読書とは、精神を、養うものであり、
活字を読むことでない。
読書とは心の共感を求めるものに
他ならない。
つまり読書は自己の憧れに向かう
唯一の手段なのだ。
自己の外にある偉大な精神に触れたら
それだけでいい。わかる必要もない。
ただ共感したらいい。その憧れに
震えるものを感じればいい。
自己の成功や幸福のために読む読書は、
却って自己を見失う。
それは、他者に振り回される自己を
作るだけになってしまう。
具体的な生き方を真似れば、
それは全て猿真似であり、自己を失う。
心を感ずるのだ。知識には心はない。
だから知識を求める読書は自己を失う。
役に立つ読書の怖さがここにある。
役に立つものとは、その全てが形でしかない。
その結果振り回されて終わる。
心だけを感じるのだ。心には成功はない。
だから心の書物には、成功や名声という
魅力はない。
反対に言えば、そのような事を謳っている本は
全て害毒になると思った方がよい。
自己を失うだけで終わる。
憧れを感ずるには、
憧れに生きた人の精神が書かれた本を
読まなければならない。
そして、そのような本はほとんど
表面的な知識が得られるような魅力はない。
魅力とは自己の欲望を刺激するもので、
欲望の本は駄目なのだ。
欲望は他者と共感などする必要がない。
やりたいようにやればよい。
だから、本など読む必要がない。
真の読書とは、受継ぐものを
読まなければならない精神という事である。
読書とは、過去の人間の心に触れる事を言う。
だから、いくら難解であっても
理解できなくても構わない。
過去の人間が本に託した真心に触れ、
感ずれば、それだけでいい。
その為には、知識を減らす為に読むぐらい
の気概か必要だ。
本物の知識とは、本と向き合い、
過去の人間の魂と感応した結果として、
自分の中に溶け込んでくるものである。
だから、積極的に知識を得ようとして
本を読むのは読書ではない。
それどころか、知識を得る事ばかりに
拘泥していては、本に込められた祈りを
感じる事が出来ない。
真に必要なのは、過去の人間の祈りを
受け止める事である。
祈りをうけとめるには、
知識を捨てなくてはならない。
祈りの精神だけを見つめる。
そうしなければ、自己の心と祈りが
感応する事はない。
先人の祈りの響きを聴く。
耳を澄ませて聴くのだ。
その時、知識ほど不用で邪魔なものはない事に
気づくだろう。
何かを捨てなくては、別の何かを得られない。
知識を捨てるのだ。成功を捨てるのだ。
幸福を捨てるのだ。
そうすれば、書物の中から祈りが
響いてくる。
知識は我々を猛烈に誘惑する。
知識が増える事により、達成感と成功感を
手にする事が出来る為に、人間は更なる知識を
求め出す。
こうなってしまうと読書はもはや
欲望のはけ口になってしまう。
だから、過去の人々の祈りを
受け止める為には、知識を得ようという
考え方を持ってはならないのだ。
本が語りかけるものに感応したら
無用な知識はむしろ減るのだ。
そして、過去の優れた書物から響く
祈りに耳をすませば、自己の中に
徐々に沈黙が形成される。
その沈黙は、自己の中に焦がれうつ魂を
形成する事になってくる。
自己の中に沈黙を作るために読書はある。
現代ではそれが大きく誤解されている。
真の人格形成は、
自己の中に沈黙を創る事なのだ。
知識は騒音である。
真の静寂、生命の悲哀を堪える静けさを創る。
その静けさは、燃え盛る哀しみとなるだろう。
自己の生命が憧れになるのだ。