先々回記事末部より
キリスト教会は教会の心の位置に「聖父・聖子・聖霊の三位一体」のキリストを立てていましたが、私たち統一教会及び家庭連合は、心の位置に「人間メシヤを信じる人間」を置いて来たのです。
そうでありながら誇らしげに、我々はキリスト教より高度な信仰を持っていると自負していたのです。そのような私たち祝福家庭を、「聖父・聖子・聖霊の三位一体」のキリストであるべき真のお父様は、何も言わずにじっと見守っておられたのです。
今、真のお父様は霊界から祝福家庭の一人一人に働きかけ、教え悟らせようとしておられます。それは、真のお父様が地上において、一人一人の食口に約束していたことなのです。
真のお父様があなたに働き教えようとしているのに、過去にしがみついて「聖父・聖子・聖霊の三位一体」に対して心を閉じ、家庭連合時代のままに人間を中心に置くコミュニティで良いわけがありません。
日本サンクチュアリ協会がキリストを中心に立てると掲げ、二代王様への絶対信仰といいながら、「聖父・聖子・聖霊の三位一体」を理解することを拒否しているなら、キリストの体としてのコミュニティを形成することは出来ないのです。
人間を中心とするコミュニティだとするならば、まだまだ、聖殿食口一人一人の個性に秘められている才能や能力を引き出して摂理に活かすことが出来ないでいるのです。
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4月27日の記事で、次の事を記述しました。
**当ブログ4月27日記事より末部引用**
「聖父・聖子・聖霊の三位一体」の様相から、「お父様の聖霊」を理解しなければ、私たちの信仰は三代王権とは関係の無いものとなるのです。
三代王権のもとにある私たちが、原理的解釈から「聖父・聖子・聖霊の三位一体」のキリストの様相を理論的に明確にしてこそ、初めてキリスト教への伝道拡大が始まると言っても過言ではないのです。
「聖父・聖子・聖霊の三位一体」の原理的解釈の原点が、創造前の神様の三位一体システムにあるのです。
「人(man)であると同時に神であり、三位一体で創造以前から父と共にしていた存在であるということです。
それがキリスト教で扱われている『神は愛である』という内容です。三位一体のシステムそのものから『愛』を相互間応答(reciprocate)しているわけです。それで愛を相互間で応答するために人類が必要ではなかったのです。そのため神が人類を作る必要がなく、したがって、これ(人類を作ったこと)は神の完全な恩恵になるのです。これが現代神学の主たる結論です。」
ここにこそ、「真の愛の原点」があり、真のお父様の生涯にわたる「許しの愛」「犠牲の愛」の原点があり、「真の愛に絶対服従して生きる心情の動機」の原点があるのです。
このことが理解できる時、あなたの信仰と心情世界に、大革命が起きるでしょう。
**引用終了**
二代王様が語られた創造以前の神様の、「愛」を成立させる「三位一体システム」について、真のお父様は異なる表現で語られていました。
「御旨と世界」 人間に対する神の希望より
「我々は、人間には利己的な傾向があるということを知っています。これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。この事実はあなたを驚かすかもしれませんが、しかし、神は人間と宇宙とを創造される前は、たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたということを理解しなければなりません。しかしながら、神が創造に着手されたその瞬間に、神の中の生命という概念が完全にかたちとして現れてきたのです。神は、今や、御自身のためではなく、その対象物のために生きるようになったのです。」
利己的とか自己中心的と真のお父様は語られていますが、言いかえれば「自己愛」という事になります。
心理学からの解釈では次のように説明されています。
「自己愛は、自分自身とその能力に対する信頼、自信、誇りを持つことだ。」
また、精神医学の観点からは次のような説明があります。
「自己愛とは自分を大切にすることをいいます。自己愛は少なからず誰にでもあるものです。自己愛は年齢を重ねるごとに成熟していくといわれています。この『自己愛の成熟』とは精神医学では自分を肯定して愛することができる状態といわれていて、さらに、成熟すると自分以外の他者にも愛情を注げるようになるといわれています。」
つまり、二代王様が語られた創造以前の神様の三位一体システムとは、自己愛を成立させる「三位一体」であり、創造後の神様の三位一体システムは、真の愛を成立させるための「三位一体」となるのです。
つまり、キリストとは、「真の愛を成立させるため」の「聖父・聖子・聖霊の三位一体」の様相なのです。この「聖父・聖子・聖霊の三位一体」のキリストが、コミニィティの一人一人の心に臨在するようになってこそ、そのコミィニティ(共同体)の中心にキリストが立つのです。
二代王様の最新のみ言から、コミィニティ(共同体)とキリストと聖霊の関係性を語られたみ言を引用します。(kijoksoriさんのブログより)
**2024年4月28日英語礼拝二代王様み言より抜粋引用**
私たちの共同体には中心がある。そうです。キリストが共同体の中心でなければ、その共同体は崩壊するんだ。例えば、家族詐欺連合は明らかに崩壊している。そして、彼らは、私たちが持っている福音主義的精神の多くをコピーしようとしている。でも申し訳ないが、本物であるものをコピーすることはできない。あなたたちは、彼らは、お父様から何十億ドルも盗んだんでしょう?お父様の血統と王権を排除しようとしたのです。文字どおり、摂理歴史全体に、反対する罪を犯したんだ。だから、今更なりふり構っていられない。彼らは、その組織は崩壊しているのだから。プロテスタントか何かのように、両手を広げて、物事が好転するふりをするんだ。いや、あの共同体全体の誰もが、自分たちがしたことを理解しているからだ。あなたたちは不義を追求したのです。一時的な権力を、あなたたちは追い求めたんだ。だから、聖霊を無理やり連れてくることはできない。そのようなふりをすることはできない。見せかけではないのだ。
私たちが霊、聖霊を持つとき、お父様の霊がここにいて、私たちに触れて下さる。そして私たちは泣き崩れ、床に叩きつけられる。それは作り話じゃない。オーケー、聖霊がここにいるのです。お父様の霊がここにいるのです。なぜかというと、私たちは義を追い求め、権力や名声の代わりにお父様を追い求めたからなのです。それが私たちがしたことであり、それが現実であり、本当のことなのです。そして聖霊は、本物の信仰と本物の愛があるところにしか宿ることができないのです。アーメン。
**引用終了**
二代王様が語られるように、私たちが信じる真のお父様を、私の心に「聖父・聖子・聖霊の三位一体」のキリストとして迎える信仰が無ければ、聖霊は宿ることは出来ないのです。二代王様は聖霊が宿るという表現をされました。つまり、聖霊が常時、生心に臨在してくださるようになるという事です。
私たち三代王権の聖殿食口は、聖霊体験から聖霊の臨在へと次元を高めなければならないのです。
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