五万年進化しないヒトの 自然 不自然 正常 異常? | 三遊亭鳳笑 五代目円楽一門会 の ブログ
 ヒトは 五万年前から 変わってないらしい…機能はね…
 ある時代にしか 存在しえない 人間の常識こそ あやふやで 不確かなのだろう。前回の記憶と 連関して 性 を とりあげてしまうと 思う、、。
 
そんな お話。 思い出と ごった煮で 大雑把に 文化を 考えよう。
 
私の 子供の頃から オカマの 有名人ってのは いた。
 あとは 宝塚の 男装くらいだね。 前回と 関連するので 
 
 性的な マイノリティは バレエ とか デザイン、画家から 映画評論家など に多いそうな。
 
 カミングアウト してるか否かは 別として 美 に 関する 世界で 活躍する 傾向が ある様だね。 申告する 必要のない ことだから 比べられない。
しかし 性と 美的感覚には 相関が あっても 不思議じゃない。
 男向け需要 女向け需要 があり それぞれの 傾向がある。
兼用のものも 多い そんな モノならば  両性 を 理解出来たら 優位かもしれない。
 
 少し前まで、女性が オトコ として 女性を愛するってことを 公言する 事は あり得なかった。
 
 英米に 男性ミュージシャンがバイセクシャル、ホモセクシャルを 公言した。
 一部の グラムロックなどの アーティストが いた のをしってるくらいだ。グラムは 演出意図が強い。
 
 言葉ってのは 置き換えられると 伝播が 早い。認識 価値判断すら 変えてしまう。良くも悪くもだ。  言葉は 常に 変化しつつある。
 
 
 ストーカー だとか ネグレクト、ついでに セクハラ、パワハラ、トラウマ とか 言葉が 認知されて から 意識するようになる。
 
 パワハラ、トラウマなんてのは 語源を 超えて 日常語 に なってる。
 
 LGBT しかりで 多様な 実態 を 乱暴に 一括りにして 俎上に載せられる。
 
 それでも 見出し活字で 見た時点で 記事の内容が わかる程度には なってる。
 
 
 私の 高校の頃は まだ、LGBTって言葉がない 時代。
 
 文化祭で 隣のクラスの展示が ホモセクシャルを 扱うことに なっていた。
 
 すると ある男性教師が 乗り込んできて 展示についての 口出し? 助言 を 受けたそうな…。
 
 私の通った 高校は リベラルだった。
 クラス、コースを 細分化 して それぞれに適した 環境を 提供していた。
 
 系列大学への  エスカレーター式に進学する生徒が多い普通科。  美術デザイン科は  校舎が別だ、町で一番高い ビルで専門の授業。 野球部は 運動場より広い 球場があり 寮生活する。
 
 一年は 普通科にいたが 二年から 私文系の 進学クラスってのは 他校への進学 するクラス…本校舎の 脇にある。 ワンフロワー、 一室の 事務所の 様な 建物だった。 
 だから 隣のクラスと 言わないで 上のクラスと呼んでいた。
 
普段、 進学クラスは  本校舎と 行き来がない。
 
一年から 進学コースや 部活を やらない生徒は 本校舎の 生徒と 知り合う機会はない。
 志望を変えない限り クラス替え さえないのだ。
 
 美術デザイン科 通称 ビデ科 という 今思えば 泌尿器科 系統 だね!
 
 私は 本校舎まではわかるが、ビデ科 の生徒と 接した事は 皆無だ。
 
 一年生の頃 応援団に された。 不人気なので 担任の 一存で選ばれる 委員だ。 
 
 実質 春から夏までの 野球の応援 しか活動はない。
 
 因みに 母校は 夏の甲子園 準優勝、春の 選抜優勝校だ! 
 
  好き好んで やってる  先輩もいたが これが正式に 団員なのだろう  数人だ。
 
 とても足りないため 一年委員は 強制参加が 基本。
 
 夏は チアと 吹奏楽部も 野球応援には 駆り出されるが 部員は 織り込み済みで 入部している。
 
 ビデ科の 一年委員は 初回来て 来なくなる。一年 強制ルールさえ ビデ科は 免除されてた。どこに 教室があるかも わからない ビルにいる。
 
 本校舎には 各学年一つある 女子クラス 生徒すら 学ラン着て 応援してるのに 免除されてた。 ビデ科は 学費が高いから 免除されるのだろうと 勝手な噂を 流しておいた。
 
 不思議なのは 女子クラスの 委員は モチベーションが 高かった。
 
 私は  熱心な 奴が 無理矢理 呼びに来て 参加させられた。
 
 けど いいこともある 野球観れるし、 喉が 強くなるらしい、声が かれたことがない。応援してると 感情移入し プレイに 一喜一憂できる。夏休み返上で 必死に応援する 自分がいた。
 
将来、何が ためになるか 分からないものだ。
 とにかく 喉! これだけでも 今は 大助かりだ。
 
あと 驚いたこと リベラル エピソードとして、
 日本史の 先生が 初めての授業で 出自から 就職差別を 受けて この学校に 就職したと 語った。
 
 就職に差別されたとしか、頭に残ってない…
 当時の私は 幼くて 意味が 分からなかったしね。
 
 文化祭の 性の展示 の 先生然り、先生も 生徒も リベラル なのだ。
 
 後に、あの先生はね〜 ホモ なんだよ なんて 噂にも ならない。心ないことを 言う奴も いなかった。
 
 体育の 跳び箱の 模範演技で ズラを 飛ばして しまった 先生の 方が 年をまたいで 語り継がれた 伝説の教師だ! 
 この体育教師とは 面識がないが 見かけるたびに あの先生だ! テンションは あがったものだ。
 
 しかし ズレるならまだしも ズラを 飛ばしても クビは 飛ばなかった、リベラルでしょ!
 
  例の学園祭 の 先生は 理系の 先生なので 習ってない。が 応援団の 顧問だったから 知ってる。
 でも 球場への 応援団 引率以外 ほとんど 顔を 出さなかった。
 
 生徒指導に 干渉してこない先生が ホモセクシャルを テーマに した途端、担任でも ないのに 口を挟んだ。私は 温厚な 先生だけに 余計に 印象的だった。それだけ…。
 
 けどね 例の展示、性別に 関する 先生が 噛んだ 文化祭の展示 は 私には なんのは印象も 残さなかった。記憶にない!
 
 生徒が 作品化した 映像の方が ある意味で 印象的だった。ある意味においてだ!
 
 プロットは 単純だ。
性的な 偏見 が 葛藤を もたらしす。そして 性を 超えて 友情が芽生える という ものだったと思う。
 
 昔の 教育TVの 『中学生日記』  よくありがちな 作品。
 
 当時 の 高校の文化祭にしては、センセーショナルな テーマを 扱っていた のだが… 先生の指導の おかげか? 
 
 インパクト 薄れて 紋切り型な 着地点へ 導いてしまった。良い悪い すらない。 
印象の薄い 展示に なっていた。
 
 問題にも 問題提起にも ならなかった。
 
 純朴な 高校生に すら 刺激がないってのは ひどい。
 
 ズラが飛んだ方が はるかに刺激的な 話だった。
 
 TVで 有名人の ズラの 暴露に、ピー が 入って 放送される。 好奇心くすぐり 視聴率 もとれる 時代だった。
 
 未だに 偏見と理解されたとは 言い難い 題材なのに もったいなかったね。
 
 自分のクラスの 展示すら 覚えていないのに なぜ?ビデオは覚えてるのか??
 
 テーマと関係ない 映像の 魔力に 驚いたからだ。
 
 当時 ブラウン管TV、以外で 映像は 観られなかった。
 
 映画も 観劇すらも 特別な日だった。落語もね…。
 
  画面に 面識ある奴らが TVに 映ってる! 
 結婚式、運動会 でも無いのに…しかも 別の 人間を 演じているのだ!
 
 ある種の違和感!  不思議な 感覚と 関心のない話を 横で聞いてる 感じ。 
 
 先程 『中学生日記』にありそうな 内容と 書いた。
 記憶にないほど 紋切り型だったに 違いない。そんな事は どーでも良い。
 
 『中学生日記』は プロの映像作品なのだ! カメラも 監督も 演出も 大人役も プロが担ってる。
 そんな中で 中学生だけが 素人臭い 演技を 観せていた。
 
 文化祭は 演技以外も 生徒だ。カメラも 家庭用だろう…そして 面識ある奴が 演じている。
 
 一方、周りは プロが 固めまくってる、 でも 演技は 中学生。逆に 下手を 強調されてしまう。
 上手い へたって何?
 
 全部が 素人映像…演技なんて 中学生より ひどかった に 違いない。
 棒読みなのだ。 初めは違和感しか無い。
 
 なのに… 演者以外も 素人が 撮ってると 馴染んでくるのだ 画と 演技が 合致していたのだ。 
 
 普段の 彼らが カメラ演出なしで ハイパーリアル! 計算だったら すごい。
違和感を失うと 統一感が ある 映像だ。
 関心が それると 話の筋も 効果的に 入ってこない 映像なのだ。 現実だな と 思った。不思議な 映像効果の 体験だった。
 
 上手い演技らしい 演技、これは 的確に その状況を スムーズに 理解させてくれる。分かるんだけど 中学生は 大人より ぎこちない。
 
 
 しかし 文化祭の映像は 現実の 彼らと 変わらない。
プロットであっても 無くても 彼らの仕草は 喜怒哀楽 含めても おんなじに 見えてくる。
 
 演技していること自体 物語の 演技!
通常 激しく 喜怒哀楽を 出たとすると、演技じゃ無いのに 違和感が あったりする。
 
 演技の 自然さとは 全く 違う。 演技は 誇張が 分かりやすいのだ。
 
  激しい 喜怒哀楽は 日常でも 劇的瞬間だ。
 
  通りすがり 公的な場 で 怒ってる人を見たとする。
 それを カメラで 切りとったら 下手に見える。 演技として 観たら 空々しいのだ。
けど 経験によって 異物感を 感じる前に 状況を理解する。
 
 それを子供が目撃したら 怖いだけだろう。目には 異様なものにしか 映らない。
 絵本ならば アニメ で 怒ってる 笑ってるの 直ぐに 分かる。
 
 自然に 思われてるものが、現実に いかに 不自然であるかを 文化祭の ビデオは 教えてくれた。
 
 これは 演技の一面。 映像作品、漫画を、通した 学習した自然 が あることを 知った。
 
 ヒトは 五万年前から 変化していないが、人間の 紋切り型、スタンダードは、コロコロ変わる。 ハードは 同じだが インストール ソフトは 更新されてゆく。
 
 そして 過去と 比べて 今の方を 優位 に モノを見る。自分の 文化に引き寄せて 考える 癖がついている。
 
 私は ウォークマンで、音への 反応は変わった。耳が 良くなったとまでは 言えないかもしれない。多彩な 音を 意識するようになった。
 
 一般的にも テレビ ラジオで どの地方の人とでも 話が できるようになった。
 
 昔のテレビ、地方の 街頭インタビュー では 字幕が 出たりする。今は どんな地方でも 変わり ばえなしない 発音してる。
 
 スマホの普及で 生活が 変わった。 しかも 劇的な 生活の変化。
 
 コロナ以後の 世界なら マスクをしていない 映像は 不自然に 見えるようになるかもしれない・・・・。
 
 性の話に戻るろう。
ヒトとしては 性に 異常 正常はない。異性愛が 多くても その他も 生まれてくるのだ。
それ自体 自然のはずなのだが…
 
 一時代の 文化 によって 正常は 異常、自然の 摂理すら 圧倒する。
 
 森元総理 の 女性蔑視発言は、 公と私 を混同してしまっただけのこと。私的な 言葉なら 別にどうでもいいのだ。
 
 本音と建前、身体と心、善と悪、損と得、虚と実、 と キリがないほどに 人間は 分けるたがる。特に 二項対立を 好む。 分けることで 理解を 容易にする。
 
 快 と 不快 だけだったものにも、価値とか意味づけする、善悪 の迷路に ハマりこむ。
 倒錯と 錯誤さえ が 普遍性を 帯びることすらある。
 
 オリンピックってのは 性差 を 魅せる イベントだけに。よけいに皮肉、、、。
 
  忌野清志郎作詞 RCセクセッション の 『分かってもらえさ!』
 あらゆる、不遇な マイノリティへ、 希望の言葉として 受け止められる。
 
 散らかった文章を お詫びします。