- 聖属視点の近世のマルティン・ルターの時代(2/2) -
この宗教問題とアウクスブルクにも深く関係しているフッガー家についてもついでに述べておく。
フッガー家というとヤーコプ・フッガーが有名だが、その次代のアントーン・フッガーはさらに優れた人物だったのではないかと筆者は見ている。
この突如として出現した巨大資本家フッガー家は、この出現もある意味で必然だったといえ、まずどんな風に大きくなっていったのかを述べたい。
ヤーコプはアウクスブルクの資本家の1人として既に著名ではあったが、皇帝マクシミリアン1世との出会いがフッガー家の大きな転機となった。
マクシミリアン1世は、貴重な財源の1つであったオーストリアの自領ティロールの銀山の銀の先買い権を利用し、有力商人たちから借入をするのが恒例になっていた。
次第にヤーコプもその契約に参加するようになると、マクシミリアン1世はヤーコプとのことをとにかく気に入るようになり、ヤーコプはひいきされ契約も有利になっていった。
ヤーコプは宗教にはあまり熱心ではなかったがかなりの努力家で、経営能力と先見力に非常に優れていた所などが気に入られたようである。
これは個人的な交流があったといえるほどで、オーストリア王族とアウクスブルクのいち有力名士(メツラー)の、この身分を越えた友情のような交流は当時としても珍しいといえた。
皇帝の庇護のもと、ヤーコプは教皇庁や司教との交流関係を強化することになり、ついには帝国を支える大銀行家として急成長を遂げる。
マクシミリアン1世のヤーコプへのひいきぶりは別格で、そのうち土地買いの権利まで与えられ、土地を購入するに至り、ついには伯爵の位まで与えられるほどだった。
ヤーコプ・フッガーは 1511 年に教皇レオ10世から「金の拍車の騎士」に叙され、皇帝マクシミリアンからも貴族の称号が与えられ、1514 年に伯爵に昇進している。
もっともこれは、権力者の庇護があったというだけの単純な話ではなく、そもそものヤーコプの能力の高さが注目されている。
残存している当時のフッガー家の帳簿は、当時はまだ形態が確立されていなかった複式簿記(借方と貸方による損益計算法)の独自工夫が用いられていて、細かい所は計算が合わない所もあるものの、その精度は非常に高いものであったことが知られている。
その帳簿は、家財から不動産に至る家産管理から各種業務のそれぞれの目録と、複雑な売掛と買掛が細かく把握されていて、不良債権と減価償却と決算の発想も用いられており、現代の会計士の原型を16世紀に既に作ってしまっていた所に驚かれている。
マクシミリアン1世は政務が大規模化してくる一方で財政が逼迫することも度々で、その経験から当時はまだ「国家銀行」という発想がない中で、国家銀行的な役割ができる人物を求めていたのだと思われ、そのうってつけがヤーコプ・フッガーだったのではないかと筆者は考えている。
ヤーコプには子が恵まれなかった。
フッガー会社はヤーコプを総支配人(当主)とし、ヤーコプの4人の甥のウルリッヒ(病死)、ヒロニムス、ライムント、アントーンと、優れた大番頭マーテウス・シュヴァルツの5人の社員(資産権保有者)が支え、その下に多くの従業員がいるという構成だった。
次代アントーンは、当初はフッガー家の後継者とは目されておらず、アントーンの兄のライムントが次期当主であることが既に決定されていた。
ヤーコプがまだ顕在であった時に既にフッガー会社は下降線の前兆が出てきたため、ヤーコプの死後にこの下降線は誰も支えられないのではないかと考えるようになり、次期当主としてのうまみも乏しくなってきたライムントも後継者としての意欲をすっかり無くしてしまっていた。
肝心の次代皇帝カール5世がカスティリャ(スペイン)王室中心の政局に移行してしまい、限度を知らない借入の催促に対するその回収も、これまで何の縁もないスペインからの回収努力をしなければならなくなるという苦難が待っていた。
さらにヤーコプとライムントはあまり仲が良くなく、ヤーコプがあまりにも高い能力と努力をライムントに求めていたことに加え、方針の違いからよく言い合いをしていたという。
しかもヤーコプの主導でハンガリーの名士トゥルツォー家の娘とライムントが政治的に結婚させられていたことも、2人の仲を険悪にさせる要因にしていた。
のちにハンガリー王室は財政破綻とオスマン帝国侵略の脅威で大混乱し、その責任がトゥルツォー家に向けられると、どうにもならなくなったトゥルツォー家がフッガーのせいにし始めたためライムントの面目も丸つぶれで、余計にギスギスさせた。
フッガー家は既に伯爵の地位を与えられていて、バイエルン州のドーナウヴェルトやヴァイセンホルンといった小領地をいくつかもっていたため、ライムント(アントーンの兄)とヒロニムス(ウルリッヒの弟)の2人は家業を早々に降りて、そこの土地所有貴族としての生活を望んでいた。
ライムントとヒロニムスがそんな調子であるからヤーコプは死期を意識するようになると、フッガー会社をたたんで清算することを本気で考え遺言を何度も書き直した。
しかしここでフッガー家は、心残りが2つあった。
1つは、まだ会社の体力自体は十分あるのに先が見えているからといってここでたたんでしまうと、大勢の従業員に多額の退職金を与えたとしても彼らを見捨てることになるのではないかという後ろめたさがあった。
もう1つは、フッガー家の悲願であった、アウクスブルクの福祉住宅街の建設というこの「夢のような」慈善事業計画が全て完了する前にたたんでしまうことになる無念についてだった。
アントーンがその責任を感じていたようで、結局アントーンが後継者となることで話もまとまり、ヤーコプもアントーンに後を託す覚悟を固めた。
アントーンは大人しい静かな人物だったようで、また若い頃は人文主義会に所属して真剣に宗教について考え、エラスムスとも交流をもっているほど真面目な人物だった。
エラスムスは宗教改革の考えを広めるため遍歴を続けていたが、エラスムスがアウクスブルクを訪れた時にアントーンはアウクスブルクの永住を勧め、活動を是非支援したいと願った。
それは結局実現しなかったが、エラスムスと交流のあったルターとアントーンは、人文主義の交流で顔を合わせていた可能性がある。(ちなみにルターはアントーンより10歳ほど年上である)
交流はなくてもルターはアントーンが人文主義者であったことは知っていただろうから、ルターのヤーコプ・フッガー非難は、教皇庁があれこれ難癖をつけてくる際の方便の題材にしていただけで、ルターは本気でフッガー家の全てを否定していたのかは怪しいと筆者は考えている。
アントーンが家業を引き継いだその後の、カール5世の限度知らずのメチャクチャな借入要求に難色を示しつつも支え続け、大変に苦しい中でもアウクスブルクの福祉住宅街「フッガーライ」の建設事業計画を進め、1548 年に完成させた。
民間による「手工業労働者の貧民のための、都市の中の福祉住宅街」はこれが史上初の快挙であり、この福祉住宅街はアウクスブルクの大きな誇りとなり、現在も受け継がれている。
1548 年は丁度、福音派(プロテスタント)運動と連携した一揆闘争「30年戦争」が終結した年にあたる。
この福祉住宅街「フッガーライ」には人文主義(個人主義)の影響が反映されている。
これまでは貧民の住むような家屋といえば、都市の片隅に貧民家屋の密集地による喧騒と犯罪との隣り合わせというような世界で、福祉住宅についても都市の外れの限られた家屋に、それこそ1つ部屋に何人もの他人が雑魚寝するのも当たり前のような世界だった。
しかしフッガーライでは都市の中にありながら路地も広めにとられていて、家屋も家族ごとの部屋に分けられ、貧民でも個人を尊重してゆとりを与える意図のものになっている。
フッガーライはその公共性を乱さないための門があり、清掃係や見張り番までおり、宗教を大事にするために聖堂まで用意され、家賃をただ同然にする代替の義務として当番制で公共性を大事にしていく体制が採られていた。
フッガーライは、その敷地と建物の構造は中流の上の方の家庭を思わせるような立派なもので、貧民を対象にしていたからこそ清楚感を大事にさせようとする上品なものだった。
そのためこの福祉住宅の入居資格を得るための面接も当然厳しく、ただ貧民だから入れる訳ではなく、貧しくても真面目に生きようとする人間性を重視している家族から優先され、貧民特有の「ヤケクソになって酒を飲んで騒いだり、建物や路地を汚すような下品で不真面目な者」は当然つまみ出された。
フッガーライは67世帯ほどのだいたい170名ほどの収容規模だが、これは当時としては驚くべき大規模なもので、誰1人としてできなかったこの偉業を立証したことの価値と影響力は多大であった。
まず都市の中にこの規模の用地を購入するだけでもかなりの時間と高額な費用がかかり、都市の有力者の理解も必要で、しっかりとした敷地の整備まで計画された建設となればさらに高額になる。
中世でも福祉住宅は各地に存在したが、あっても大抵は郊外に小規模の数軒がチラホラあるだけで、貧民にも生きる尊厳は重視されても、生活的な尊厳まで重視されたものはなかった。
しかし近世には福祉住宅のあり方の関心がもたれるようになり、ネーデルラント(現オランダ・ベルギー)の方ではフッガーライのその原型が見られ、フッガーライの建設計画はその前例が参考にされたのではないかといわれている。
いずれにしてもフッガーライの偉業は前代未聞で、貧民でも1人1人を尊重しようとする具体的な前例を作ったことで、これからはこのくらいはやって当たり前で、それができていないことに恥を覚えるという貴重で誇り高い公共意識の象徴となった。
ここで注目するべきことは、このフッガーライの入居資格が西方教会派(カトリック)の信仰を条件としていたことである。
これはアウクスブルクの福音派(プロテスタント)勢力が強くなりすぎてしまったことの対策だったと思われる。
1555 年の宗教和議でアウクスブルクで福音派(プロテスタント)が堂々と聖務を行うようになったことは、都市貴族(パトリシア)がこれまで主導的に公的聖属(カトリック)を据え置きしてきた聖堂参事会(裁判)による都市支配が崩れ、今までの貴族的な支配力が弱まることを意味していた。
1548 年までには既にその傾向が強く見られ、今まで都市貴族権力(パトリシア)と繋がっていた都市名士(メツラー)らの権威の弱体化も目立ち、実際に権力者は都市を追い出されたりしている。
フッガー家も実際に、シュマルカルデン戦争が起きた時にはアウクスブルクを追い出され、アントーンにおいては戦争資金や講和を目的に福音派(プロテスタント)に拉致されたこともあるほどだった。
これは拉致ではあるが、アントーンに味方してもらうための泣き言に近い懇願で、しかしアントーンの立場上はどうしても福音派(プロテスタント)に味方できなかった。
福音派(プロテスタント)運動と連動して農民一揆がバイエルンの各地で頻発したおりには、フッガーの領内でも一揆が発生しているが、他の領主との連携でこの鎮圧に成功している。
アントーンの立場は貴族側つまり西方教会派(カトリック)側の人間で、アウクスブルクの福音派(プロテスタント)から追い出しを受けたり、一揆を起こされたり、拉致されたりしたにも拘(関)わらず、彼らとの同胞意識は強く、内心は同情的だった。
皇帝軍がアウクスブルクをはじめとする宗教同盟都市の鎮圧に本格的に乗り出そうとした際に、そのための巨額の戦費をカール5世はやはりアントーンに要請したが、アントーンは色々言い訳をしてどちらにも味方せず、時間稼ぎをして双方の和解の道を探ろうとした。
しかしカール5世の強い要請についに断り切ることもできなくなり、やむなく53万グルデンの巨額の戦費を用立てし、まもなくアウクスブルクは皇帝軍に鎮圧されるが、アントーンはくれぐれもアウクスブルクに対する寛大な処置をカール5世に願い、間接的にその和解をとりもった。
それが聞き入れられたのか、アウクスブルクが降伏した際に賠償と後始末の義務を課された他には、残酷な処刑などは全く行われず市長を始めとする都市の重役も全て許されたが、これはカール5世にも内心の同情もあったのかも知れない。
ただしこの時に特殊商工団体(ツンフト)は解体させられ、都市貴族(パトリシア)再支配の見せしめは受けている。
なおこのアウクスブルクに課せられた賠償金は10万グルデンで、都市は急には払いきれなかったためその用立てをやはりアントーンとその他の有力者と協力して請け負っており、アントーンは貴族側の人間として威張ることなどしなければ、非常に責任感が強かったことが解る。
彼らは宗教戦争で敗れた後も熱心に宗教のあり方を訴え続け、その影響は「西方教会(カトリック)の教義を信じていても苦しいばかりで、救いの手立てが何もされない」という風潮をますます強め、西方教会派(カトリック)を正統な宗教だと信じ続ける人々の失望を助長し続けた。
その機運が何度も再燃して 1555 年のアウクスブルクでの帝国議会の時にカール5世は「アウクスブルク宗教和議」で条件付きでついに彼らを認め、福音派(プロテスタント)の地位を勝ち取った。
アントーンとしては、教義的にはどちらでも良かったのかも知れないが、公的聖属とのこれまでの結び付きを考慮して、逆にアウクスブルクで西方教会派(カトリック)を信じる人々に希望を与えるために、その信仰をフッガーライの条件にせざるを得なかった。
アウクスブルクでは教義の逆転現象が起きていたからこそ、それを調整する役割をフッガーライは担うことになり、その成立はフッガー家の慈善的な考えだけでなく政治的な責任を多分に支えることになったのだった。