近世日本の身分制社会(017/168) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 有徳惣代気取りの勧善懲悪根絶主義者による国家経済大再生と、江戸の身分統制前史08/34 - 2019/11/06
 
戦国後期に重視されることになった茶道(さどう。ちゃどう とも呼ばれていた)についてまとめる。
 
茶道は、元々は仏教の作法の一貫として用いられたその影響力も強かったため、まずそこからまとめる。
 
12世紀、のちに仏教の有力な1つとして育っていった臨済宗(りんざいしゅう)の祖となった栄西(えいさい)が、より仏教の研究を深めるべく何度も中国に出向いた折に、当時中国で流行していた抹茶の文化をもちかえったのが始まりといわれる。
 
茶の存在自体は既に日本には知られてはいたものの、栄西が広めるまでは日本では浸透していなかった。
 
禅宗とは密教の教えにある内の、禅の思想が重視された宗派だが、神道にも近いものがあったともいえる禅の思想は、日本でも関心がもたれるようになっていた。
 
中国でより研究が進んでいた禅の思想を栄西がよく学んで持ち帰ったことで、日本でもより理解が深められるきっかけとになった。
 
栄西が禅の思想を学ぶ作法の一貫として、茶道を用いることになったその工夫が各宗派でも手本にされ、茶道に関心がもたれるようになっていった。
 
栄西は仏教の隆盛期だった12~13世紀の鎌倉仏教時代に、臨済宗の開祖となっただけでなく、茶道によって日本に禅の思想に関心を向けさせるきっかけを作った。
 
茶道は室町時代の繁栄期(足利義満)から衰退期(足利義政)の間にも重宝され、その後に戦乱が激化し、人々が信用についてどう向き合っていけばいいか見失いつつあった戦国時代にこそ、茶道の重要性も再確認されることになった。
 
茶道は禅の思想(仏教)とも重要な関係があるため、まとめておきたい。
 
禅の思想とは、仏教の基本経典である般若教(はんにゃきょう)にある六波羅蜜(ろくはらみつ・六つのパラミタ(徳の業)というインド・サンスクリット語の当て字)という6つの心得の1つのことで、この6つを大事にする上で、特に禅の部分を重視した教えのことである。
 
六波羅(ろくはら)の意味は、鎌倉幕府が設置した山城(やましろ・今の京都府)方面の軍事施設、またはその軍団を指す意味の方が強くなってしまったが、元々は京都東部にあった六波羅蜜寺の近くにその軍事施設が設置され、その地名からそう呼ばれるようになったことに由来する。(鎌倉幕府の解体で六波羅軍も消滅する)
 
6つの教えを、手ぬるさを排除した現代訳をする。
 
布施(ふせ)
 
法の施行者(僧や管理職者や部族家長や公務者)は、ただ押さえつけて言いなりに指図できるようにするためだけに法を用いるのではなく、法を工夫して人々に良い影響を施す義務があり、税や労働義務などでそれを支える側の人々も、法の施行側(方向性を主導する立場の人)も、互いに恩着せがましい態度で取り組んではならない。

持戒(じかい)
 
身業(しんごう・関心態度)、口業(くごう・伝達工夫)、意業(いごう・信用計画)の3つを、いい加減な努力不足(確認不足・工夫不足)からくる当人らの無関心・無神経・無計画が招いたに過ぎない、無能な怒りや泣き言を正当化するために駆使(悪用)し、内外に悪影響を与えてはならない。

忍辱(にんにく)
 
口ほどにもない無能どもの使えない低水準な悪評・威嚇・挑発にまんまと乗せられ、その低水準に合わせたやり返しや見返しをしてはならない。(やり返すのなら高水準の自身の法の態度で、良い影響を与える恫喝をし返す)

精進(しょうじん)
 
人に悪い影響を与えないよう(良い影響を与えられるよう)に気をつけていく当事者それぞれの精神的な態度(取捨関心力・債務範囲整理力)の努力というものには終点などなく、無計画でいい加減な終点を押し売りして悪影響を広めてはいけない。

禅定(ぜんじょう)
 
それぞれの当事者本人の人生観に一貫している具体的な関心が慎重に確認(尊重・整理)される訳でもない、ただ便乗してただ煽り合ってただ騒ぎ合うだけの、ただ劣情につけこんだだけの無能な正しさの押し付け合いに、イチイチ心を動かされてはいけない。

智慧(ちえ)
 
悪習悪法には当事者の法の態度をもって内外に良い影響を与えて、それでようやく知恵(般若の智慧=あるべき知恵者の姿)と呼べるのであり、ただ向き合った気になりたいだけのうわべだけの浅知恵の偽善を誇らしげに掲げたり押し付けるような、身の程知らず行為を好んではいけない。

禅の思想は、この6つを大事にしていく上での、禅定の部分が重視された教えである。
 
こんなものはやって当たり前、できて当たり前のことしか書いていないと筆者は思っているが、「世の中の厳しさ」とやらに自信満々で異様に偉そうな者ほど、これが体現できていて良い影響を与えている有能というのを、筆者は見たことがない。
 
禅宗禅寺という言葉は、臨済宗曹洞宗などを指す場合が多いが、古くから中国で研究されていた禅の思想が日本でも見習われ、派生していった宗派である。
 
ちなみに真言宗は密教の経典を重視した宗派、浄土宗(浄土真宗)時宗浄土教の経典と念仏の思想を重視とした宗派、天台宗法華宗法華経(ほっけきょう)の経典を重視した宗派で、慣れていないとその意味も少しややこしい。
 
天台宗は政府の後押しによる国家公認仏教(比叡山の延暦寺=僧侶の育成のための仏教の大学校)の性質が強いため、国家関係がそう強い訳ではないが法華経を重視していた宗派は、天台宗と法華宗とで言い分けられた。
 
それぞれの宗派は、各こだわりが違うだけで、仏教である以上はどの経典も、禅も念仏も大事にされ、簡単にいえば後は宗派ごとに合った優先順位や作法が、それぞれ違うというだけである。
 
キリスト教でも、フランシスコ会、ベネディクト会、ドミニコ会、イエズス会など流派が多くあり、それぞれカトリック(西方教会=ローマの教皇庁)の公的な聖書の教義から大きく外れている訳ではなく、後は優先順位にそれぞれ特色があったのとそこは同じようなものである。
 
法華経中心が正式な国教だという印象こそ強いが、天台宗は仏教全体の収集力や整理力が重視され、各宗派がそれぞれ最重視していた経典も、仏教である以上は当然差別する訳にはいかず、法華経以外の経典に強く興味をもつ学僧がいたならそれを支援する責任も求められていた。(顕蜜体制)
 
天台宗は、仏教の国立図書館のような性質もあり、経典が最も豊富に揃えられいたが、法華経以外の経典についてはそれを専門にしている宗派の方が当然その整理も進んでいて、法華経以外にも詳しい教育担当者が常にいるとも限らなかった。
 
経典だけいくら膨大に積まれていっても、時代に合った法としてそれが善用できるよう、皆が理解できて納得できるような宗派の方針を論文として作成し、法の手本として受け入れられるものを作っていくことが仏教の務めではあったが、もちろん簡単な話ではない。
 
中世までの天台宗は、乱れがちだった仏教を集約化して統制するためだといっても、初代の最澄(さいちょう)のような優れた僧侶が常に出現し、まともな牽引が常にできているとは限らなかった。
 
権威と直結しているような公的機関というのはいつの時代も、優秀な者が見出されないまま時代についていけなくなると、雑で荒いだけの使えない正しさの植え付けばかりが蔓延していい加減な損失補填が繰り返され、その使えない無能どもを支えるために大勢が余計な負担ばかりさせられるようになるのは、現代と同じである。
 
いつの時代も、雑で荒いだけのものを丸暗記してただ連呼することしか能がない、何の実力(品性)も身に付かない無関心・無神経・無計画な正しさに優秀さを求めようとすることは、権威に頼り切っているだけの口ほどにもない無能どもの定番の末期症状といえる。
 
何の手本にもならないただの権威の言いなり体制を押し付けるだけ押し付けてその後は放任し、全て世の中任せ・人任せにし合うだけの使いものにならない無能を量産するだけの、その矛盾に満ちた時代こそ、その国家体制に疑問をもつ学僧も、当然多くなった。
 
天台宗の中で最初は法華経の教えを学僧は学び、他の経典のことも学ぶ内に比較力もだんだん身についてくると、優れた学僧の中には法華経の教えよりも、他の経典の教えの方が自分に合っていることを知って、そちらの方に熱心になっていくことも普通にあることだった。
 
例えば密教のことも熱心に研究するようになった学僧が、そこまで特化して扱われていた訳ではなかった「天台宗の権威の中で扱われているに過ぎない密教」にだんだんもてあますようになる者も中にはおり、天台宗を去って真言宗の信徒になる、ということもよくあることだった。
 
もちろん天台宗としては、法華経にも密教にも詳しい学僧にそのまま居続けてもらって、次の教育支援者になってもらいたかった所だが、常に不足気味だった優れた学僧を1人でも多く輩出しなければならない義務から、そういう所はある程度は許容することも大事だった。
 
宗派ごとで論争されることも多かったものの、それは経典の良し悪しや門閥(宗派びいき)のことよりも、宗派の姿勢の組織力の部分でいい合うことが多かった。
 
特に鎌倉幕府によって、力をもちすぎていた寺院の特権と武力を大いに没収されるようになったその見返りに、武家政治(幕府権力者)が寺院への支援を保証してむしろ後押しされるようになった鎌倉仏教以降は、他宗間よりも同宗間で言い争うことの方が多くなり、性質もだいぶ違っていた。
 
他宗間の場合は、今までの法(社会観念)が時代とだんだん合わなくなってきて、これからの時代の国家的な法(社会性)のあり方について、宗派ごとで力を結集して意見を出し合うことで、国家政治の整理のために論争されることが多かった。
 
それに対し同宗間の論争の場合は、どの宗派も常に内部で荒れがちで乱れることも多く、それがきっかけのその整理のためのものが多かった。
 
時代が進むにつれて人口も少しずつ増えていき、今までなかった債務信用(農地圏と商業取引圏)も少しずつ広がり、それにともない各宗派の寺院も新設されていくと、経済社会観の歴史がまだまだ狭く、閉鎖地域的家父長主義が根強くなりがちだった中世時代までは、宗派内で地域ごとにだんだん意見がかみあわなくなっていき、流派がどんどん分派していった。
 
その宗派が地域で元は1つでまとまっていたものが、流派が分派していってそれぞれ違うことを言い始めるようになるのは、世の単様化と多様化が進めばそれ自体も自然のことといえる。
 
すると流派間で同宗の信徒のとり合い(布教合戦)が始まり、その姿は他宗間の論争よりもよほど浅ましく下品に憎悪で罵りあうものも多く、人々を大いに困惑させ、あきれさせることも多かった。
 
時代が進むにつれて、庶民でも少しずつ豊かさを体験するようになり、経済社会の法が今までの考え(社会性)とだんだん合わなくなってくると、特に力をつけた宗派ほどそれだけ揉めることが多く、これはどこも避けて通れない、乗り越えるべき内部整理の問題だったといえる。
 
室町幕府の限界も頂点に達し、応仁の乱をきっかけに戦乱も激化して、庶民らの苦しみが仏教に逆流し、庶民を代弁するために仏教の世界でも大いに荒れ狂う様子を見せ、一方で乱れきった世の異常事態に直面して、それでようやく深刻に受け止められるようになった。
 
そうした大混迷期である時こそ、あるべき法(国際性)のあり方を整理する責任が問われていた仏教の世界も、政争が激化するたびに同宗他宗に関係なく方針の違いの攻撃的な論争や措置が激化することも多くなった。(戦国仏教)
 
ただし一方で、どこかの宗派や流派が始めた何らかの試みが、その良さが広く認識されるようになると見習われる場合も多く、茶道の場合もそうだった。
 
栄西が抹茶の製法と飲み方を日本に持ち帰り、禅の思想による精神的な教養を身に付けるための作法の一環として茶道を取り入れ始めたことがきっかけで、日本に茶の文化が広まることになった。
 
現代では、例えばある営業社員が得意先商社に挨拶回りや用入りの確認に訪れた時に、お茶や冷水やコーヒーなどの飲み物が出されるということも普通に見られることだが、それは元々は「客人にはまずは茶で歓迎するという礼儀」という茶道の文化からきている名残である。
 
世の価値観が激変していき、法の整理も追いつかなくなり、有力者たちの内外で疑い合いと蹴落としあいも激化した末に迎えた16世紀の戦国後期までには、法の見直しが強く求められるようになったのと比例するように、武家の間でも茶道が再重視されるようになっていった。
 
方針がかみあわずに常に内部分裂しがちであった組織内の歩調を合わせたり、よその権力との外交問題に向き合わなければならない時こそ、そうした人間関係の向き合い方の改善を、神道による誓願(名目)にも通じる所があった茶道(禅の思想)が重視され、支えられることになった。
 
茶道は江戸時代以降でも用いられ続けたが、その前身の戦国後期ではその扱われ方も事情もだいぶ違い、日本の歴史上ではわずかな期間ではあったが、この茶道が当時見失いつつあった人々の精神性を、急激に修繕させるきっかけとなった。
 
険悪な相手であっても、茶道という共通の話題から対面のしやすさを作り、互いの言い分を冷静に話し合う相互理解や和解にもっていく手段に、茶道が効果的に使われたためである。
 
茶道への関心が、政治の関心の高さや、尊重力(確認力)がどれだけできる相手なのかという、相互の信用能力を計測するための指標になっていった。
 
茶道は、険悪な相手の前であったり逆境でも冷静さを取り戻させ、表向きの善悪の決定とはいったん距離を置いて、向き合うべきことに落ち着いて向き合わせるための手助けをした。
 
地域全体・組織全体の政治精神の水準を高め、各当事者が政治的に向き合うべきことへの確認(尊重)を推進するために、茶道文化は重宝されていった。
 
いつまでも敵味方にこだわって閉鎖的な威嚇ばかり繰り返し、険悪な相手であっても政治の工夫のための話し合いもろくに用意できないような、そういう品性の欠落しただらしない国際性(政治理念)の欠落した下品集団こそ、まっ先に潰れれば良いという風潮も強まっていった。
 
その指標に茶道が基準にされ、茶道を大事にできていない者は、冷静に確認(尊重)するべきことを確認(尊重)する政治的な信用のあり方に真剣に向き合うことができていないのと同じと見なされる風潮が、できていった。
 
茶道は元々は、仏教の禅の思想を学ぶための作法の一環として用いられたこともあり、座禅が良い例だが、ただ目立ったものを煽り合うだけの、雑で荒いだけのいい加減な正しさで優位性や上下関係を確定しようとする、外部の浅ましく騒がしい悪影響とはいったん距離を置いて、あるべき道を整理することが、まずは重視された作法である。
 
それは、当事者それぞれに合ったものをよく確認(尊重)し合っていくことが、当事者ごとに合った信用を確認(尊重)していくことなのであり、合わないものを押し付け合ったり煽り合うだけでは何の解決にもならない、そんなものは政治(人的基本)ではないことを、茶道の作法が教えることになった。
 
だから茶の席では、どっちが上か下かという権威から入るのではなく、茶道を通してまずは相互がどのような着眼点があるのかから探り合うことで、相互の理解の努力が重視され、茶の席で正しさだの上だの下だのの下品な態度ばかり出す無能はすぐに信用を失い、誰からも相手にされなくなった。
 
茶道は、上品な流儀作法の詳しさだけが評価された訳ではなく、茶道のことに大して詳しくなくても、普段から人や物事とのどのような向き合い方の態度が採れる者なのか、茶の席でそれが多く窺えることもできたため、その席での態度で好印象が受けられれば皆から信用され、悪い態度が見られなければ信用を失うこともなかった。
 
公的な政治性の高い大会としての茶会の場合は、その分だけ茶道の作法に詳しくなければならかったが、個人間の茶の席の場合は、知らないことを罵ったり皆と違う部分のアラ探しをして優位に立とうとするために茶道があるのではなく、そうなら知ってる人が助言し合い、置いて行きぼりにならないよう努めるのが、当時の茶道の基本である。
 
皆で精神の修練をしていくための手段だと茶道を認識できておらず、大物ぶって自分を優位に見せ権威を得たいためだけの、禅の思想に反したいい加減な態度しか見られないことが知られると、皆から信用を失う世界だった。
 
戦国後期の茶道の世界では、知らないことが恥なのではなく、知らないという足元を探り合ってそれを指摘できた者が勝ち誇るような、禅の思想を完全に踏み外しているその勘違いの下品な態度こそが恥だと見なされる世界だった。
 
そうではなく、知らないなら知っている人が助言し、参加者それぞれの関心度合いを尊重し合いながら、茶道に向き合う態度がいい加減なものにならないように皆が慎重に学び合っていき、皆で精神の修練をしていくための共同教室として扱うことができていなければ、大いに信用を失う世界だったのである。
 
茶道は、禅の思想が大事にされていたからこそ、ただ結果狩りだけして、全責任をただ答え元のせいにしようしているだけの劣悪な態度を見せる無能こそ、知人の紹介話にしても、皆に迷惑がかかると見なされてしまい、交流で置いていかれる世界だったのである。
 
精神的に良い影響を与え合い、一歩進んでいる人の良い所が見つけられたなら積極的に見習い合い、それに置いていかれないよう、皆でどういう所を尊重していけばいいのか、素朴さをあなどらずに精神的な磨きをかけていくことに、茶道は重視された。
 
流派のこだわりとしての評価の仕方に違いはあっても、茶道に良い態度で向き合っているかどうかがまずは重視され、ただ流儀の違いだけをもちだして結果狩りしかしない下品な闘争態度などは、もはや茶道を語る資格すらない所か、人間失格とすら見なされた。
 
相手が初心者でも一流でも関係なく、例え初心者のちょっとした変わった様子が見られただけでも、人がなかなか気付かない良い点に色々気付いてどんどん取り入れようとできる者こそ「なるほど、流石だ!」と皆からも尊重され、見習おうとする者も多かった。
 
茶道によって精神が磨かれ、物事の観察力や慎重さが養われていった者も増えたことで、今までは日常で気にも留めていなかったことにも積極的に気付くようになり、そのことがさらに茶道に活かされたり、人間関係や政治の改善などにもかなり活用されるようになった。
 
戦国後期には、茶道の精神世界が急激に磨かれていき、茶道の理解力がそのまま強力な政治外交力を発揮するようになっていったため、茶道で示される家臣たちの品格が、そのまま家格的な権威と融合し、茶道の特権が家格(品格)と地位を示すものとして戦国組織ごとで扱われるようになっていった。
 
茶道は、交友や修練のための個人的な茶事を行う分には何の問題もなかったが、政治の大きな影響を与えるような公的茶会は、その開催規模の権利や、またそれに参加できる権利や、その席の序列自体も当主による許可制と化していった。
 
茶道によって人々に品性(家格)を示そうとする風潮が強まったことから、茶道に使用される道具(茶碗や、湯を沸かす茶釜など)も、立派で贅沢で希少な高級品も次々と生み出されていき、皆が欲しがったために異様な高値の上流層向けの茶道具も増えていった。
 
茶道具の取引ひとつでも、茶道に詳しい高名な指導者が仲介して斡旋を受けた上で譲り渡されることも多くなり、贅沢な高級品を所有することが、そのまま茶道の世界での有力者扱いをされる風潮も強くなったことから、希少で高級な茶道具の所有が、そのまま政治の発言権に直結するようになった。
 
そのため公的茶会の特権と同じように、茶道具も茶道の精神性から高まっていった芸術性から次々に生み出されていく高級な贅沢品は、当主がその所有権に介入するようになり、当主が認めた上級武士から順に、高級な茶道具を所有する権利を公認することで、上級武士の家格が定められるようになっていった。
 
信長が、外交や軍事で諸氏を威嚇してでも、希少で高級な茶道具を各地から熱心に回収を努めた理由も、そこにあった。
 
信長の茶道具の回収事業については説明されない場合が多いため、誰も逆らえなくなるほどの実力をつけた信長が「希少で高級な日本中の茶道具を独り占め」したかのように誤解する人もいるかも知れないが、信長は単に茶道具を欲しがって収集していた訳ではない。
 
茶道が盛んだった堺(現大阪府堺市・商業大都市だった)の有力者や、各地の戦国組織から、信長への友好の証明として茶道具が進呈された例が多く、その時に「信長は喜んだ」という当時の記録がよく見られるが、これも茶道具が大好きだったから喜んだ訳ではなく、特権を回収(集権化)できたことと、相手の態度の良さに喜んだという意味である。
 
高級な茶道具を進呈をした際に、信長が「喜んだ」と聞けば、進呈した側は「好印象が得られて良かった」とひとまずは安心した。
 
誰も信長に逆らえないほどの力差が出てくると、織田家中だけではなく、各地の支配権外の有力者たちに対しても、茶道に関する特権に過分だと指摘して介入し、茶道に規制をかけることで政治力に規制をかける動きも活発になった。
 
信長が茶道に関する法の整備まで乗り出すようになったため、それに従わずに茶会の特権を握り続けたり、高級な茶道具を手放そうとしない者には、それが軍事制裁対象に発展する場合すらあった。
 
信長の台頭によって日本の戦乱も落ち着き始め、人々が新時代の政治のあり方にようやく向き合うようになっていった頃には、それに比例するように茶道の文化も高度に成長していったため、茶道は政治に絶大な影響力を与えるまでになっていた。
 
茶道はまずは寺院から広まっていき、茶道に詳しい僧が有力武士や有力商人らに教えていくことから少しずつ広まっていったが、戦国後期にもなると家臣たちの間では交流目的として盛んに用いられていった。
 
戦国末期には茶道で高名となった人物も多く出現し、千利休(せんのりきゅう・千宗易そうえき)がまずは有名だが、織田信長の弟である織田長益(ながます・織田有楽斎うらくさい)も、利休から高弟として認められて茶道で高名となったひとりである。
 
茶道も「戦国茶道」といえるほど競争的な追求で極められていき、禅の思想がよく活用された千利休の素朴さと理由の追求力の高さは、当時の日本の茶道を代表するような手本になり、茶道のあり方のその形成に、皆が敬意を払うことになった。
 
「芸術」という存在は、高く評価されるようになったものに対してよく「表現力の高さ」や「その人の熱意が形となったもの」や「優れた感性」などと色々な言い方がされるが、それは禅の思想の観点でいうと「理由の多さ、理由の深さ、理由の丁寧さ、理由の根強さ」などのことだといえる。
 
禅の思想は芸術面でも影響力を与え、それをよく体現していた小堀遠州(こぼりえんしゅう・小堀政一まさかず)が有名である。
 
もう少し禅についての話をすると、まず芸術でも政治でも遊びの勝負事でも、禅の思想の観点になると「そうしようと思ったこだわりの納得の理由の多さや深さや強さ」がいかに構築されていくかが、後々で差が大きく現れてくる重要な部分といえる。
 
これまで大して関心が向けられていなかった、小さく素朴なものや、人の怒り悲しみや自然災害などの様子だったりを、いつもよりも関心深くなって見聞きする機会を増やすことで、今まで雑に荒くしか解釈されていなかった中から大事なものも発見されていく、その態度の取り組みの多さが差となって現れてくる話は、何にでもいえることである。
 
普段から皆がなかなかそこまで気を回すことができていないことに着目してみると、今まで小さく些細なことだと済ましていた所から大事な解決のきっかけがあることに気付いたり、逆に皆が大げさに拡大解釈(悪用)していただけで、そこから学ぶべきことなど何もないことに気付くことも多くなる。
 
そういう普段の姿勢から慎重な関心力(確認力・尊重力)を身に付けて、自分でそれを整理できるようになっていくから、その当事者にとっての良い影響のきっかけとなるものを見かけた時や好機が訪れた時に、大きく有効活用できるようになっていくのである。
 
他の人から見ればただの遊びでも、独自で何らかの目的をもって慎重に観察を繰り返している内に、その追求心が本人にとって何らかの良い影響の目的と結び付けば、最初は遊びだったはずのことでも芸術や商売や政治や学術分野などで大いに発揮されることもある。
 
普段からの、素朴で慎重で地道な観察力(確認力・尊重力)が養われる準備力(信用計画)というものが大してないまま、流行にただ便乗して全てその場の思いつきだけで突き進もうとしても、結局は「さっさと終わらせたい」だけの態度にしかならない。
 
そんな態度だけで意欲が長続きし、参入障壁(競争相手からそう簡単には崩されないほどの価値)を確立できるような競争力が本人の実力として身に付くのなら誰も苦労はない。
 
本人にとっての意欲的な理由の強さや多さがあって「さっさと片付けてしっかり決着させたい」になっているなら良いが、そうでない無意欲的な惰性から強引に根性論を引き出しているだけの「さっさと片付けたい」でしかなければ、内外に良い影響など与えられるはずもない。
 
遊びだろうが芸術だろうが商売だろうが政治だろうが、当事者本人にとっての意欲的なこだわりの追求からくる理論的な理由の多さや強さなどがどれだけあるのかが、当事者自身に合った良い影響となる材料の集積も地道に増えていき、次に繋がっていくのである。
 
「自分はそういうものをもっている」と思って実行してみると、それがズレていたり不足していたり、全然合っていないことが露呈することは、よくある話である。
 
口ほどにもない無能の世界ではそれが格好悪く恥ずかしいことと扱うが、禅の思想の世界ではそれを知り地道に対策していく姿勢を応援し合うことが良いことであり、互いにその足元を挑発し合うだけの下品で浅ましい口ほどにもない態度こそが、身の程知らずで恥知らずなのである。
 
その場合は無理に進めようとせずにそこを整理し直すことも大事で、損益分岐の理論のように「やらなければならない=得したい=貸方」ばかりでなく「いったんやめておく=損しないようにする=借方」ことも大事である。
 
安直な「結果を出している人を見習う」参考の仕方はするべきではなく、それによって当事者に全く合っていないことに足を踏み入れてしまい、踏み外すようなことばかりさせないよう、そこまで配慮されていないようないい加減な押し売りのし合いの中途半端な既成概念を見抜く力を養うべきである。
 
参考対象は、良い影響(悪い影響にはならない)という理論的な理由が全く見えてこない、時代遅れの使えない国家権力の末期症状と大差ない便乗者どもを参考対象にするよりも、そこが解る小堀遠州のような参考対象を間接的に時にはしてみた方が、遥かに参考になる場合もある。
 
小堀氏も、戦国後期には織田豊臣時代を生き抜いた、近江(滋賀県)の小大名の家系の1人だが、若年期には禅宗で熱心に修業していた経緯もあって、まず茶道に精通し、さらに文化的な作庭や書院などの建造物の設計にも禅の思想がよく活用されたことで、幕府からも高く評価された人物である。
 
ここで小堀遠州のことで紹介しておきたいのは、造園・作庭についてである。
 
遠州は、作庭に禅宗の教えを理論的に反映させ、人的精神に良い影響が与えられるような作庭を心がけたことが、何よりも著名だったといえる。
 
遠州の作庭はそれが全てではないが、自然の摂理から物事を学べるように、山や川を思わせる、自然を集約した箱庭(自然のミニチュア)のような作庭がされたものが多い。
 
高低さのある庭の場合は、それを利用して雨が降った日には滝のように水が流れるように石を設置し、そこから落ちてくる水が跳ねやすいように下に石を設置しておき、より滝らしく見えるようにしたり、滝の形を石で積み上げていく上で、その節々にわざとでっぱりを増やしたりなど工夫した。
 
それらは全て、禅宗から学んだ明確な理由がそこにはあり「あの滝の形は、いくら強い雨に打たれても上に昇ろうとしている龍の様子に例えたもので、あのでっぱりがその頭の部分になる。あの下の石が亀を例えている」「あの池の部分は一蓮托生の教えを例えている」といったように、しっかりとした理由がひとつひとつ反映されているのである。
 
龍や亀やといった、架空の生き物や実際の生き物が、仏教でもよく物事の例えで用いられ、また天候の緩やかさや激しさも物事の例えとしてよく用いられていたため、遠州はそれを作庭に反映させたものが多いのが、特徴といえる。
 
「あの滝の部分は水が跳ねるように下に石が置かれているが、水が跳ねた方が良いといったり、跳ねない方が良いといったり毎回コロコロ意志を変え、また客人の好みに合わせてあの大きな石を毎回どかしたり設置し直したりするような負担を増やしてばかりの、そうした一貫の無さから来る慌しさは改めるべきだろう」
 
「風が強いと飛んでくる落ち葉もよく川の部分に乗って流れていく風景も見られる。そのうちに池に葉が溜まっていくから定期的に掃除も必要になってくるが、葉が入ってくるたびにイチイチ怒りを向けて騒ごうとするような、自然な動きに強引に逆らってばかりの繁雑な細かい規則ばかり作って監視するだけでは、皆も疲れてきて長続きしない。ある程度は葉を泳がせて、途中で二つに分かれるあの川のように、どちらにどのように葉が流れていくのか、自然な動きを冷静に観察してみて、どうなっていくのか見ながら整理していく姿勢も大事だ」
 
といったように、禅の教えにも活用できるような造園・作庭の仕方に、当時の人々を大いに感心させた。
 
そうした方法のものは「造形芸術」といい、中世以降のヨーロッパのキリスト教徒の間でも、図像や文芸に同じような手法で積極的に用いられているものもある。
 
小堀遠州の時代は、徳川が豊臣を滅ばしていよいよ戦国の風潮を弱め、江戸幕府の権威の明確化が進められていた、次の時代に移行しつつあった時代だったこともあり、それに向けた政治文化に影響を与えることになった、優れた人物である。
 
そのように禅の思想は大事にされていったが、ただし茶道については先述したようにあまりにも「戦国茶道」の色が強くなり過ぎていったことから、信長が茶道の権利を規制し始めたように、豊臣政権、徳川政権の時代でもどんどん規制されていくことになった。
 
「戦国茶道」で高名になり過ぎてしまった千利休古田織部は、法が整備されて競争的な戦国風潮もだんだん必要ないと判断されていく時代の変化にともない、厄介視されるようになり、色々ないいがかりをつけられて粛清されてしまう。
 
ただし片桐石州(かたぎりせきしゅう)が、千利休の作法の教えを深く学んでいたために、徳川幕府公認の茶道として重宝され、以後は幕臣や藩士らが「戦国茶道」で勝手に家格を付けることがないよう監視されながら、千利休の弟子たちも、その監視下の中で基本的な教えは後世に伝えられていくことになった。
 
片桐石州は、関ヶ原の後の徳川と豊臣の調停役の重責を務めることになった片桐且元(かたぎりかつもと)の甥にあたる人物だが、この片桐且元は、豊臣のかつての筆頭の政務官だった増田長盛の後釜として重責ばかり押しつけられるハメになり、散々な苦労人となったことで著名な人物である。
 
ちなみに遠州石州という名の意味は、遠江(とおとうみ・静岡県西部)や石見(いわみ・島根県西部)の地方を州読みした呼称である。
 
尾張(愛知県)なら尾州、上野(こうずけ・群馬県)なら上州といったように、州読みする習慣もあり、上州は江戸時代には、江戸で評判の名産品が多く生産されたことから、それにあやかって現代でも店舗名などでたまに使われている。
 
小堀遠江守(とおとうみのかみ)、片桐石見守(いわみのかみ)だったものを、州読みして小堀遠州、片桐石州と呼ばれていた。
 
守(かみ)の部分は、守護(その地方の知事・長官)の意味である。
 
これは元々は、武家社会になる前の朝廷荘園政治が中心だった頃に、皇室の側近ら廷臣(朝廷の貴族)たちが、各地方の支配特権の手配に使われていた職位(官位・役職・権威)だった。
 
武家社会がその支配特権を奪うようになり、室町時代には幕府の推薦で朝廷から正式に叙任されたものもはそれなりに効力もあったが、段々とその意味も薄くなった。
 
剣豪としても有名だった戦国武将の上泉伊勢守や、柳生但馬(たじま・兵庫県北部)といったように、よく守護職の名乗りが見られるのは、それらは現代でいう社長や部長や課長の呼称のように、組織的・社会的な偉さや、家系の系譜を示すものとして自称的に使われるようになっていった。
 
律令制時代の朝廷の官位だった刑部(ぎょうぶ・刑務長官)や民部(みんぶ・税制長官)や大膳(だいぜん・饗応長官)や采女(うねめ・女官統制長官)なども、それと同じように使われていった。
 
話は少しそれたが、戦国後期には茶道だけでなく、品性を身に付けるために有職故実(ゆうそくこじつ・上流貴族の作法)も改めて尊重されるようになり、歌道や絵画などの文化面も重視されるようになっていた。
 
信長が京に乗り込んでその都市経済を再生させるまでの朝廷の公家たちは、権力闘争が激化するたびに残された荘園特権も次々と横領されていったために、いよいよやっていけなくなる者も増え、実力をつけた地方の有力者を頼って移住する者が増えた。
 
元々の上級貴族層である公家たちは、それぞれ日本での貴族的な上品な作法や伝統文化を代々受け継いでいる者たちであるため、地方の実力者らも彼らを歓迎して迎えて生活を保証し、公家たちも地方の武士に積極的に作法や伝統文化を指導し、武士たちも関心をもって習うようになった。
 
そういう世の流れも手伝って、茶道のような精神面が重視されるようになっていき、今までは一部の上級武士しかたしなみがなかった、風流な歌道や舞踊なども注目されるようになっていった。
 
戦国後期は、政治や軍事や外交の見直しが強くされていった一方で、責任ある者こそが文化的(国際的)な精神を身に付けなければならないという認識も、強くされるようになり、それが育っていった時代でもあった。