「精神的創造は女を神様が先にしておいて男は不足品の創造物だ」このお父様のみ言の真意! | 聖霊のもとにーメシヤの涙

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心の中に神様が入ってこられ、いらっしゃれば心が分かります。
神様が心の中に入ってこられれば、壁も突き通して見ることができ、
じっと座りながら何千年前に死んだ聖人たちを運行させることもできます。

先回記事夏部より

 

真のお父様は創世記に記されている「アダムのあばら骨からエバを抜き出した」という意味の聖句を、次のように解釈しました。

 

「二性性相の形象的実体女性分野を中心として抜き出し、アダムと同じ形の主体対象関係なのです。」

 

「形象的実体女性分野」とは何を意味するものなのでしょうか。それは神様の自己愛の情念を刺激してきた、形状の性質である「絶対服従性」に他なりません。形状の絶対服従性は、エネルギーそのものの働きにある分けれではなく、性相に潜んでいた「絶対服従性」が形状に反映した性質でした。

 

その形状の働きに反映される「絶対服従性」が、神様の自己愛の情念を刺激した時に、包容感として感覚されたのです。その包容感から来る喜びの刺激に、包み込んで来た形状を包み返し包括したいと願い、その情感が愛なのだと覚醒しました。

 

愛したくても愛する対象には、それ自体の存在が無く、無の暗闇に落ちた境地で、神様は愛したくてたまらない心情の根底に、真の愛に絶対服従して生きたい心情が潜んでいたことに気付かれたのです。

 

そこに、対象として生きる喜びの境地を見出して、愛したくてたまらない絶対主体としての心情と、真の愛に絶対服従して生きたい心情が一体となった、真の愛の世界が広がったのです。

 

そこで神様は、絶対主体の自ら自身の、絶対対象となる存在の様相が、初めて明確に構想できるようになるのです。その絶対対象として創造される女性は、心情の動機に、女性自体においては主体的な情的衝動として「真の愛に絶対服従して生きる衝動」を中心に置くのです。その衝動に触発されて、真の愛に対しての真の美を返したくてたまらなくなる衝動が湧き上がるようになる真の愛の絶対対象となるのです。

 

その存在こそ、女性としての形象的個性真理体です。男性も女性も神様の三位一体システムを原形とした、心情の目的を中心とした心と体の四位基台による真理体となるのです。

 

次回は、真の愛の起源、四大心情圏の原点に迫ります。

 

  *****

 

真のお父様は創世記においては、アダムのあばら骨からエバを抜き出した」と書かれてある比喩の聖句を、次のように表現されました。

 

「二性性相の形象的実体女性分野を中心として抜き出し、アダムと同じ形の主体対象関係なのです。」

 

「形象的実体女性分野」についての解釈は、「真の父母様の本体論」において次のように書き表しています。

 

「本形状そのものの形態である『真の愛に絶対服従して働く』という機能と様相が、本性相の『真の愛に絶対服従して生きたい』という衝動を呼び起こしました。これこそが、永遠の喜びと幸福の原点であると実感した夜の神様は、自らの内的性相の知情意の心の機能から、『真の愛に絶対服従して生きたい』という衝動が湧きあがる要素を抜き出し、それを形象的実体女性分野としたのです。」

 

 

自らの本性相の中に、絶対対象となる存在の様相を「形象的実体女性分野」として見出すことによって、初めて対象となる女性を明確に構想できるようになるのです。その絶対対象として創造される女性は、心情の動機に、女性自体においては主体的な情的衝動として「真の愛に絶対服従して生きる衝動」を中心に置くのです。その衝動に触発されて、「真の愛に対しての真の美を返したくてたまらなくなる衝動」が湧き上がるようになる真の愛の絶対対象となるのです。

 

さて、第45回真の子女の日のみ言では、「形象的実体女性分野」という表現と共に、エバには、性相的プラス内容がある」と語られています。今回の記事では、この「性相的プラス内容」について解説していきます。

 

  **2004年11月12日第45回『真の子女の日』の御言より抜粋引用**

 

 ですから、息子を中心として見るとき、神様はお父様であると同時にお兄様にもなり、わたしの女性世界の相対圏を助けてくれる夫となる相対的条件を持っているのです。その相対的条件が、わたしと関係を結ぶのは難しいので、アダムのあばら骨からエバを抜き出したのです。分かりますか?

 

 二性性相の形象的実体女性分野を中心として抜き出し、アダムと同じ形の主体対象関係なのです。エバには、性相的プラス内容があるので、自然に連結させる関係が結ばれるようになっています。因縁において関係が結ばれるように、男性と女性になっているのです。

 

  **引用終了**

 

この「性相的プラス内容」について、「本然世界に展開する真の父母様の本体論」入門編から抜粋引用します。

 

  **引用開始**

 

2.夜の神様が男性と女性を構想する少年から青年期(長成期)

 ・・先回記事引用部分からの続き・・

 

 エバの性相的プラス要素とは、無限大の夜の神様をさえ包み込んでくる、全てを包容する愛のことであり、またその愛を、生命を繁殖する形状の能力として展開するのです。その主体として立つアダムは、包容する愛を受けることを通して、包容する愛と同時に、主体として全てを包括する愛を持つようになるのです。その包括する愛を、アダムにとっての性相的プラス要素とも呼べるでしょう。

 

 夜の神様は自分そのものである本性相を男性として構想し、本性相に絶対服従して神様として存在させていてくれた本形状を、女性として構想することになりました。そうであるがゆえに、夜の神様は「無の暗闇の状態」でありながら内的愛の胎中で、主体である夜の神様の理想を、対象としてその如く実現してくれるエナジーとしての存在である本形状(昼の神様)と、双子で生まれたと言えるのです。

 

 神様が自己中心であったときには、本形状のエナジーは、神様自身を存在させる為だけに働いていましたが、神様が愛する対象に対する構想理想が完成した後には、対象世界を創造する為のエナジーとなって展開するのです。そのエナジーこそ、被造世界を創造し、真の父母の完成を目的とする昼の神様と呼ばれるものとなるのです。

 

 夜の神様にとって、最高の喜びの境地に立てる存在としての女性エバの構想理想が立ったならば、次はこの女性の永遠の幸福に責任を持つ真の愛の実体者を構想しなければなりません。女性の永遠の幸福に責任を持つということは、人類始祖としての女性エバから、息子娘として産み増える人類すべてに責任を持つ主体者ということです。それこそが、夜の神様の神性格主体としての性相をそのままに、形状においては、すでに構想した女性に相対基準が合うように構想し、実体化した男性格主体としてのアダムなのです。

 

  **引用終了**

 

主体の男性に対して、対象である女性から構想に立てることなどあり得ないと主張する方も多いようですが、真のお父様ご自身が、み言ではっきりと語られています。

 

  **2006年2月20日安侍日の敬拝式及び朝の訓読会でのみ言より**

 

 男と言う考えをするようになる時、先有条件として女と言うものを決定しておいてする言葉だ。女と言うものを話す時には男が先に生じた。だから自分よりも貴く思わなければならない。上を知ろうとすれば下を、自分よりも貴く思わなければならない。天がいくら高くても先有条件として、地を先に貴く思わなければならない。このような概念がありません。先有条件を主張したこともレバレント・ムーンだ。そうだろう?必ず上下前後が繰り広げられる。

 

 そのために神様が創造をアダムを先にしたのか、女を先にしたのか?いくら生まれがよかったとしても先有条件物である女が必要でありうるようになった。精神的創造は女を神様が先にしておいて、男は不足品の創造物だと言うのだ。女マンセー(万歳)、言ってみなさい。「女マンセー。」大きく言ってみなさい、この身分の低い奴ら!「女マンセー!」(笑い)それはそうでないと否定できない。

 

 男は誰のために生まれたのか?女のために!しかし貴いのは誰にあるのか?男にある。生命の種と言うのは、出発は女のために創造したとして生命の種種をしまっておいたのは生命の種がどれほど多いのかわかるか?女の子宮に精子、卵子と精子数個と合うのか?卵子一つと精子百個か、千個か?一つしかいない。卵子一つに百個になれば百双が一度に双子になると言うのだ。そのような法がない。

 

**引用終了**

 

考えてみてください。神様が創造しようとした男性は、ただ誕生で終わるのではないのです。成長と共に包み込んでくる自然環境から神様の愛を実感し、その心情を基にして四大心情圏が成長していきます。そして、愛し合う女性と祝福を受け、初夜を迎えることを通して完成基準へと向かっていくのです。

 

アダムの成長過程において、四大心情圏を実感し段階的に成長していくには、神様が愛によって生まれたと同じように、母の胎内から愛に包まれて誕生する必要があるのです。胎児の無意識世界に、創造主である神様の愛が潜在意識として注がれ刻まれなければならないのです。

 

ですから、被造世界の創造を思い立つ始まりとして、神様が形状の絶対服従性から、性相の知情意が感覚した無限の彼方から包み込んでくる包容感の体験があるのです。その体験を、被造世界に再現した愛が包み込んでくる環境圏こそ、女性の生殖器の胎中なのです。

 

「精神的創造は女を神様が先にしておいて、」と語られた次に、「男は不足品の創造物だと言うのだ。」と語られています。

 

このみ言は、あくまでも神様の対象としての女性と見た場合の視点であり、全ての女性一人一人が神様の妻だという視点からのみ言です。その一人一人の女性に、神様の代身としての男性が立てられ、神様はその男性を通して女性を愛されるのです。

 

さらにその次のみ言に、「生命の種」と語られていますが、「愛の種」「生命の種」からなる「神様の精子」について理解できてこそ、はじめて主体としての男性の尊さが分かってくるのです。

 

それは、次回の記事で・・・。

 

 

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