ヴェニスの商人(シェイクスピア)の時代と、ルターとマキアヴェリの時代(6/7) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 世俗視点の近世のニッコロ・マキアヴェリの時代(1/2) -(2018/12/31)

 

マキアヴェリは小貴族の家系で、領地をもっていたがそう大きいものでもなく、生産力も知れていたのか大して裕福でもなかったという。
 
この家系はかつてフィレンツェ共和国の有力議員を何名か輩出した家柄ではあったが、マキアヴェリの父や祖父の頃は政治との関わりに積極的ではなかったようで、マキアヴェリは政局との縁のない若年期を過ごしている。
 
一目は置かれる古くから続く家系ではあったが、イタリア全体から見ればありふれた小貴族に過ぎず、大して昇格した訳でもないマキアヴェリが「君主論」を書き残し、後世に高く評価されることになったまでのその経緯は複雑である。
 
マキアヴェリが政治参加した頃のフィレンツェの状況は最悪で、その挫折と苦難の連続が、かえってマキアヴェリの持ち前の明るい性格と冷徹な分析力を本領発揮することになった。
 
仮にマキアヴェリが大成功を収めるようなことがあったなら「君主論」その他が著作されることもなく、その場合の反動の大失脚にともなって「栄光と挫折の人物」として小さく名を残すのみで、ここまで有名にはなっていなかっただろう。
 
まずマキアヴェリの生きた時代のイタリア(フィレンツェ)と王族間について触れていきたい。
 
この頃は、ドイツ・スペイン(ハプスブルク家)とフランス(バロヴァ家)の2つの王族による、イタリアの主導権(支配権)争いが激化していた時代だった。
 
なぜこの2つの王族がイタリアの主導権(支配権)争いをしたのかについては、帝国の伝統的な皇帝権と関係している。
 
当時の帝国は「神聖ローマ帝国」という国際政府で、これはかつてのビザンティン帝国時代(東方教会・ギリシャ正教)から西が範囲だった。
 
皇帝マクシミリアン1世の時代のドイツでは、法の整備も少しずつ進められ中世のような乱れはいくらか収まり、王族の家格争いや継承争いはもっと国際的な法的名目から争うようになっていた。
 
ドイツでは法が整備されていき、帝国が再び力をつけ始めた緊張は、ドイツの言いなりになる気などなく競い続けてきたフランスでも自国の強国化が促され、フランス王室はひと足早く議会制度の整備に成功し、皇位を窺うまでになっていた。
 
ヨーロッパの大継承者であったハプスブルク家のカール5世の出現は、フランス王室からは「このままではヨーロッパの支配権の全てをハプスブルクに完全に握られてしまう」と、この上ない脅威を与えていた。
 
帝国の皇帝はキリスト教国家の代表がローマだから「ローマ帝国の皇帝」という意味があり、古代では教皇が兼任し、やがてイタリアの王族に、そしてドイツの王族へと移行されていってもその名目は重視され続けた。
 
だから皇帝は、世俗の代表というだけでなく、建前は皇帝も一応は聖属(教皇)の代理人としての意味も含まれ、それを理由に法的執行権(最上級裁判権)を有するという名目があった。
 
イタリアの王族よりもドイツの王族の方が力をもち始めると皇帝権はドイツに移行するようになるが、ドイツの王族同士の力は横並びでありイタリアの主導権を有している訳でもなく、かつては教皇庁の戴冠式に頼り切る関係だった。
 
ドイツやフランスで、ハプスブルクやヴァロワといった強力な王族が出現し始めると「教皇領を除くイタリア諸国を治められている(従わせられている/支持されている)王族」という力量を示した者に皇帝権があるとされる法的名目が再び重視され、それを基点に両王族はイタリア政治に介入するようになっていた。
 
それまでのヨーロッパの王族はどこも横並びで、国ごとに乱立していた王族自体がそもそも横並びで、古い律に頼ってばかりで法の整備が遅れがちで、ただ独裁を恐れて頭ひとつ飛び越えた王族を許さないための闘争が中心だった。
 
だからこそ国家の代表のはずの王族の権威もそれだけ不安定で空位的になりやすく、中世のような教義崩壊の乱世が起きると歯止めもかかりにくい世界だった。
 
古くからドイツと張り合い続けていたフランスは、かつてのアビニョン教皇擁立が良い例で、中世の空位問題と教会大分裂問題を経たからこそ、ヨーロッパの主導権争い(継承権・王権争い)もやがて国際的な法の名目を重視して争うようになっていた。
 
イタリアの主導権でまず重点が置かれるのがナポリ王国とシチリア王国の継承権で、これは教皇庁(枢機卿団)の派閥が絶対ではないもののそのひいきがモノをいう時が多く、これが四強国家(ミラノ、ジェノヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェ)の支持獲得にも影響が大きかった。
 
ナポリとシチリアの王権はアラゴン王が兼任していて、それが孫にあたるカール5世にいずれ継承されつつあり、それがフランスにとってはとにかく脅威であった。
 
ひと足早く強国化が進んだフランスは、イタリアの支配権(主導権)を確立するためイタリアの政治に積極的に介入するようになっていた。
 
一方で、イタリアの代表の教皇庁(ローマ)はルネサンス期には、教義上でも領土的権威でも失墜していてその立て直しに難儀していた所に、フランスの執拗な介入に対等な関係を保てないまま、一方的に従わさせられる関係になりやすくなっていた。
 
教皇庁もイタリア諸国も「いいなり教皇庁、いいなり国家」になり下がることだけはなんとしても避けたい所だったが、強国フランスにとってはイタリアを「いいなり教皇庁、いいなり国家」に扱い主導権を獲得する絶好の機会になっていた。
 
この時の皇帝側(ドイツ側)は、フランスのイタリア介入に対して、まだ本格的な妨害はできていなかった。
 
強国フランスは、教皇庁をはじめとするイタリア諸国の国内の建て直しに難儀している所に執拗に介入し、イタリアに力をもたせないよう、かき乱すことばかりして、イタリアの主導権の確保に努めていた。
 
マキアヴェリが政局に抜擢され歴史の表舞台に立った頃の時期は、フランスのその「かき乱し」によってフィレンツェが最も弱体化していた頃だった。
 
教皇庁(ローマ)の力がなかなか回復されず、貴族層や各地の有力名士もフランスに肩入れする者と、フランスに反感をもつ者とで対立しやすくなり、その対立をフランスは利用した。
 
この強国フランスの権威に便乗して教皇領のロマーニャ地方で一大勢力を築き、イタリア各地に親フランス派を強く波及させることになった貴族が、ボルジア家(チェーザレ)だった。
 
その影響はトスカーナ(フィレンツェ)でも影響は強く、当時フィレンツェ共和国が難儀していたピサ問題にも直結していた。
 
中世後期から近世初期にかけての商業網と物流の発達は、トスカーナの要港都市ピサの価値を高めることになり「他の都市よりも我々の都市の方が格上のはず」と権利を主張しはじめ、トスカーナの代表であるフィレンツェ政府に何かと非協力的な態度を見せるようになっていた。
 
このような運動はピサだけでなく他国でも、それこそ教皇領の都市でも同様で、都市の価値が高まると自治権の強化(交渉権)の主張をし始めるのも珍しいことではなかった。
 
ただし問題だったのは、旗色が悪くなれば「イタリア外の権威」に頼ればいいという、自分の国の問題を自分の国の問題として責任をもって解決しようとしなくなる、無責任で不健全な闘争にさせたため、フランスの介入はもとよりボルジア家のような存在は国家としての主体性を著しく乱す深刻な問題にしていた。
 
ヴェネツィア共和国は、国ぐるみで強国フランスと結託し、教皇領内の都市政治に介入して占領した上に、立場上は同朋的だったトスカーナの物流都市ピサを援護した。
 
それでもヴェネツィアの場合は、その物流経済に度々口出しばかりする教皇庁とはそもそも険悪気味で、ヴェネツィア共和国としての主体性があっての敵対行為であったため「まだ解る」範囲であった。(図々しさの点ではそこまで嫌われなかった)
 
しかしボルジア家の場合は、その点で問題だらけであった。(図々しさで嫌われた)
 
イタリア貴族らの権力の階段をあまりにも身勝手に飛び越えすぎたそのやり方は次第に「下品な火事場泥棒貴族」と見なされるようになり「イタリア全土の反フランス派を煽って、同朋意識を徹底的に乱す広告塔ボルジア家」に対するイタリア貴族・聖職者らの怒りは一致するようになっていた。
 
教皇庁のためではなくボルジア家のためだけに戦うチェーザレは、いくら軍事面で優れていようがさすがに貴族統制まで掌握できるような家格(品格)があるはずもなく、その存在はやがて「イタリア全土に最も迷惑な、親フランス派の代表格」に見なされるようになった。
 
イタリアは「強国フランスのやりたい放題のなすがまま」という情けない状態がしばらく続いていたように見えた一方で、その裏では貴族間が着々と「イタリア全土のよその権威(親フランス派)の追放運動」の機運を高めていた。
 
これが、マキアヴェリが政治参加することになった 1498 年から、失脚することになった 1512 年までの「フィレンツェの暗黒の14年間」の表裏の情勢だった。
 
アレクサンデル6世が死去し、次代ユリウス2世が教皇として就任すると「イタリア全土の親フランス派の追放運動」がついに動き出される。
 
フランスとは競争相手である皇帝マクシミリアン1世は、当然のこととしてこのユリウス2世の活動に積極的に味方した。
 
ユリウス2世は軍勢を整え、強国フランスの隙を突き、手始めに教皇領北部で威勢を誇っていた親フランス派の親玉だった野心家貴族ボルジア家の追い落としから始める。
 
教皇軍を率いてまずボルジア家を攻撃し「この嫌われ貴族」の追い出しに成功すると、同じく教皇領の都市を占拠していたヴェネツィア軍も攻撃し、教皇領内のフランス派の駆逐に成功する。
 
続いて、依然として親フランス派を続けるヴェネツィア共和国に対し、皇帝と共同してこれに宣戦布告して攻撃した。
 
この戦いでヴェネツィア軍は皇帝軍の追い返しには成功したものの、ユリウス2世率いる教皇軍に撃破され抵抗力を失い、ユリウス2世のテコ入れによってヴェネツィアのフランス派は駆逐され、以後のヴェネツィアは教皇派に鞍替えした。
 
その間に多くの厄介事も続いたが、次にユリウス2世は親フランス政策が長らく続いていたフィレンツェ(ソデリーニ政権)に対し、メディチ家のジョヴァンニを擁立して 1512 年に皇帝軍と共同で攻撃する。
 
この戦いでフィレンツェ・フランス連合は教皇・皇帝連合に敗れてフィレンツェは降伏し、ソデリーニ政権は解体させられるが、フランス派や反メディチ派と見なされたフィレンツェ政府の要人は一掃された。
 
それまでソデリーニを支えていたマキアヴェリは、親フランス派の危険分子と見なされ、命も危機もあったがそれは助かり、結局フィレンツェの政局から弾かれて失脚した。
 
この 1512 年のイタリア戦争によって「フィレンツェの暗黒の14年間」もこれで終結することとなり、それまで頼られていたマキアヴェリの役割もいったんここで終結した。
 
まるで「フランスに対して堪忍袋の緒が切れたかのような」このユリウス2世の鬼神のごとき軍事行動によって、イタリアの国家的な権威は大いに回復し、人々を驚かせた。
 
そのためユリウス2世は「ただの戦僧」「とても聖職者ではない陰険な政治家」などと揶揄された一方で、これらは野心はなくイタリア全体の国際力の危機に関わるやむを得ない対処と見られ、また宗教芸術を救済保護し奨励した点でも高く評価されている。
 
かつて失策続きでフィレンツェを追い出されていたトスカーナの代表貴族メディチ一族は、これによって復帰し、民権化が目指されていたフィレンツェ政治も貴族支配政治に再び改められた。
 
教皇ユリウス2世と皇帝マクシミリアン1世の後押しでフィレンツェに返り咲いたジョヴァンニ・デ・メディチは、ユリウス2世の指名によってまもなくレオ10世として次代教皇に就任する。
 
当時の教皇選挙(コンクラーヴェ)は体裁が大事にされていただけで、大抵の場合は票の買収の指名制に等しかった。
 
レオ10世(ジョヴァンニ)は、皇帝との協力関係もあってフィレンツェに復帰し、まもなく教皇就任となった背景から、皇帝とはそれなりに友好的であったが、完全にその言いなりになる気はない姿勢を見せていた。
 
しかしここから大変なことが起こった。
 
レオ10世は、次代教皇にハドリアヌス6世を指名したのである。
 
これは、やはりハプスブルク王室からの強い圧力、または政治取引があったと見て間違いなく、レオ10世の教皇就任から10年後になる 1522 年のハドリアヌス6世の教皇就任は、当時の上級貴族の間では「ついにこの時が来たか」と思わせた、歴史的瞬間だった。
 
フランス王室もこの瞬間は、スペイン王室に激怒したと思われる。
 
このアードリアン・フローレンス・デュダル(ハドリアヌス6世)はなんとネーデルラント人(ユトレヒト生まれのオランダ人)で、イタリア人やフランス人の結び付きも無ければ、それら貴族交流も全くなかった。
 
これはイタリアの公的聖属に「よその者の王室権力」がついに教義にまで直接テコ入れするようになった決定的瞬間だったといえる。
 
ハドリアヌス6世は人間性に優れ、いくつかの聖職も歴任した一流の神学教授の出身者であったが、就任早々から教義問題に急進的に取り組み過ぎたことがかえって問題視されてしまった「残念過ぎることこの上ない」教皇であった。
 
この前代未聞の教皇が出現してしまった背景が全く語られてこなかったためここで触れたいが、これにはまずはカール5世の複雑な継承問題とも関係している。
 
カール5世は継承が大領になり過ぎてしまったことで、それによる様々な弊害にとにかく苦労している。
 
大領を兄弟で分割統治をすることになるが、ドイツを弟のフェルディナントが、ネーデルラントを妹のマリアが、そして本人はカスティリャ(スペイン)を統治拠点とするが、このカール5世のカスティリャ入りはとにかく地元から歓迎されず抵抗を受けた。
 
この時に非同胞の拒絶反応(合併アレルギー)がカスティリャでは激しかったのは、これには色々な理由があった。
 
まずカール5世のつい前時代の、つい最近までのイベリア半島(アラゴン、カスティリャ)南部にはかつてオスマン海軍の侵略を受けて以来のイスラム教徒が依然として占領し続けていた。
 
それまではイベリア半島も王族間で険悪続きであったが、ルネサンス期にはアラゴン王とカスティリャ王は互いの宗教的な危機感から同朋意識を強めるようになり、その意識は南部の国土回復運動(レコンキスタ)に向けられ、王権の再整備が取り組まれて強国化したという背景があった。
 
西方教会(カトリック)の同朋意識が熱心に奨励されたこの共同運動によって15世紀末期には、イベリア南部のオスマン勢力の完全な駆逐に成功し、それによって盛り上がったカスティリャ、アラゴンは、当時としては珍しい自立的な同胞国家イスパニヤ(エスパーニャ、スペイン)だった。
 
この国土回復運動(レコンキスタ)の記念的な影響はイベリア半島で根強いものとなり、統一国家として強国となったスペインは表向きこそ控え目だったが「我々スペインこそが西方教会(カトリック)国家の最大の中心地」と自負していたほどだった。
 
この国柄は、その後の福音派(プロテスタント)運動が、次第にフランス、ネーデルラント、イングランドに波及していっても、スペインだけは容易に寄せ付けなかったことでもその強さが窺える。
 
カール5世がオーストリア大公とネーデルラント公と、アラゴン王とカスティリャ王の孫とはいっても、その生まれは父親の統治地であったネーデルラント南部(現ベルギー)で、スペインから見ればネーデルラント人と見なされていた。
 
ネーデルラントで育ったカール5世は、実際にその側近もネーデルラント人の関係者が多く、そこに教育係の神学者や、ボヘミヤやハンガリーや南ドイツ銀行家の要人らが付随し、スペインからすれば訳の解らない連合組織だった。
 
相続権があるからといって、その組織を引き連れてカスティリャにいきなりやってきて、「よその者のネーデルラント人」にいきなりスペインの要職に就任されても、誇り高い強国スペインからみれば屈辱もいい所で、迷惑でしかなかった。
 
これがもしカスティリャ・アラゴン人最優遇政策が前提であれば妥協しただろうが、何しろカール5世は皇帝である。
 
ただカスティリャとアラゴン両王の代表に留まりその国のためだけの政治をしている訳にはいかず、王国の相続人が皇帝だというこのはじめて体験するスペインは、激しく動揺した。
 
スペインは、教皇庁(ローマ)や皇帝のおかげで強国となった訳でもなんでもなく、地元の有力者らの努力と信仰の強さがスペインを強国としたという自負が強かった。
 
カール5世はその彼らを、相続権というだけであっさり素直に従わせることなど容易ではなかった中で、自身の側近らの人事でネーデルラントやドイツとの外交関係も保持しなければならない。
 
そのためカール5世は、まずは「自身が熱心な西方教会(カトリック)主義者」として自身がスペインの同朋者であることを必死に演じた。
 
この複雑なカール5世の窮地を救い、大いに支えていたのがネーデルラントから連れてきた側近らで、その中でもアードリアン・フローレンス・デュダル(のち教皇ハドリアヌス6世)はそれをかなり助けていた。
 
強国だったからこそ自国の考えに偏りがちだったこの当時のスペイン貴族、聖職者、都市有力者を、継承当時のまだ若かったカール5世が説得できるはずがなく、その並大抵ではない調和に尽力した側近らの中でも、アードリアンの影響力は大きかったようだ。
 
アードリアンの生まれは大工技術師の家系で、恐らく庶民の中級の上のほうの家庭出身だったと思われ、地元では有力な聖職者でありながら貴族間や教皇庁(公的聖属)との交流の乏しさをみるに、典型的な地域聖属からのたたき上げの優れた神学者だったと思われる。
 
ルヴェン大学で神学教授、次いで大学長を務め、カール5世の教育係に抜擢され、以後もカール5世の側近の1人としてカスティリャ入りの際はスペインの国家裁判長を務めた経歴をもつが、この時点でのアードリアンに対しては全く非難が見られないことから、その真面目さや公正さは一目置かれる存在だったと思われる。
 
これは先述したように、神学者である以上は人種を問題視する訳にはいかなかったことも強かっただろうが、これはスペインの西方教会(カトリック)主義の成立が少し特殊だったことも関係していたかも知れない。
 
スペインは教皇庁(ローマ)に頼り切ってではなく、地元意識から西方教会(カトリック)主義が強くなった点で、教義は西方教会(カトリック)中心でも地域聖属の力が強かったと思われ、人種は違っても、同じく地域聖属のたたき上げであったアードリアンに気概が通じるものがあったのかも知れない。
 
アードリアンは野心的なものが何一つ見られず、国家裁判長の立場でありながら自身の家系の格上げなど一切しようともしておらず、少なくとも神学者、聖職者としては人間性に優れた一流の人物だったと見ていい。
 
カール5世の最初のカスティリャ王の就任で騒動が起き、それがいったん落ち着いたもののまだまだスペイン王室としての権威は定まっていなかった。
 
アードリアンを教皇に擁立する計画は、皇帝選挙のあった 1519 前後には浮上していてもおかしくなく、スペインでのカール5世の権威を助けるためには今まで以上の公的聖属の力も必要になってきたことと関係していたのは間違いないだろう。
 
この計画は、王室の都合だけでなく、他にも色々な意図も含まれていたと思われる。
 
まずレオ10世のように、強い圧力と政治取引で教皇を擁立しても、必ずしもイタリアをスペイン・ドイツ派で安定させることはできず、教皇庁の最終的な意向は所詮はイタリア人の都合で動かれてしまう所は、どうにもならなかった。
 
そこでアードリアンに白羽の矢が立ったのだと思われる。
 
彼がスペイン人ではなく、神学者出身のネーデルラント人であったことから中立的な体裁も良く、皇帝とは盟友的でありながら欲がなく、宗教に真面目に向き合おうとする人柄はうってつけと談合されたと考えられる。
 
教皇庁は宗教に関してはいつまでも非難続きで、ユリウス2世の派手な軍事行動や、レオ10世の金権的な俗物風潮が続いていたため、スペイン王室がこれから教皇庁の権威を利用していくにあたっての、そのテコ入れの意向もあったのではないかと筆者は考えている。
 
この前代未聞のハドリアヌス6世(アードリアン)の教皇擁立劇は、当然のように買収されたであろう枢機卿団についてはともかく、イタリアの聖職者間では少なくともその屈辱感は凄かったと思われる。
 
これはカール5世(ハプスブルク家)の権威がかなりのものだったといえるのと同時に、こうした事態をもはや教義的に抵抗できる力がなかった「教義の主体性のない教皇庁」の弱さの実態が、ついに明確に暴かれた瞬間だったともいえる。
 
当時の教皇庁は、世間からは「時代錯誤的な汚職まみれ」と見なされていて教義上の建て直しもほとんど絶望的だったことは、ハドリアヌス6世の行動からよく窺える。
 
しかし残念ながら1年も経たずして死去してしまい、事情が複雑すぎるのか評価対象にもなかなか挙げられない。
 
マキアヴェリが失脚して10年後にあたる 1522 年1月に教皇としてハドリアヌス6世が就任するが、教皇としての事跡などをまとめる。
 
1522 年の1月にハドリアヌス6世が教皇に就任すると、まずはカール5世に「カスティリャ中の代々の王家の各修道会領の明確な継承者である勅書」の発行の手続きが迅速に行われた。
 
これによって名実ともにカール5世はスペインの覇者としての地位を迅速に不動のものとすることができた。
 
ただし迅速といっても勅書は4月に送られていて「就任した数日後に送るのはさすがにあからさま過ぎるから、手続きに時間がかかったかのように見えるために」さすがに少し時間を置いたのだと思われる。
 
これがすんなり手続きされたのは、このカスティリャの王族領(修道会領)のカール5世への移管について、教皇がカール5世の顧問官だった頃にカスティリャ貴族への説得によって既に話がついていたことも、この手続きを迅速にしていた。
 
こうした手続きは、本来は多額の献納(セルヴィーティウム)が支払われるはずだが、ハドリアヌス6世(アードリアン)が無欲すぎたことでその受け取りも小額だったのではないかと思われる。
 
ハドリアヌス6世になってから枢機卿団はその利益供与が急に止まってしまったことで、不満が噴出しているためである。
 
カール5世は継承権が広大すぎたために、各地に挨拶回りをするようにその継承式典ひとつひとつをこなすための、それにかかる時間と費用も実に大変なものだった。
 
さらには皇帝選挙の費用やら、これから必要な政治資金も莫大なもので、自身の権威が固まっていない間はフッガーを始めとする資本家、銀行家らから巨額の借入に頼り切りで借金だらけであった。
 
これによってスペイン王室(カール5世)はサンティアゴ騎士修道会領、カラトラバ騎士修道会領、アルカンタラ騎士修道会領という王族の広大な税収直轄地を掌握したことで、ようやく自身の明確な財源の確保と返済のめども立ち、ひとまず安心した。
 
(アルカンタラ騎士修道会領のアルマグロ水銀鉱山権->アマルガム技術->新大陸ポトシ銀鉱の増産)
 
この教皇擁立は、スペイン王室(カール5世)にとっていい事づくめのように思えたが、ところがそんなことはなく誰もが想像もしなかった事態に進んでいった。
 
>(続く)