前回記事「仏典を読む(その18)無量寿経(下巻)6」の続きです。

 前回の記事では、お釈迦様によって、世間の人々が犯す5つの悪「五悪」が説明されました。今回はそれを踏まえての教えとなります。相変わらず同じ内容を繰り返す部分はあるものの、示唆に富んだ内容が多く含まれています。

 

【無量寿経(下巻)】7

 

 釈迦が弥勒菩薩に仰せになった。

㉓ 世間の人々は五悪を犯し、それによって五痛と五焼の報いが生まれる。ある者はこの世で難病を患い、死にたいと思っても死ぬことができない。そして命が終われば、生前の行いに応じて地獄や餓や畜生の世界に生まれ変わり、計り知れない苦しみを味わう。長い時を経て再び人間界に生まれても小さな悪から始まり再び大きな悪を犯すたまたま裕福になって繫栄しても一時の快楽に耽り、耐え忍ぶこともなく、積極的に善行を行わないことから、繁栄は長続きせず落ちぶれてしまう

 

㉔ お前(弥勒菩薩)を始めとする者たちは、仏の教えを聞いてよく思いを巡らし、心と行いを正しく保ち、上の者は下の者を導き、仏の教えを伝えていくがよい。それぞれが戒めを守り、聖者を尊んで善人を敬い、広く人々に愛情をそそいで慈悲の心を持つようにせよ。そして悟りの世界を求めて、迷いの世界にとどまる原因を絶ち、様々な悪を根本から抜き去り、地獄や餓鬼や畜生などの苦悩の世界から離れよ。

 この世界で、心を正しくして仏の戒めをわずか一昼夜でも清らかに保つなら、極楽浄土で100年間善行に励むよりも優っている。なぜなら極楽浄土は誰でも多くの善行を行うことができ、全く悪のないところだからである

 

㉕ 私(釈迦)がお前たちを哀れむのは、親が子を思うよりもなお一層深い。だから私は、今この世界で仏になって、五悪とそれに伴う五痛と五焼を無くし、人々を安らかな悟りの世界に導こうとするのである。しかし、私がこの世を去った後には、私の教えが次第に衰えていき、人々は偽りが多くなり、再び苦しみの世界に至るようになる。それは時を経るにしたがってますます激しくなるだろう

 

 【メモ】

 ㉓では、世間の人々が「五悪」を行った報いとして、現世で受ける苦しみを「五痛」、来世で受ける苦しみを「五焼」としています。無量寿経では、たびたび、刑罰を受けたり病気になったりする「現実世界での報い」と、死後に餓鬼や地獄に生まれかわる「来世での報い」がセットで説明されています。無量寿経は、来世に関する記述が多いイメージがありますが、実際には現世界に関する記述も多いということは重要だと思います。あと注目すべき点としては、「大きな悪は小さな悪から始まること」と、「繁栄は善行を行わなければ持続しない」と説明されているところでしょうか。

 ㉔について、我々が住むこの世界は、苦悩に満ちており、油断をするとすぐに悪行を行ってしまう世界だからこそ、善行を行うことに価値があると前回の記事で紹介しましたが、これについて、なんと、我々のこの世界で、たった一日だけでも、仏の教えに従って正しい生活すると、極楽浄土で100年分の善行に相当するとお釈迦様は言っています。極楽浄土に生まれ変わると、悪いことはしたくてもできないので減点はありませんが、その反面、1日に得られる善行ポイントは少ないということのようです。つまり、天国は緩すぎる。地獄は厳しすぎる。人間界こそ修行に最適な環境であるということでしょうか

 ㉕について、お釈迦様は、自分が死んだ後、自分の教えが失われていき、時が経つに連れてその傾向が強くなるとしています。この記述については、いわゆる「末法思想」の源泉になっているものと思われます。

 

 次回に続きます。