マリリンモンロー CHRISTMAS:クリスマス
CHRISTMAS:クリスマス
マリリンが過ごしたクリスマス。
☆ 1935年(9歳)のクリスマス。RKOスタジオは近隣の孤児院の子どもたちをスタジオに招待した。アイスクリームやケーキをもらい、映画を見せてもらった。
☆ ある年のクリスマス、学校で劇をやることになり、ノーマ・ジーンにも役が与えられた。ところが、養母は先生に他の子にやらせてくれるよう申し出た。ノーマ・ジーンがセリフを忘れて家族は恥をかきたくないという理由からだった。
☆ 「クリスマスがきても、私はいつもみんなと違ってたの。みんな新しい服を買ってもらうのに、私のは茶色で一番安いものだった。ある年なんか、フォスターファミリーで暮らしている他の子たちはみんなステキなプレゼントをもらったのに、私は10セントのマニキュア一瓶。みんな、部屋のまんなかに陣取ってプレゼントをみせびらかしていたけど、私は隅っこで爪の甘皮をむいてたの。そうよ、クリスマスなんて最悪だったわ」 ヘッダ・ホッパーに、1952年5月4日
☆ 1941年のクリスマス。ジム・ドアティと初めてのデートに出かけた。アデル精密機械製作所でのダンスパーティに行く。
☆ 1945年、ワシントン州での写真撮影を終えたあと、カメラマンのアンドレ・ド・ディーンズとクリスマスを過ごす。ジム・ドアティによると、ノーマ・ジーンは電話をかけてきて、泣きながら家に帰りたいと言った。
☆ ボブ・スラッツアーによると、40年代の終わりにクリスマスを彼女と過ごしたそうだ。二人でお金を出し合って、彼女がかつて住んでいた孤児院にプレゼントを贈った。
☆ 1952年のクリスマス。マリリンはフォックス社のスタジオパーティに行く。家に帰ると――ひとりぼっち。ジョー・ディマジオはサンフランシスコの実家に行ったのだわ、と彼女は思った。リビングルームの明かりをつけると、片隅にあるクリスマスツリーにびっくりした。クローゼットのドアがあいて、ディマジオが姿を現わした。初めて二人で迎えるクリスマスだった。マリリンはのちに、これまでで最高のクリスマスだったと言った。
☆ 1961年のクリスマス。マリリンにとって最後のクリスマスもディマジオと迎えた。マリリンのアパートメントに木を買ってきて、ロサンゼルスのダウンタウンで見つけたメキシコ調のオーナメントを飾った。二人はクリスマスの日をマリリンの精神科医ラルフ・グリーンソンの家で過ごした。マリリンは子ども時代の悲惨なクリスマスのことを家政婦のユーニス・マレーに語った――「プレゼントをもらわなかったのは私だけ。だれかが私にオレンジをひとつくれたわ」
マリリンモンロー JACK CARDIFF:ジャック・カーディフ(映画カメラマン)
「彼女はまちがいなく非凡の才能がある。名女優ではないが、才能がある。スクリーンに出て初めてそれがわかる。カメラを通して現れる魔法のようだ。彼女が意地悪な言葉や汚い言葉を口にしたのを一度も耳にしたことはない。だが。彼女にはその両面があった。ラリー(ローレンス・オリヴィエ)は彼女のことを統合失調症だと言った。そのとおりだった」 ジャック・カーディフ、MMについて 1986年
「彼女は現れた。私の背後でドアがしまった。アーサー・ミラーの腕の中にかすんだような、柔らかなマリリンの体が飛び込んでいった。そして彼にしっかりと抱きしめられてからようやく私のほうを見た。そして恥ずかしそうに、眠たげな目を私にちらっと向けた。そんなマリリンは初めてだった。ハリウッドの鮮烈なセックスシンボルではなく、小さな女の子だった。父親の胸に顔をうずめて訪問者に好奇心をそそられながらもはにかんでいる少女だった」
ジャック・カーディフ、MMについて
1914年生まれのジャック・カーディフはイギリスの優れた映画カメラマンで、『王子と踊り子』でマリリンの仕事をした。他の作品は『シーザーとクレオパトラ』(1945)、『黒水仙』(1946 オスカー受賞)、『赤い靴』(1948)、『戦争と平和』(1956)、『ナイル殺人事件』(1978)、『ランボー』(1985)など。『王子と踊り子』以後に、『息子と恋人』などの監督も手がける。
『王子と踊り子』でイギリスでの脚光を浴びたカーディフはMMのプライベートな写真も撮影した。カーディフはマリリンをルノワールの少女のような被写体としてとらえた。MMの美しさをひきだした写真が数多くある。
マリリンモンロー HAWAII:ハワイ
1954年、日本へのハネムーンの途中、ディマジオ夫妻の乗った飛行機は給油のためハワイに立ち寄った。ホノルル空港では6人の警官が二人を取り囲んでガードした。何千もの熱狂したファンがマリリンの名前を叫んだ。彼女に群がるように押し寄せて、髪の毛をむしろうとさえした。
帰国のときもまたハワイに立ち寄った。マリリンは体調をくずして医者に診てもらった。気管支炎と診断された。
マリリンモンロー JEAN HARLOW:ジーン・ハーロウ(女優)
マリリン・モンローはジーン・ハーロウの再来とも言われた。MMの少女時代、ジーン・ハーロウはアイドルのひとりだった。映画ではハーロウの生涯を演じなかったが、『ライフ』誌ではリチャード・アヴェドンによってハーロウを真似た写真が撮られた(1958年12月22号)。
かつてMMの追っかけ少年で、のちに作家となったジェームズ・ハスピールは、次のようにハーロウとモンローの共通点を挙げている。
☆ シャンパンが好き。
☆ 眠るときは何も着ない。
☆ 葬儀のときのメーキャップ・アーティストを、生前に予約していた。
☆ ビヴァリー・ヒルズのノース・パーム・ドライヴで暮らしていたことがある。
☆ 最期の作品でクラーク・ゲーブルと共演。
☆ 下着をつけるのが嫌い。
☆ 絶頂期に命を落とした。
ジーン・ハーロウは1911年生まれ。短い生涯ではあったが、『地獄の天使』(1930)、『Bombshell』(1933)などの佳作を残した。1937年、26歳の若さで脳浮腫のために亡くなる。
マリリンモンロー FLOWERS:花
☆ ジム・ドアティから白い蘭を贈られる。
☆ 1952年4月、虫垂炎の手術のあと、シダーズ・オブ・レバノン病院にジョー・ディマジオから20本のバラの花が届く。
☆ 同じころ、俳優ダン・デイリーからユリノキを贈られる。枝という枝に歌を歌っているオモチャのカナリアが飾られていた。
☆ 1955年、テレビ番組『パーソン・トゥ・パーソン』に出演したお礼に40本のバラをもらう。
☆ 棺の中のマリリンの手に、小さなベビー・ピンクのバラのブーケをディマジオが添える。
☆ 葬儀のあと、ディマジオはMMの墓に6本の赤いバラを。「1週間に2度、永遠に」と手配する。1982年1月まで20年間にわたって続いた。1年間の花代、500ドルから850ドル。
☆ 1982年、ボブ・スラッツアーが1週間に1度、黄色もしくはピンクのバラを贈る。
マリリンモンロー FANS:ファン
☆「(同性愛)ってすッごくステキ! みんな、わたしとか、マリリン・モンローとか、バーブラ・ストライサンドが好きなのよ」
ベット・デイヴィス
☆「友だちと『アスファルト・ジャングル』を見に行ったんだ。きみが登場してきたら、いい女だねって、みんなもう夢中だった。それまで名前も知らなかったけどね」
デビュー当時のファンレター
☆ 「『大衆』って怖いけど、人間は信頼しています」
マリリン・モンロー
マリリンモンロー ELLA・FITZGERALD:エラ・フィッツジェラルド(ジャズシンガー)
エラ・フィッツジェラルドはマリリン・モンローのお気に入りの女性シンガーだった。1918年4月25日生まれ、アポロ・シアターで歌っていた無名時代にチック・ウェブに見いだされる。そのとき、15歳。40歳でグラミー賞受賞、ジャズの殿堂入りを果たす。
1972年8月号のMS誌の記事によると・・・
「真の意味のデビューはマリリン・モンローのおかげです。私は50年代にモカンボ(ロサンゼルスの有名なクラブ)で歌っていました。あるとき、彼女は店のオーナーに電話してすぐに私のステージの予約席がほしいと言ってきたのです。そうしてくれたら、連日のように最前席を取ってくれるって。マスコミも毎晩やってくるわよ、と、マリリンは言ったそうです。本当に彼女は毎晩やってきて、マスコミもたいへんな騒ぎでした・・・その後、私は小さなクラブで仕事をしなくてもすむようになったのです。彼女は稀有な女性です――時代を先取りするのね。本人は気がついてはいなかったけれど」
マリリンモンロー CHARITIES:チャリティ
MMがチャリティに捧げたのは次のとおり。
☆ 1953年、ハリウッド劇場でジェーン・ラッセルとともに恵まれない子どもたちのために歌を歌ってあげた。
☆ 1954、55年頃、恵まれない子どもたちの家の基金WAIFに資金援助をする。この企画をMMにもちかけたのはジェーン・ラッセルだった。
☆ 1955年、撮影の合間に、関節炎・リューマチ基金の慈善サーカスでピンクの象に乗った。ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで。
☆ 乳児ミルク基金の活動にも参加した。マリリン・モンロー・プロダクション旗揚げ映画『王子と踊り子』のプリミエ公演(1957)で、この基金が設立された。
☆ 福祉施設に1000ドルを寄付し、子どもたちに朝食をサービス。
☆ 1962年6月1日、36歳の誕生日に、ロサンゼルスでの筋ジストロフィー・チャリティに姿を見せる。これが公の場に現れた最後となった。
マリリンモンロー CENSORSHIP:検閲
「ジョンストン検閲所では胸の谷間が見えるかどうかで長いことかかるんですって。なかったらたいへんじゃないね、女の子に」
MM、ピート・マーティンに
『サタデイ・イヴニング・ポスト』紙 1956年5月
マリリンは仕事の上で検閲にひっかかったことはほとんどなかった。うまくかわす方法を彼女は知っていたようだ。次に挙げるのは、数少ない検閲の状況である。
☆ アメリカ軍隊で――1952年に婦人部隊用に撮影されたマリリンの写真を認めなかった。胸がはだけていて、あまりよろしくないということだった。
☆ イラクで――1957年2月、映画『バス停留所』がイラク政府により上映禁止となった。「青少年にとって危険である」という理由から。
☆ カンサス――1959年、カンサス映画検閲委員会は『お熱いのがお好き』でのヨットのシーンで、トニー・カーティスとの絡みの場面を禁止した。
☆ エジプト・シリア連邦共和国(旧)――1959年、ユダヤ教に改宗したことでMMのすべての映画を禁止した。
マリリンモンロー BEAUTY REGIMEN:美容術
BEAUTY REGIMEN:美容術
「朝起きて、顔を洗い髪をとかして出かけるというだけじゃだめなんだ。彼女は美しくあるためには、ありとあらゆる策を弄している」
ミルトン・グリーン、MMについて
* カタリナ島で暮らしていた頃、ノーマ・ジーンは洗顔のたびに十五回顔をすすいでいたと最初の夫ジム・ドアティは語っている。
* MMはワセリン、コールドクリームやホルモンクリームを塗っていた。
* すっぴんのときは、保湿のためにラノリンやオリーブオイルを用いていた。
* おかかえのマーサージ師ラルフ・ロバーツによる“冷水浴”では、いつもシャネルの5番を使っていた。
* 歯茎を出さないように笑う練習を鏡の前で何時間もしていた。
* 自宅に全身用の鏡をいくつか置いていた。壁という壁に鏡をすえつけた化粧室のある家を持っていた。
* 不遇時代、MMは唾を頬骨になすりつけてから、頬をこすっていた。
* 1962年、カメラマンのバート・スターンに「いつも、ニヴェア・モイスチャーローションを使っているのよ」と話した。