坐禅談義(その9)」の続きです。

 

 姿勢を正して数息観を進めた後、目を弛緩させて、視覚・聴覚・触覚等の感覚、そして意識をニュートラルの状態にします。その後は、浅くて小さな呼吸を丁寧かつ慎重に行いながら、それぞれの感覚や意識の状態を注意深く観察していきます。

 この時の観察対象については、油断をするとすぐにピントがずれてしまい、その結果、坐禅を始める前の状態まで戻ってしまいます。状態を崩さずに維持し続け、うまく安定させることができれば、いよいよ「禅定」(ゾーン)に入っていきます。ちなみに、この境地に入れることは稀です。

 

 熟練の坐禅者は、毎回、坐禅がうまくいっているのでしょうか。私のような未熟者は、毎回の坐禅のデキに大きな違いがあり、全然うまくいかない時の方が圧倒的に多いです。ただ、稀に、自分が熟練者であると勘違いしてしまうくらいの強烈な精神の変容を体感できる時もあります。

 

 これまでで一番記憶に残っている坐禅は、自分(自我)が二つに分離し、ひたすら雑念を発する自分を、もう一人の自分が冷静に観察している状態になった…ということです。この間、湧き上がる雑念を追いかけることは全くなく、発された雑念の意味を理解しつつも快や不快を感じることはありませんでした。これを体験したことで、「ああ、なるほど!!こういうことか!!」といった強い納得を得た感覚もあり、現在でもその感覚が残っている感じです。

 

 さて、ここまで私の坐禅について話してきましたが、これこそ、まさしく道元禅師が戒める「習禅」であると思います(つまりNGということ)。特殊な精神状態を言語で説明することで「もう一度あの時と同じ状態を目指そう」という「欲」に変化し、逆にうまくいかないようになってしまいます。これまで、私は、経験した強烈な精神の変容を分析して言語化することで、再び同じ境地に到達できなくなったことを何度も経験しています。

 

 熟練の坐禅者に対して、「坐禅の境地について語ってください」と言うと、通常の場合は、これに答える人はほとんどいないと思います。言語は、本来、社会的生物である人間が意思伝達のため生み出したツールに過ぎず、物事を正しく言い表すためのものではないのです。いくら言葉を尽くして坐禅の境地を表現したとしても、それは、決して正しいものとはならず、メリットよりもデメリットの方が格段に大きくなる。熟練の坐禅者は、これをよく理解している。ゆえに、坐禅について多く語らないのでしょう。

 

 これから坐禅を行おうとしている人、今まさに取り組んでいる人にとって、私の話した内容は実のところ、害の方が大きいのかもしれませんが、私が伝えたいことは、「坐禅によって強烈な意識の変容は確かに経験できる」ということ。そして「坐禅の境地は言語化することで再現が困難になってしまう。つまり坐禅はむやみに語るな」ということです。

 

 大切なことは、坐禅で到達する境地に対して「その場限り」という姿勢を持つということでしょう。つまり「執着しない」という姿勢が大切なのだと思います。

 

 気が付けば今回の記事で「その10」まで到達してますが、とりあえず次回で一区切りとし、まとめたいと思います。

 

 次回に続きます。