神様が愛によって誕生したその場面を目の当たりにして真の愛の原点を体験したいと思いませんか! | 聖霊のもとにーメシヤの涙

聖霊のもとにーメシヤの涙

心の中に神様が入ってこられ、いらっしゃれば心が分かります。
神様が心の中に入ってこられれば、壁も突き通して見ることができ、
じっと座りながら何千年前に死んだ聖人たちを運行させることもできます。

先々回記事重要部分

 

創造前の神様の本形状は、形状自体の形を持たないエネルギーであって、本性相の知情意の思考展開に従って、完全相対基準を造成し、絶対服従性をもって神様の意識世界に顕現させるのです。それは私たちが生きている三次元の世界とは、まるで違う遥かに高い次元の世界ですから、到底言葉では表現できません。

 

あえて比喩で表現しますが、誰もが口ずさんだり、あるいは共に歌ったりして、喜びを得る音楽に例えて表現してみましょう。

 

音楽はリズムとメロディが合わさって、人々の情緒を揺さぶり、喜怒哀楽の情念と一体となって喜びを与えます。たとえ自分一人で歌っても、思い描いた通りに発声が出来て、千変万化の曲想を自在に展開できれば感動感激に浸れます。

 

全知全能の神様の場合は、一人でいくつもの楽器を奏でている状態を創り出すことも可能です。そこで、同時に違うメロディを奏で、違うリズムを刻み、それら億兆万の曲想が溶け合って一体となった旋律で、永遠に神様の自己愛を刺激し続けていた状態が持続するのです。超越的無限シンフォニーとでも言えるでしょうか。

 

しかし、創造前の自己愛の神様においては、人間の五感がまだ発想されていない状態ですから、音色や色彩とは違うエネルギーの波長や粒子性の展開、さらには球形運動によって、永遠普遍の存在世界に千変万化の渦巻くような美的世界を現出させたことでしょう。

 

でもそこに、形状のエネルギー自体の存在や働きを感じさせる要因が少しでもあれば、神様が構想した美的世界に違和感が生じます。ですから、神様の構想がそのまま展開する存在世界を造り出すためには、形状のエネルギーの存在は、絶対的に完璧な無の状態でなければならなかったのです。

 

ですから神様の意識世界においては、本性相のみの一性相で存在している実感しか無いのです。しかし、実際は二性性相の存在で、創造後の神様と変わりは無いのです。形状自体は本性相に対する絶対服従性を持つがゆえに、絶対的虚無の存在であらねばなりませんでした。ここにこそ永遠普遍無限大の神様を、包み込んでくる存在が顕現する要因があるのです。

 

神様をさえ包み込んで来た存在が何であるのかは、次回の記事で説明します。

 

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先々回記事で記述した中に、次の内容がありました。創造前の神様の本形状が、本性相への絶対服従性の性質によって、絶対的虚無の状態で働いていたという説明です。この事を理解することが、神様が体験した包容感包括感を理解するために必須な事です。

 

先回記事では、自己愛の喜びを求めて存在していた神様が、喜びを実感していた状態を、超越的無限シンフォニーと比喩して表現しました。

 

しかし、被造物である私たちが感じる五感は、まだ創造前の神様にまだはありません。ですから、私たちが感じる肉的五感や霊的感性を遥かに超えた次元で、喜びの境地を具現化していたのです。

 

具現化するとは、神様の無意識世界・・・、つまり自己愛による感情(愛によって生まれ心情となる)世界から知情意の思考展開によって、構想を意識世界に顕現化させることです。

 

そのことを比喩で表すならば、まず、人間の脳の機能について知らなければなりません。ネット上に掲載されていた「脳神経外科准教授」の解説を引用します。

 

脳の働きは電気活動で営まれている

       (県立医科大学 脳神経外科 准教授)  

 脳を地球にたとえると、地球上のコンピューターがインターネットでつながってさまざまな情報をやり取りしているように、脳では神経細胞同士のつながりがさまざまな脳の機能を可能にしているわけです。神経細胞間の情報伝達もインターネットと同様、電流で伝えられています。すなわち脳が働いているとき、脳には電気が流れているということです。

 

 脳の働きは電気活動で営まれている。このことを見る、聞く、味わう、嗅ぐ、感じるといった知覚で考えてみましょう。

 

 たとえば、ものを見る視覚は、目に入ってきた光の信号を目の奥の網膜の神経細胞が電気信号に変換します。その電気信号が視神経を伝達して大脳皮質の後頭葉の神経細胞を興奮させます。後頭葉は視覚を感じる領域なので、われわれは脳の中のスクリーンに現れた映像を見ているだけなのですが、あたかも本当の外界を見ているように感じることができます。

 

 

 同様に音は耳の奥の内耳で、味覚は舌の味覚神経で、においは鼻の奥の嗅神経で、体の痛みなどの感覚は皮膚などにある感覚神経で、いずれも電気信号に変換されて脳に送られ、それぞれの知覚として感じとられます。つまり外界の出来事を電気信号に変えて脳が勝手に感知している、ということになります。 

 

  ***

 

この脳内の機能において、肉的五感で得た実感が、全て電気信号に変えられて、それが脳内において五感で感じ取った外界の刺激が、そのごとく展開されているように感じ取れるということなのです。

 

つまり、外界で感じ取った五感そのままの電気信号を、外界が無くても脳内で作り出せたとしたならば、外界が存在しなくても、外界にいる実感を得られるということなのです。

 

創造前の神様の状況に例えるならば、外界が無意識世界の自己愛による感情世界に例えられ、これまで体験した喜びの状態から、知情意による思考展開によって電気信号を作り出し、さらに構想を加えた理想実感環境圏が神様の意識世界に顕現化され、これまで以上の喜びの境地に立てる環境圏が作りだされるということになります。

 

そこで構想理想を展開する本性相に、絶対的に反応し、電気信号を作り出すエネルギーこそ、本形状のそれ自体の形状を持たない自存エネルギーの働きです。

 

そこで何度も強調しますが、エネルギーの働きが、少しでも本性相の感覚するものとなれば、意識世界に顕現する喜びの境地に、違和感が生じるものとなります。その為、本形状は、本性相の知情意の感覚機能にとって、完全なる無の状態となりながら、絶えず激しく働くことになるのです。全知全能を可能にする絶対的能力を備えながら、絶対的虚無、完全無である存在こそ、本形状の様相なのです。

 

なぜ、このことを重ねて説明するかと言えば、本性相に対して、本形状は絶対的相対基準を結びながら、絶対的虚無として能力を発揮していることが、腑に落ちて理解していただくことによって、真の愛の起源が理解できるようになるからです。宇宙の根本が理解できて、「夜の神様、昼の神様」の存在様相が理解できるようになるからです。

 

本形状が備える絶対服従性と、絶対的虚無の性質こそが、自己愛を求める神様の感情世界を刺激して、真の愛に絶対服従して、愛の対象を求める心情の神様となって誕生する要因となっていくのです。

 

いよいよ、真の愛の絶頂へと案内することになるでしょう。

 

 

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