三大王権のもとにある王王妃にとって神様と繋がる為の大問題! | 聖霊のもとにーメシヤの涙

聖霊のもとにーメシヤの涙

心の中に神様が入ってこられ、いらっしゃれば心が分かります。
神様が心の中に入ってこられれば、壁も突き通して見ることができ、
じっと座りながら何千年前に死んだ聖人たちを運行させることもできます。

先回記事末部より

 

韓氏オモニの反逆が摂理を崩したと受け止め、祝福家庭が、韓氏オモニの罪を責めていたならば、家庭連合(天の父母様聖会)はますます強大になっていきます。

 

とくに三代王権のもとにある王王妃が、二代王様と同じ位置にあって韓氏オモニの反逆行為を追及していたならば、サタンはその責める情念のエネルギーを吸収して、サタンシステムを強大なものにしていきます。

 

韓氏オモニを反逆に至らしめたのは、原理講論の間違ったキリスト論をそのまま受け止め、人間メシヤとしてしか真のお父様に侍ってこなかった祝福家庭の誤ったメシヤ観なのです。

 

その悔い改めである「メタノイヤ」に至ってこそ、韓氏オモニの罪を追求することができるのです。

 

この動画を見てくれた方の中には、「自分は神様と一体となった真のお父様を信じてきた」という方もいました。

 

ですから、次の記事から天聖経のみ言である「神様と一体となった真のお父様」「真のお父様の体に入った神様」を信じる事と、「聖父・聖子・聖霊の三位一体」のキリストである真のお父様を信じる事の違いを解説していきたいと思います。

 

  *****

 

無形の神様が有形の被造世界を主管するには、有形の体が必要だという事が、天聖経「真の神様 第1章 神様の本体2)無形の神様は体が必要」の、①において語られています。抜粋して引用します。

 

①   体をもつためにアダムとエバを創造

 神様は、どうしてアダムとエバのような形を必要とするのでしょうか。万物は形状的な形をもっていますが、神様は無形の存在です。神様はどのような形ももっていません。大きいと言えば無限大です。小さいと言えば無限に小さい方です。そのような方がどんな標準的な形を形成し、形体を現したとしても実体をもった万物はその神様に直接主管されません。ですから実体をもった被造世界においては、実体をもった主人的人格と形を備えた存在がなければならないのです。神様は地上万物の主管だけではなく、無限な霊界も主管しなければなりません。天使長や様々な形体をもった実体、そして無形の実体までも主管するには、その中心的タイプ、すなわち形状が必要です。それで神様はアダムを創造されたのです。(35-157,1970.10.13)

 

 アダムを中心に霊肉両面の世界、無形実体世界と有形実体世界を主管されようとするのが、神様の人間創造の目的です。したがって一つの人格的実体と関係を結ばなければならないので、アダム完成とともに神様の形状完成、すなわち形が完成するのです。神様はアダムを造られる時、彼の形態、人相、人格などが無形世界の中心にいる自分自身のような姿にならなければならない、という考えをもってアダムを造り出されたのです。形がなければ形の世界を主管できないのです。(35-157,1970.10.13)

 

「①体をもつためにアダムとエバを創造」の冒頭の2項目だけ引用しましたが、「神様はアダムとエバの形を必要とする」と始まりますが、結論部分は「無形の実体まで主管するためにアダムを創造された」となっています。

 

この①のみ言を読むと、神様は体を持つためにアダムを創造したと受け止めることが出来ますが、「②アダムは宗の祖先、有形の神様」まで読み進めると、違ってきます。

 

②アダムは宗の祖先、有形の神様

 神様は第一に、体を着るためにアダムとエバを創造され、第二に、愛を完成するために創造されたのです。このようなアダム、エバが完成し二人が一つとなることができる愛の実体になれば神様が臨在し、人類の前に愛の父母となるのです。そうして、神様の形状的実体の父母になったアダムとエバが実体の子女を繁殖することによって理想世界ができるのです。そのようになれば、人間を通じて霊界と地上世界が連結されるのです。その目的もあって人間を造られたのです。それで神様が愛を中心としてアダムとエバに臨在されることによって人類の真の父母、実体の父母としていらっしゃってから、アダムとエバがあの世へ行けば、霊界でもアダムとエバの形状で体をもって父母の位置に顕現することができるのです。(祝福家庭と理想天国I-308)

 

②   の冒頭のみ言ですが、「アダムとエバの形状で体をもって父母の位置に顕現する」と語られています。つまり、アダムもエバも神様が臨在するようになると結論付けていることになるのです。

 

次は「②アダムは宗の祖先、有形の神様」の最後のみ言です。

 

 神様は、神様と人間が主体と対象として、縦的な愛の関係を完成することだけを目標にしてはいらっしゃいませんでした。縦的な愛を完成し、アダムとエバの横的愛の結実をもたらそうとされたのです。その瞬間が正に、内的父母であられる神様が外的父母であるアダムとエバと完全一体を成すために臨在される、愛の理想の成就の瞬間です。無形の父母であられる神様が、アダムとエバの形状を使って有形世界に永存される父母になるのです。この時アダムとエバは、真の父母、真の先祖となるのです。

 

このように、天聖経においては、アダムとエバが一体となって、神様の現れとなる外的父母となると結論付けられています。

 

つまり、真のお父様だけが神様の体になるのではなく、真のお母様も神様の体であり、一体となる事によって、神様がそのまま体をもって現れた外的父母となるという解説になっているのです。

 

そこで考えてみましょう。私たちは天聖経のみ言に入る前に、原理講論を学んでいます。原理講論のキリスト論では、メシヤは神様ではなく、その他の人間と同じ様相だと結論付けられています。

 

原理講論 第七章キリスト論 第二節創造目的を完成した人間とイエス 

(三)イエスは神御自身であられるのだろうか(抜粋引用)

 

「このような聖句を根拠として、今までの多くの信仰者たちは、イエスを創造主、神であると信じてきた。」

 

「前に論証したように、イエスは創造目的を完成した人間として、神と一体であられるので、彼の神性から見て彼を神ともいえる。しかし、彼はあくまでも神御自身となることはできないのである。神とイエスとの関係は、心と体との関係に例えて考えられる。体は心に似た実体対象として、心と一体をなしているので、第二の心といえるが、体は心それ自体ではない。これと同じく、イエスも神と一体をなしているので、第二の神とはいえるが、神御自身になることはできない。そういうわけで、ヨハネ福音書一四章9節から10節のみ言どおり、彼を見たのは、すなわち、神を見たことになるのも事実であるが、このみ言は、イエスが正に、神そのものであるという意味で言われたのではない。」

 

「このような角度から見るとき、ヨハネ 福音書一章10節の記録は、あくまでも、イエスは、創造目的を完成した人間であるという事実を明らかにしただけで、彼が、すなわち、創造主御自身であるということを意味するものではないという事実を、我々は知ることができるのである。」

 

私たちは堕落して物質中心になってしまった世界に生まれ、神様が存在しないかのように教育する社会で育まれてきました。ですから、理論的に理解しやすい「人間メシヤ」という意義付けに、心底納得してしまい、キリストを神様そのものと見るキリスト教を低レベルと見て来たのです。

 

メシヤもキリストも、私たちと同じ人間であり、愛の人格を完成させて、神様と一体となった人間と理解していたのです。つまり、神様とは心情で繋がり合い、誰しもが完成すれば神様の体となれると理解していたのです。

 

夫婦完成することにより、内的父母である神様の体としての外的父母として、人間は父母として神様の顕現体となり、神様の体になるという事になります。

 

つまり、原理講論のキリスト論を突き詰めていけば、内的父母である神様は「天の父母様」だという事になるのです。

 

原理講論や、同じく人間メシヤと解説している原理本体論の教えでは、行きつくところが「天の父母様」となるのです。だからこそ亨進様が、2007年から翌年にかけての日本祝福家庭巡回路程で、真のお父様の中に夜の神様を見出したことが、どれほど重要なのかという事です。その時こそが、歴史が変わった時なのです。

 

真のお父様の生心に夜の神様が臨在していると分かる以前は、真のお父様は神様と心情において一体となり、神様の体のようになって行動し摂理を進めていたという、私たちの理解になるのです。

 

そこには、聖霊の重大な役割が入る余地が無いのです。原理講論は、聖霊を女性神であると解釈しています。つまり、聖霊の実体としての真の母が立てば、重要視されるものではなくなってしまうのです。それは神様と真のお父様の関係にも及び、天宙天地人真の御父母様が天宙の王として立てば、夜の神様の果たす役割が小さく見えるようになるのです。

 

まとめると、私たちは神様と真のお父様の関係性は、心情によって一体となっており、そういう意味での神様の体となっている真のお父様という事なのです。

 

私たちが伝道され、初めの教育を受ける時に、原理教育によって「人間メシヤ」と決定付けるキリスト論が、無意識世界に刻み込まれます。その無意識世界の刻印があるかぎり、どんなに信仰において成長しても、摂理において拡大展開しても、「人間メシヤ」という刻印は、夜の神様との関係性を遠ざけるものとなるのです。

 

さらに、「聖霊は女性神」という断定は、「お父様の聖霊」との関係を断ち切るものとして、サタンが入り込む要因となってしまうものなのです。

 

裏を返せば、亨進様による2012年1月29日の、「夜の神様、昼の神様」の解釈が無く、真のお父様が聖和されたとすれば、2013年の基元節は「天の父母様聖会」の出発式となっても不思議ではないという事になるのです。

 

原理講論と原理本体論のキリスト論を信じたとすれば、そうならざるを得なかったという事なのです。

 

これらのことをかんがみると、2021年3月23日の二代王様の「原理講論のキリスト論はひどくレベルの低い神学」という公表は、私たち王王妃にとって歴史を大逆転させる意義を持つものなのです。

 

次回、「聖父・聖子・聖霊の三位一体」のキリストについて解説します。

 

 

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