先回記事末部より
私たちが伝道され、初めの教育を受ける時に、原理教育によって「人間メシヤ」と決定付けるキリスト論が、無意識世界に刻み込まれます。その無意識世界の刻印があるかぎり、どんなに信仰において成長しても、摂理において拡大展開しても、「人間メシヤ」という刻印は、夜の神様との関係性を遠ざけるものとなるのです。
さらに、「聖霊は女性神」という断定は、「お父様の聖霊」との関係を断ち切るものとして、サタンが入り込む要因となってしまうものなのです。
裏を返せば、亨進様による2012年1月29日の、「夜の神様、昼の神様」の解釈が無く、真のお父様が
聖和されたとすれば、2013年の基元節は「天の父母様聖会」の出発式となっても不思議ではないという事になるのです。
原理講論と原理本体論のキリスト論を信じたとすれば、そうならざるを得なかったという事なのです。
これらのことをかんがみると、2021年3月23日の二代王様の「原理講論のキリスト論はひどくレベルの低い神学」という公表は、私たち王王妃にとって歴史を大逆転させる意義を持つものなのです。
次回、「聖父・聖子・聖霊の三位一体」のキリストについて解説します。
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二代王様が2012年1月29日の世界会長当時に、「夜の神様、昼の神様」の解釈において、次のように語られました。
2012年1月29日世界会長み言重要部分のみ引用
「初めて真のお父様が『夜の神様、昼の神様』という漸進的な啓示を下さった時、その表現自体が非常に微妙で理解しづらいものでした。キリスト教神学では重要な教義があるのですが、その一番目が神様の実体の中に、聖父・聖子・聖霊の三位格が共に存在しており、神様を『超越的存在』として見る『三位一体論』であり、他の一つは、歴史に現れたイエス様の人格を構成する、神性と人性に関する研究である『キリスト論』です。」
「私たちは原理を通して『メシヤは人間である』という教えを受けてきましたが、私たちはこれを、歴史に現れたイエス様を、神性と人性を共に持った存在として研究するキリスト論を通して見てみると、『キリストは100%神であると同時に100%人間』なのです。」
このみ言が語られるまで、天聖経のみ言に記されている、「神様と真のお父様は一体である」にしても、また、「神様は真のお父様の体を着ている」にしても、私たちの理解では漠然としたものでした。
原理講論には「生心とは神が臨在される霊人体の中心部分をいう」とあるので、真のお父様の生心に、夜の神様が臨在されていることになります。
さらに原理原本には、第一章第四節に次のように解説されています。
「アダムとエバが罪を犯すと、本来、アダムとエバに注入して授けた神の根本の基となる生心を中心成長し、神が臨在できる基そのものであったアダムの霊人体は、悪に犯された自らの体にいることができないため、神が引き取られたのである。」
真のお父様は原理原本について、比喩と象徴の詩的文体で書かれてあるので、お父様自身が説明しないと理解できないと語られています。「神が臨在できる基そのものであったアダムの霊人体」という表現も比喩と象徴であり、夜の神様そのものの神霊が臨在していたと考えられます。神様そのものが入られているというよりも、アダムの生心が実感する霊的五感や肉的五感を、そのまま共有していたという事です。それで、アダムの霊人体と肉体に入っていると表現できるのです。
堕落することによって神様はアダムの生心を離れたのですから、アダムの愛の人格が完成して臨在されるのではなく、アダムが誕生した時から臨在されていたことが分かります。
つまり、亨進様が世界会長時代の2012年1月29日に、「夜の神様、昼の神様」の解釈を語られることにより、真のお父様が誕生されたその時から、真のお父様の生心に夜の神様が臨在されていたことが明確にされたという事です。
この「夜の神様、昼の神様」の解釈以前に、神様はアダムと一体であり、アダムの体を着ていたと理解していたとしても、漠然としたものでした。それに、原理講論の講義によって、キリストは私たちと同じ人間であり、神そのものではないと学習していますから、心情一体となる事によって神様とアダムは一体となるものだと理解していたのです。
キリストは誕生された時から、「生心」に夜の神様が臨在していました。この「生心」について理解することが、「人間メシヤ」と「聖父・聖子・聖霊の三位一体」のキリストへの信仰の違いが分かってくるのです。
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