前回記事「仏典を読む(その19)無量寿経(下巻)7」の続きです。

 極楽浄土と阿弥陀仏について一通り説き終えたお釈迦様は、「ここらへんで、そろそろいいかな」と言わんばかりに、仕上げとしての大技を繰り出します。

 

【無量寿経(下巻)】8

 

㉖ 釈迦が弟子の阿難に仰せになった。

阿難よ。お前は立ち上がって衣を整え、合掌して礼儀正しく阿弥陀仏を礼拝するがよい。

 そこで、阿難は、座を立って衣を整えて姿勢を正して西方に向かい、礼儀正しく合掌して阿弥陀仏を礼拝して申し上げた。

師よ。どうぞ阿弥陀仏と極楽浄土、そして極楽浄土におられる菩薩や声聞の方々を、目の当たりに拝ませてください。

 阿難がその言葉を発し終わるとすぐに、阿弥陀仏は大いなる光明を放ち、全ての仏がたの国々をお照らしになられた。すると、鉄囲山や須弥山やその他大小の山々など、全てのものが等しく金色に輝いた。阿弥陀仏の光明のために声聞や菩薩などの全ての光明はみな覆い隠されてしまい、ただ、阿弥陀仏の光だけが明るく輝いた。阿難のほか、出家の者も在家の者も、男であれ女であれ、集まっていた者は、光の中で阿弥陀仏の姿を目の当たりにした。

 

㉗ 釈迦が阿難と弥勒菩薩に仰せになった。

お前たちは、極楽浄土の全てのものが極めて優れていることを見たか。阿弥陀仏が全世界に響き渡る声で人々に教えを説き述べていることを聞いたか。極楽浄土の人々が七つの宝でできた宮殿にいながら、全ての世界の仏がたを供養しているのを見たか。そして、極楽浄土の人々の中に胎生の者がいるのを見たか。

 阿難が釈迦に答えた。

師よ。すべてその通りに見させていただきました。

 そして、阿難は続けて次のようにお尋ねした。

一体どういう理由で、極楽浄土の人々の中に胎生の者がいるのでしょうか。

 これに対して釈迦がお答えになった。

 様々な功徳を積み、極楽浄土への生まれ変わった者の中には、阿弥陀仏の五智の智慧を知らない、あるいは、疑って信じない者がいる。これらの者は、極楽浄土に生まれ変わったものの、宮殿の中に留まり、五百年の間まったく仏を見ることができず、教えを聞くこともできず、菩薩や声聞たちも見ることができない。極楽浄土では、これを例えて胎生というのである。

 これに対し、阿弥陀仏の五智の智慧を疑いなく信じて極楽浄土に生まれ変わる者は、七つの宝でできた蓮の花に座して自ずから生まれる。これを化生といい、他の菩薩たちが備える光明や智慧や功徳などを欠けることなく身に備えるのである。

 

 【メモ】

 お釈迦様は、これまで話してきた内容を裏付けるように、阿難や弥勒菩薩、その他の聴衆に対して極楽浄土と阿弥陀仏を実際に見せるという大技を披露します。

 ㉖について、阿弥陀仏が現れて聴衆に対して次元の違う光明を見せつけます。その光の強さは、菩薩と声聞の光をかき消すほどのワット数のようです。あまりに明るすぎて一時は何も見えなくなるらしいのですが、聴衆たちはその光の中で、阿弥陀仏と極楽浄土を目の当たりにすると記されています。それにしても、長い長い話をした上で、「じゃあ、実際に見てみましょう」というお釈迦様の話の持っていき方が素晴らしい(笑)。

 ㉗について、お釈迦様が「な?お前ら、すげーだろ?極楽浄土。ところで、胎生の者が極楽浄土にいたの見た?」と言います。胎生というのは、母体から生まれることを言います。阿弥陀仏の信心が今一つの場合には、極楽浄土に生まれ変わってからも、ちゃんと信心が育つまで500年ほど宮殿に閉じ込められることになるそうで、釈迦は、これを子宮内の胎児に例えて「胎生の者」としています。これに対して化生というのは、どこからともなく生まれることを言います。阿弥陀仏への信心が十分であれば、極楽浄土に生まれ変わる際に、七つの宝からできた蓮から忽然と現れる「化生の者」となるそうです。無量寿経の総仕上げとして、最後のツメということで、この後、胎生の者と化生の者について詳しく説かれます。

 ちなみに、阿弥陀仏の五智ですが、①仏智②不思議智③不可称智④大乗広智⑤無等無倫最上勝智という5つの仏の智慧のことを言うのですが、③の不可称智は、「ほめ尽くせない智慧」のことと本願寺の解説にあり、これを見て思わず笑ってしまいました。ほめ尽くせない智慧って(笑) 

 

 次回に続きます。ようやく無量寿経最終回。