彼らの歌を聴くうちに、その歌詞の世界観を、メロディやリズムにのる日本語で再現したいと思うようになりました。
中国語は入門編レベル。個人で歌って愉しむための日本語訳。間違いが見つかりましても、笑って目を瞑っていただければ幸いです。

曲のメロディやリズムに合わせるため、個人的解釈の意訳が含まれます。音源をお聞きになりながらお読みくださいましたら、とてもうれしいです。

 

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Zhan Zhan お誕生日おめでとうございます。

そして、少し遅くなりましたが、デビュー6周年おめでとうございます。

お祝いに、心を込めて、大好きな『心动』を日本語にしてみました。

 

 

 

 

 

◆ 拙い訳です。無断での転載はご遠慮願います。   

 

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国民的大歌手の那英さんとの幾度目かのデュエット。
那英さんに比べれば、まだまだ新人のうちに数えられてしまう Zhan Zhan ですが、いつも息ぴったりのすばらしいハーモニーを紡ぎ出します。

初めてこの曲を聞いた時、ロマンチックなメロディとふたりの歌声から、タイトルの『心动/心動』の意味は「ときめき」と思いました。


今回、日本語にするために歌詞と対峙すると、私には「ときめき」では軽すぎるように感じられました。
「ときめき」「ドキドキ」は、感じたその時々に、気持が煌めきながら昇華してゆくイメージがあり、こうした痛切な「痕跡」を残すことはないのではないかと。

私の感覚的なこだわりですけれど、そのように感じたので、そのまま「心動」と解釈しました。
「心動」には「ときめく」の他に、文字通り、「心が動く」「心臓が鼓動を打つ」「心を揺さぶる」という意味もあります。

オリジナルの歌詞はリフレインが多く、あまり多くを語っていません。
それなのに、心が震えます。まさに、心動です。


そうした歌詞が、しっとりとしたメロディに乗り、那英さんとZhanの歌声で語られると、自身の心の深淵に降り立ったような気持になります。


前回、日本語にしたYiboくんの『年少心事』が10代のヒリヒリする切ない思い出ならば、この『心動』はおとなの思い出。花も嵐も踏み越えて? 今はもう静謐の中にいるおとなです。

その静謐を愛し、多くを語ることももとめません。
情念のような生々しいものは、すべて時に浄化され、残るのは、ただ、ただ、清らかな想い。


けれど、最初から何もないわけではなく、その「痕跡」ははっきりと残されている。
少年の日に思い描き、理想の壁となってそそり立っていた「おとな」とは違います。

そのさらに向こうにあるものかもしれません。すべてのおとなが到達できる域でもないのでしょう。


たぶん、「痕跡」が、その道に通じる扉を開く鍵ではないかと、この歌詞に出会って感じました。

Zhan Zhan は若いのに、そうした世界観を表現する力を持っていますね。
だから、那英さんもデュエットの相手に選んでくださるのかもしれません。

Zhan の魅力はこの歌声と、表情の多彩さ。
彼自身が、少年らしさから真理を見きわめる諦観まで、幅広い多様な感性の持ち主だからでしょう。

『陳情令』の初見時、ドラマの冒頭部分は、中国ドラマに慣れてなく、戦闘シーンも流血シーンも苦手な私にとって、脱落しても当然のような展開でした。
それを留めたのは、莫玄羽として目覚めた乱れ髪の魏無羨を演じる Zhan の妖艶なうつくしさでした。

まるで別人のような軽快でコミカルないたずらっ子姿を見せたかと思えば、独り草笛を吹き、「藍湛」と呟く切ない表情を見せる。
とても痴れ者とは思えない采配をする聡明さ、藍氏の若い仙師たちが口々に呼ぶ「含光君」への狼狽、後輩たちの働きぶりを見守る余裕と、さまざまな表情を見せ、夷陵老祖の片鱗すらも覗かせる。

そして、藍湛の健在ぶりに、共犯者のような笑み。
ロバのりんごちゃんを引きながら、最後の最後で見せた魏嬰の真顔。

ここで、to be continued。息をつく間もありませんでした。


たしかに私を忘羨沼に落としたのは、琴の音とともに降り立った藍湛のうつくしさでしたが、Zhan のこの多面的な表情がなければ、腕のお化けが出てきたあたりで脱落していたでしょう。
Xiao Zhan の魏嬰と Wang Yibo の藍湛は、私にとって奇跡の一対です。

Zhan のこの多様な感性が、年齢とともに失われることがないように、スパダリはおとなへの階段を駆け上がっているのかもしれませんね。

『心動』には、彼らの代名詞の一つである「藍天白雲」が、倖せの定義として登場します。
これからも Zhan Zhan が思うことを、思うままに、全力でトライできますように…。
海のこちら側から、ひっそりと祈っております