私の前に座っているオッサンのお陰で極寒のシカゴで働くことになったと言っても過言ではありません。

このオッサンのお陰で嫁さんも滋賀の田舎町の住人から英語で暮らすシカゴの住人になりました。

息子もNIH(アメリカ国立衛生研究所)という研究所で自分の研究をやらせてもらえなかったし、中国人女性と結婚することもありませんでした。

 

 

私が三十を過ぎた頃に勤めていた上司と喧嘩をして会社を辞めました。

その時に嫁さんが言った言葉を一生忘れないでしょう。

 

「そうなんや、そういういうことになったんやな。ほな、明日から朝起こさんでもええんやな。」

 

その頃我が家は3歳の息子を抱えていたので、相談も無しに会社を辞めた私を嫁さんは怒ると思っていましたが、拍子抜けしました。

1986年に結婚したので今年で35年目になりますが、私の嫁さんは私が会社を辞めたぐらいでは全く動じない女だったことがこの35年間でよーく判りました。

 

嫁さんが本気で”離婚する!”と言ったのは以前に書いたこの日記の内容の時ですね。

 

 

話を戻します。

 

私が無職になって家でぶらぶらしている時に突然にKHさん(上の写真のオッサン)から電話が掛かってきました。

HKさんは取引があった某大手企業の部長さんから業種の開発が出来る即戦力のエンジニアを探してくれと頼まれていました。

KHさんは私の大学時代の友人である遠藤が働いている会社とも取引があったので、KHさんはエンジニアの遠藤に「知り合いで優秀なエンジニアはいないか?」と尋ねたところ、彼は家でぶらぶらしていた私を推薦してくれたのです。

 

私は優秀でもなかったのですが、遠藤は私のことを心配してくれていたのでしょうね、彼はKHさんに”彼は間違いない!”と私をKHさんに勧めてくれたのです。

その時に思いましたよ、損得勘定がない学生時代の友人は何時まで経っても助けてくれるんだと...

 

そういう訳で私はKHさんを通じて某大手企業の開発課の特殊な装置の開発をお手伝いすることになりました。

そのメンバーにはKHさんも入っていました。

私の賃金はKHさんの会社を通じても貰えるものだと思っていましたが、KHさんは賃金をピンハネすることは全く興味はなく、単にある装置のプロトタイプを完成させることだけに集中してました。

 

政府関連の大きなプロジェクトでした。

他の大手メーカーと競合していたのですが、六本木にある政府系の研究施設でのプレゼンがあると前日の午後10時のギリギリまで開発作業をしていた我々はバスみたいなバンにプロトタイプを積んで京都から六本木まで高速道路を飛ばしたことを覚えています。

 

確かに賃金はサラリーマンの給料の何倍も貰えましたが、京都のオフィスで24時間働いていることが多かったですね。
何回もプレゼンがあり、政府から次々に与えられた課題をクリアしたものを開発するためにまともに家に帰れるようなことはありませんでしたね。

 

あの頃はバブル真っ最中だったので、世の中はかなり浮かれた状態にあり、お金を使うことを楽しんでいましたが、私はずっと忙しく無機質の機械と戦っていたのが私のバブル時代です。

何とかギリギリ開発が間に合い、バンにプロトタイプを積んで深夜に京都から出発すると私はその瞬間に死んだように寝てまいたね。

その時にバンを運転していた一人がKHさんでした。

 

我々の努力の甲斐があり、プロジェクトは成功し、我々の製品が政府に採用されました。

後に小泉総理が日本の素晴らしい技術だと紹介した大きなプロジェクトであり、爆笑問題がMCをするバラエティー番組やトリビアの泉でも取り上げられたものでした。

 

KHさんと私の様な大手企業の下請けはプロジェクトは大成功したので、これから今まで努力した労力を回収するのが自然なのですが、プロトタイプが完成したらKHさんはすっと身を引きました。

彼はお金勘定にあまり興味はなかったのでしょうね。

 

私は事業部長から社員になってほしいと何度も頼まれました。

私を技術部研究開発課の課長として雇いたいと言うのです。

私はフリーランスになってこれから先自分の腕一本で生きて行くと嫁さんに偉そうに言っていたので、今更大企業の歯車の一つになることにかなり抵抗がありました。

 

しかし最終的に私は課長職に就きました。

なぜなら私はずるい人間だからです。
 
大手企業は納期が短くて、滅茶苦茶困難なプロジェクトを抱えるとKHさんのような下請さんに押し付けるようなことをしますが、”喉元過ぎれば熱さを忘れる”の様にプロジェクトが成功して、さあこれから本当のご褒美を貰えるという席には下請けさんは呼ばれないのです。
社員さん達は定時になったら次々に帰っていきますが、KHさんも私も社員さん達が帰って静かになった作業室でやっと本格的に実験できるといった感じでした。
 
社員が出来ることは社員にやらせるのが当たり前であり、困った時しかKHさんみたいな下請けさんは呼ばれないのは常識であるのは判っていましたが、労働基準法を完全に無視した働き方をフリーランスとして私が一生やっていけると思うことがどうしてもあの時は出来ませんでした。
 
「あんたは口だけやなぁ...自分の腕一本でやって行くんとちゃうんか?」と嫁さんに馬鹿にされたことを思い出します。
私は嫁さんに「あの会社に入ったら、海外で自分の腕を試せる機会があるかもしれんからや。俺は日本だけで終わる男やない!」と言い訳をしましたが、実を言うと、KHさんみたいな仕事をしていたらジャズをやる時間が無くなってしまうことを恐れていたからです。
KHさんとそのプロジェクトをやっていた頃は金曜日や土曜の夜にギターを持ってジャズセッションに出掛けることなんて全くできませんでしたからね。
 
結局はその会社で働き始めたことで毎年海外出張をするようになり、海外での人脈やコネを得たことで、シカゴの企業からオファーが来たのですが。
嫁さんが最初に離婚すると言ったのは実際にシカゴの企業からオファーが来た時に嫁さんに内緒で断ってしまった時でした。
 
「あんた、世界に出て自分の腕を試したいと言うたんちゃうの?私を一生滋賀の田舎町に閉じ込める積りなん?」
 
毎週末に私は幼い息子を自転車の後ろに乗せて近くのララポートでスガキヤラーメンを食べに行くのが幸せでした。
だから息子も最初は「スガキヤラーメンを食べられなくなるのは嫌!シカゴなんか行けへん!」と言ってましたが、当時からマザコンだった息子は最終的には「お母ちゃんに付いて行く」と宣言してしたので、私も従う他ありませんでした。
 
そして我々の帰国後にKHさんにはずっとお世話になっているのです。
嫁さんの85歳の母親がずっと一人暮らししていた古い家なので、TVもBSやCSも観られない状況でしたし、屋内の電気配線も危ないものでした。
嫁さんの兄貴が危ないから使うなと言った電気コンセントもありました。
それを全てKHさんは解決してくれました。
 
KHさんは先ず我々が日本に帰ってきてマトモにTVが見られないのは可哀想だと言ってくれて、TVの修理に来てくれました。
 
 
比叡山の麓にある我が家は電波環境の複雑な場所でした。
TV分野はKHさんの専門家ではなかったので、全ての地デジのチャンネルは見られるようにはなからなかったのですが、BSやCSは全て観られるようになりました。
 
嫁さんのお母さんが施設に入ってからのこれまでの数年間、家には誰もいなかったのにNHKのBS代も銀行引き落としされていました。
お父さんが亡くなったからの6年間からそのままの契約でいたようです。
Wowowも全て観られるようになりました。

 

そして後日にKHさんは全ての地デジのチャンネルが見らなかったので、TVの専門家であるKHさんのお兄さんを連れて来てくれました。

 

 

屋内の危なかった電気配線もKHさん兄弟が張り替えてくれました。
我々はこれで安心して古い家に住めるようになりました。
半日がかりの大変な作業になりました。
 

 

私はいつも困ることなのですが、お金儲けにあまり興味のないKHさんはこれだけの作業をしてくれても私からお金を請求することをしないのです。

TVの修理作業はKHさんの専門分野ではないので、全てのチャンネルが見られるように調整できなかった負い目から、プロの専門家のお兄さんを連れてくれたのですよ。

私としてもプロに仕事をしてもらったら、正当なお金を支払う主義です。

 

でもKHさんもお兄さんもお金を受け取ろうとしなかったのは、お兄さんでも地デジの全てのチャンネルが見られなかったからだと思います。

お兄さんが電波管理局に電話して電波事情を尋ねてもらったら、比叡山の麓にある我が家は電波環境が相当に悪い場所だったのです。

NHKを除けば地デジの番組はあまり興味がないものですし、どうしても観たかったならDocomoで光ケーブルを取り付けてもらった時にTV信号を提供するモデムの契約にしていたでしょう。

 

作業代を受け取ってもらわなければ私としても困ると話していたら、お兄さんが「それじゃ二人で1万円だけ受け取ります。」と言ってくれました。

それじゃ遠くまで来てくれたガソリン代に毛が生えたようなものなので、困ったのですが、KHさんの折角の気持ちも無駄にしたくありませんので...取り敢えず一人に1万円づつ無理やり受け取ってもらいました。

 

その気持ち、私も理解できないことはありません。

渡米する前の30年ぐらい前の話ですが、営業の者とユーザーの工場で設置した装置の最終確認をしている時にある一つの機能で不具合が発生しました。

ユーザーの工場の設備担当者はその機能は滅多に使わないので検収作業はOKだと言ってくれたのですが、私はそれでは私が納得しませんと言ってしまったことがあります。

 

お陰でその日に売り上げが立てられなかった営業と帰りの車の中で大喧嘩です。

結局ユーザーの工場で使用されているPLCからの信号にノイズが乗っていたのが原因だったのですが、ノイズをモニターする機器を持参しなかったエンジニアの私に非があったと考えたのです。

その考えはシカゴで働き出してからは当たり前の話だったのですが、エンジニア、いや職人にとって自分が納得できる仕事をした時に初めて報酬がもらえるという考え方は世界共通かもしれません。

 

そしてKHさんは屋内電気配線の最終仕上げに今日も来てくれました。

三回目です。

リビングルームやキッチンにに立派な電気コンセントを付けてくれました。

これで嫁さんも安全に色んな電気器具が使えるようになりました。

 

そしてKHさんに「今日はちゃんと作業代を払わせて下さい」とお願いしたのですが、結局は部品代とガソリン代の5000円しか受け取って貰えませんでした。

これは大学時代の友人の遠藤を通じてKHさんと出会った時から私を弟のように可愛がってくれたことの延長だと思い、お言葉に甘えました。

 

KHさんが我が家に来てくれた時は近くのスシローで食事だけはご馳走させてもらうのですが、今日も二人で行きました。

大切な友人をご馳走するのに回転寿司屋のスシローは失礼に当たるかもしれませんが、嫁さんが抗がん剤治療中なので自宅近くにある店を探検することがまだ全然できてません。

でも私にとってはスシローの寿司はシカゴでは絶対に味わえない美味しい寿司です。

 

 

KHさんと話していたら、渡米する前と同様に彼はその会社が手に負えない複雑なシステムだけを請け負っているのです。

現在彼は抱えているスタッフに特殊な電気回路のボードを作らせ、それに伴ったソフトウェアを別のスタッフに開発させています。

 

KHさんには申し訳ないですが、苦労はしても儲からない仕事をしているような気がします。

簡単な仕事なら大手企業の社員エンジニアにやらせるので、下請けには回ってこないと言われるでしょうが、自ら好んでそういう厄介な仕事を請け負っているようにも感じます。

 

技術立国だと言われている日本でもこんな風に世の中が回っているのかもしれませんね。

 

米国企業と日本企業との大きな差を感じます。

 

先日の日記に登場したバイク仲間のGeorgeですが、彼はどんな面倒な仕事でも自分でこなすことが出来ます。

日本企業で働いていた頃、上司に向かって「偉そうに言いやがって! そこまで言うなら一回でも自分でやってみてから言えよ!もしお前で出来るなら...」と心の中だけで叫んだことが一度や二度ではありませんでした。

 

日記に書いた様にあまり仕事をしないGeorgeですが、自分の部下が手に負えない時は自分の手を汚してどんなことでも自らやってしまいます。

彼はいつも若手の部下達が放り出した仕事をやってしまうからです。

70歳の爺さんにやられてしまっては彼の部下達はぐうの根も出ません。

自己主張が強いアメリカ人は自分より無能な上司に仕えるほどお人好しではないのです。