だけのものになっていたが、時代をさかのぼるほどそれが正反対になっていくため、その歴史背景について曖昧だと大いに混乱する。
 
特に急激に近代化が急がれた倒幕後の明治新政府は、政府高官たち(元は薩摩藩と長州藩の主導者ら)による大名目の急激な皇室権威復興活動(天皇神聖論)のための神仏分離政策が性急に行われたことで、これが乱暴過ぎるといえるほどの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)騒動に向かっていった。
 
※これらは皇室が決めたのではなく、全て政府高官たちが決めたことであり、「責任をもってこうしていきます」と宮内機関に事情を説明して認可を受け、名義の大元こそ皇室にあっても、実質執権は政府高官らが全責任を負う前提であり、その形を望み続けたのも政府高官ら(のち軍部)であったのは、第二次世界大戦終結まで同じである。
 
江戸時代では幕府が公家諸法度を適用し、朝廷と寺院にかつての力を復興させないよう厳しく監視して大いに規制するようになったために、ただでさえ立場が良くなかった寺院(仏教)は、明治新政府発足時には、いよいよ格好の悪役に利用されたことで廃仏毀釈騒動が各地で頻発した。
 
明治政府は、威勢良く倒幕したは良いものの、倒幕と近代化という目前の共有目的でどうにか結束はできていたが、いざ新政府発足となると急に足並みも乱れ、当初は先進国の真似ばかりで主体性も乏しく、近代化も四民平等も名ばかりだった。
 
これは世界の先進国から大いに遅れていた当時の日本を、急激に近代化に対応させるためには、そうなるのもやむを得ない事情だったといえるが、特に最初の10年間の明治政府は失策も多く、性急で乱暴なやり方も多かったために、全国的に民間からの激しい怒りの非難が政府や知事に殺到した。
 
これが結果的に自由民権運動を隆盛させることになり、政府も強引な摘発で各地の民権結社を解体させていったものの、その機運は簡単に鎮めることなどできずこれに散々手を焼くこととなった。
 
まだ会社という概念認識が薄かった当時は「社員」という言葉は、会社員のことではなくこの民権結社の一員という意味で使われていた時代である。
 
またこの頃の「新聞」も、現在の原型のものとして誕生したが、民間から発行された新聞は大抵は「民権新聞」だった時代である。
 
そのため現在の新聞社は、会社化される前身は、それぞれの地域のこの「民権新聞」が出発点になっている歴史をもつ所も多い。
 
民政を大事にせず収奪ばかりする政府や県知事の横暴なやり方に対抗するために、各地の自治体が資金集めをして勝手に民権結社を作り、学術に優れた者たちを集めて、各地の民権結社との交流会まで作って民政権のための論文が協力的に作成されていった。
 
この民権新聞も、権威のいいなりになっているだけの評判の悪い県知事や政府の悪態を派手に書きたてたため、政府に何度も摘発されたが、簡単には抑えることができなかった。
 
政府設立当初に作られた地租(ちそ・新税制)の法律は、江戸時代の代表的な一揆のひとつの「近江一揆」の口火となった「先格問題」と同等といえるほど悪質な法律だった。
 
これは政府権威のいいなりに偉そうに威張り散らしているだけの手下役人が、各地の不動産価値を検地しに来て、意味不明な価値を一方的に決め、その価値に見合う納税ができない庶民はその土地から立ち退きを武力で強制し、一切の土地所有権(農地権や商業権・その保証権)を保証しないというものだった。
 
これによって収賄が横行し、この無能な政府役人に賄賂を多く渡せた者は土地評価を下げてもらい、納税額を下げてもらうことでどうにかやっていけるありさまだった。
 
しかし倒幕後で貧窮していて賄賂を渡すことができなかった庶民も多く、各地の農地や商業地で強制立ち退きに遭い、急に職場を失った庶民たちはそのまま放置された。
 
これは何の公正さも保たれずに行われたため、対応が緩かった地域と、異様に厳しかった地域とでかなりの地域差が出たため「何が四民平等だ!」と当然、その差別のことで不満が噴出した。
 
それだけでなく倒幕に協力する見返りの保証が約束されていた、何の財力もなかった下級武士の大半は、何も約束が守られないまま強制的に庶民化され、どうにか働き口だけは確保できた矢先に、この乱暴な立ち退き騒動に遭ったため、元下級武士たちの政府への怒りが噴出し、廃刀令を無視した支族反乱の原因となった。
 
つまりこの時の検地は、農地価値、商業地価値の公正な評価など最初から目的ではなく、収賄に応じることができない財力のない者たちを最初から強制立ち退きさせて、土地所有権を強奪し、権威は全て政府にあることを明確化する前提の政策でしかなかった。
 
そしていったん土地を回収した政府は、各地でまだ財力に余裕のあった資本家たち(財力の余力があった大地主ら名士たち)に土地を売り、やっていけなくなっていた貧困層をその大地主彼たちが従業員や小作人の収奪労働者として組み込んだ。
 
要するに少数の上流庶民(資本家)と、それを支える大勢の下級庶民(収奪隷属庶民)との格差社会構造を作り上げるための、資本家支配政策だったのである。
 
これも地域差が激しく、それが顕著になった地域とそれほどでもなかった地域とあった。
 
どうにか上流庶民(資本家)の傘下に組み込まれずに済んだ者たちも、どちらにしてもその高額すぎる地租が払えなければ追い出される運命だった庶民たちも貧窮していき、すぐに餓死者が出る寸前まで追い込まれるようになったため、各地で貧困一揆が多発するようになった。
 
明治政府は高官らの間で、民主的な政策を優先して国力を高めていくことを優先するか、絶対服従軍国的政策を優先させるか意見が分かれて揉めたが、結局後者が選ばれ、前者意見だったものは失脚に等しい退任をしていった。
 
そのため国家権威を強化することが何でも最優先され、民間にはむしろ力などつけさせないという考えが優先されたため、とにかく財力のない庶民から奪えるものは奪っていき、わずかな見返りを与えて大衆を飼いならして従わせるための洗脳政策ばかりが採用された。
 
当初の政府は、財力のない庶民はほとんど人間扱いなどしておらず、大勢の庶民は少数の資本家からエサを与えられて飼いならされるべき動物同然の社会構造でよいというような、そのくらいの高圧的な態度だった。
 
廃仏毀釈騒動、支族反乱、西南戦争、その後に隆盛した自由民権運動、さらに各地の貧困一揆の頻発という明治時代の最初の10年間は、そうした不条理だらけの社会不安からいずれも起きた騒動であるが、当然これを「これのどこが四民平等なんだ」「江戸幕府の年貢よりも厳しい法律と重労働だ」と人々も口癖の合言葉となっていた。
 
政府はそれまで「民間の分際は政権に一切口出しするな」の強気の態度を通し続けていたが、自由民権運動とそれと連動していた貧困一揆はどうにも抑えることもできず、ついに立憲政体の詔書まで漕ぎつけたことで現在の「国会」が成立することになった。
 
国会が設立されたことで、これを当面の打開と認識されて、自由民権運動も下火になっていった。
 
この国会制度は元々は、選挙によるあらゆる庶民の政治参加を可能とさせる糸口を作り、民権意見を政治に反映させる意図のものであったが、選挙のたびに政府高官どもが圧力をかけ、政治資金というよりも収賄資金を回して政府のいいなりになる議員ばかり擁立することが即座に常態化し、大して民主的な国会などにならず完全に体裁だけのものになった。
 
権威のいいなりに威勢よく威張り散らしているだけの政府の体質の本性など知れており、所詮はこんなものである。
 
民間文言発行には規制ばかりかけ、政府の落ち度は全て公報を悪用して近代化の自画自賛と美化で世間をごまかし、様々な悪評そらし工作が盛んに行われたが、廃仏毀釈騒動の放任も、当時の政府の悪評そらしの一環であったともいえる。
 
これはヨーロッパ諸国でも顕著であるが、王権政治が次々と解体され、どこも民政化などは名ばかりの奇妙な資本家の牛耳り政治化に過ぎなかった近代政治とやらに世界が変わっていったものを、日本もそっくりそのまま真似しただけである。
 
19世紀は資本家の勘違い時代といえ、大勢の従業員や小作人にはろくな保証も与えず財産も蓄えさせない動物同然の、ただの収奪のためだけの労働力扱いをするのがどこも国家の方針だった。
 
当時は産業革命時代ともいわれ、機械化もだいぶ進んだといわれるが、それでも今よりもまだまだ大勢の労働者に頼る生産高体制が主流の時代だった。
 
1日20時間労働も平気でやらせて怪我人や病人が出ても「お前の変わりなどいくらでもいる、仮病を使うな!」と制裁し、労働奉仕させてもらえるありがたさを感謝しなければならない資本家への絶対服従の社会観こそが美しく正しい社会性だとする時代となっていた。
 
国家の重農重工生産高主義(農業力・工業力)を支えるのが国民の義務であり、資本家の絶対縦社会に少しでも反感的な態度を見せるものは国家の反逆者・異常者として政府に摘発されるような、労働者=資本家を支えるべき奴隷同然という、あまりに劣悪な労働環境が、その反抗題材として次第に共産主義同盟の機運として世界的に高まっていった。
 
共産主義といえば日本では 1960 年代に大規模の学徒運動の後に起こした過激派らの過剰活動の件で、日本ではすっかり悪印象ばかりついてしまったが、コミンテルン(ソビエト共産党世界政治本部)ができて間もなかった当時のものは、その性質も事情もかなり違う。
 
当時の共産主義は、人種の壁のない平和のための共産主義同盟という広い外交網を目指していた独特な点を除くと、現代の先進国では当たり前になっているような主張ばかりである。
 
「資本家は運営責任の落ち度の全てを労働者にただ負担させるばかりではなく、管理者としての運営努力や社内改善の義務もあることや、休日もろくに与えずに何の蓄えもできない低賃金体制を続けるだけでは、労働者たちの質の向上意欲の奨励に全くならない」
 
「そうした労働者ひとりひとりを尊重しようとしない権威任せの劣悪な労働環境のままでは、社会全体の質も組織競争力も全く身に付いていかず、他の資本家に少しでも競争力を身につけられてしまったり不景気に陥るなどの外的要因に対抗しなければならなくなると、経営状態も労働環境もどんどん劣悪していくだけだ」
 
「教育機関も国家権威の絶対服従ばかりの洗脳のためではなく、それぞれ職能適正に合った教育指導もできるようになるべきで、ありあまる国益を上が独占し続けるだけでなく少しはくらいは病院や公園などを増設していき、社会性の向上になるような意欲的な意見を自由にいい合える会も大事にし、より良い民間の意見を反映できる、発展ある政治にしていくべきだ」
 
どれも現代の選挙の立候補者たちが列挙しているようなものしかなく、ただ時代の先取りの主張をしていたに過ぎない、ごく健全で民権的な内容である。
 
当時はそれを国家の反逆者扱いしていた時代で、国家権威のいいなりになり下がってちっぽけな餌付けで飼いならされた労働者たちから反逆者として通報されることもあった、社会生命や政治生命の危機に関わる、かなりの信念の勇気のいる主張だったのである。
 
何の工夫もせずにただ正しさを確定させたいだけのために、使いものにならない世論(公的機関)の手下になりさがって、何の考えもなしにそのいいなりになろうとすることは、こうした時代遅れの強制を次代たちに負担させても構わないといっているのと同じである。
 
「俺はこういう道を進んできて良い思いをしたからお前らもそういう道に進むべき。俺はこういう不条理を受けたからお前らも同じ不条理を受けるべき」とただいっているだけで、何の工夫もなく正しさを確定しようとしているだけの態度が、次代たちに良い影響の手本になる訳がないのである。
 
育成の計画的な一環としてあえてそういう体験もさせる、という方針自体は否定はしないが、それは最後まで責任をもって面倒を見切る前提の者や、最後まで応援し見守る責任感のある者だけが、それをいう資格があるといえるだろう。
 
当時の明治政府は先進国のその重農重工生産高資本家絶対服従主義の真似ばかりし、格差を助長させて下層庶民に甚大な負担ばかりかけ続けた。
 
ただしその後には、その支配体制で近代的な水道設備や道路拡張、農地開発や商業地の整備にも善用され、近代日本の基礎整備も整えられたたが、それは民権運動の影響があったから可能だったといえる。
 
自由民権運動は、政府の民権へのあまりの面倒見の悪さから、下からの自発的な突き上げが起き、暴力的だった政府に立ち向かい続けて立憲政体まで漕ぎ付け、「国会」の設立を可能とした、権力のない者たちで国際性を確立したその実例は、その姿勢だけでも現代人は少しは見習うべき所といえるだろう。
 
これは結果的には中途半端なものになってしまったが、一応の名目の「全ての庶民が選挙によって政治参加し、民権意見を反映できるための国会」という基礎は残すことになった。
 
またこの民権運動で政府に少しは民権化の意識もさせるようになり、高額すぎた地租の軽減について譲歩させたため、貧困で各地でほとんど常態化していた一揆もようやく収拾するようになった。
 
日本でもこの重農重工生産高資本家絶対服従主義の方向には向いたが、この民権運動の影響もあって他の先進国よりはいくらかマシとなり、またあまりにも意味不明に格差が酷すぎた地域はさすがに再手配も少しは行われたようである。
 
諸外国でも、当時の強引すぎるこの資本家絶対服従主義に、資本家側ですら内心では「やりすぎだ」と懸念するような、人間性がまともだった者も少なからずいたため、政府に反逆者扱いされない程度に多少緩和していた資本家もおり、地域差も結構あったようである。
 
近代国際国家だの、富国強兵国家だの格好ばかりつけたその内情とは、資本家絶対服従主義でその重責を全て庶民に負担させ、不満をそらすためにむしろ格差政策と印象誘導で動物のように飼いならすような下品で浅ましい政策で維持されていたのが実態なのである。
 
志のある者が各先進国の民権家の著書を日本に持ち帰って翻訳し、他の国ではどのようにどこまで民権化を進めたのかを見ながら日々研究され、日本でも民権化のための「国会」を作るまでに各民権結社が総力を結集し、意見がまとめられた。(当時の民権運動の代表的存在が板垣退助=太政官(だじょうかん)とは別枠の、国会の初代総理大臣)
 
そしてその国際性ある意見書を政府につきつけ「これを無視すれば、日本は国際国家などではない野蛮国家だという非難を世界から受けかねない」と高圧的だった政府を折れさせるほどの意見が提出ができたのである。
 
この時に国会設立の意見書をもし政府は無視すれば、民権結社は意見書の写しを翻訳してその実態を世界中に広めただろうから、国内でいくら規制や隠蔽や印象操作だけしても、一度外国にその事実が広まってしまえば政府もどうにもならなくなるというのが、良い影響の国際性(国際人道主義)の強さなのである。
 
権威(政府)の本性などはこんなものであり、こういう使いものにならない連中のいうことなど最初からあてにするべきではなく、下からも公正で国際性のある重要な意見がまとめられる努力や認識もされていかなければ、公的義務(公的発信=世論の態度の結果)のあり方など到底変えられないと思った方がよい。
 
しかしひとりひとりが良い影響になる関心が高まるような、皆がその発信のあり方に気を使う意識も強くなれば、国際性(国際人道主義)を作ることも可能で、自分たちの国のあり方を変えることも不可能ではないという好例が、この国会設立だといえる。
 
国会(民政立憲政体)は公的教義権威が作ったのではなく、何の学位学歴もない者たち作ったのであり、公的教義権威がそれを反逆と扱い散々妨害したことを、公的教義権威のただのいいなりの無能どもはそこを勘違いするでない!
 
筆者は近世史専門で、近代史については大した情報視野をもっている訳ではないが、近代史についてはイギリスで資本論を唱えて高く評価されたケインズと、イタリアの優秀な社会学者であったトリアッティを同時代人の好例人物として、機会があればいずれ別件としてまとめ、情勢から紹介したい所である。
 
神仏分離政策から加熱した廃仏毀釈騒動は、ヨーロッパで蔓延するようになった当時の共産組織(民権組織)をどこも阻止したように、国内の自由民権組織の寄り合いの結束の場として寺院が利用されないように潰しておくための、政府の策謀的な狙いもあったと思われる。
 
長い歴史から見ると、各地域の大小の寺院は、庶民の意見を回収して、政府(幕府)や県(藩)がなかなか聞き入れない低級裁判権(労役納税義務とその保証代替権)を代弁する役割も務めてきたためである。
 
政府設立当初の政府高官どもは、日本で永らく神仏合祀論として扱われてきた宗教観を突然、天皇神聖論に覆すべく、神は仏と同等ではなく神の方が格上だとするために神社を盛り立てるようになった。
 
神仏分離政策から加熱していった廃仏毀釈は、地域によって加熱の度合いも異なり、非難だけで済んだ所もあったが、民権運動を表向きの理由に下層庶民に暴力的に乗り込まれ、丸ごとの焼き払いに遭った所も多かった。
 
寺院で古くから保管されていた、中世から近世にかけての地域事情と庶民政治の様子を知る上での貴重な第一級史料の多くが、各地で頻発したこの騒動によって焼き払われてしまった所も多かったために、研究家たちに惜しまれている所である。
 
倒幕後の当時、貧困層が寺院を目のカタキにしていたのは、上層庶民(大地主)たちと下層貧民(下男層・小作人層)の隷属関係を確認するための、下にとっての不条理で不都合な証文が寺院に多く保管されていたためである。
 
江戸時代では土地権利買い(エンクロージャ)による大地主(保有地権・保証権を多くもつ上級庶民・ヨーマン)と小作人(保有地権・保証権をもたない隷属庶民)という、農家間の階級制度というものは当初の幕府は否定しており、つまりそのような農家間の具体的な階級制度は、幕府は許可せず抑止していた。
 
しかし江戸時代後半になると、どうにも幕府の経済対策が振るわなくなり、完全にその方針も曲がり角にきていた矢先に起きた質地騒動(質流れ騒動)を契機に、それが事実上黙認されるようになると、庶民同士の格差が加速していった。
 
ろくな経済対策も見出されないまま、年々重くなる課税に対応できなくなる農家も増えていく一方で、有力な豪農や名主(庄屋)に農地権を質入しないとやっていけなくなった農家も年々増えていた矢先に、質地騒動が起きた。
 
もはや庶民間の具体的な身分制度に等しい大地主の台頭を容認するようになってしまった江戸幕府の名目は、従来の身分制度(社会性)の名目をろくに維持できなくなっており、これを許容してしまっている時点で政策の主体性をほとんど見失っていたといっても過言ではない。
 
質地騒動の詳細は後述するが、どうにも対策できなかった幕府は、今まで大地主を明確には認めなかったものをついに容認・黙認する方針に転換し、以後、買い戻す権利すら失ったことが決定的となって完全に収奪を受けるためだけの下層隷属庶民と扱われるようになってしまった農家が増えていった。
 
彼らは幕末までに永らく不条理な苦痛を受け続けることになり、倒幕後にその怒りも一気に爆発することになった。
 
幕府解体時、政府の失策続きで貧窮する一方だったこの隷属庶民出身者たちにとって、今まで擁護しようとしなかった寺院の印象が良い訳がなく、政府の神仏分離政策をきっかけに今まで受け続けた格差の腹いせの怒りが寺院に向き、各地で大騒ぎになった。
 
これは寺院が一方的に上層庶民(大地主)を擁護したことが原因だった訳でもなんでもなく、幕府に散々規制を受けていた寺院にそもそもその支配決定権などなかった。
 
民間政治の債務証書・不動産的証書は寺院が管理する役割があったからそう見えていたに過ぎず、幕府の都合に寺院が合わせていたに過ぎなかったものだが、これは江戸幕府がそうしなければやっていけなくなったのと同じように、寺院特権もその流れに頼らざるを得なくなり、大地主(有力庶民)に擁護的にならざるを得った部分は確かにあった。
 
武士と寺院の結び付きと、有力庶民と寺院との結び付きによる、戦国期に顕著だった武士と寺院と有力庶民の関係性の風潮というものも、戦国期ほどの強さは無いにせよ、江戸期にはそれらの相談役だった点として、寺院にその寄り合いの関係が消えていた訳でもなかった。
 
政治全体のことは何かと目と耳を塞がれがちだった幕府支配時代の下層隷属庶民たちにとっては、上の手先と映りがちだった寺院に、下への面倒見の悪さが目に付くのも当然だったといえる。
 
江戸末期から明治政府新設時にかけての庶民は、農民も町人も識字率はそれなりに向上はしていたが、伝達手段は狭く限りもあり、今よりも遥かに政府に印象誘導されやすい時代だったために、そうした傾向は余計に強かった。
 
政府はこの廃仏毀釈騒動を8年も放置し続けたため、さすがに各宗派から非難の声があがり「一向に保護に動いてくれない政府は、もう日本では葬儀や墓地の管理に必要なはずの僧侶が1人も居なくなっても構わないといっているのですね!」と強く訴えられ、ようやく政府も仏教の保護に動くようになった。
 
明治初期の仏教(寺院)は、下層隷属庶民の不満をそらすためのに政府に散々政治利用されてしまい、その尊厳も著しく後退してしまうことになった。
 
大地主への隷属から解放されたことにいったんは喜んだ彼らだが、政府が土地を没収して回り、再び大地主(資本家)に力をもたせて大勢をその傘下に組み込ませようとしたその動きに「幕府時代と何一つ変わっていないではないか」と不満がかなり噴出した。
 
それでも日本の場合は当時の民権運動の影響に加え、恐らくその矛盾もあって、日本にもちこまれた資本家絶対服従主義も、他の先進国よりはいくらかマシだったようである。
 
後は、明治政府にとって極めて厄介だった1つとして、間接的に民権運動に影響することにもなった博徒問題についても、大事なことであるため紹介しておきたい。
 
博徒(ばくと)とは、狭義では賭博場を徘徊するやくざ者のことや、その付き合いがある者などのことを指すが、明治初期のいう博徒の意味は、大体は今風でいう暴力団組員らのような者たちのことである。
 
倒幕後に明治政府ができると、大勢の博徒が即座に溢れるようになった原因も、政府の対応の悪さともいえるが、この博徒問題は当時の政治がいかに混迷していたかを示している。
 
突然急増するようになったこの博徒たちは半分以上は、元は暴力団組織に所属していた訳ではない、どうにも行き場もなく商業地の一角の、今風でいう暴力団結社に集まるようになった者たちである。
 
政府警察や県警らの中には、まともな人間性を有している者も少しはいたが、大半は権威のいいなりに威張り散らしているだけの使いものにならない、意見回収など一切しない権威の暴力の手先になりさがっただけの憲兵同然である。
 
庶民相手には威勢よく威張り散らすばかりの下品な無能揃いであるのはいうまでもないが、治安を悪化させる一方の博徒の検挙となると「いつものあの威勢はどこへいったんだ」というほど博徒に恐れをなし、黙認するばかりでしてろくに検挙できなかった。
 
庶民らにとっても博徒は危険な存在で、いつも好意的だった訳ではないが同情的な部分はあり、普段は庶民にはあんなに強気に出て威張り散らしておきながら、博徒相手となると何もできないこの口ほどにもない使いものにならないこの憲兵どもは、庶民を大いにあきれさせた。
 
憲兵らが博徒をろくに取り締まることができなかった事情は、かなり複雑である。
 
この博徒たちはまず、全て博徒という言葉で一括されてしまっているが皆が凶暴だったではなく、つまり全員が博打や賭場の管理や縄張り争いや組織犯罪などに手を染めていたという訳でもない。
 
半分以上の者は、狭い枠の職にあぶれてしまい、ただただどうしていいのか、どこへいっていいのか解らずにただそこにいただけの者である。
 
当時は、今風でいうこの住所と職業の不定者を全て、博徒と呼んでいた。
 
もちろんその劣悪な環境の中で凶暴化する者もいて、縄張り争いを表向きの理由に敵対暴力団組員同士で、互いに相手の所持品の奪い合うための殺し合いを繰り返して、それが日々の生活費の確保になっていたような者もいた。
 
皆がそれに参加していた訳ではなかったが、高額すぎる地租が払いきれず餓死者がでそうな状況になって貧困一揆が頻発していたように、博徒間でも日々生きていくためのちっぽけな生活費を得るための限りある違法取引を巡って殺し合いながら、自動的な口減らしが行われていたのである。
 
そのため貧困一揆が起きる度に、政府とその権威のいいなりの使えない憲兵らに激しい憎悪をもっていた多くの博徒も、積極的にこれに参加した。
 
政府が貧困一揆をろくに鎮圧できず、事実上の納税拒否が長期化すると、地租の軽減の要求についに折れるようになったが、この大勢の博徒たちが参加していたことは大きかった。
 
そして、貧困一揆と連動していた自由民権運動の隆盛を間接的に支えることになったのもこの博徒たち、つまり国会ができたのも結果的には博徒が間接的に支えたからだとも、いえるのである。
 
もちろん彼らは、義侠心や正義感というただそれだけの悠長なものではなく、博徒の世界ですら、違法取引のちっぽけな経済圏を巡って奪い合いの殺し合いを強いられ、自分たちで進んで口減らしをしなければやっていけないという深刻な事態に追い込まれていた上での話だったのである。
 
もともと地域ごとに縄張りを張っていた親分たちは、少しでも余裕がある時は、その全く行き場がなくなってどうしていいのか解らず暴力団結社の近くで常に腹をすかせている者たちに食事を提供したりしていた。
 
これは暴力団にとっての縄張り確保のための利用だったとも確かにいえるが、本来は政府が面倒を見るべきを、政府はこの博徒たちに何の手引きもできなかったため、そのあまりの無責任さに彼らは政府に激しい憎悪の怒りを向けていた。
 
例え利用だろうが、親分が少しでも余裕がある時はとりあえず食事を提供してくれたため、博徒たちからすればその責任(義務)を完全に放棄している政府よりも、暴力団の親分の方が遥かに面倒見が良かったといえる。
 
このあたりは今の犯罪取引組織の事情とは全く違い、これら親分たちも騙すだの従わせるだのの悪意の利用うんぬんではなくもはや死活問題で、当時の親分たちの措置はたまたま利害が一致した同情的な善用のものだったとすらいっていい。
 
この元締めたちを含めたこの博徒集団というものが、政府にとって最も厄介だった理由は、彼らは廃刀令を無視し続けて、あちこちに武器を隠しもっていたためである。
 
明治初期、四民平等を掲げて下級武士たちも庶民化する際に、政府は彼らが所有していた刀や鉄砲を没収して回ったが、どうにか職にありつけた者たちは渋々それに従ったが、ろくな職の斡旋も受けられなかった博徒たちは手放さなかった。
 
そして餓死寸前に追いこまれていった博徒たちは闇市でそれを売り払ってどうにか食費を手にいれたり、またはその武器を使って結託して、権威のいいなりの資本家の手先や憲兵を襲って金品を巻き上げたり、先のように縄張り争いのための武器になっていたのである。
 
江戸時代は大して武器は使われなかったものの、体裁として刀や鉄砲は皆所有しており、倒幕戦の時にかなり増産されたこともあって、政府の民間の武器回収はまったく不十分な状態だった。
 
やっていけなくなった者たちから武器を買取り集めていた各地の博徒の親分たちは、槍、刀、鉄砲から鎖鎌その他あらゆる武器を、かなりの数を回収することができていた。
 
劣悪な環境の中で、どうにもならないこの博徒たちの一応の面倒を見るようになった親分たちは普段は武器を隠していたが、何かあると武器を持ち出して武装蜂起して暴れ回るという、もはや「明確な民兵動員力をもつ政治力」を有していたといっていい。
 
彼らは常に腹をすかせて、使いものにならない政府、その権威でいい想いばかりしている資本家、権威の手下として待遇が保証された無神経な上級公務員気取りのいいなり憲兵ら、そして敵対博徒たちと、世への悔し涙が絶えることのないあらゆる敵対意識の激しい怒りを発散していた、極めて危険な連中と化していった。
 
これは民政権という選択など一切しようともしなかった、まだ国会がなかった当時の政府高官ども(太政官)の一方的な都合で重農重工資本家絶対服従主義を庶民に突然押し付けるだけ押し付けておいて、面倒が見切れなくなり放置された政府の不始末が、そのまま政府の不都合となって跳ね返ってきていたに過ぎない。
 
幕末に皆が世直しのつもりで薩長同盟倒幕側に協力していた大勢の武士たちは、新政府設立後のいい話ばかり聞いていた。
 
当初は手柄に応じて待遇が約束され、庶民化される時に優先的に良い公務待遇や、また安定した良い職の斡旋が協力態度に応じて優先的に受けられるという話だった。
 
ところが廃藩置県後にはフタを開けてみたら全く話が違っており、政府は集権化のためにあらゆる権利を没収するだけ没収し、元上級武士と中級武士ですら不満の怒りは噴出したが、それでも彼らはまだ安定した待遇が受けられただけでもかなり恵まれた方だったといえる。
 
一方で江戸時代の大多数であった、幕府時代の末期症状に永らく付き合わされていて常に貧窮して何の財力もなかった下級武士たちと農民たちには、地域へのろくな整備資金も用意されなればろくに職の斡旋もする窓口も作らず、それどころか彼らの意見回収をする最低限の窓口すら、新政府は作ろうともしなかった。
 
(廃仏毀釈で元々のその役目だった寺院の力は失っていた=民権力をつけさせない政府の思惑通り)
 
それで困ったから下の間で協力して自治体(庶民政治の基礎)を作ったに過ぎないものを、それを政府は国家転覆罪(国への忠誠心の反逆)だのと見なして憲兵が解体に回ったから、だから民権結社が作られ、国会が作られることになった。
 
博徒から見れば、政府権威のいいなりに図々しく待遇を受けている政府の手下は全て憎悪の対象だったのはいうまでもなく、何ら意見回収もせずただ上のいいなりに言いがかりばかりつけて規制に動くことしか能がない憲兵が向かってきたら、真っ先に地獄送りだと博徒も構えていたのである。
 
上のいいなりになっていれば待遇が保証された憲兵と、一方で失うものなど何もなく、憲兵が摘発に向かって来ようものならひとりでも多くの家畜以下の憲兵どもを道連れにしてやる前提の気迫をもつ博徒に、憲兵が命をかけてまで博徒を取り締まろうとする訳がないのである。
 
凶暴化した博徒も多く、彼らから見ればどうにかやっていっている大した財力などない庶民ですら憎悪の対象であったため、常に殺気立っていた者は何かの拍子に彼らを殺害してしまう者もいた。
 
庶民にとっても博徒は厄介な存在ではあったが、そういうことがたまにはあっても似たような境遇として内心の同情も多かった。
 
博徒たちは極度に貧窮すると「どうせ襲撃するなら、政府権威に頼って威張り散らしているだけの資本家や、その手先となって良い思いをしている取り巻きや、世のため人のために全くなっていない公務員を襲撃しよう」と考えた者は多かった。
 
強盗目的で他県に出かけ、評判の悪い資本家や公務員をわざわざ下調べして強盗に押し入る連中もいたほどで、それなら殺す時も「お前みたいな世のため人のためにならない、上のいいなりになって思考停止している家畜以下の無能はいくら殺しても良心など痛まない」と引導を渡して殺せるというものであり、あるべき当然の姿といえる。
 
資本家からの不条理な隷属支配を強いられていた庶民らも博徒にそこまでの嫌悪感もなく、人間性はそれなりにまともだった連中もいたからこそ、自由民権運動と貧困一揆に協力的な博徒もいたのである。
 
最初の10年の明治政府というのは、民政に関しては重農重工生産高資本家絶対服従主義をもちこんだ以外に、計画的な民政など何ひとつなく、民権運動でやっと地租の軽減が決まってから民間が皆フラフラになりながら、生活を支えながら開拓(基礎整備)も進められていったため、開府後10年を過ぎたあたりからようやく国力もマシなものになっていった。
 
それでようやく博徒も少しずつ職にありつけるようになっていき、民権運動の下火とともに以前のように大勢いた博徒も、次第に姿を消していった。
 
常に民政権を放棄する前提の、国際的非難を受けなければ渋々最低限の民政権しか取り入れることしかしない政府の権威教義の態度が、国会(民政立憲政体)を作ったのではない。
 
政府の権威教義とは、、国際的非難を受けない限りは最低限以上の民政権は主張させないための、重農重工生産高資本家絶対服従主義のいいなりにさせることが本性である。
 
政府の権威教義の本性とは、少数の上が良い思いをするために大勢の下に図々しく負担させるための古臭い時代遅れの社会構造の正しさをいつまでも維持しようとしているだけの、それを壊されないようにするために有能を踏み潰して無能を都合よく支配するための愚民政策が常に根幹である。
 
政府の権威教義のいいなりになって正しさを確定したがるだけの口ほどにもない小心者の無能の分際の態度で、その政府の権威教義に服従した態度で、それでどうやって口ほどにもない政府の権威教義の態度(そのまま反映されているに過ぎない世論の態度)を改めさせることができるのか、という話である。
 
筆者からいわせれば、世の無能どもはなぜそんな極めて単純かつ簡単なその循環原理も解らんのか、といいたい。
 
次は、戦国期に信長と激しく対立した本願寺がそもそもどういうものだったのかや、当時日本に渡来してきたキリスト教徒の影響はどのようなものであったかなどに、触れていきたい。