近世日本の身分制社会(002/書きかけ140) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 江戸時代の前半の武家社会 - 2019/04/23

江戸時代は、前半と後半とでは差異が激しく、全く別世界といってもいいほどである。
 
当著では江戸時代の経済傾向を基点に前期と後期とで区別し、さらに武家側と庶民側とで区別しながら、当時の社会風潮について触れていく方法を採っている。
 
江戸幕府とは、その前時代の織豊政権時代(織田・豊臣の時代)までに見直された法が大いに活かされ、そこから不足点が整備された政権である。
 
関ヶ原の戦いで、徳川氏は新政権の名目を朝廷に提出できており、戦後に諸侯を抑えこんで基盤が固められ、大坂の戦いによって決定的な権力を確立した。
 
この政権は支配者の頂点を徳川氏とし、武家と公家に法度(はっと)を適用してあらゆる身分制度を統制し、再び大戦乱に発展しないよう、まずは上層からの統制に重点が置かれた政権だった。
 
有力者同士がその場の利害だけで結託し「他家を巻き込んで敵味方に分かれて特権の座を巡って争乱に発展」という戦国のような争乱が起きないための、様々な工夫がされた。
 
まずは諸大名(諸藩)に対し、事業から縁組に関することまで多くの事柄は出願制にされ、幕府に権利を与えられていないことを届け出も相談もなく主張したり実行することは反逆と見なされ討伐の対象となる厳しい姿勢が採られた。
 
それぞれの地位の保証をする代わりに、勝手に人の力を奪って力をつける者が出てこないよう、何かあった場合の身分の格上げや懲罰の基準は、最終的には幕府が裁定する社会に改められていった。
 
当時の改易制、参勤交代制、目付制、国替制などは、まずはその統制目的が第一で、あらゆる家系の地位の格式が、細かく整理されていった。
 
藩主(地方領主・地方大名)も親藩(しんぱん)、譜代(ふだい)、外様(とざま)とまずは大別され、その家系の由来や領地の大きさごとで格式が細かく整理され、それぞれ幕府に対する最低限の義務も規定され、もし格上げの評価を望むのなら、幕府に相応の貢献を努力する義務を求められた。
 
おおよその判別としては、親藩は徳川の親類の大名、譜代は関ヶ原の戦い以前からの重臣の家系など徳川と古くから縁の強かった大名、外様は関ヶ原の戦い以降の縁の大名で、領地の大きさに応じて認められる格式の高さに違いもあった。
 
この時代はもちろん上少下多の支配身分構造は顕著で、200以上あった藩の半数は5万石も満たない1~2万石程度の小藩が乱立し、それらの藩から見れば5万石もある藩は上級藩に見えたが、その彼らにとっても10万石、20万石と有しているような藩は別格に見えた。
 
実際に10万石以上あるような藩は、かつての名族の生き残りの家系も多く、外様でも譜代のような特権をいくらか得ている格式の藩主もいた。
 
しかし遠山氏のように実高2万石前後の小藩でも、古くは力をもっていた名族加藤一族の生き残りで、戦国後期には織田氏や徳川氏との縁のゆかりをもち、江戸時代には奉行(判事)としての能力の高さが高く評価され幕政に参与している一族を輩出し、一目置かれていた小藩も中にはあった。
 
目安として、1万石以上の領地をもつ者は外様大名(藩)の扱いとされたが、格式の高さ次第では1万石に満たなくても大名同等の扱いをされていた家系もある。
 
かつて室町時代に隆盛を誇った名族らは、戦国期には多くが衰退して城と領地を失って没落していったが、どうにか生き残り、かろうじて家名を維持できていた家系もそれになりにいた。
 
その中で徳川家と友好的だった家系は「高家」として特別に保護され、少なければ200石ほど、多ければ3000石ほどで遇され、中には小さな藩のような格式を与えられていた家系もある。
 
旗本(幕府直属の家臣)や藩士(地方大名の家臣)は、俸禄(手当て)が200石に満たない武士が全体の半数を占めていた。
 
何千石も有していた幕閣(幕府の閣僚・行政の最高顧問官)から見れば、200石取りはかなりの格下だが、50石以内が大勢だった下級武士らから見れば、200石もあれば上級武士といえる部類だった。
 
100石取りほどの場合は、邸宅に少数の従者(雇い人)がおり、側室の1つや2つの世帯くらいはなんとか維持できるほどだったため、その倍の200石はかなり裕福な方だったといえる地位である。
 
剣術で名を馳せた宮本武蔵は、そのあまりの気位の高さから仕官が折り合わず、客分として永らく各地を渡り歩いたのち、武蔵の養子の伊織が小笠原家に仕えて行政で抜擢されて活躍した縁から、やがて小笠原家と縁の強かった細川家からの誘いを受け、正式に300石で仕えることになった。
 
太平の世になり仕官は難しかった当時、高名だったとはいえ細川家の古参でもない宮本武蔵が300石で迎えられたことは、当時としては破格の待遇だった。
 
この300石は現代の年俸1000万円に相当するという簡単な目安として広まっていて、当時の免税特権や住居事情や物価などを考えると適正かどうか不明ではあるものの、100石の4公6民か5公5民あたりでの年収およそ70両=350万円(1両=1000文=現代の5万円。1文=50円)という大雑把な概算説が出ている。
 
旗本も藩士もまずは俸禄の高さがそのまま家格の高さに直結したが、同じ俸禄でも、江戸の旗本、親藩の藩士、外様の藩士とそれぞれ格式(優先権)の違いがあった。
 
また藩士であっても徳川一族と何らかの縁で認知されている者は「御目見え(おめみえ)」の資格身分として格式も上がり、それによる藩政のちょっとした担当権や優先権を有する者もいた。
 
この石高による身分統制は、織豊時代から各地方・各郡・各郷村の産業が検地(調査)され、徴税と施政のあり方が整備されていったことで可能にしていた。
 
戦国期には時代によって変わってくる価値の整備も対策も乏しかったからこそ、価値が変化するたびに勝手に疑い合う闘争も繰り返されてきたが、江戸時代ではまず武士の価値観が細かく規定されていき、幕府や藩主に許可もなく突然に価値を主張して私闘を始めることは反逆と見なされ、厳しい取り調べが行われた。
 
この私闘禁止は公家に対しても公家諸法度で適用され、公家と強い結び付きをもっていた各寺社を巻き込む派閥闘争が拡大しないよう、朝廷の廷臣たち(公家)に対しても、徳川氏の京都奉行の権威によって厳しく監視されたが、その力関係は朝廷にとって屈辱といえるほどのものだった。
 
島原の乱の大騒動を境に大きな戦争はすっかり無くなり「合戦で手柄を立てて出世する」という武士の話も、すっかり過去の物語になっていった。
 
そのため武士の間では、もともと関心ごとであった縁組について一層、気を使われるようになった。
 
どの家系も家格の大小を意識しながら、少しでも有利になりそうな縁談を互いに望み合った。
 
縁談は相手の家格が低かったとしても、例えば学問などに熱心で評判の良い家系だったり、何らかの見所があれば、特に二男や三男の話であれば、釣りあわない家系とも結ばれることもあった。
 
上級武士も下級武士も、子に恵まれてもその半数は元服を迎えずに病死してしまい、もし20や30まで生きられても、いつ病死や事故死をしてもおかしくない時代だった。
 
本家を継承する予定だった長男が若くして亡くなり、二男や三男が継承する場合も多かったが、子がそろって親より先に早世してしまうことも珍しくなく、保険的に迎えておいた婿養子が結果的に継承することになったり、あわてて養子を迎えて継承させることも珍しくなかった。
 
そういうこともよく起きたため、藩主から下級武士まで、その家の後継を巡って外戚(がいせき・近親者や遠戚者)が口出しして揉めることも多く、中には暗殺未遂が発覚することもあり、そのような騒動が幕府に知れると、不祥事として扱われて厳罰の態度で処された。
 
戦乱の無い武士の世界は建前の作法ばかりが重視され、大役の公務をもつ者などは上級武士だけで、大抵は見張り番程度の体裁的で限定的な公務が多かったため出世の機会も少なく、安泰の裏の飼い殺し的な武家社会に退屈を覚え、揉め事に刺激を求めて騒ぎたがる者も少なくなかった。
 
中には学芸研究に熱心な武士もいて、新たな道を切り開いて人々に貢献した者や、また小身の家系でありながら権力者から才覚が認められ、次第に藩政や幕政に深く関与した者も時折出現した。
 
しかし全ての武士がそのように自発的に熱心な訳ではなく、不条理も多かった当時の武家社会に、内心はウンザリしていた者も多かったようだ。
 
それは武士個人の問題だけでなく、各藩ごとに抱えていた問題の、藩士への不条理な負担が原因だったことも多かった。
 
幕府は主従の教義を徹底させるため各藩に参勤交代(軍役)を義務付けし、その費用が藩にかなりの負担となっていたが、藩主が江戸に滞在するための江戸藩邸の維持費の負担も大きかった。
 
そこからさらに、幕府は色々理由をつけて諸大名を頻繁に国替(くにがえ。引越し)させたため、その引越費用も大変なものになり、それらが藩に甚大な負担となっていた。
 
そうして藩に余裕を与えず、目付家老という幕府の監視役が送り込まれて常に監視され、身分統制を徹底させることで諸大名の反逆が未然に防がれたが、そうした「おかみの都合」に付き合わされる藩士も領民も商人も大変だった。
 
経済成長が顕著だった江戸時代の中期までは、武士も庶民も豊かさを謳歌できた明るい部分もあったが、不景気を迎えた時の反動もそれだけ大きく「年々の物価の高騰と米価の下落」と「飢饉の時の急激な米価の高騰」にどの藩も悩まされ財政が逼迫しがちだった。
 
その中で、幕府にゴマスリするための藩主の過剰な政治活動や、また家格を誇るための派手な行幸を繰り返して著しく散財させた藩主も多く、それらは確かに藩の優先権や加増のきっかけにはなったが、藩士や領民への深刻な負担になることが多かった。
 
それでも菰野(こもの)藩の土方(ひじかた)氏のように(現在の三重県菰野町)、どこかと家格を競うようなこともせずに、国替も減封も特になく、大きな一揆や不祥事を起こさずに明治時代を迎えたような、他と比較すればそれなりに平和だった小藩もあるが、大抵はそうではなかった。
 
江戸時代も後半になると不健全な対策ばかり施され、藩士も領民も生活が貧窮して下級藩士の召し放ち(解雇)も頻繁に行われたため、手柄を立てる機会もそうある訳でもなかったその不安定な地位に、鬱屈な日々を強いられていた下級藩士も多かった。
 
藩士は不条理な人事差別を受けがちで、政策の方針を表向きの理由に、遠まわしの蹴落とし合いも頻繁に起き、そこから対立が激化して大騒動に発展することも珍しくなかった。
 
藩士が人事差別を受ける理由は色々あった。
 
例えば最上氏の山形藩の場合、最上氏はもとは奥州支配の代表・斯波一族の家系だという名族意識が強く、同じく奥州の覇者の門閥を自負していた伊達氏とは常に家格や支配力の規模を競い続けた背景から、出羽(山形、秋田)の再支配に躍起になって急成長したという事情をもつ、戦国大名の中では大手の家系だった。
 
出羽も戦国期には最上氏と争和を繰り返した家系がかつては乱立していて、全国的にもかなり特殊だった由利郡(現・由利本庄市、にかほ市)でも最上氏に反抗的だった有力者が多かった。
 
やがて天下の大勢が決した公儀権力(徳川氏)の裁定によって、出羽の大部分(北部と中部)が最上氏の支配地扱いにされてしまったことは、最上氏と険悪な関係が続いていた家系には死活問題だった。
 
これは最上氏からすれば「由利郡もかつてはわが最上(斯波一族)の支配下だった地域のはずで、今まで従わず逆らっていたのがおかしい」という態度だったが、和解らしいこともなく公儀権力によって険悪なまま強制的にその家臣にさせられてしまった家系の印象が良くなる訳がなく、その後の藩政で報復人事差別を受けることは目に見えていた。
 
藩士は古参の家系から順番に優遇されるのはどこも当然で、それ自体は仕方がなかったにしても、和解らしいこともないままかつての政敵が公儀権力によって藩の家臣に強制的に組み込まれてしまうこともあったのは、家臣にされられた側にとっては屈辱的で絶望的な立場でしかなかった。
 
この時に特に由利郡の有力者は、徳川氏の直臣(旗本)になることを請願した者が多く、郡の最有力者層の一部は許可されたが、大半は許可されなかった。
 
このように藩の設立当初から不利な立場だった藩士がいたのは最上氏に限ったことではないが、最上氏ではしばらくして後継者争いが起きると、彼らはここぞとばかりに大いに騒ぎ立てた。
 
「人事差別を恐れる日々の、その地位に誇りがもてない将来性など知れている彼ら」は事態を収拾することに一切協力せず、強制的に家臣にさせられて報復人事の対象にされてしまった仕返しに、それこそ「なんなら最上家など、改易されればいい」という根性で騒動を複雑化させた。
 
事態を収拾できなかった最上氏に当初は徳川氏(幕府)も援護したが、騒動は一向に治まる気配を見せず、まとまりのない最上氏は結局改易(領地没収)になってしまった。
 
このように、不条理に不健全に屈服させられていた藩士はどこにでもおり、どこの藩主もそれをまとめるのは簡単ではなかった。
 
江戸時代にはかつての戦国期の因縁も、親類を討った憎い家系だったとしても、過去の話として相手の立場を尊重するべきと考える者が増えたが、お互いに家系の由来の因縁に根にもち合っていがみ合い続ける者も多かった。
 
藩の成立時には同胞意識の強い集まりだった藩だったとしても、国替による合併が繰り返されたことで同胞関係が乱れることも多かった。
 
どの藩も財政に余裕がなく、士分の枠に限りがあったため再仕官は難しかった中、不祥事を起こして改易処分を受けた藩は、幕府は最初はその藩士も遠慮なく一斉に召し放ちをし続けたため、次第にそれが社会問題化するようになった。
 
あちこちで改易される藩が増え、そのたびに「頼る縁もなく、かといって帰農を潔しとせず行き場を失った浪人」が急増するようになると、彼らは幕府に対して「浪人を救済しない無責任な政府」だと逆恨みして結託し、身分詐称事件を起こしたり、政府転覆事件まで起こすようになった。
 
そのため幕府は次第に、改易された旧藩士らの一定数は新たな藩主が受け持つことが義務付けられる制度に改めらることになったが、これがまた藩の人間関係を険悪にさせた。
 
例えば15万石の大名が改易された場合、その領地は天領(幕府の直轄地)にされることもあったが、藩主や幕臣への普段の忠勤に報いるために順番にあてがうことが多かった。
 
10万石ほどの藩にその15万石に引越しさせ、空いた10万石は6万石と4万石に分離し、それを3万石ほどの藩主と2万石ほどの藩主にそこへ引越し(加増転封)させ、そうしてまた空洞地ができた所へ、何千石と有している幕臣に当てて大名に昇進させる、といった順繰りの国替が頻繁に行われた。
 
転封の国替(引越し)は、厳罰の減封は別とし基本は加増の栄転だったが、大きな増収になれば良かったがそうでない場合も多く、表高(おもてだか)が実高(じつだか)に近いほど、藩財政の支障となる場合が多かった。
 
それまで大事に育ててきた愛着の産業を手放し「勝手の違う新領に慣れるまでの労力」「引越しの費用、旧藩士を引き取る義務」「表高が増えて家格が上がったことの幕府への奉仕義務の増大」などを考慮すると、大幅な増収にならなかった場合の国替は本当に割に合わなかった。
 
しかし表高が上がるだけだったとしてもその藩の格式がかなり高まり、何らかの優先権が得られる利点が強かったため、そこばかり喜ぶ能天気な藩主も多かったが、その負担に付き合わされる藩士や領民や商人らも大変だった。
 
10万石から15万石の栄転の場合、藩士たちは「それなら我々の俸禄(待遇)は1.5倍になってもいい」と期待はするものの、旧藩士を引き取る義務があった上に財政が逼迫する問題から、上級の藩士は加増されても、下級藩士はそう簡単に加増を受けることもなく、平等に1.5倍になる訳でもなかった。
 
改易で拾われる旧藩士らは、新参扱いの厄介者に見なされる立場の悪さから、その後の人事差別を恐れ、領地の事情に詳しい先輩という自負を強めて「我々が熟知している従来の慣習通りで、我々が農民を説得しないと、一揆を起こしかねない」などといって、遠まわしに存在価値を主張した。
 
実際に領民は、支配の慣習(税率や労役義務といった政策の基準)が前藩主と新藩主で違うと、些細なことから何かと前藩主と比較し不満をいう傾向が強かった。
 
藩主は国替によって逼迫する財政を補填しようと、新地の着任早々に増税しがちであったため、領民も「前藩主の方が良かった」という名目を強調しながら反発することも多く、旧藩士らがその弱みにつけこんで元々藩内で険悪だった足場の悪い藩士らと結託したりして、派閥対立が複雑化していくことも多かった。
 
こうした合併対立がない藩だったとしても、例えば奥平家のような譜代藩は、藩主の格式が高かったからこそ門閥が意識されすぎて、藩主の一族同士がそれぞれの家系の家格を競い合って険悪化してしまい、騒動に発展してしまう場合もあった。
 
参勤交代の義務によって、藩主は江戸藩邸に滞在させられていたことが多かったため、それを良いことに城代や家老といった藩の有力者(代理人)たちが、江戸藩邸の藩主に向けて「自身の派閥が忠臣組で、他の派閥が横領ばかりしている逆臣組」であるかのような印象付けの報告合戦も頻繁に行われた。
 
江戸藩邸にいる藩主は、藩に居ない期間が続ければその実感も薄くなり、真偽を確かめるために監査役を派遣しても、その監査役も派閥に脅されたり買収される場合も多く、隠蔽工作で常にねじ曲げられながら藩主も裁く相手を間違えたりして、不正が明るみになり収拾がつかないほどの騒動に発展し、改易になることも多かった。
 
そうして改易されるごとに他藩による旧藩士の収容が繰り返され、国替が多い藩ほどその栄転の裏の財政の逼迫に苦しみつつ、藩士も最古参組、準古参組、何々藩時代組といったように門閥を複雑化させていった。
 
親藩で特に別格であった御三家(紀伊徳川・尾張徳川・水戸徳川)の場合は、国替がないだけでも外様藩よりいくらかは安静だったようである。
 
しかし、本家の後継問題に支障が出てきた場合には、御三家の中から将軍の後継者が輩出されることもあったほどのその格式の高さは、「全て江戸(本家)の言いなりになる気はない」という態度を時折出し、本家との間も御三家との間も家格を誇り合って険悪な関係になることも多かった。
 
またそれぞれ重要都市を抱えていたことで、天災や不景気で経済不信に陥った時の財政難の対処の苦労もそれだけ大きく、また格式の高い家臣が多かった背景から、その門閥の競い合いで藩内が険悪になることもよくあった。
 
一方の庶民社会は、江戸時代の前半は、苦しいことも多かったが将来性が見える明るい世界だった。