真のお父様が「男は不足品の創造物だ。」と言われたみ言にこそ真の愛の尊さがある! | 聖霊のもとにーメシヤの涙

聖霊のもとにーメシヤの涙

心の中に神様が入ってこられ、いらっしゃれば心が分かります。
神様が心の中に入ってこられれば、壁も突き通して見ることができ、
じっと座りながら何千年前に死んだ聖人たちを運行させることもできます。

先回記事末部より

 

考えてみてください。神様が創造しようとした男性は、ただ誕生で終わるのではないのです。成長と共に包み込んでくる自然環境から神様の愛を実感し、その心情を基にして四大心情圏が成長していきます。そして、愛し合う女性と祝福を受け、初夜を迎えることを通して完成基準へと向かっていくのです。

 

アダムの成長過程において、四大心情圏を実感し段階的に成長していくには、神様が愛によって生まれたと同じように、母の胎内から愛に包まれて誕生する必要があるのです。胎児の無意識世界に、創造主である神様の愛が潜在意識として注がれ刻まれなければならないのです。

 

ですから、被造世界の創造を思い立つ始まりとして、神様が形状の絶対服従性から、性相の知情意が感覚した無限の彼方から包み込んでくる包容感の体験があるのです。その体験を、被造世界に再現した愛が包み込んでくる環境圏こそ、女性の生殖器の胎中なのです。

 

「精神的創造は女を神様が先にしておいて、」と語られた次に、「男は不足品の創造物だと言うのだ。」と語られています。

 

このみ言は、あくまでも神様の対象としての女性と見た場合の視点であり、全ての女性一人一人が神様の妻だという視点からのみ言です。その一人一人の女性に、神様の代身としての男性が立てられ、神様はその男性を通して女性を愛されるのです。

 

さらにその次のみ言に、「生命の種」と語られていますが、「愛の種」「生命の種」からなる「神様の精子」について理解できてこそ、はじめて主体としての男性の尊さが分かってくるのです。

 

それは、次回の記事で・・・。

 

  *****

 

先回記事で引用した2006年2月20日のみ言は、誤解されやすいみ言です。「神様の精子」について記述する前に、しっかり解説しておきたいと思います。

 

  **2006年2月20日安侍日の敬拝式及び朝の訓読会でのみ言より**

 

 男と言う考えをするようになる時、先有条件として女と言うものを決定しておいてする言葉だ。女と言うものを話す時には男が先に生じた。だから自分よりも貴く思わなければならない。上を知ろうとすれば下を、自分よりも貴く思わなければならない。天がいくら高くても先有条件として、地を先に貴く思わなければならない。このような概念がありません。先有条件を主張したこともレバレント・ムーンだ。そうだろう?必ず上下前後が繰り広げられる。

 

 そのために神様が創造をアダムを先にしたのか、女を先にしたのか?いくら生まれがよかったとしても先有条件物である女が必要でありうるようになった。精神的創造は女を神様が先にしておいて、男は不足品の創造物だと言うのだ。女マンセー(万歳)、言ってみなさい。「女マンセー。」大きく言ってみなさい、この身分の低い奴ら!「女マンセー!」(笑い)それはそうでないと否定できない。

 

 男は誰のために生まれたのか?女のために!しかし貴いのは誰にあるのか?男にある。生命の種と言うのは、出発は女のために創造したとして生命の種種をしまっておいたのは生命の種がどれほど多いのかわかるか?女の子宮に精子、卵子と精子数個と合うのか?卵子一つと精子百個か、千個か?一つしかいない。卵子一つに百個になれば百双が一度に双子になると言うのだ。そのような法がない。

 

**引用終了**

 

「このような概念がありません。」と、その前の文章で主張したことを否定しています。

 

それは、男を考える時には、先に女の存在があることが分かっていて言うことであり、女という時は、男の存在が先にあることから言えることだと、まずは言っています。しかし、女の存在が先にあったとしても、女が貴い訳ではないということを確かめるために、その事がはっきりと読み取れる次の文章を語っているのです。

 

「天がいくら高くても先有条件として、地を先に貴く思わなければならない。」

 

しかし、この文章を指してその直後に「このような概念がありません。」と語っています。

 

天は高く貴いものであり、たとえ先有条件として地が先にあったとしても、地が天よりも貴いものではないという事を伝えながら、女が先に構想されたのだが、貴いのは女ではなく男なのだと語られているのです。

 

それを理解した上で、「精神的創造は女を神様が先にしておいて、男は不足品の創造物だと言うのだ。」というみ言の真意が浮かび上がるのです。

 

なぜ、男は「不足品」なのでしょうか。それは対象を愛することに覚醒した夜の神様が、自己中心的だった神様自身に「不足」なものを感じ取ったからです。その不足なものとは、神様の自己愛を求める情念を刺激して来た、「包容感」「包括感」であり、その感覚が自己愛の情を刺激して、「真の愛」を求める心情の神様となられたのです。

 

ですから、神様が自分に「不足」だと感じ取ったものは「真の愛」という事になります。その「不足」なものを男性アダムを通して得ようとしたのです。その不足な真の愛を体恤するためにエバを創造し、エバの母性が成長するとともに心情一体となり、エバの母性を相続しながら四大心情圏を成就していくように構想したのです。

 

そして、アダムとエバの初夜の時に、アダムは四大心情圏を成就し、真の愛を体恤し、不足なものを満たした一人でも真の父母となるのです。

 

その真意を知った上で、次に進んで行きます。

 

 

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