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- 江戸時代の前半の庶民社会 - 2019/04/23

庶民の世界は、まずは戦乱がなくなったことで安定した耕作や開拓が行えるようになり、天候不良や水不足の問題は相変わらずも、それでも戦国時代と比べると食料事情は飛躍的に安定するようになった。
 
参勤交代(大名行列)によって各藩が江戸と藩を往来する機会が頻繁になると、街道で結ばれていた道の駅の宿場や茶店(飲食店)が拡張されて小都市化、小商業地化していった。
 
軍役の一環として、一度に大勢の武士が街道を往来する必要が多く出てきたことで、道中の多くの橋は大勢が頻繁に行き来しても耐えられるような頑丈なものに次々と作り直され、道も崩れやすかった所は次々と補強され、交通網は大いに整備されていった。
 
この街道の整備は庶民にとっても、遠隔地間の交流や商取引を快適なものにしていった。
 
農民の納税や事業出資は惣村単位で管理されていたが、戦乱が無くなり穀物生産が安定したことで人口と農地も順調に増え、そのうちに換金作物事業などの副産業も発達していくと、各農家の生活も少しずつ豊かになり、農家の概念も親類単位から世帯単位に移行していった。
 
しかし全ての農民が平等に順調に豊かになれた訳ではなく、盛んに行われた新田開発も穀物生産に不向きな土壌であったことが後で判明することが多く、また慢性的に水不足に苦しむなど、開発の失敗や水不足は農民の深刻な負担となることも多かった。
 
一方で兼山(かねやま・岐阜県御嵩町)の森氏のように、農地が開発されたものの土壌が穀物生産に向かずいったんは失敗するも、試しに茶を育ててみたら栽培可能で、それを「白川茶」という特産に転化させて藩の貴重な財源にできるようになったという、負を利に活かすことになった産業の歴史をもつ所もある。
 
農民にも余裕が出てくると、これまでは富裕層が対象だった興行や奢侈(しゃし)品といった二次生活産業も、農民にも注目されるようになった。
 
奢侈(しゃし)品とは、別にそれがなくても生きていく上での生活はそう困らないような、生活を豊かにするためのタバコの葉やキセルといったちょっとした贅沢品のことである。
 
当時の日本は、コーヒーは存在は知られていたが輸入量が極小で庶民的な品ではなかったが、一方でタバコは農家の重要な換金作物として広く栽培されていた。
 
タバコは武士から庶民まで人気があり、タバコの吸いすぎで健康を害してしまった愛好家の藩主もいた。
 
量産、品質管理、物流のそれぞれが発達したことで、これまでは木製や竹製で十分だった日用品や家具もだんだん贅沢になり始め、金属やギヤマン(ガラス細工)が使われるようになったり、凝った彫り物のものに人気が出てきたりと、ちょっとした贅沢が庶民の間でも注目されるようになっていった。
 
各地で木綿や養蚕(マユ)の殖産が盛んになると、衣服も贅沢な生地や柄を使ったものも増えて質が向上していき、古着を豊富に扱う生地衣料店が町のあちこちに増えて人気が集まった。
 
都市部では講談師や芝居小屋が繁盛し、人気作家の小説が出版されて好評になると、人々はこぞってそれらに注目するようになった。
 
忙しい農民でも、その合間には算学などの学問が流行するような余裕も出てきて、勝手に計算力を身につけたり識字率が上がっていくようになった。
 
庶民でも食事にこだわる余裕も出てくると、季節ごとの流行食を記念的に楽しむことに敏感になり、高くても人々がこぞって買い求めて、季節や時代を体験したがるようになった。
 
1615 年の大坂夏の陣から5年ほどたった 1620 年あたりまでを徳川幕藩体制の準備期間と考えた場合、そこから50年ほど経過した 1670 年頃には各地では惣村資産が蓄えられ、それぞれの農家も額こそは大したことはなくても蓄財できるようになり、高度成長期の大消費社会の下地が作られていた。
 
こうして日本の18世紀初頭の有名な高度成長時代「元禄」(1688 ~ 1704)の、大消費社会への下準備は整えられていった。
 
元禄は江戸時代の中でも最も華やかな時代として有名だが、この荒々しい大消費経済は、従来の社会風紀を大いに乱した。
 
そしてその反動の不景気期の時代を迎えると、それだけ人々も苦しむことになり、江戸幕府の名目(役割)も急激な賞味期限切れを起こすようになった。
 
庶民が豊かさと英愚を身につけすぎてしまった江戸時代中期(18世紀中期)からの幕府は、過去の支配体制(教義)に戻すために、人々から活気と意欲を奪うばかりの矛盾と退廃に満ちた禁欲政策をあてはめて続けるのみで、時代に合った名目がついに見出されることはなかった。
 
江戸時代の後半は、自然な経済成長に逆らってばかりの、時代に合わない幕府の過去の古い名目で、下層の力を削ぐための重税政策で縛るのみで、幕府も藩も貧しくなる一方の暗い時代を、幕末までズルズルダラダラ続けられることになる。
 
江戸時代というと、この江戸時代の後半の暗い印象ばかりが取り沙汰され、幕末までさも最初からそうだったかのような紹介しかされない場合も多い。
 
当著では、最初からそうだった訳ではないことと、なぜそうなっていったのかについて順次、触れていきたい。
 
当著では18世紀中期( 1750 年あたり)の宝暦あたりを江戸時代の中期とし、そこをおおよその基点として前半と後半に分ける。
 
この中期までの日本全体の石高はざっと3000万石ほどといわれているが、その内の幕府の直轄領はだいたい500万石ほどだったと思われる。
 
1600 年の関ヶ原の戦いの時点の日本の表高の推定は1800万石ほどを考えると、江戸時代中期までにはおおよそ、人口増にともなう農商業の活気はざっと倍増していた頃だったと推察できる。
 
18世初頭の好景気の「元禄」を境に、庶民も豊かになっていった一方で、それだけ格差も目立つようになっていた。
 
この頃には、それまでの人口増と農地増の単純な農業景気も頭打ちになってきていて、穀物は過剰生産の水域を迎えたことでその価値は下落を続け、その他の価格ばかりが上昇を続けるようになっていた。
 
それによって農家では、換金作物の基盤が強い地域と、弱い地域とで、格差を生むようになっていた。
 
米による換金力が低下すると「米の収益に依存する制度だったほとんどの武士たち」と「米の他に換金作物の基盤が弱い地域の農民たち」は困り果てた。
 
換金作物で生活を支えきれることができなかった地域の農家は、港や都市の商業地の仕事の価値を求めて挑散(農地を放棄)するようになり、その流入によって都市部もより賑やかになった。
 
農民が勝手に農地を放棄するようになったこの時点で、既に身分制度(支配社会)が崩れかけていたといえるが、穀物がついに過剰生産の水域の限度を超えてしまい、米の価値が著しく下落するようになると、この事態に藩も対処のしようもなかった。
 
米価が急落したことで、値崩れした米が腐るほどあちこちに積まれるようになると、庶民も食事に貧窮する心配は全くなくなったが、野菜や大豆や果物や海産物といった他の食品が高騰してしまい、米ばかり食べて日々を過ごす者が増えたことで多くの庶民が栄養が偏り、脚気が蔓延してしまったのは有名な話である。
 
これは一時的な現象に過ぎなかったが、米価は下落していく一方で、不作が続いて飢饉になると大高騰を起こすという、この調整が極めて難しかった当時、この問題に人々は散々悩まされるようになる。
 
江戸時代も元禄あたりになると、これまでの単純で順調だった穀物農業景気の時代はもはや終焉に向かっていた。
 
一方でやっていけなくなった農民が、農地を放棄して都市部に多く流入したことで商業景気はより賑わいを見せて、大消費社会の自由競争に勢いがつくと、士農工商はますます建前化していき、幕府が建前としていた社会風紀はいよいよ乱れていった。
 
庶民の生活にも余裕が出てくると、これまでの「どうにか生きていく」経済社会から、ちょっとした生活の「豊かさに価値を求める」経済社会に移行しつつあった。
 
茶店(飲食店)も付加価値を商売にするものも増え、最初は「看板娘」を売りにする程度のものだったのが、次第に「下心の出会い」を斡旋して紹介料金を受けることが本業の、飲食は表向きだけの「茶店」を称する店が増え、流行した。
 
遊郭も多様化し、これまでのように恋心と下心を楽しむ場から、今風でいう女優商売をし始める店が増えて太夫(遊郭の場合はたゆう:官位の場合はたいふ)も女優化していき、女優との高級感の仲の価値が主目的となったものが流行した。
 
「遊郭」を整理しておきたいが、より性的な場が「岡場所(おかばしょ)」と呼ばれ、当時は宿とひとことでいっても、ただ宿泊するだけの安宿から、そこで労働する女も単なる飯盛り役(炊事係り)からもてなしの接客をする者までその提供範囲も値段も様々で、特に性目的の強い所は岡場所といった。
 
「遊郭」は必ずしも性が主目的だった訳ではなく、館の構えが立派なものほど「男の殿様気分の甲斐性を満足させる」趣向が強く「恋心が実って性関係になることもある」というものだった。
 
高級な遊郭ほど「金さえ積めば」では通用せず、入店する上での品格や作法を店側から求められ「どういう条件まで満たされていれば、何階にいる何々の間の誰々までとお相手できる資格がある」「あの高級遊郭の誰々の間に入ったことがあり、何々の関係にまでなった」とする価値が作られた。
 
そのため高級遊郭は、安売りせずに、しかしいかに嫌われずに「会えるか会えないか」という所からの価値を生み出すか、店側も品格や教養に努力工夫することに必死で、こうしてちょっとした新たな品格や教養の基準を、幕府によってではなく店側(町人)が生み出し始めていた。
 
高級店ほど、それなりの資産を有する武士や町人でないと無縁な世界だったが、その女優商売の遊楽に夢中になる藩主もいたほどで、無縁な者の間でも「あそこの商家の若旦那はあの有名店で優待遇を受けるほどらしい」と話題ももちきりだったようだ。
 
高級店の世界はもはや「金を出しているんだから言いなりになれ」と偉そうに振舞うだけの品性を大事にしない客は店側からお断りで、優雅さを楽しもうとする余裕のあるような客こそが、店にも世間にも尊重される世界で、中には富豪たちの交流の場としての料亭同然の遊郭もあったと思われる。
 
高級店の「女優」は、まるで藩主の姫のような上質な着物や奢侈品を用い、本来はそれは「身分に不相応な詐称行為」として摘発される所だったが、遊郭や芝居の場合は「そこの場だけの衣装」と当初は奉行所も黙認していた。
 
「遊郭」はもともと女優商売的な要素があったといえ、またその世界の上下関係も非常に厳しい世界だった。
 
ある農家が不作などで領主に年貢を払いきれず、やむなく娘が身売りされたり、また生活に貧窮した町人がやむなく娘を商家などに引き取ってもらう、ということはよくあり、その先は商家や遊郭の下女として、後者の場合は太夫(女優)の支配下の奉公娘にさせられることが多かった。
 
この「身売り娘」は支配しやすい好都合な成人前の者が好まれたが、同時にそれが原因で遊郭で揉め事になることも多かったようである。
 
下女が店との借金縛りの厳しい上下関係の日々から脱却するためには、いつか自身も奉公女から太夫(女優)に昇格して売れっ子になる努力をするくらいしか手がなかった。
 
一方で、遊郭に通う客は、女との特別な出会いや関係は求めていても、遊郭の体制的な世界に皆が満足できている訳ではなかった。
 
店側が勝手に作っているだけの体制価値に魅力を感じないちょっとした金持ち客が「世慣れした太夫」ではなくその支配下の「あどけない、従順な身売り奉公娘」に女らしさの新鮮さを求め、ちょっかいを出す者も多かった。
 
奉公娘はあくまで太夫の配下として、着付けの手伝いや掃除や必要品の買物など、太夫を補佐する身分である。
 
太夫に呼ばれもしないのに許可なく表に(部屋)に勝手に出てきたり、太夫を差し置いて勝手に常連と仲が良くなったりしようものなら厳しい制裁対象となった、部屋の権利をもつ太夫から見れば、何の権利もない「下っ端」の奴隷扱いだった。
 
しかし奉公娘も色々で、本人が全くその気がなくても常連から異様に気に入られたり、また遠まわしに常連に憐憫を売って気を惹こうとする者もいた。
 
理由はどうであれ、自分に好意をもってくれる客がいるのにそれ自体が制裁対象にされてしまうのは、立場は解っていても心情的には不満になるものである。
 
太夫が配下の奉公娘を部屋に呼びつけて、用事をいいつけている姿をたまたま見た客が、その奉公娘を異様に気に入ってしまい、太夫ではなく奉公娘が目当ての遊郭通いになり、目当ての娘を部屋に呼ぶために色々理由をつけて酒をもってこさせたりする客もいた。
 
太夫にとっても「自分にではなく奴隷同然の奉公娘の方に客の好意が向いている」ことが露骨になると、その怒りが奉公娘に向いたのはいうまでもない。
 
そうして「身受け話」つまり「その娘と一緒に暮らしたいから、その借金は全て自分が肩代わりする」という話が店に持ち込まれることも多発し、これは太夫が対象の見受け話ももちろんあったが、この話が厄介なものにさせた。
 
商家にせよ遊郭にせよ、「借金の肩代わり」という名目の、奉公娘(下女)という格安の労働力確保の、高度成長期に至るまでに成立したこの支配経済の構図も、元禄あたりには高騰していく物価にともない、従来の労働価値も支配構造の掟も崩れつつあった。
 
それらが時代に合わないことは解っていても簡単に改められるようなものでもなく、客が多額を積んだからといって、従来の職場の功労度や上下関係を否定してくるような部外者の行為には、店側も簡単に応じる訳にもいかなかった。
 
「借金の話と無関係な第三者に口を挟んでもらっても困る」といって断るも、あきらめの悪い客も多く、それに折れる店もあったが、断固拒否する店側と部外者とで店の従業員の処遇を巡ってよく揉めるようになった。
 
この身売り下女らの「身受け話」は、当時大勢いた中の一部に過ぎない話だが、それでもこの問題は好景気にともなって次第に目立つようになったようである。
 
元禄は、生活苦の日々を過ごす庶民もまだまだ大勢いたとはいっても、今風でいう就職難の心配はとりあえずなくなって、努力と機運次第では誰でも蓄財できて豊かになれるという明るさがあり、今までの価値と違うことを言い出したり新しいことを始めたりする自由競争の風潮が高まっていた。
 
物価の激変が労働価値を変え、豊かな者が増え始めて「見受け話」を持ちかける者も増えると、商家や遊郭などに所属している大勢の下女(奉公娘)たちも、従来の権威的な順番を守らずに常連の気の引き合いなどの勝手な奪い合いを起こすようになり、好景気の活気の裏では、体制や負担を巡って揉め事も絶えなくなっていた。
 
だからといって店側もかつての習慣を改めることも簡単ではなく、だからこそ過去の支配利益体制の掟で縛ることに厳しくなることが多かった。
 
元禄では都市人口の急増が目立ち、今までなかった老若男女の様々な出会いも増えて男の価値も女の価値も多様的になり、これまで体験できなかった多くのことが誰しもが身近な話になったからこそ、価値観も目まぐるしく変化し、良悪を巡る認識のぶつかり合いも激化し、あちこちでケンカも耐えなくなった。
 
この高度経済成長の元禄を境に庶民の価値観は急速に変化し、従来の掟や支配体制の建前にあからさまに反感の態度を示す者も増え、直接いいにくかったことを出版(論文や小説)や活劇などを通して遠まわしに訴えられるようになっていった。
 
生産・品質・販路といった体制努力も本格化されると、大勢の従業員を抱えて富豪に成り上がった資本家も多く出現し、物価の上昇にともなって高い給金が受けられるようになった従業員も増えたが、ただしその競争も、商売がたきに敵意をむきだしにするような乱暴なものになりがちだった。
 
そのため株仲間(同業者団体・商工組合・商人団)が自主的に作られて統制が図られる努力もされたが、それでも競合業者間で揉めることも多く、裏で業務を妨害し合う暴力事件も多発するようになった。
 
そうしてあちこちで商売のもつれ話や男女のもつれ話が大ごとになり、急激な経済社会の変動に法の整備が追いついていなかった奉行所では処理しきれないほど絶えなくなり、世がそうなら小説や演劇も過激で刺激的な活劇や恋物語が盛況した。
 
当時の町の浴場は、維持費の無駄を少しでも減らしたい事情から、男女混浴に等しい作りになっていた浴場が多く、次第に下心の付加価値を売りにする人気浴場が増え、「女は慎ましくあるべき」という風潮を大事にする女もいればそれを軽んじる女も増え、女の方もちょっとした男漁りをする者も増えていた。
 
「伊達男」ならぬ「伊達女」も出現し始め、これは商家同士のもつれが原因のものが多かったようだが、商売がたき同士の揉め事が激化すると、商家の女房まで出てくるようになり、華美な姿で現れて多くの人々の面前で相手を威嚇するというのが、それが慣わしのようになった。
 
これは、どちらの商家の方が格上で筋が通っているのかの威嚇のし合いから発展した文化のようなもので、それで相手方の女房も出てきて言い合うようになると、その特性から段々、どちらの方が華やかなのか、どちらの方が美人なのかという所まで張り合うようになっていったようである。
 
裕福な商家の若旦那にはやはり美人女房が多かったようで、どの商家もそう争った訳ではないが、派手な着物で優雅さを誇りながら、自家の正当性を訴えながら商売がたきの非を威嚇する女房の姿に大勢の男女が注目し、人々も「いいぞもっとやれ」といいながら「どちらの方が上か、筋が通っているか」という話題も持ちきりだったようだ。
 
この大消費社会の人々の体験は、もはや時代は「生きていくために従う経済」から「豊かさのための経済」「自身の存在感のための経済」などに重点が置かれ始め、従来の士農工商のそれぞれの世界の「掟」は常に崩れ気味であった。
 
都市中の商工業と人々の価値観が多様化していく急激なこの高度経済成長に対応しきれなかった奉行所の権威は年々失墜していき、だからこそ庶民も建前だけしかなかった奉行所を軽くみる傾向も出始めていた。
 
そのうちに「それぞれの世界の不条理な身分習慣が原因で、人々の信用関係の自由、恋愛の自由が妨害されている」ことを訴える事件が起き、するとそれを遠まわしの題材にした小説や活劇がまた流行するようになり、いよいよ幕府や金権商人らへのあてつけも強まっていった。
 
医学がまだまだ脆弱だった当時、10代から30代あたりまでの若い層はいつ病気や事故で死んでもおかしくなかった一方で、急に豊かになり何事も身近な話になってしまったからこそ、あと数年しか生きられないかも知れない自身の人生の満足感に飢える若者も増え、無茶なことをしてひと暴れする者も急増した。
 
これまでは武士だけが問われていた存在価値(存在感)というものが、庶民にも身近なものになり、元禄を境に誰しもが金銭に振り回されるようになったからこそ、それだけ自身の存在価値にも人々は振り回されるようになっていた。
 
出世にせよ恋愛にせよ善事悪事にせよ、何にでも注目が集まり、それに触発されて無茶なことをする者がまた増え、それを面白がって煽るような過激な小説や演劇が次々と増えていったため、その本音的な循環が世の中を正直にさせた一方で、社会問題化を助長させることにもなっていた。
 
明るい活気の代償の庶民の苦痛もかなりのものだったと思うが、一方で武士の世界といえば、中下級の多くは大役をもっている訳でもなく体裁作法で押さえつけられる日々を過ごすのみの者が多かったため、その喧騒が絶えない刺激的な庶民の競争世界に内心はうらやましがるほどだった。
 
そうした元禄以降の「豊かで騒がしい時代」を、40年ほどは江戸時代の人々は体験することになった。
 
元禄は正確には、産業の基礎が作られた時代で、景気の黎明期だったと見るのが良いようである。
 
この頃に、成功と失敗が繰り返されながら新たな産業が多く興ってその基礎が作られ文芸や富豪の先駆者が出現し、それにならうように豊かな庶民や著名人が急増したのが、元禄からしばらくの享保(きょうほう)以降というのが、正確のようである。
 
享保は、豊かになった人々がいよいよ増えたのと同時に、その反動の不景気期に突入する時期で、格差も顕著になってくる景気と不景気の狭間といえる期間である。
 
「景気」と「不景気」の意味を整理しておくが、「景気」とは、資面(情報面・体験面)の貧富の差が縮まる期間であり、この時点では共有化できていなかったことに価値があった期間のことを指す。
 
そして「不景気」とは資面(情報面・体験面)で貧富の差が縮まった後、つまり共有できていなかったことがすっかり共有化された分の価値が落ちる期間のことである。
 
「景気」とは時代に関わらず、経済の様子にしても、業界の様子にしても、学術の様子にしても、個人の様子にしても、「資面(情報面・体験面)で豊かな人と豊かでない人との差が縮まる期間(豊かでなかった人が豊かである人との差が縮まる)」になっていなければ景気が良くなることはないし、結果的にそうなっていることが「景気が良い」ということに過ぎない。
 
そして不景気が顕著になる頃に、良い方向か悪い方向かは別としてようやく法が大幅に見直されるのは、いつの時代も大体同じである。
 
その先の話は、統制のためだけにいつまでも古臭い過去の正しさにしがみついて規制を強化するようになるか、それとも古くて合わない過去の基準が償却(撤廃)され、新たな基準が尊重されていくのかの問題である。
 
元禄には米価と貨幣(物価)は問題化していて、既に武士の生活に支障が出始めていたが、享保以降にはいよいよ深刻化し始めていた。
 
幕府は何もせずにただ様子見をしていただけではなく、その間には幕府閣僚の間で様々な意見が整理され、十分で適正なものかどうかは置いておき、対策の準備は進められていた。
 
享保からしばらく(享保が改暦されたおよそ15年後)の宝暦におきた江戸時代の代表的な一揆のひとつ「郡上一揆(ぐじょういっき)」は、農家景気はもはや完全に終焉していた当時の様子が窺える。
 
この一揆の時、幕府としても「これまで(江戸前期)のような農業景気はとうに終焉し、もはや経済対策も転換期」だったことに、方策は整っていなかったがその自覚はできていた。
 
短期間の二度の国替が強行されて郡上に入藩してきた金森氏は、その時点で深刻な財政難に陥っていたが、それでも当初は小康状態を保っていた。
 
しかし代変わりをしばらく経て次第に金森氏の家格も高まっていく一方で、財政難もいよいよどうにもならなくなってきた藩は、年々貧窮に向かう一方の領民に対し、何の見通しもないまま増税を慣行しようとして、領民に甚大な負担をかけようとした。
 
郡上藩はもともと農地環境が良くなく、郡上は雪解けの期間が長く、冬も早く迎える冬期が長い地域だったことから他の地域よりも繁農期が短く、結構な山奥で開拓された農地が多かったことで農地を度々荒らす獣害も深刻だった所に、米価が下落し続けて領民もいよいよ貧窮していた所だった。
 
これは東北方面が好例で、繁農期が短く気候的にも不安定だった寒冷地でも構いなしに農地を拡大した藩が多かった。
 
そのため東北方面でも米穀が大いに増産できたものの、気温不足もよく起こって青立(あおだち・けかち・気温が低くて米が育たず、枯れてしまう稲)になることもたびたびで、藩も農民も苦しむことが多かった。
 
常に財政難だった金森氏は、領民の年々の貧窮をよそに強引な増税に乗り出し、納税法をこれまでの定免法(じょうめん)を急に撤廃して、藩に一方的に都合の良い検見法(けみ)に切り替えようとしたそのやり方が悪質であったため、特に換金作物の基盤が脆弱だった地域から相当の怒りを買った。
 
この一揆のことをざっと説明すると、まず定免は固定額で、検見は出来高額による納税である。
 
当時の領民は定免が本来と考え、その規定額を目標に余剰生産を計画し、その余剰分で年々の生活を支え、来年までの生活維持費と、来年の作付け資本を準備するのが慣習となっていた。
 
検見は、例えば水害などで荒れ放題になってしまった領内の田畑や道路や橋などの整備や、領内の新たな道路を建設するなどの、皆にも利点もある公共事業の費用にあてることが目的であれば、その計画と額面をしっかり提示してもらえれば、そのための一時的な増税ならば領民も渋々従った。
 
農業景気はとうに終焉していて何の見通しもない中での、何の代替権もないこの急な検見への切り替えは、既に貧窮に陥っていた領民にとって死活問題だった。
 
検見で惣村のあらゆる生産に、急に際限なく課税されるようになれば、これまでの「余剰生産による準備」を前提としてきた「来年の作付けの資本(維持費や支払い)」「来年までの生活費用」を例年のように確保できなくなることを意味し、毎年確実に惣村が衰退していくことが目に見えていた。
 
それを徴収の都合だけで従来通りの事業規模を維持するよう強要されれば、惣村はその穴埋めのための借金を年々負わされることの強要を意味し、いずれにしてもこれは領民には大した義理がないはずの藩主の都合の借金を、郡上の領民に無計画にただ押し付けているに等しい、かなり悪質な処置だったといえる。
 
藩は「検見なら、不作続きで飢饉が起きた時には減税となり、領民の救済処置になる」と言い訳して領民を丸めこもうとしたが、そうなって実際に藩が維持できなくなればその時にまた増税を言い出し、ここで許容しようものなら限度知らずの負担を次々にかけようとすることも解りきっていた。
 
この時代は法が重視されるようになったとはいっても「前例」もまだまだ重視されていた時代で、いったん認めてしまうとその前例を名目に延々と強要し続けられてしまう傾向がまだまだ強かった時代で、それはまた領民側も同じで過去の統治前例を名目に延々と反対する傾向が強かったため、かなりこじれた。
 
一方で、藩がもし増税をする場合(税制を変更する場合)は、この頃の幕府は、かつての天草藩の過剰増税に起因していた隠れキリシタン虐待が発端の島原の乱の悪例から、領民への公正感は建前は重視し、その事情や見解を幕府に届け出することを義務付けていた。
 
それを郡上藩は、惣村の訴訟(代替交渉権・対価保証義務)を一方的に否定し、書類上では藩の言い分に領民が合意したことに扱って実態のもみ消しを繰り返した上に、幕命を詐称して領民を強引に押さえ込もうとしたため、かえって一揆は大規模化と長期化に向かった。
 
詳細は後述するが、江戸時代の藩の徴税権は、あくまで藩がその扱いに責任をもつことが義務で、幕府は天領(徳川本家の直轄領)以外の領地については、教義の整理から間接的に調整されることはあっても、各藩の徴税権に直接テコ入れするほどの行政権まで幕府が保持できている訳ではなかった。(その事情は、同時代のヨーロッパの帝国議会政治でも全く同じである)
 
この時の藩主金森氏の、幕命を詐称した増税慣行の策謀は逆効果になり、ますます領民に不信を与える一方だったのである。(他の藩も全てそうなるというならまだしも「なぜ郡上藩だけが?」という話である)
 
一揆が長引いて収拾も困難になるほどの郡上藩の領民の異様な騒ぎように、実情が正確に知らされていなかった幕府も「ただの一揆ではない」と疑義を強めるようになった。
 
その中で、藩の妨害をかわしながらの領民の決死の、江戸閣僚への駕籠訴(かごそ・江戸の最高顧問大臣への直訴状)が成功すると、ついに幕府による郡上藩のガサ入れが行われ、幕臣の不正まで発覚して大騒ぎになり、金森氏は改易となった。
 
かつて織田信長や徳川家康の時代に活躍した名将・金森長近(ながちか)を祖とする、名族・土岐源氏一族の系流でもあったこの金森氏のように、こうして何らかの不祥事を起こして終焉してしまった名門の藩も少なくない。
 
後述するが、江戸後期に起きた最大規模の「近江一揆」は、江戸中期に起きたこの「郡上一揆」と同等かそれを上回る悪質な増税のやり方が起因している一揆である。
 
なおこの時に改易を受けた藩主、金森頼錦(よりかね)について誤解のないように説明しておきたいが、これはこの藩主がただ問題児だったという単純な話に片づけるべきではない事件である。
 
藩主の金森頼錦は、江戸藩邸の長期の滞在を強いられ、藩政は重臣に任せきりの立場が永らく続いていたことから、藩政の当事者である実感が最初から薄く、一方で文学に熱心に励む姿勢は江戸閣僚からその才能を高く評価され、有望株扱いされていたことが、この事態を招く一因になっていた。
 
当時はどこの藩も財政難に陥り、藩主の私生活すら貧窮するほど支障が出ていたほどで、そのためどの藩主も本音としては、定免(じょうめん)から検見(けみ)に早急に切り替えて、なんでもいいからとりあえず目先の財政難を補填し、それから財政対策をしたいというのが本願だった。
 
金森頼錦は実は、どの藩もそうしたかったことを、その先駆けの前例を作ろうと思って強引に踏み切ったに過ぎないともいえ、これは領民から見れば暴挙だったが、当時の幕藩体制から見れば、どうにもならない藩主たちの気持ちを代弁していた行動だったと見ることができる。
 
この金森氏の不祥事を諸藩も深刻に受け止め、表向きは幕府に遠慮して同情しにくかっただろうが、内心ではほとんどの藩主は金森氏に同情的だったと思われる。
 
幕府も表向きは厳しい態度でこの事件を処断したが、恐らくその事情が考慮され、本来なら藩主や家老が切腹や斬首に処されてもおかしくない規模の不祥事であったのに反し、実際はかなり寛大な処置で、親類は見せしめの厳しい連座を追及されるまでには至らず、一族も改めて旗本に組み込まれて家系の保証は受けている。
 
実際にこの郡上一揆がきっかけで、幕府も「検見が税制の基本であるという名目」を急ぎ整えることになり、この事件が結果的にその後押しを担うことになったのである。
 
豊かさを謳歌するようになった庶民と、貧窮する一方の庶民との格差は、元禄、享保という華やかな時代を過ぎてしばらくの宝暦の頃には、景気よりも不景気の方が強まっていくにともない、その格差も顕著に表れるようになっていた。
 
当時のこの農民問題をうまく処理しきれず、結果的に格差を助長することになった「質地騒動(幕府が発令した田畑永代売買禁止令が招いた大混乱とその取消の事件)」についても後述する。
 
江戸時代中期には幕府も、深刻になっていた物価と貨幣の問題にも乗り出すようになり、一方で風紀の問題についにも「豊かさと栄愚を身に付けすぎてしまった庶民に反撃」するかのように規制を強めるようになる。
 
それら江戸時代の後半の話に入る前に、そうなるまでの江戸の身分統制社会とその前時代の風潮の比較や、幕府財政や税制の様子など、順番にまとめていきたい。