ある僧侶のブログに書かれていた内容について書いてみます。
曹洞宗の僧侶で、曹洞宗の研究機関に属している方のようです。
        ( 詳しくないので、間違っているかもしれない、、 )
 
昔、その方のブログにコメントを書きましたが「 書き込まないでくれ !」と
言われてしまいました。
従って、こちらに書きます。     
                                   (引用もするな、、、と言われるかな、、、?)
 
彼は自身の仏教が「 偽物 」であると認め、でもそれで「 良いのだ 」と
する為に、以下のような言い回しを考え出したようです。
1. ニセモノのホンモノ仏教
  仏道修行は悟りを求めること。釈尊の解脱を実証する。( 実証的 )
     彼曰く、破壊者、原理主義者
2. ホンモノのニセ仏教
  釈尊の解脱を実証する困難と思われる事などを求めず、先師の
  教え( 伝統 )に従い、その慈悲精神の実践は、釈尊の解脱を
  実証することにも引けをとらない。
                           ( 要約 )
 
当ブログでは、何度も曹洞宗の間違った考え方を指摘してきました。
 
  「坐禅だけが身心脱落」
  「曹洞宗の僧侶だから解脱は求めない」
  「悟りを求めることは有所得」
  「有所得のさとりを求めることは仏道修行ではない」
 
 
何度も繰り返しますが、今日の曹洞宗にある大変な間違った考え方なのです。
結果、曹洞宗僧侶は、禅に親しみを持つ一般参禅者より、仏道から遠して遠しなのです。
皮肉なことです。
 
 
しかし、曹洞宗僧侶の中には、突然、唐突に、あなたの
  「 坐禅だけが身心脱落 」
  「 曹洞宗の僧侶だから解脱は求めない 」
  「 悟りを求めることは有所得 」
  「 有所得のさとりを求めることは仏道修行ではな い」
とした考えは間違っている、と言われても、こちらとしては、師からの教えも、
駒沢大学で学んだ内容も、
  「 坐禅だけが身心脱落 」
  「 曹洞宗の僧侶だから解脱は求めない 」
  「 悟りを求めることは有所得 」
  「 有所得のさとりを求めることは仏道修行ではない 」
だったのだ。
そして、その教えが正しいとして、年を重ねてきたのだ。
今さら「 間違いだ 」とされても、、、。 我々の立場はどうなるのだ。
それこそ、その教えの基に、まじめに「 慈悲の実践 」をしてきた歳月は
何になるのか。
無に帰してしまうのか。
 
  「 何で今、それで満たされている人の心を壊そうとするのか? 」
 
とした苛立ても出てくるかもしれない。
 
確かに、曹洞宗僧侶には「 驚天動地の大事件 」になることでしょう。
その意味では、曹洞宗僧侶の深刻な人生問題になってしまうかも
しれない。
 
( でも、曹洞宗僧侶の中に「 間違った考え 」の指摘を、何であれ受け
  止めてくれる方がいることはうれしい。 
  さらなる広がりを持てば、再生するかもしれない。)
 
そして彼は
「 そういう人たちは、我々と違ってただの破壊者、原理主義者でしかなく、
  こういうのはニセモノのホンモノ仏教とでも呼んだ方が良いのかな?
  なんて思ったのでした。」
と表現しました。
 
釈尊の解脱を実証することが困難な事と、道元禅師の身心脱落が実証する
ことは無理な事と、考えてしまうのかもしれない。
確かに、10年20年の修行には 「身が竦む 」のかもしれない。
「 だから、伝統に添った「 慈悲の実践 」でも良いのではないか、、、 」と
流れる。
心情的には理解ができます。
 
ですが、改めて申し上げます。
仏道に関しては「 間違った考え方 」ではダメです。
「 慈悲の実践 」ならば、他宗教や新興宗教で十分です。
仏道修行は、その「 慈悲の実践 」すら、無くならないといけないのです。
 
続く、、。