「 元のまま 」
「 何の変哲もないただの道 」
だから、
「 野球しようぜ! 」
解らないのですね。
「 狗子に還って仏性ありや也無しや 」
趙州の
「 無 」
「 有 」
「 家々の門前の道は、長安の都に通じている 」
の裏に隠されている「 実 」は何か?
「 野球しようぜ! 」
趙州はさぞや目を丸くすることでしょう。
更に解らないのでしょう。
趙州の「 実 」は何か?
スラスラ話が出来る方をお待ちします。
何度も申し上げていますが、非常に大切なことです。
皆様の日々の様子に、
「 取り除かなくてはならない 」はありません。
当然、
「 煩悩・雑念・過去の業障・外境 」はありません。
決して、人は知ることはありません。
思考ですらありません。
「 空 」に
「 煩悩・雑念・過去の業障・外境 」
を見るものは仏法から離れる。
禅修行者はこれぐれもご注意頂きたい。
更には皆様の日々の様子に、
「 新たに自らのものにする 」もありません。
釈尊 「 我と大地有情と同時成道す 」
「 釈尊一人の解決ではなく、大地有情も解決している 」
と丁寧に示しています。
「 我と大地有情と同時成道す 」に心底腑に落ちて頂ければ
解決です。
しかしながら、解り難いところなのでしょう。
釈尊や祖師方だけが解決しているのではなく、
四苦八苦している人
過去の業障に苦しんでいる人
知情意がバラバラに苦しんでいる人
外境がこの身に突き刺さると苦しんでいる人
でも「 そのままで解決している 」
過去の業障に外境に「 苦しい・痛快になりたい 」と
嘆く人でも
「 そのままで解決している 」。
しかし、
禅に親しくない方には、俄には信じ難い事です。
「 さっぱり解らない 狐につままれたよう 」
何十年も禅指導している者にいるのは切ないですが、、
母の死に、
「 お母さんに会いたい、お母さんに会いたい 」
と泣きじゃくる幼な子もそのままで解決している。
突然の別れに、
「 辛くて、苦しくて、悲しくて、、 」
と涙する少女もそのままで解決している。
それを
雲門 「 日日是好日 」
南泉 「 平常心是道 」
と丁寧に示しています。
釈尊は2500年前に、
「 我と大地有情と同時成道す 」
解らない方がいますので、少し法理でお話しましょう。
慧能 「 本来無一物 」
慧能 は「 本来 」「 無一物 」と示しています。
「 本来 」ですから「 もともと・元来 」。
仏語では「 無始よりこのかた 」。
言い方を換えれば「 本来無一物 」は
「 無始よりこのかた無一物 」
従って、
「 無始よりこのかた空 」
「 無始よりこのかた無我 」
当然、
「 無始よりこのかた成道 」
「 無始よりこのかた好日 」
「 無始よりこのかた平常心 」
「 無始よりこのかた ・・・・・ 」
です。
しかし、疑問が出て来ます。
「 無始よりこのかた無一物・空・無我 」であるならば、
は「 空 」に「 成道・好日・平常心 」を見ているのでは
ないか?
町野さんは厳しく批判している。
ご注意頂きたいのは、
「 無始よりこのかた 」ですから、人は見ることも知ることも
ありません。
ここからは少し自然科学でお話します。
ニュートン力学 ( 絶対時間・絶対空間の実在 )
アインシュタイン特殊相対理論 ( 時間・空間の相対性 )
ビックバン理論 138億年前の宇宙の始まり。
量子力学 ( 重ね合わせ・もつれ )
等々物理学は様々に広がりを見せています。
専門ではありませんのでこれくらいに。
今日でも自然科学に「 実在論 」の否定的な論文が多いです。
自然科学は「 二元相対認識 」を前提にしています。
自己の外にある「 観測対象 」と観測する自己の「 観測者 」
です。
その観測は次々に開発される「 観測装置 」で行われて
います。
また「 思考実験 」も、その実証実験も盛んです。
しかしながら、
「 時間・空間・状態 」は解明されていません。
研究者は「 時間・空間・状態 」の解明に好奇心を燃やし、
素晴らしい研究成果が沢山出ていますが、、
自然科学は
「 観測対象 」
「 観測者 」
「 二元相対認識機能 」
です。
「 観測対象 」の「 時間・空間・状態の実在 」は解明されていま
せんが「 観測者の実在 」と「 二元相対認識機能の実在 」は
自明としています。
龍樹
「 自身からも、
他からも、
その両方からも、
無因からも
どこにおいても、
いつにあっても、
もろもろは生じない 」
見る働きを、離れても、離れなくとも「 見る自己 」は、
存在しない。
見る自己は、存在しないから「 見られるもの」も
「 見る働き 」もともに存在しない。
龍樹は「 観測対象 」も「 観測者 」も「 観測・認識機能 」も
実在しないと看破しています。
( 禅修行者も龍樹の中論を勉強して頂くと少し扉が開くかも、)
古典力学でも量子力学でも未だ、
「 よく解らない 」
「 観測者の実在 」と「 二元相対認識機能の実在 ]を
自明としても、、
話を戻します。
「 本来無一物・空・無我 」ですから、一切の実在・実存を
「 知る 」ことは不合理です。
「 観測対象 」も「 観測者 」も「 観測・認識機能」も実存
しないからです。
「 自他不二 」
「 見る自己 」は存在しない。
「 見られるもの」は存在しない。
「 見る働き 」は存在しない。
ですから、よくよく考えれば、
「 無一物・成道・好日・平常心・空・無我 」を知った。
「 無一物・成道・好日・平常心・空・無我 」が解った。
「 無一物・成道・好日・平常心・空・無我 」を体得した。
はおかしな事になります。
また皆様は既にお解りの通り、
「 無一物・成道・好日・平常心・空・無我 」は釈尊に関わり
ませんね。
「 無始よりこのかた 」
釈尊は人類で最初に宣言した方です。
「 無始よりこのかた 」の
「 無一物・成道・好日・平常心・空・無我 」を
「 知った、解った、体得した 」は不合理、ファンタジー。
「 無始よりこのかた 」の
「 無一物・成道・好日・平常心・空・無我 」は
生じることも、滅することもない。
身心脱落の道元は
「 眼横鼻直 一毫無佛法 」
と看破しています。
「 知った、解った、体得した 」は不合理、ファンタジー
ですから、忘れ去って頂かなくてはなりません。
禅修行で何かを
「 知った、解った、体得した 」
がありましたら、三十棒です。
禅修行は
「 知った、解った、体得した 」
の為にあるのではありません。
すなわち、
「 仏法・仏道 」すら、無くならないといけません。
「 空 」に「 空 」がありましたら、それは不合理。
ですから、
「 空に見る 」は寝言。
ある禅指導者は「 空 」に「 今 」を見て、
「 今しかない 」「 今に徹しろ 」「 真実の今に目覚めろ 」
と「 今 」を「 知った、解った、体得した 」と叫んでいます。
厳しですが「 立派な偽物 」。
「 今 」を「 知った、解った、体得した 」その方は
ノーベル物理学賞。
禅修行は
「 日々の様子の皆様が日々の様子の皆様に落ち着く 」
悟りは
「 日々の様子の皆様が日々の様子の皆様に落ち着く 」
皆様の日々「 まま 」。
「 日々は日々なり 」
雲門 「 日日是好日 」
南泉 「 平常心是道 」
一瞬も留まることのない皆様の日々の様子です。
「 日々は日々なり 」
「 何の変哲もないただの道 」
「 元のまま 」
「 別事無し 」
そこに「 落ち着く 」すらも、挟む余地はありません。
禅修行は厳しいです。
禅修行は徹底して頂きます。
ですから、禅修行者に
「 苦しい人生なんか意味はない 」
「 痛快でなければ意味はない 」
「 諸仏の境界を楽しむ 」
「 元には戻らない 」
など「 寝言 」を言っている暇はないのです。
「 日暮れて途遠し、、 」
命を掛けて道を求める旅に出たのですから、、
子供達へ大谷選手の 「 野球しようぜ! 」
趙州は頷くであろうか。
原田雪渓老師 「 禅に生きる 」 URL:
https://www.youtube.com/watch?v=AVLOq4WrcOo
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「 宝鏡三昧普説 」 Amazon:URL
https://www.amazon.co.jp/宝鏡三昧普説-原田-雪溪/dp/4938902052/ref=pd_aw_sbs_14_5/356-0539940-0687737?_encoding=UTF8&pd_rd_i=4938902052&pd_rd_r=74c9f56a-8ba3-494d-a9a2-32d3bda43381&pd_rd_w=nS0J4&pd_rd_wg=a2Gzv&pf_rd_p=bff