前回「仏典を読む(その9)無量寿経(上巻)5」の続きです。

 法蔵が「四十八願」を誓った後の記述部分の要約となります。

 

【無量寿経(上巻)】4

 

⑩ 法蔵が「四十八願」を誓った後、大地は打ち震え、美しい花が降り注いだ。そして、麗しい音楽が流れ、どこからともなく声が聞こえ「法蔵は必ずこの上ない悟りを開くであろう」と称賛した。その後、法蔵は、自身の国を建設することに一心に励み、計り知れない長い時間をかけて限りない修行を行い、菩薩としての功徳を積んだ。

 

⑪ 法蔵は、怒りや貪り、愚かな心を起こさず、常に精神を集中して心を落ち着け、優しい表情や言葉を使って人々と接し、ひたすら清らかな善いことを求めて人々に功徳を与えた。ある時は富豪となり、在家信者となり、バラモンとなり、大臣となり、国王や転輪聖王となり、六欲天や梵天の王となり、どのような立場に生まれても自由に振る舞い、常に仏を供養して厚く敬った。

 

⑫ 法蔵は、現在、無量寿仏(阿弥陀仏)という仏になって、西方におられる。その仏の国はここから10万億の国々を過ぎたところにあって、その名を極楽浄土という。法蔵が悟りを開いてから、すでに400億年が経過している。極楽浄土は金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・蝦蛄・瑪瑙などの七つの宝でできており、大変美しく、どの世界よりも優れている。また、須弥山、鉄囲山などの山もなく、地獄や餓鬼・畜生などの世界もなく、四季の別もなく、寒くもなく暑くもなく、調和のとれた世界である。

 

⑬ 無量寿仏の光明は全ての国を照らし尽くす。このため、無量光仏や無辺光仏などとも呼ばれる。この光明に照らされると、煩悩が消え去って身も心も和らぎよい心が生まれる。もし、地獄や餓鬼や畜生の苦悩世界にあってこの光明に出会うなら、安らぎを得ることができる。仏の方々や聖者たちは全員が無量寿仏の光明を称賛する。人々がその光明の功徳を聞き、日常的に称賛するのであれば、極楽浄土に生まれかわることができる。

 また、無量寿仏の寿命は長い。すべての世界の人々が聖者となり、どれだけ長い時間をかけても考えても、無量寿仏の寿命を知ることはできないだろう。さらに、法蔵が悟りを開いて無量寿仏となってから最初の説法に集まった聖者たちの数も知ることはできない。

 

【メモ】

⑩ テレビのオーディション番組のエンディングみたいなものでしょうか。オーディションに勝ち抜いた人がプロの審査員たちに称賛され、BGMが流れたり花びらが降り注いだり…。法蔵が誓いを立てたとき、師匠である世自在王仏のほか、様々な天人・魔王・梵天・竜などの八部衆(阿修羅や迦楼羅など)・その他大勢の仏教エリート衆が立ち会っていたそうですので、ますますテレビ番組の一場面っぽい。2000年前と現代の演出が変わらないのは面白いですね。

 

⑪ 法蔵は極楽浄土を建設するため、悟りに向けて修行を行いますが、その内容はオーソドックスな修行法「六波羅蜜」です。何か特別なことをしているようには見えません。菩薩として修行をすることで、超人的な能力が身につくわけですが、菩薩として100億年単位(笑)の長い時間を修行した結果、もう笑えるレベルのステータスになって、極楽浄土を建設できるほどになったという理解でいいのでしょうか。ドラクエでいえばレベル99999999999とか。

 

⑫ ここで法蔵がすでに悟りを開いて無量寿仏になっていることが明かされます。法蔵は、「四十八願が実現できなければ仏にはならない」と誓っていたわけですから、仏になったということは、全ての願が実現しているということを意味します。

 また、極楽浄土は、金・銀・瑠璃・玻瓈・硨磲・赤珠・碼碯でできている言いますが、これらを七宝(しちほう)といい、仏教で豪華絢爛を表現する時に頻出します。

 

⑬ 無量寿はアミターユス、無量光はアミターバという意味があります。どちらも音写すると「阿弥陀」となります。したがって無量寿仏=無量光仏=阿弥陀仏ということになります。

 阿弥陀仏の発する光明とは、「智慧や慈悲の光」と「物理的な光」両方の意味があるようです。寺院で阿弥陀仏を拝む際には、仏の光が発せられていて、それに包まれるイメージを持って礼拝すると良いでしょう

 仏教における「聖者でも数えきれない」という表現については、部派仏教の愚とされる「悟りとは無関係な研究」をさせないための配慮ではないかと、個人的には想像しています。

 

次回に続きます。