私は1986年に結婚したので今年で結婚生活34年目を迎えるのですが、これまでで最大の夫婦喧嘩をしたのは結婚20年目の2006年の息子の大学受験日の当日の早朝に起こりました。

嫁さんは離婚するまで言い出し、息子にとっては最悪の受験日になりました。

 

喧嘩の原因は息子を受験会場まで送って行ってやるか、息子自身に車を運転して独りで受験会場に行かせるかということで私と嫁さんとの意見が違ったからです。

 

嫁さんは息子は16歳で高校で運転免許を取ったので自分自身で独りで車を運転して受験会場に行くべきだと言い張りました。F

アメリカでは高校の授業の一環として車の免許を取りますので17歳の息子は立派に車を運転できます。

 

「大学へ行かなくても生活をしていけるけど、アメリカでは車の運転が出来なかったら生活していけないでしょ!五体満足な男が車の運転も出来なかったら大学なんか行く資格はないで!男として恥じや!」と嫁さんは言い張ったのです。

 

確かに嫁さんの言うことも一理ありますが、その日の朝の息子は風邪をひいて熱まであったのです。

私から言わせれば息子に風邪をひかせたのも嫁さんのせいだと思ってます。

体育会系の嫁さんは受験日の前日まで息子に ウォーターポロ(水球) という部活の朝練に行かせるために毎朝5時半に息子を叩き起こしていたのです。

 

体育会系の嫁さんは息子が一歳半になったときからイトマンのスイミングスクールに入れました。

最初の1年間はスイミングスクールでずっと泣いていたのですが、そんなことは関係なく嫁さんは息子を強制的にスイミングスクールに連れて行ってました。

 

人間、最後は体力勝負!というのが嫁さんのモットーなんです。

 

嫁さんは滋賀の田舎の農家育ちであり、男というのは”田”んぼで”力”を出せる人を男と呼べるものだという概念があります。

農家では小学3年か4年ぐらいには耕運機やトラクターを運転して親を助けるのが普通なんです。

嫁さんの兄貴はそれが出来なかったので親からも近所の人達からも軟弱者扱いをされてきたのを嫁さんは目の前にしていたと言います。

人も羨む有名大学を卒業して大企業に就職した嫁さんの兄貴でも嫁さんの実家ではトラクターを運転出来ないものは一人前の男じゃないとみなされるのが滋賀の田舎町の農家の家族です。

 

嫁さんの実家では車の免許を持っている男が車を自由自在に運転できないというのは高校へ行けなかったことよりも恥なことなのです。

だから自分の息子だけは兄貴みたいな軟弱な男にだけはしたくないとずっと思っていたと言います。

だからと言って、受験前の大事な時期に息子を部活に行かせるだけでも問題ですが、風邪をひきかけて咳をしていた息子を部活の朝練のために早朝に起こす馬鹿な母親が何処にいますか?

 

受験日の朝に息子が起きてきて私に言うのです。

「風邪で少し熱があるし、頭がぼーっとしているので自分で運転して受験会場に行けないと思うわ。お父ちゃん、僕を試験会場まで乗せてくれる?」と頼んできました。

 

実はこうなることを前日から予想していたので、私は前日の会社の帰りに受験会場まで車で行って道順を確認しておいたのです。

息子は咳もしていたし、鼻水を垂らしながら夕食を食べていたので試験を受けらるかどうかを私は心配していたのです。

 

息子も前日に受験会場まで自分で車を運転して行ってみる積りでいたのですが、前日も母親に叩き起こされて朝練と授業が終わってからの練習にも行ったので、家に帰って夕食を食べた後に眠り込んでしまいました。

当時の我が家の車にはカーナビは付いていませんでしたので、前日に地図を見て道順を頭に入れておく必要もありました。

 

風邪で頭がぼーっとなっている上に運転経験の少ない17歳の高校生が今まで行ったことのない受験会場まで約40分距離を地図を見ながら運転するのは私は無理だと判断しました。

焦って事故でも起こしてしまえば元も子もありません。

 

そしたら嫁さんが言うのです。

 

「地図も読めない人が大学なんかに行っても意味がない!少しぐらい風邪をひいたからって地図も読めずに受験会場まで行けなかったら大学に合格してもロクな大人にならへん!」

 

確かに嫁さんの言う事も一理ありますが、車の運転なんて大学に入ってから幾らでも練習すればいいのです。

息子の将来を左右する大事な日に車の練習をする理由は何もないのです。
 
ACTやSAT(日本のセンター試験)の得点で大学の合否が決まるのは日本と同じですが、アメリカでは高校一年でも二年でも何時でもセンター試験を受けられるのです。

息子は高校3年(アメリカでは中学2年・高校4年)の時に受けたので2回目になります。

 

息子の高校での進路指導のカウンセラーとの三者面談で言われたのですが、息子の第一希望のイリノイ州立大学( The University of Illinois at Urbana–Champaign)に合格するにはACTの得点が30点が合格ラインだとされているみたいであり、高校の進学カウンセラーの先生は息子は良い線まで来ているので、このままの調子で頑張ったら次回は間違いないだろうと応援してくれていたのです。

 

まぁ会社勤めの経験が少ない嫁さんには理解できないことかも知れないと思いましたが、二流大学出身の私は日本のメーカーに勤めていた時は京大出身の上司に嫌というほど冷や飯を食わされていたので社会ではどれだけ学歴が大事であるかを知っています。

現在私が働いている米国のメーカーでは実力本位なので学歴はそんなに重要視はされませんが、それは社会経験がある者に対してです。

私の様に私が日本で開発してきた製品が世の中に存在しますので、それが私の履歴書みたいなものでしたが、社会経験の無い新卒者には学歴しか判断材料がありません。

 

米国企業は面接が一番大事な採用判断になりますが、面接試験を受ける前に書類選考で落とされてしまえばそれまでなんです。

イリノイ大学はイリノイ州の広大なトウモロコシ畑のど真ん中にある田舎の大学であり、ハーバード大やMIT大の様なアイビーリーグ大学とは違いますが、少なくともうちの会社では書類選考で落とされる心配はない大学です。

 

私は学生時代は作曲家を目指しており、それが無理だったらギターリストなると決めていたので、高校時代には受験勉強をするほど暇な学生ではありませんでした。

当時プロの作曲家になるための登竜門としてヤマハのポピュラー音楽コンテスト、所謂ポプコンのオーディションに2回合格しましたが、最終審査の”つま恋”まで行けず、音楽家としての道を閉ざされてしましまいた。

そして社会に出てからどれだけ学歴というものが大事なものかのかを知った大馬鹿者なのです。

 

それでも音楽をずっと続けていれば何とかなったかもしれませんが、結婚して子供を持って子供を大学までやらせるようなマトモな生活は送れなかったと思います。

私はこれまで何も自慢するものはありませんが、あの時の私の客観的に自分の才能を見極めて音楽家への道を諦めた冷静な判断は唯一自慢できるものだと思っています。

そして受験勉強もしなかった大馬鹿者の私が働いている会社にさえ自分の息子が入れなかったら父親として悲しいことだと思ったのです。

 

私も50歳を過ぎた辺りから昇進しましたが、随分回り道をしました。

人生、私の様な余計な苦労はしなくていいのです。

息子は体育会系の母親からは勉強しろとは一切言われなかっただからかだと思うのですが、スポーツばかりやっていては馬鹿になると思ったのでしょうね、自分で自発的に勉強していました。

 

そしたら嫁さんは言うのです。

 

「もしXXX(息子)が試験会場にたどり着けなかったとしても、それはそれで大学へ行くよりも人生のええ勉強になる!」と言うのです。

試験を受けることが出来ずに希望の大学に行けなくなり、前日に試験会場まで下見に行かなかったことを一生後悔するかもしれないが、それで得るものは大学で勉強するよりももっと大事なものだと嫁さんは言い張りました。

嫁さんはこういう人生に大事な時に親や人に頼ってしまうことをしたら、何か困ったことがあったら息子は直ぐに人に頼ってしまう人生を一生歩むことになる!とまるでドラマのようなカッコいいことを言うのです。

 

TVドラマや小説の中だったらそれでいいのですが、これは現実に我が家に起こっていることなのです。

そんなカッコいいセリフは現実の生活には要らないのです、TVや映画の中だけでいいのです!

 

今日だけは私が息子を乗せて試験会場まで行ってやればそれで済むのです。

「その今日が息子にとったらこれからの人生の生き方を決める大事なものになる!」と嫁さんも最後まで大声で怒鳴り合いました。

茶碗や皿は飛びませんでしたが、私もあの時だけはテーブルを強く叩いて叫びましたよ。

 

そんなことをしている内にどんどん時間は過ぎて行き、息子は目の前で夫婦喧嘩をしている我々に完全に呆れてました。


最後まで嫁さんと私は平行線でしたが、最終的には嫁さんの一言で決定しました。

「あんたが乗せて行ったら私はほんまに離婚するで!それは父親の優しさではないで。自分が心配するのが嫌なだけや!今まで私が厳しく育ててきたのに、今日あんたが息子の人生を台無しにしようとしてるんや!」

この人は離婚すると言ったら本当に離婚してしまう人なのです。

 

私が日本企業で働いていた時に幾ら会社に貢献しても私の実力は正当に評価されず、随分後から入ってきた上司の大学の後輩があっという間に私を追い抜かして行きました。

そういう時に私は嫁さんに「京大卒がなんぼのものやねん!俺が会社を辞めたら損するのは会社の方や。もし明日俺が会社で辞表を叩きつけても文句を言わんとってな。ラーメンの屋台を引いてでもお前と息子は食わせてやるからな!」と絶対に出来ない事を言っていたのですが、嫁さんはあの時の私はカッコ良かったと言うんです。

 

きっと私なら息子に「自分で試験会場まで運転できないような男なら大学なんかに行くな!」と息子を叱ると思っていたと嫁さんは言うのです。

確かに私は高校時代からバイクを乗り回していたし、免許はありませんが大型トラックでも何でも運転する自信はあります。

それは去年の引っ越し作業の時に実証することができましたが。

 

最終的に私は息子に自分で運転して行けと言いました。

 

「お母ちゃんはお父ちゃんがお前を乗せて行ったら離婚すると言うてはるやろ。離婚なんかでけへんのは分かるやろ。そやから自分で運転して行き。今ならギリギリ間に合うかもしれへんで。」

 

その時は息子も親を真似して机を叩いて大声で叫びました。

 

「そんなことをこんな時間になってから言うの!それやったらもっと早く言って欲しかったわ!うちの親はほんまに最悪や!」

 

息子はそう言って車の鍵を引ったくって出掛けようとした時に嫁さんが「ちょっと待ち!朝飯を食べへんのが一番悪い。」と言ってミツワのヒポのパン屋さんで買っておいた息子の好きな クリームパンをホケットにねじ込んだのを私は鮮明に覚えています。

 

息子が出て行った後に嫁さんは「もう会社に行きや。いつもの時間は過ぎてるで!」と追い出すように言われたのですが、その日私は会社には行きませんでした。

と言うのも、風邪をひいて鼻水を垂らしている息子の受験会場への送り迎えをしてやる為に前日に私はボスにその日の有給休暇を貰っていたのです。

 

「気持ち悪いオッサンやなぁ!私がこんな人と結婚したと思ったら私自身まで気持ち悪くなってきたわ!」

この嫁さんの言葉は一生忘れることは出来ないと思います。

 

もし息子が寿司職人になるとか、靴職人になると言っていたなら私は大学のことなんてどうでも良かったのですが、一番最初の日記に書いた様に息子は嫁さんが死ぬか生きるかの大病を患った時に 「僕が研究者になって100%完治する特効薬を開発するかから、お母さんそれまでは頑張ってくれ!」と 宣言していしたので、息子の夢を叶えさせてやりたかったのです。

 

ぶっちゃけた話、父親の私にはそれ以外の理由もありました。

イリノイ州立大学でもアメリカでは寮生活の義務があるので寮費を含めると年間の授業料が3万ドル近いんです。

4年で12万ドル、日本円に換算すると千三百万円ぐらいです。

州立大学は日本の国立大学に当たり、州内で一番学費が安いのです。

 

進路相談の三者面談の時に高校のカウンセラーの先生が公立大学を落ちた時のことを考えて私立大学も受験した方がいいと言われて、自宅から一番近い私立大学のノースウェスタン大学の資料を渡された時は驚きましたよ。

息子が専攻する学部だったら年間の授業料が6万ドルに近かったのです。

4年で24万ドル、日本円に換算すると二千五百万円ぐらいです。

私も焦ってシカゴ市内にある他の私立大学の授業料を調べましたが、寮生活の義務がある大学では似たり寄ったりでした。

 

これは息子にどうしても公立大学に合格してもらわないと...

 

そして息子は試験会場までは全く迷わず、運よく信号も殆ど青だったのでギリギリ間に合って普通に試験を受けらたようです。

息子はどうせ間に合わないだろうと思っていたので、試験を受けられただけでも儲けものと思ったらしく、気が楽になったので普段以上の実力が出せたと言ってました。

嫁さんが息子に「どこの大学も受からんかったら日本に帰ってお爺ちゃんの果樹園を手伝ったらええやん!」と言ったのが息子には最大の励ましの言葉だったようです。

 

そしてしばらくして受験の成績をウェブサイトで確認した息子は言うのです。
「お母さんのお陰で目標の点数は何とかクリアできたわ!」
あの時の私のことなど全く気遣う言葉は一言も出てきませんでした。
流石にマザコンでした。
 

息子の希望の大学から合格通知が届いた日に嫁さんはCostcoに行って息子の好きなカニを$100分買ってきました。

一番最初の日記にも書きましたが、息子はこういう特別な日に日本から送ってもらった貴重なスガキヤラーメンを食べさせてくれ!と母親に言いましたが、嫁さんは大学に合格したぐらいでは貴重なスガキヤを食べるまでの価値は無いとあっさり断れてしまいました。

息子の大学合格記念として家族で一緒に食事をした写真を嫁さんが撮ろうとした時にスガキヤを断られた息子はカメラを向けられると変な顔ばかりをしてました。

 

 

現在息子は30歳になりましたが、今でも言うんですよ。

「あの時にお父ちゃんに車に乗せてもらってたら僕は情けない大人になってたわ。困った時になったらいつも誰かに頼らないと生きて行けない人間になっていたと思うわ。」

 

戦場で兵士が敵に撃たれて死ぬ時に叫ぶ言葉は「お母さーん!」であり、「お父さーん!」と言うのは聞いたことはないので、母親には根本的なアドバンテージがあるのは仕方がないのでしょうね。

私を含め、男は皆マザコンなのかもしれませんね。

 

しかしマザコンというのは恐ろしい生き物だと悟りましたよ。

嫁さんが難病を患った時にその病気が完治できる治療薬がなかったので「僕が研究者になって100%完治する特効薬を開発するかから、お母さんそれまでは頑張ってくれ!」と言っていたのですが、まさか本当に研究者になってNIH(National Institutes of Health、アメリカ国立衛生研究所)で医療の研究者になるとは夢にも思いませんでした。

 

アメリカのドクターは患者に事実だけを淡々と話すのですが、嫁さんにもこれからの辛い治療を受けても完治率は60%~80%だと言われた時は当時高校生の息子はそれを聞いて母親にハグして泣きました。

 

そしたら嫁さんは息子にこんなことを言うのです。

 

「お母さんは人前で泣くような男は絶対に信用できません!」とハッキリ言ったのです。

 

私はコイツ、悪魔か?と思いましたよ。

 

そして息子が「僕が研究者になって100%完治する特効薬を開発するかから、お母さんそれまでは頑張ってくれ!」と言った時に嫁さんは更に驚く言葉を言うのです。

 

「そんなんお母さんは嫌やわ!お母さんの病気のせいで自分の将来を決めたみたいなことを言うのは卑怯な人の言葉です。自分自身で何をしてお金を稼ぐかを考えるのが面倒なだけやんか。誰でも自分が何をして生活するかは悩んで悩んで決めるものです!」

 

それでも息子は泣きながら言ってましたね、僕がお母さんの病気を治す薬を作ると...

 

幸いにも嫁さんは治療が成功し、正常になりました。

5年後の検査も10年後の検査も全く異常なしだったのでドクターからも完治の太鼓判を押してくれました。

 

それまで私は平凡な何処にでもいるサラリーマン家族だと思っていましたが、とんでもない者達と一緒に暮らしていたことを悟ったのです。

普通の日本のサラリーマン家族と違うところは家から一歩出た瞬間に日本語から英語に変わるだけのものだと思ってました。

 

そして私と嫁さんと息子の三人だけの家族だったのですが、2年前に息子が大学院時代に隣の研究室にいた中国からの留学生と結婚したので、更に我が家はあり得ないことが常に起こるぶっ飛び家族になってしまったのですが、それは機会があれば話すことにします。