今年(2023年)私がこのブログで書いた「連載記事」を紹介するシリーズの「第7弾」は、
「1978/4/4…キャンディーズ解散コンサート&横浜大洋ホエールズ開幕戦」
というシリーズである。
1978(昭和53)年4月4日、後楽園球場にて、伝説のアイドルグループ「キャンディーズ」の解散コンサートが行われ、
それと全く同日(1978/4/4)、横浜スタジアムにて、新生・横浜大洋ホエールズの本拠地開幕戦が行われた。
その歴史的な日(1978/4/4)に至るまでの、
「キャンディーズと大洋ホエールズの物語」
について書いている、シリーズ記事である。
そもそも、このシリーズ記事を書いたキッカケは、
「1978(昭和53)年4月4日って、キャンディーズの解散コンサートと、横浜大洋ホエールズの開幕戦が、全く同日に行われていたのか…」
という事に、私が気付いたからである。
「それならば、このブログで、1978(昭和53)年4月4日に至るまでの、キャンディーズと大洋ホエールズの物語を書いてみよう!!」
と、私は思い、この記事を書き始めた。
そして、実はもう一つ、私にはある「思惑」が有った。
今年(2023年)、私が応援している横浜DeNAベイスターズは、非常に戦力が充実しており、
「もしかしたら、今年のベイスターズは優勝も狙えるのではないか!?」
と、私も本気で期待していたからである。
従って、大洋ホエールズが川崎球場から横浜スタジアムへ本拠地を移転した経緯を描き、
横浜スタジアム移転以降の横浜大洋ホエールズ⇒横浜ベイスターズ⇒横浜DeNAベイスターズ…に至る歴史も、ついでに(?)描いてしまおう…というのが、私の目論見(?)であった。
しかし、非常に残念な事に、その思惑は外れてしまい、今年(2023年)優勝したのは阪神タイガースだった…というのは、皆様もご存知の通りである。
という事で、「キャンディーズと大洋ホエールズの物語」は、中断してしまっているが、
書き始めた以上、必ずや「完結」させるつもりである。
それでは、前置きはそれぐらいにして、「2023・連載記事紹介」の「第7弾」、
「1978/4/4…キャンディーズ解散コンサート&横浜大洋ホエールズ開幕戦(キャンディーズと大洋ホエールズの物語)」
の「前編」を、ご覧頂こう。
<【今日は何の日?】1978/4/4…キャンディーズ解散コンサート&横浜大洋ホエールズ開幕戦>(2022/4/4)
【今日は何の日?】1978/4/4…キャンディーズ解散コンサート&横浜大洋ホエールズ開幕戦 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)
昨年(2022/4/4)このブログで書いた、
「1978/4/4…キャンディーズ解散コンサート&横浜大洋ホエールズ開幕戦(キャンディーズと大洋ホエールズの物語)」
のシリーズの、最初の記事である。
冒頭で書いた通り、
「1978(昭和53)年4月4日、全く同日に、キャンディーズの解散コンサートと、横浜スタジアムでの横浜大洋ホエールズの本拠地開幕戦が行われた」
という事に目を付けた私は、
「1978(昭和53)年4月4日に至るまでの、キャンディーズと大洋ホエールズの物語を書こう」
と、試みた。
しかし、この一番最初の記事は、ほんの「さわり」であり、特に大した事は書いていない。
この後、丸々1年間、私は「キャンディーズと大洋ホエールズの物語」については、全く書いておらず、本格的に「連載」が始まるのは、この1年後(2023/4/4)である。
<続・1978/4/4…キャンディーズ解散コンサート&横浜大洋ホエールズ開幕戦(1)「伝説」>(2023/4/4)
続・1978/4/4…キャンディーズ解散コンサート&横浜大洋ホエールズ開幕戦(1)「伝説」 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)
前述の記事を書いた、ちょうど1年後(2023/4/4)、改めて、
「1978/4/4…キャンディーズ解散コンサート&横浜大洋ホエールズ開幕戦(キャンディーズと大洋ホエールズの物語)」
のシリーズ記事の連載を、本格的に書き始めた。
この記事では、1960(昭和35)年の大洋ホエールズ初優勝の物語、1960年代の「学生運動」の盛り上がり、
そして、後に「キャンディーズ」を結成する事になる3人の女の子、
ラン(伊藤蘭)・スー(田中好子)・ミキ(藤村美樹)
…の「出逢い」の物語などについて、書いた。
「ラン(伊藤蘭)・スー(田中好子)・ミキ(藤村美樹)の3人は、1969(昭和44)年に初めて奥多摩のキャンプ場で出逢った」
という「伝説」が有るが、果たしてその「伝説」は本当なのか…?という事も、検証している。
「伝説」の真偽はともかく、この3人が出逢ってすぐに意気投合し、大の仲良しになった…という事は、紛れもない「真実」である。
<続・1978/4/4…キャンディーズ解散コンサート&横浜大洋ホエールズ開幕戦(2)「胎動」>(2023/4/7)
続・1978/4/4…キャンディーズ解散コンサート&横浜大洋ホエールズ開幕戦(2)「胎動」 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)
1970(昭和45)~1971(昭和46)年にかけて、
ラン(伊藤蘭)・スー(田中好子)・ミキ(藤村美樹)の3人は、ナベプロ主宰の東京音楽学院に通い、そこで出逢った3人は意気投合し、歌やダンスのレッスンに励んでいた。
一方、その頃、大洋ホエールズのエース・平松政次は、「巨人キラー」として名を馳せていた。
そして、1960年代、あれだけ盛り上がっていた学生運動も、「よど号ハイジャック事件」(1970)、「あさま山荘事件」(1972)…といった、尖鋭化した過激派の暴走が目立つようになると、急速に退潮して行った。
1972(昭和47)年4月、ラン(伊藤蘭)・スー(田中好子)・ミキ(藤村美樹)の3人組は、
NHKの「歌謡グランドショー」というテレビ番組に出演するようになり、この3人組は、その番組のプロデューサーから、
「キャンディーズ」
というグループ名を命名された。
「キャンディーズ伝説」
が、遂にに幕を開けた瞬間である。
<続・1978/4/4…キャンディーズ解散紺sナート&横浜大洋ホエールズ開幕戦(3)「登場」>(2023/4/13)
続・1978/4/4…キャンディーズ解散コンサート&横浜大洋ホエールズ開幕戦(3)「登場」 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)
前述の通り、ラン(伊藤蘭)・スー(田中好子)・ミキ(藤村美樹)の3人は、
ナベプロ主宰の東京音楽学院で、歌やダンスのレッスンに励んでおり、そのままナベプロに所属した。
当時の日本の芸能界は、
「ナベプロ帝国」
が君臨していたが、そんな「ナベプロ帝国」の独占状態に風穴を空けるべく、
1971(昭和46)年10月、日本テレビのオーディション番組である、
「スター誕生」
が放送開始され、日本テレビは、日本全国の「素人」の少年少女達から、新たなスターを発掘しようとしていた。
そして、「スター誕生」からは、森昌子・桜田淳子・山口百恵…という、新人歌手達が登場し、彼女達は、
「花の中3トリオ」
と称され、大人気となって行った。
1972(昭和47)年12月31日、「第23回NHK紅白歌合戦」で、まだデビュー前だった、ラン(伊藤蘭)・スー(田中好子)・ミキ(藤村美樹)の3人組が、
「スクールメイツ」
の一員として、南沙織のバックダンサーを務めた。
そして、1973(昭和48)年9月1日、「キャンディーズ」は、
『あなたに夢中』
という曲で、念願のレコード・デビューを果たす。
デビュー当時の「キャンディーズ」のセンターはスー(田中好子)が務めていたが、『あなたに夢中』はオリコン最高「36位」と、残念ながら、あまり売れなかった。
なお、当時の大洋ホエールズは、毎年Bクラスに低迷し、非常に苦戦が続いていた。
<続・1978/4/4…キャンディーズ解散コンサート&横浜大洋ホエールズ開幕戦(4)「助走」>(2023/4/14)
続・1978/4/4…キャンディーズ解散コンサート&横浜大洋ホエールズ開幕戦(4)「助走」 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)
1973(昭和48)年9月1日、「キャンディーズ」は、
『あなたに夢中』
という曲で、念願のレコード・デビューを果たすも、残念ながら、その曲はあまり売れなかった。
その後、「キャンディーズ」は、
2枚目のシングル『そよ風のくちづけ』(1974/1/21)
3枚目のシングル『危い土曜日』(1974/4/21)
…と、立て続けにシングル・レコードをリリースして行ったが、いずれも、残念ながらヒットはせず、「苦戦」が続いていた。
それらの曲の「センター」も、スー(田中好子)が務めていたが、その頃の「キャンディーズ」はヒット曲には恵まれなかったが、地道に音楽活動を続け、歌手としての実力を着実に蓄えて行ったという、「助走」の期間であった。
一方、その頃、作詞家・阿久悠がプロデュースを手掛けた、山本リンダや「フィンガー5」が大ブレイクし、
「花の中3トリオ」の中では最も地味だった山口百恵が「大化け」し、百恵は『ひと夏の経験』という曲を大ヒットさせた。
また、1974(昭和49)年、大洋ホエールズに「慶応のプリンス」山下大輔が入団し、大洋は山下大輔の入団を機に、
「湘南カラー」
という、ド派手なユニフォームに変え、話題を集めていた。
<続・1978/4/4…キャンディーズ解散コンサート&横浜大洋ホエールズ開幕戦(5)「前夜」>(2023/4/16)
続・1978/4/4…キャンディーズ解散コンサート&横浜大洋ホエールズ開幕戦(5)「前夜」 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)
1974(昭和49)年9月1日、「キャンディーズ」は、4枚目のシングル、
『なみだの季節』
をリリースしたが、残念ながら、この曲もあまり売れなかった。
これで、デビューから4曲連続の「不発」に終わったが、それでも「キャンディーズ」は地道にライブ活動を行ない、徐々にファンを増やして行った。
そして、この年(1974年)12月24日のコンサートで、「キャンディーズ」は初めて、
『年下の男の子』
という曲を披露したが、これがファンの間で大評判となっていた。
いよいよ、「キャンディーズ」はブレイク前夜を迎えていた。
なお、この年(1974年)のプロ野球は、「ミスター・プロ野球」「ミスター・ジャイアンツ」長嶋茂雄が現役引退し、一つの時代が終わりを迎えていた。
その長嶋の引退試合を、蕎麦屋のテレビで見ていたのが、当時、青山学院大学の1年生だった、桑田佳祐である。
この年(1974年)「湘南カラー」の大洋ホエールズは「ライオン丸」シピンが大活躍し、
セ・リーグは中日ドラゴンズが巨人の「V10」を阻止して20年振り優勝、パ・リーグは金田正一監督率いるロッテオリオンズが優勝し、
「ロッテVS中日」
の日本シリーズは、ロッテが4勝2敗で中日を破り、ロッテが日本一となった。
また、桑田佳祐とは同学年である江川卓ら、「花の49年組」と称された、甲子園のスター達が大挙入学した法政大学が、同年(1974年)秋の東京六大学野球で優勝した。
そして、この年(1974年)、人気絶頂のザ・ドリフターズが出演し、「キャンディーズ」も出演していた、
「8時だヨ!全員集合」
というTBSの大人気番組で、ドリフの荒井注が脱退した後、「見習い」として志村けんがドリフに加入している。
「キャンディーズ」のブレイク前夜、いよいよ各分野で「新時代」の幕開けが間近に迫っていた。
<続・1978/4/4…キャンディーズ解散コンサート&横浜大洋ホエールズ開幕戦(6)「進撃」>(2023/4/22)
続・1978/4/4…キャンディーズ解散コンサート&横浜大洋ホエールズ開幕戦(6)「進撃」 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)
1975(昭和50)年2月21日、「キャンディーズ」は、通算5枚目のシングル、
『年下の男の子』
をリリースした。
それまでの4枚のシングルでは、「キャンディーズ」はスー(田中好子)が「センター」を務めていたが、
『年下の男の子』から、「キャンディーズ」の「センター」はラン(伊藤蘭)に交代された。
そして、『年下の男の子』は大ヒットし、遂に「キャンディーズ」は大ブレイクを果たす。
ここに「キャンディーズ」の快進撃が始まった。
「キャンディーズ」の、それまでの地道な活動が遂に実を結ぶ事となったが、以後、「キャンディーズ」は売れっ子の仲間入りを果たし、人気アイドルへの道を歩んで行く事となる。
また、この年(1975年)のプロ野球は、長嶋茂雄が巨人の新監督に就任し、広島カープはユニフォームを赤を基調としたデザインに変え、「湘南カラー」の大洋ホエールズは、1960(昭和35)年の大洋初優勝時の大エース・秋山登が監督に就任している。
<続・1978/4/4…キャンディーズ解散コンサート&横浜大洋ホエールズ開幕戦(7)「加速」>(2023/4/29)
続・1978/4/4…キャンディーズ解散コンサート&横浜大洋ホエールズ開幕戦(7)「加速」 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)
1975(昭和50)年、「キャンディーズ」は、通算5枚目のシングル、
『年下の男の子』
が大ヒットし、遂に「キャンディーズ」は大ブレイクを果たした。
1975(昭和50)年6月1日、「キャンディーズ」は通算6枚目のシングル、
『内気なあいつ』
をリリースし、この曲もスマッシュ・ヒットを記録した。
『年下の男の子』でブレイクした「キャンディーズ」は、更にその勢いを「加速」させて行った。
また、「キャンディーズ」はファンとの交流をとても大切にしており、この年(1975年)6月、ファン達と共に、
「越後湯沢・岩原高原バスツアー」
を開催し、「キャンディーズ」とファン達は楽しいひと時(?)を過ごした。
一方、この年(1975年)長嶋巨人は開幕から「最下位」を独走し、秋山登監督率いる大洋ホエールズも、ビリから2番目という「5位」に低迷し、共にパッとしなかった。
だが、ジョー・ルーツ監督の後を受けた古葉竹識監督率いる広島カープは快進撃を見せ、
「赤ヘルブーム」
を巻き起こしつつあった。
そして、この年(1975年)春、青山学院大学の音楽サークルで、当時2年生だった桑田佳祐と、桑田よりも1学年下の1年生だった原由子が運命の「出逢い」を果たしている。
言うまでもなく、後に、
「サザンオールスターズ」
を結成する事になる、運命の2人である。
(つづく)