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マリリンモンロー LAUREN BACALL:ローレン・バコール(女優)

LAUREN BACALL:ローレン・バコール(女優)


 1944年、“ベティ”バコールは『脱出』でハンフリー・ボガートの相手役として華々しいスクリーンデビューを果たした。そして、のちに二人は結婚する。1953年には、『億万長者と結婚する方法』で共演したマリリン・モンローのほうが脚光を浴びるようになり、バコールの存在感が薄らいできた。

『億万長者と結婚する方法』の仕事に入っているあいだ、ボガートと暮らしていた邸宅にバコールがMMを招待したことがあった。それでも撮影中は、バコールはMMに対して、節度はあるものの冷ややかな態度だったと言われる。

 バコールは自伝『バイ・マイセルフ』(1979)で次のように語っている。

 向かい合うシーンで、彼女は私の目ではなくて額を見ているのよ。一場面の撮影が終わると演技コーチのほうに目をやって、どう、よかった? というような顔をするの。コーチが首を横に振ると、彼女はもう一度撮らせてと頼んだわ。十五回以上撮りなおしたこともあった。私のほうは毎回同じだったから、どれが採用されたかはわからないけどね。そりゃ、たいへんだった――しょっちゅう、イライラしてたわよ、彼女。でもね、私、なぜかあの人のこと嫌いではなかったわ。イヤなところとか――性格が悪いとか全然なかったしね。彼女は自分と、自分のためにいてくれる人だけしか、目に入らないのよ。

 MMがバコールの幼い息子に話しかけようとしたのだが、うまく話がかみあわなかったことがあると彼女は記憶している。

  MM:ボク、いくつ?

  スティーヴ:四つ。

  MM:四つにしては大きいわね。二つか三つかと思っていたわ。

マリリンモンロー ART:COLLECTION

 マリリン・モンローは美術品の蒐集が好きだった。蒐集とともに鑑賞力も磨かれていった。たとえば・・・・・

* 1952年 UCLAの美術鑑賞クラスで学ぶ。
* 1952年 ハリウッドのアパートメント時代、デューラー、フラ・アンジェリコ、ダ・              
ヴィンチの複製を購入。
* 1955年10月 MM、アル・ウィルソンに「ゴヤが好き」と語る。
         他のリポーターに、「好きな画家はゴヤ、ピカソ、エル・グレコ」
         と語る。
* 1955年 メトロポリタン美術館のロダン展に出かける。
MMが特に魅了されたのは『ピグマリオンとガラテア』、『神の手』と
      言われる。
* ニューヨーク時代、ロートレックの絵を応接間に飾る。
* 亡くなる年、スペイン風のブレントウッドの家に似合う3枚の絵をメキシコ・シティで購入。
* 亡くなる2,3か月前、男と女が抱擁しているロダンの作品を購入、ブレントウッドのリビングルームに飾る。

マリリンモンロー ABORTIONS

 マリリンがたびたび中絶していたことは多くの書物に著されてきた。若いころに中絶を繰り返してきたため、子どもを産めない身体になってきたとも推測される。
 ノーマン・メイラーは1973年出版の大作『Marilyn』の中で、持ち前の緻密な描写を切り捨て、こう語っている。
「ミルトン・グリーンが語るには、マリリンはおぞましい堕胎手術をしたため、妊娠できない体になってしまった・・・。マリリンをよく知っている友人が、マリリンの堕胎経験は12回にも及ぶと言っていることからも納得いく。下衆の勘ぐりから言えば、そうした経験の多くはモデルをしていたころ、あるいは7年契約の端役時代のことだろう。その結果、マリリンの子宮はどうしようもないほどに傷ついたのだ」

 メイラーの主張はもっともだとする人びとがいる。1955年、マリリンはエイミー・グリーンとヘンリー・ローゼンフェルドに「また手術をしたの。これで13回目よ」と打ち明けている。この数字はおおげさかもしれない(まったく可能性がないとも言えないが)。
1955年にマリリンはまだ29歳だったのだから。
 噂によれば、最後の中絶は死ぬ2週間前と言われる。1962年7月20日、マリリンは密かにシダーズ・オヴ・レバノン・ホスピタルを訪れている。その父親はジョン・F・ケネディ。
 マリリンを身ごもらせた人物としてチャーリー・チャップリン・Jr(チャップリンの息子)、フレッド・カーガーがいる。


マリリンモンロー AFTER THE FALL(戯曲『転落の後に』)

 『転落の後に』は1962年のマリリンの死後、アーサー・ミラーが初めて書き下ろした戯曲である。心の傷を癒すために書いたのであろう。それでも、興行的にはもっとも成功した劇のひとつとなった。が、初日には、主人公マギーはマリリンのキャラクターを真に描いていないと、ミラーは激しい批判を浴びた。

 この劇にはミラー・モンローの結婚の実態をあらわにしている部分がある。

クエンティン(ミラー):彼女のことを真剣に考えようとせずに、相手にならない、ひとつの美として認めていればよかったのだ!

 『転落の後に』の監督はエリア・カザン。初演は1964年1月23日、ニューヨークのANTA-ワシントン・スクエア・シアターで上演された。
 ブロードウェイの後、MGMにより、カルロ・ポンティ制作、ソフィア・ローレン、ポール・ニューマン共演の話が持ち上がったが、実現されず、1967年にパラマウントがこの企画を受け継いだ。ソフィア・ローレンとブリジッド・バルドーがMMをモデルとしたマギー役に乗り気だったと言われる。候補には、キャンディス・バーゲン、キム・ノバック、ジュリー・クリスティー、ヴァネッサ・レッドグレーヴなど、(さらには、あの)エリザベス・テーラーの名前さえ挙がった。
 しかし、このパラマウント・バージョンすらも、またもや、日の目をみることはなかった。マリリン・モンローの名が映画の公共性に利用されてしまうことをミラーが許さなかったのだろう。ミラーは最終的に「マギー役」を決定する権利も持っていた。MMを彷彿とさせるような女優に耐えられなかったのは明らかだ。
 それでも、ブロードウェイ公演から10年後、『転落の後に』はNBCのテレビ画として1974年12月10日に放映された。監督はギルバート・ケイツ、脚色はミラー自身によるものだった。クエンティンはクリストファー・プラマー、そしてマギーはフェイ・ダナウェイが演じた。

マリリンモンロー THE WILL:THE LAST WILL AND TESTAMENT(遺言

 マリリン・モンローの遺言は1962年8月17日、ニューヨークの検認後見裁判所に納められた。だが、10月の末には遺言の合法性をめぐってある論争が起きた。
 10月25日の「ロサンゼルス・タイムズ」によると、わずか100万ドルにすぎないマリリンの遺産に元ビジネス・マネージャーのイネズ・メルソンによって異議が申し立てられたのだ。ミス・メルソンは、この遺言がリー・ストラスバーグ、あるいはマリアンヌ・クリスのどちらかの不適切な圧力により作成されたものではないかと感じたという。
 ミス・メルソンはアレン・スタイン弁護士を代理人に立てたが、30日には遺言検証判事のサミュエル・ディファルコはこれを却下し、遺言の効力を認めた。
 それでも、さらに異議が申し立てられ、1971年11月にようやく遺産受取人の元に渡った。

 [遺産受取人]
1. バーニス・ミラクル:1万ドル
2. ノーマン&ヘッダ・ロステン:5000ドル(夫妻の娘に養育費として)
3. ズイーニア・チェコフ:年2500ドル
4. グラディス・ベイカー:年5000ドル(10万ドルの基金から)
5. メイ・ライス:1万ドルプラス残額の25%(4万ドル以下)
6. マリアンヌ・クリス:残額の25%
7. リー・ストラスバーグ:残額の50%(マリリンの家財、衣類も)

 *ロバート・スラッツアーによると、遺言を書き換えるために、マリリンは1962年8月6日にミッキー・ルーディン弁護士と会う約束をしていた。受取人にジョー・ディマジオ、ジョーン・グリーンソン、そしてスラッツアーを追加するつもりだったのだという。

マリリンモンロー BILLY WILDER(2)

ビリー・ワイルダーのマリリンに寄せる思いは愛憎入り混じるものだったようだ。1958年の『お熱いのがお好き』の制作はなかなか思うようには進まず、ワイルダーとMMはほとんど言葉を交わすことがなかった。1958年11月6日、ワイルダーのアパートメントでの打ち上げパーティに、マリリンは姿を見せなかった。招かれなかったのだ。
 『お熱いのがお好き』の撮影で、ワイルダーは極度のストレスのあまり、背中の筋肉に激痛を生じ、椅子で眠らなければならないほどだった。
 撮影が終わると、ワイルダーはマスコミにこう語った。
「これで、女房の顔を見ても、女なんだから手をあげてはいけないのだと思えるようになったよ」
 マリリンへの言葉の攻撃がおおやけになると、アーサー・ミラーはこれに反撃した。
「マリリンは地の塩である」とワイルダーに電報を打った。ワイルダーもこれに応えて、「あなたの『地の塩』は助監督に対してひどい態度をとりました」と電報でやり返した。
 だが、この電報合戦はワイルダーの次の言葉で決着がついた。

 親愛なるアーサー殿
   この論争を速やかに終結させるために、あなたの良妻マリリンは際立った個性の持ち主であること、そしてこの私はベルゼンの、なんの個性もない偏屈オヤジであることを認めます。
                          敬具    
                          ビリー・ワイルダー

 その後まもなく、1960年の『アパートの鍵貸します』のヒット記念パーティで顔を合わせたワイルダーとマリリンはまた一緒に仕事をしようと和解した。
その候補として、『あなただけ今晩は』があったが、マリリンの死によって、主演はシャーリー・マックレーンとなった。
 ビリー・ワイルダーは映画史上、もっとも多くの作品を手がけた監督であった。
  1906年6月22日、サミュエル・ワイルダーとしてウィーンに生まれる。
 代表作は『深夜の告白』(1944)、『失われた週末』(1945年のアカデミー監督賞、脚本賞受賞)、『サンセット大通り』(1950年のアカデミー賞脚本賞受賞)、『第十七捕虜収容所』(1953)、『麗しのサブリナ』(1954)、『七
年目の浮気』(1955)、『情婦』(1958)、『お熱いのがお好き』(1959)、『アパートの鍵貸します』(1960年のアカデミー賞最優秀映画賞、監督賞、脚本賞受賞)、『ワン・ツー・スリー』(1961)など。

マリリンモンロー BILLY WILDER(1)

 ジョン・ヒューストンをのぞくとするならば、ビリー・ワイルダーはマリリン・モンローの映画に貢献した最高の監督であろう。確かに、MMがもっとも得意とするコメディの監督としてはワイルダーの右に出る者はない。監督、プロデューサー、作家にとどまらず、ハリウッドが生んだ才人であった。『七年目の浮気』(1955)、『お熱いのがお好き』(1959)でMMの名を上げたワイルダーはこう言っている。
 
 「問題なのは、マリリンが一人の人間であるか、デュポンの人気製品のひとつであるか、ということだ。みかげ石のようなバストとアナだらけのスイスチーズのような脳ミソ」          『ライフ』誌 1964年8月7日号

 「スクリーンであれほどボルテージの上がる女はいなかった、ガルボ以外は」
                     
 「モンローがすごいのは胸ではない。耳だ。話の達人だ。誰よりもコメディを読み取る力がある」

 「9時に、と言っても、姿を見せるのは昼。5月に、と言えば、やってくるのは10月だろう」

 「マリリンの映画を撮るのは歯医者に行くようなものだ。治療中は怖くてたまらないが、終わってみると、ああ、よかった、と感じるのだ」

マリリンモンロー WEDDINGS(結婚式)

* JAMES DOUGHERTY
  1942年6月19日 午後8時30分
  チェスター・ハウエル・レジデンス(ロサンゼルス、ベントリー・アヴェニュー432)

 ジム・ドアティとノーマ・ジーン・ベイカーの結婚式には25人が参列した。
ノーマ・ジーンの養父母だったアルバート・ウェインやアイダ・ボレンダーなどもいた。花嫁の付き添い役はユニヴァーシティ・ハイスクール時代の同級生、ジムの付き添いは弟のマリオン・ドアティ。花嫁を花婿に引き渡す父親役はノーマ・ジーンの叔母、アナ・ロウアーだった。結婚の儀はクリスチャン・サイエンス・チャーチのベンジャミン・リンゲンフェルダー牧師によって執り行われた。ノーマ・ジーンの母親、グラディス・ベイカーと後見人のグレース・ゴダードは出席できなかった。花嫁衣裳はアナ・ロウアーが作った刺繍のほどこされた白いドレス、新郎はレンタルの白いタキシードだった。

* ROBERT SLATZER
1952年10月4日
ティジュワナ、メキシコ

 ロバート・スラッツアーとの結婚式はどう見ても、お粗末なものだった。スラッツアーによると、参列者はウィットネス(結婚の証人)である友人の"キッド"チセル、ただ一人。結婚の誓いは無名の弁護士によるもので、5ドルだった。

* JOE DIMAGGIO
1954年1月14日 午後1時48分サンフランシスコ・シティホール

 ジョー・ディマジオの10人以上の友人たちが、マリリン・モンローとの遅すぎた結婚に立ち会った。式はチャールズ・S.ピアリー判事の部屋で行なわれた。花婿の介添え役はリノ・バルソチーニ夫妻、レフティ&ジーンのオドゥール夫妻、そしてジョーの弟のトム夫妻。さらに100M人を超えるカメラマンと記者たちも駆けつけた。
 MMの衣装は白テンの襟のついたチョコレートブラウンのスーツ、三つの白い蘭のコサージュが胸元を飾っていた。ディマジオはダークブルーのスーツに、MMと出会ったときにつけていた、あの水玉模様のネクタイ。

* ARTHUR MILLER(その1)
  1956年6月29日 午後7時21分
  ホワイト・プレーンズ、ニューヨーク

 シーモア・ロビノウィッツ判事により、アーサー・ミラーとマリリン・モンローの市民婚がウィンチェスターのホワイト・プレーンズ裁判所で執り行われた。アーサーの従兄弟のモートン・ミラー夫妻、ミルトン・H・グリーン、リー&ポーラ・ストラスバーグ、それにジョン・ムーアが参列した。MMはカジュアルなセーターとスカートを着ていた。

* ARTHER MILLER(その2)
  1956年7月1日 
  キー・ブラウン・レジデンス(カトナ、ニューヨーク)

 アーサー・ミラーとマリリン・モンローのユダヤ教の結婚式は、ラビのロバート・ゴールドバーグのもとで行なわれた。ニューヨークにいるMMの友人すべてが参列した。ハリウッドの友人たち、カメラマン、記者たちは招待されなかった。リー・ストラスバーグが花嫁に付き添い、既婚婦人としての介添え役はヘッダ・ルースティン、エイミー・グリーン、ジュディ・カンターだった。MMはベージュの花嫁衣裳に合わせてヴェールをまとっていた。ヴェールはMM自らコーヒーで染めたものだと言われる。

マリリンモンロー  UNDERWEAR(下着)

 「ガードルやブラジャーといった下着のラインや誇張は不自然。女の子をだいなしにしてしまう、だから私は着たことがないわ」
            MM、アール・ウィルソンのコラムに。 1952年8月27日

 「服の下にはブラもパンティもつけていなかった。どうしてもつけなければならない時は、お粗末なブラ、二本の紐と、透けるハーフカップだけの、「ノー・ノー・ブラ」と呼ばれるものだった。だが、たいていの場合、何もつけていなかった。それほど巨乳ではなかった。ブラなどつけなくても見栄えがよかった。下品にもならず、貧相でもなく、何かが違っていた」
                       ジョージ・マスターズ
 「私、ガードルもブラもほとんどつけたことないの。身体を動かすのに邪魔なのよ。いずれにしても、女の人の目を意識してではなく、男の人にどう思われるかってことで下着をつけるのよね。ガードルをつけると、ペッタンコになってしまうでしょ。どうしてペッタンコにしなくちゃいけないのかしら?」
                     『ハリウッド・リポーター』誌に

記者:下着をつけているのですか?
MM:ガードルをつけている女の子のために、男の人はハードルを飛び越えるなんてことはしないでしょ。

 マリリン・モンローは下着が好きではなかった。だから、めったに身につけたことがない。特にパンティなどはそうだった。後年、ブラは形を整えるためのデザインのものをつけたりした。ほとんどの場合、身体を締め付けるからという理由で下着はつけなかった。

マリリンモンロー The WALK(モンロー・ウォーク)

 「くっくっというあの笑い、カメラをもてあそぶようなポーズ、そして、あの独特な歩き方。一歩足を踏み出すごとに、ヒップがウインクしているかのようだ。何年にもわたって契約を交わしてきた20世紀フォックスが、マリ
リンの後ろ姿を撮ろうと考えなかったのは信じられないことだ」
              カメラマン、フィリッペ・ハルスマン、1966年

 「地面の上をまるで綱渡りのように、バランスをとりながら歩いている」
                 ギャビン・ランバート、1969年

 「並の女優の6ページにもおよぶ台詞よりもはるかにたくさんのことを、マリリンはほんのわずかな足の運びで表現している」
                  ハーモン・ジョーンズ監督、1960年

 「わざと歩いているんじゃないのよ。みんな、クネクネしてるとか、ヨタヨタしてるとか言うけど、どうしてそう言われるのかわからない。ただ歩いてるだけなのに。私は一度だってクネクネ歩いたことなんかないのに、ずっと、私の歩き方を変に言う人たちのためにそう思われてしまったの」
                     マリリン・モンロー、1961年

 『ナイアガラ』(1953)の中でマリリンが歩いたのは116歩。映画の中でこれだけ歩くシーンというのは長いほうだ。この歩みでスターダムに駆け上がった。マリリンは1950年のマルクス兄弟との競演作『ラヴ・ハピー』
ですでにこの歩き方を披露している。
 だが、人びとが注目し始めたのは『ナイアガラ』以降。
 作家、ピート・マーティンとコラムニスト、シドニー・スコルスキーは、MMを「ホリゾンタル・ウォークの女」と呼んだ。
 まだ駆けだしのノーマ・ジーンの頃、モデルの指導にあたっていたエメリン・スナイヴァリーは、「あのヘンテコな歩き方をなんとかしなければと思ったよ。あのクネクネ歩きはモデルとしてはダメだ。でも、あれがマ
リリンだったんだ。誰も変えることはできなかった。今では、あれでよかったのだと、もちろん思っている」


●●●劇作家アーサー・ミラー逝去●●●

  テネシー・ウィリアムズと並び戦後米国を代表する劇作家、アーサー・ミラー氏が2005年2月10日夜、コネティカット州の自宅で死去した。89歳。
心臓病、ガン、肺炎を患って療養中だった。1949年に『セールスマンの死』
でピュリツアー賞を受賞。1956年にマリリン・モンローと結婚。ジョー・ディマジオに次ぐ三番目の夫となったが、5年で破綻、モンローを神経症と薬物依存から救うことができなかったと、のちに語った。ニューヨーク、ブロードウェイは11日夜、明かりを暗くしてその死を悼んだ。